
■『趣味誌』『地方誌』について調査しています。未だ定まった語句ではないですが、とりあえず、『趣味誌』『地方(文芸)雑誌』「同人誌」らをまとめて呼ぶ時は「自主出版物」と書くことがあります。
今回は、印刷について自主出版物を廉価で発注するために刑務所の「職業指導」による作業を使ったことについて調べ、その延長で「更生施設」や「自家印刷」についても記述いたしました。
- ●昔は「印刷代」が高かった
- ●刑務所で印刷した『趣味誌』
- ●『漫歩』は有保証誌であった
- ●文芸の同人雑誌も刑務所で印刷
- ●「刑務所の印刷が安い」は都市伝説か
- ●『趣味の港』を印刷した「川越就實園」
- ●なぜ活版印刷を「授産」に活用したか
- ●宗教団体と刑務所の授産(職業指導)
- ●自主出版雑誌発行へ自家印刷を志す
- ●病身の詩人・真尾倍弘夫妻が印刷機購入
●昔は「印刷代」が高かった
昭和五十年代頃は未だ現在のように「コミケット」等「漫画同人誌」層を対象にした印刷業は盛んではなかった。そのため、自主出版物の主流は「謄写版印刷」であった。どうしても、「活字信奉」で活版印刷に憧れた場合、その代用としては、和文タイプで版下を作製し、「軽オフ」というオフセット印刷の廉価なもので刷ることになる。「軽オフ」とは《アルミ版》など金属版以外の版である、紙で出来た廉価な刷版を使った印刷方法である。ただし写真やイラストの仕上がりは良くない。
確か昭和六十年頃までは「印刷見積書」に「営業経費」という項目があり、印刷代金総額の一五~二〇%が上乗せされてもいたので、漫画同人誌の印刷所が隆盛になるまでは、軽オフでも結構お高めな価格であったと記憶する。そのため文芸の同人誌や、高校の文芸部部誌を印刷したい人たちは、安い印刷所や、そもそも印刷を受けてくれる会社の情報を求めていた(※1)。
当時は「都市伝説」という言葉は広まっていなかったが、「都市伝説」の如く、「刑務所では印刷を引き受けていて、街の印刷所よりも安いようだ」という噂があった(※2)。
※1 印刷所は中々、新規の飛び込み客を受け入れてくれない印象がある。それは印刷代金の回収の点から無理からぬことである。そのため、最初の数回は「前金」でないと印刷を受注せず、信用が付いたら月末締めの翌月払いという《売掛》を認めてくれることもある。なので取引実績のない最初から、値引きを願うなどは烏滸の沙汰であろう。
既に雑誌や書籍を刊行しているとか、誰か信用を担保する方からの紹介があれば勘案するだろう。だが新規に出版を開始した場合、何千、何万部の印刷を引き受けてくれる会社を見つけるのは現代でも障壁があるだろう。大日本雄辯會講談社でさえ、創刊号の返品が多く秀英舎から次の印刷を断られ、次に博文館系の印刷所が引き受けたがやはり二号限りで断られ、と苦労をしている。※2 刑務所の立地がない地域では、噂は立たなかったと思われる。
●刑務所で印刷した『趣味誌』
実際に戦前から、刑務所で印刷した趣味誌としては、名古屋の『漫歩』、宇和島の『鶴城』と『趣交月報』、そして大阪の『趣味蒐集』がある。
『漫歩』は昭和六年に名古屋の岡田賢一《号は霜月》が「名古屋漫歩クラブ」から創刊。官白・絵葉書・ラベル・切手・煙草・乗車券のニュースや記事を掲載した活版の趣味誌で千部を発行していた。
『漫歩』第三巻第四号(昭和七年十一月発行)の奥付に印刷所は「名刑印刷所」と記してあるので、「名古屋刑務所」に依頼していたことが判る。

筆者は『漫歩』を名古屋の図書館にてバックナンバーをほとんど披見した積りだったが、特に刑務所に印刷を依頼したことや、自家印刷について誌面で触れていた記事は無かった氣がする。
そのため岡田が刑務所に依頼したのは、廉価だからという、経済的理由なのかどうかは不明である。
ただ昭和十二年の趣味誌『趣味タイムス』(※)を見ると「本誌印刷所主岡田賢一大兄のご努力により」毎月定期発行ができるようになったと「編集後記」に記してあるから、岡田賢一は昭和七年~昭和十二年のあいだに自家印刷を開始したようだ《印刷機を導入したのか、「印刷ブローカー」なのかは不詳だが、『京都寸葉』は岡田に印刷を発注していたので、自家印刷だと推測できる》
※『趣味タイムス』(第三十四号、昭和十二年一月)。
また、当然ながら『漫歩』自体も自社で刷っている。
愛媛県宇和島市の赤松巖が発行していた趣味誌『鶴城』は、蒐集趣味の総合誌として研究記事・蒐集に関する随想、広告欄を掲載して活発な動きを見せていた。
しかし時局柄印刷が困難になったり(印刷用紙の統制・印刷所の統廃合や職員の応召・動員で印刷事業が不可能)、当局から廃刊を促されたこともあって、昭和十四年七月に一旦終刊し会員に返金処理を行った。
『鶴城』は趣味誌といえども、当局に新聞紙法に従い「保証金」も納め、かつ「第三種印刷物」の認可も得ていた。しかし「保証金」があると、時事問題を掲載できるため、その点が逆に仇になった形である(時事を論じなければスルーされたかもしれない)。
『鶴城』は終刊の三号前から(第六巻四号)、愛媛の「松山刑務所」で刷っている(撮影したのが、バインダーに綴じられており、表4の左の部分が写りにくい画像で申し訳ない)。

だが五百名の会員を擁していたこともあり、終刊を残念に感じた『鶴城』の事務担当の木村允彦(みつひこ)は「趣友会」を設立し、『趣交月報』という名で入札中心で『鶴城』を承継した。この『趣交月報』は、昭和十五年から「高松刑務所」で活版印刷をしている。
愛媛県の「松山」ではなく、香川県の「高松刑務所」に変わった理由は不詳だが、大阪の大古瀨榮吉が発行していた『趣味蒐集』は、昭和十四年に「高松刑務所」で印刷をしている(画像参照)。木村が、大古瀬から「高松刑務所の方が廉価だよ」などの情報を聴いたものか。

因みに高松刑務所の昭和十四年の委託作業制作高において「印刷工」はたった九三円で、就業人員は一八一人であった。「メリヤス工」が一八、三四三円、「洋裁縫工」は三八、六五三円と比べると段違いに印刷は少ない。
なお、高松刑務所は大正十三年から「乙種及ビ丙種受刑者収容特設刑務所」に指定されたが、昭和五年以降は丙種の収容を止め、治安維持法違反受刑者の一部の収容所になったという。この頃の分類では便宜的に「甲種」は普通受刑者で、「乙種」は長期受刑者、「丙種」は不良者とある(正木亮『監獄法概論』有斐閣、昭和12年)から、現在の「収容分類舊」でいうL級(刑期10年以上の長期)やB級(犯罪傾向が進んでいる者)が対象だったのだろう。長期の受刑者であれば印刷技術の習得は可能であっただろう。
●『漫歩』は有保証誌であった
『漫歩』は、十五号から『新聞紙法』を適用し「趣味の新聞」との副題を付し「有保証誌」であった。
「有保証誌」とは何か。
戦前、「新聞・雑誌」の発行には明治四十二年の「新聞紙法」が適用されていた。取次店を通じ全国の書店で販売する「商業雑誌」のほか、民間の小集団が発行する『会報』(機関雑誌)、個人が発行する『趣味誌』『地方誌』の発行についても同様である。
そして、もし誌面に「時事記事」が掲載されている場合には、一定の「保証金」が必要であった。
保証金の金額は時期や発行地の「地域」によって異なる。最低でも二五〇円、供託しなければ、「時事記事」は掲載ができない。
『趣味誌』の場合、その多くには時事記事の掲載は無い。そのため「保証金」を供託しない「無保証誌」と呼ばれた。保証金を供託するのは「有保証誌」という。
宇和島市の赤松巖が発行する趣味誌『鶴城』は、昭和十三年に「有保証誌」となった。京都の武田修が発行していた『京都寸葉』も「有保証誌」であった。
そして『趣味誌』も事前検閲を受けていた。
根拠となる条文は、「図書」の場合は「出版法」で、「新聞・雑誌」は「新聞紙法」である。「図書」は発行日の三日前迄に、製本した二部を「出版届」と共に内務省へ納本する義務があり 、「新聞・雑誌」は、発行と同時に合計五部を、関係当局へ納本する点が「図書」とは異なっていた (『趣味誌』に関わる法律や郵便規則は後で別に解説する)。
●文芸の同人雑誌も刑務所で印刷
趣味誌だけでなく同人雑誌である、昭和十五年の『文藝民族』も高松刑務所で印刷していた。同誌を研究した論文によれば、
「さきに奥付をみると(中略)第二段には追い込みの縦書きで、『季刊・文藝民族 第一巻第一号・昭和十五年二月八日印刷納本・昭和十五年二月廿三日発行・編輯兼発行者 香川県仲多度郡神野村一八三番 戸堀家義勝・印刷者 高松市松島町市原福馬・印刷所 高松市松島町高松刑務所/編輯並発行所 香川県仲多度郡神野村一八三』と記されている」
という。『文藝民族』の発行所が香川県であるから地域的に高松刑務所を使用したのだろう。
出典:阿部安成「『文芸民族』という場所(1)1940年に香川で創刊された同人誌を知る」『彦根論叢』No.408、2016
文芸の同人雑誌では、ほかに大正十四年一月に創刊した、梶井基次郎らの同人雑誌『青空』も刑務所での印刷である。
梶井は次のように印刷についての記述を残している。
「発売所は帝大前の郁文堂書店に依頼したが、印刷代が高額で予算を超えたため、そこでの印刷は断念した。なかなか適当な印刷所が見つからない中、稲森宗太郎の早稲田の友人・寺崎浩の父親が岐阜刑務所の所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらえることになった」
「11月末、外村茂と忽那吉之助が帰郷の途中に岐阜刑務所に原稿を渡した。校正や難しい漢字の植字などの事務連絡が郵便で往復して手間取り、創刊号発行は新年に延ばすことになった。雑誌が刷り上がり、12月26日、外村と梶井と中谷孝雄の3人は夜行列車で岐阜に向った。27日の早朝、到着した3人は長良川の水で顔を洗い、岐阜刑務所作業所で『青空』300部を受け取った」。
東京と岐阜の間で印刷の入稿と納本はどのようにしたのか興味があったのだが、やはり郵送による校正のやり取りは手間取ったようである。文芸雑誌であるから、版面上で、細かい割付の指定は必要なく、印刷所にお任せしていたのかも知れない(戦前の雑誌は原稿が多く、スペースが不足すると《何ページへ続く》と書いて他のページに飛ばすことは「アリ」だった。ひどいのだと最終ページに、数ヵ所から剰余文字が飛んで来ているのを見たことがある。原稿整理の段階で削除したり、文字数を数えなかったのだろうか。管見では原稿だけ渡してあとは「印刷所任せ」にした場合に起きた現象なのかと推測する)。
『青空』は三百部刷ったようだが、ページ数が少なければ、無理して三人で百部ずつ分ければ汽車で持ち帰ることはできそうだ。そのために三人が引取りに岐阜に向かったのかも知れない。
もし一冊百頁以上あれば重いため、鉄道小荷物で送付する可能性もある。そもそも三人が東京と岐阜を往復する乗車券代を考慮しても印刷代が安かったのだろうか。
●「刑務所の印刷が安い」は都市伝説か
これは噂話ではなく、最低でも戦前の松山刑務所の印刷料金は民間よりも廉価であったことは資料から判明している。愛媛の松山刑務所に印刷部が設置されたが、民間から「廃止または縮小」の要望が、昭和十年まで続いていたという(だが戦時中に民間側の印刷物受注が増加したため、刑務所の印刷廃止要求の運動は途絶えたという)。
松山刑務所側は「民業を圧迫しない程度」「印刷価格は民業なみ」を条件にして更生のための授産の種類としては数少ない頭脳労働であったので継続する姿勢であった。刑務所へ発注するのは「秘密厳守」の印刷物にとっての需要があり、入試問題や採用試験の印刷物が発注された。
松山刑務所の場合は昭和三十年に、何度も犯罪を重ねる「累犯刑務所」から「初犯刑務所」に性質が変わったことが、印刷技術の授産に影響を及ぼした。
累犯の場合は長期刑である。そのため、長い年月を印刷作業へ従事することになる。だが初犯であると短期の服役者が多くなり、折角の職業訓練の成果を挙げないうちに釈放となることがあった。
受刑者の中には、稀に民間の従事者より活字を選ぶ「文選」作業が早いものがいたが、ほとんどは民間の印刷従事者とは能力に差があった。職業訓練の時間が短期だと、責任感を持った仕事として遂行させる十分な教育機会を与えることが困難な場合も生じてしまう。昭和五十年に写植機を導入(借入)したが、やはり短期では習得できないため一年以上の刑期の者を選んだ。
しかし、昭和五十四年に松山刑務所に於ける更生のための印刷作業場は閉業となる。
理由は、不況で受注数そのものが減少したこと、発注されたものは納期が短期だったが刑務所は残業が不可能で対応ができないこと、目まぐるしく改良される印刷設備の近代化に対応できないためだった。
名古屋の趣味誌『漫歩』らが、発行地の近くにある刑務所で印刷をされていた訳だが、他にも『趣味誌』の奥付に記された「印刷所」表記について注目してみた。
●『趣味の港』を印刷した「川越就實園」

趣味誌の奥付を見ていると、昭和十三年に発行された柘植宗澄の『趣味の港』の奥付の印刷所名には、「川越市脇田西町 川越就實園」という名称があり、何か刑務所と類似しているような意味合いを漢字表記から感じた。
「就実」という言葉は始めて接したが、地名プラス「就労の就」であるため、もしかすると「授産所的」な意味合いではないかと予測した。調査したところ、やはり埼玉の川越町が運営する(園長は当時の川越町長)、未成年者向けの「出獄人保護事業」施設であったことが判明した。
「出獄人保護事業」施設とはその当時の名称で、刑務所に服役した刑期を終えた出所者への「更生保護」を行う事業・組織体である。川越就實園は釈放後に埼玉県に帰住する未成年者を対象としていた。
参考: 司法大臣官房保護課編『司法保護要覧』下、司法大臣官房保護課、大正十三年
もともとは明治三十六年に懲治場放免者の保護施設の、「川越児童保護會」として創設、明治四十三年に「川越就實園」と改称する。浦和監獄を中心に川越分監職員らが「少年免囚」の保護事業(社会復帰事業)として、地方の有志で運営していた。なお埼玉で成人向けの出獄人保護施設には「社団法人埼玉自彊會」(北足立郡浦和町)があった。
参考: 中央慈善協会編『日本社会事業名鑑』、中央慈善協会、大正九年
昭和十三年にはまだ柘植は福井県敦賀市で活版印刷の『趣味の港』を発行していたが、北陸周辺の活版印刷所を使用せずに、埼玉県川越の「出獄人保護事業」施設での印刷を選択したのは、特段の縁があったのかそれとも刑務所に印刷を依頼するのと同様に司法施設の授産作業場としての印刷所は廉価だったのだろうか。
福井から埼玉へ印刷を発注するというのは、何か理由があるはずである。
なお、『趣味の港』は菊判二十頁程度の活版、蒐集趣味の総合情報研究誌であったが、職務上の転勤で柘植は昭和十四年に敦賀から東京の麻布区へ転居し、一月発行の第五十四号から、家庭の事情で誌界を引退し、牛込区山吹町の小野喜正に『趣味の港』の発行権を譲渡した。小野は引き続き川越就實園で印刷を依頼している。
●なぜ活版印刷を「授産」に活用したか
戦前は、石井十次(※)の「岡山孤児院」が付帯事業として活版印刷所を併営したり、昭和二年設立の出獄人保護施設「下野尚徳會」が授産場に印刷部を設けたりするほか、児童福祉施設「瀧野川学園」が学園経営のために印刷工場を設置するなど、刑務所内の授産工場(職業訓練)や更生保護・社会事業施設に於いて、活版印刷事業が行われた。
これは収容者たちへ「手に職を付けさせる」目的以外に、福祉施設の自活、運営資金を印刷の受託で得られる利益で賄うという趣旨もあったようだ。
※ 石井十次(慶応元年五月五日生~大正三年一月三十日歿。宮崎県児湯郡生まれ)は、日本初の孤児院「岡山孤児院」を設立した慈善事業家。 日本の「児童福祉の父」と讃えられた。明治二十年、第三高等中学校医学部(現・岡山大医学部)の実習生時代に、四国を巡礼中の貧困母子の男子を預かったことを契機に、児童福祉の人生を歩む。
参考: 『保育所のあゆみ』1909-1945、大阪市民生局、1967年
参考:『全国社会福祉名鑑』,福祉新聞社,1965
民間の例ではあるが、活版印刷を「授産」に用いた理由を佐藤由松(亀有保育園など児童福祉施設経営・昭和五十五年に更生保護事業で紺綬褒章受章)が、説明している。
大正十五年に東京少年審判所の委託を受け「少年職業学校」が創設されたが、佐藤由松は子どもへの職業教育を考えた時に、
「一、何処でもやれること。二、小資本でやれること。三、利益の大きいことなどを考慮」した。
そして三条件に当てはまる印刷所を設けたという。印刷事業を始めた結果、孤児や不良少年は態度が変わり、面白いように働くようになった。勉強は嫌だが、仕事は好きだということが判明し、努力するほど結果が出る「仕事」に興味が湧き、技術も身に付くと独立も早いことが分かった。活字を通して漢字を覚える者もおり、学習にも役立つ利点があったという。
参考:中部社会事業短期大学編『輝く奉仕者 : 近代社会事業功労者伝』、近代社会事業功労者伝刊行会、昭和三十年
群馬県の少年教護院の保護団体「群馬興風會」は、定員が七人であるが、大正十四年には職業教育機関として前橋市田中町に「印刷所」を設けて印刷の技術を習得させ、熟練者には就職の機会と相当の賃金を与えている (※)。
参考: 司法省保護局編『司法保護団体名鑑』、司法保護研究所、昭和十七年
※ 大正十三年一月二十八日、前橋市で曹洞宗系の「群馬學院興風會」として創立。戦後は児童福祉法による養護施設になり、昭和二十五年二月二十日に現在の児童養護施設「フランシスコの町」となる。参考:児童養護施設「フランシスコの町」沿革https://www.francisco.or.jp/沿革/
●宗教団体と刑務所の授産(職業指導)
浅草寺は少年保護の「施無畏学園」を大正十二年に創設、園内作業場では印刷(文撰・植字・機械・製本仕上)の各科を設置した。
群馬の興風會(代表の金井智見は曹洞宗)では昭和十二年から成人の釈放者・思想転向者の収容も開始した。昭和十五年時点で少年四名を含む、釈放者、思想運動関係者ら十一名の更生保護を行い、生活を保証する実績を挙げていた。
「翼賛の聲」著者の角田は思想転向者で受刑体験がある。興風會の印刷所は「理想と熱意」に燃えつつも経験の少ない者には容易なものではなく、関係者一同の努力にも関わらず永い間欠損が出た。それを埋めるために寄付金を募ったこともあったし、印刷所で働く少年や釈放者たちにも動揺と波乱があったと雑誌に寄稿している。
参考: 角田守平で「司法保護事業に於ける協力組織の確立について」「翼賛の聲」『昭徳』六巻二号、司法保護協会、昭和十六年
国の施設である刑務所ほか矯正施設で「宗教」について、職員が対応することや宗教的行事を職員が行うことは憲法上の制限(信教の自由、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」)がある。
そのため、各宗教で「宗教教誨」を担当する篤志宗教家(教誨師)を矯正施設に呼び、受刑者(被収容者)の求めに応え、「矯正教育」の一環としている。教誨師は受刑者との個人教誨で教義に基づいて信仰心を培い。徳性を涵養し、悩みを聞いて寄り添いながら精神的救済を図るほか、受刑者の心情の安定と改善更生、将来の社会復帰に資する活動を行っている。
浅草寺の他、昭和十七年に印刷技術を授産していた少年保護施設は、
「成田学園」(千葉・成田山新勝寺)
「川崎少年学園」(川崎・浄土宗)
「獅子吼園」(淀橋区・法華宗)
「沼島学園分園大阪印刷部職業指導所」(大阪市・天理教)
「福岡致誠會」(福岡・真宗本願寺派)
「救世團勞作館」(牛込区・救世軍日本本營)
等があり、戦前は宗教団体が経営する少年保護施設での取り組みが多いことが判明した(※)。
参考: 司法省保護局編『司法保護団体名鑑』、司法保護研究所、1942
※特に仏教各宗は民間社会事業(幼児・保育・貧困児童教育・障害児教育・養老事業・寡婦保護・免囚保護・窮民救助・罹災救護など現代の児童・婦人・老人福祉)に力を入れていたが、少年施設としては、
少年の感化教育の、成田山感化院(千葉・眞言宗智山派)/自彊館賛助會(奈良・眞宗本派)/豐臣學院(岐阜・眞宗本派)/甲州學園(山梨・向嶽寺派)/報恩學園(滋賀・各宗聯合)/日州學院(宮城・眞宗本派)/杜陵學院(岩手・曹洞宗)/徳島學園(徳島・通佛敎)/長崎開成學園(長崎・淨土宗)があり、
少年保護も、第一少年學院(東京・淨土宗)/施無畏學園(東京・天台宗)/立正舎(大阪・日蓮宗)/崇徳學園(大阪・融通念佛宗)/積徳少年治療院(大阪・眞言宗)など多くの施設があった。参考:日本仏教連合会編『東亜仏教大会記要』、仏教連合会、1926
これは先述したように、佐藤由松の不良児童への職業教育へ活版印刷を導入することが適性であるという考えからなのだろうか。
もともと、戦前は国による社会福祉活動の手が回り兼ねた部分に対して、全国各地で佛敎聯合會など、宗教団体が司法保護活動を行っていたことは名簿を見れば判然とする。
現在、刑務所・拘置所・少年院等、矯正施設では宗教の「教誨師」が教誨活動に携わっている 。宗教家と「受刑者」「出所者」との関係は明治の監獄時代から強い。そして明治二十年代から佛教系の『反省會雑誌』『淨土教報』『眞宗靑年傳道會』『四明餘霞』(天台宗務庁文書課)や、キリスト教系の『同志社文學』『六合雑誌』『眞理』など、国民への宣教・啓蒙の雑誌を各宗教教団が発行していた。
宗教団体は媒体の編集・印刷を内製化し、その従事者を育成できればという面もあって、自らが経営する社会事業の施設内にある授産工場に活版印刷機を導入し、保護対象者へ活版印刷技術を習得させていたのではないだろうか。
戦後、昭和三十年代までは、出所者のほか戦傷病者と遺家族援護、海外引揚者、寡婦、結核回復者などが、福祉的な授産対象であった。
行政のほか、地元の篤志家・寺院を始めとする各宗教団体が、授産施設や「寮」・「荘」等の一時的宿泊所や療養所などの福祉施設を経営していた。
結核回復者の施設の印刷場に、印刷を依頼した例もある。昭和二十七年には、「新人の投稿雑誌」を副題にする投稿文芸雑誌の『新文壇』を発行する向山正治が、長野県の後保護施設(注・あとほごしせつ)である、「信濃更生補導所」に印刷を依頼したという話が残っている(『新文壇』五巻五号、新文壇社、昭和三十三年)。

「後保護施設」というのは、当初は結核回復者が入所する施設である。当時の日本では結核の治療が進んでいる途上であり、患者は多かったが結核療養所に入所後に新薬や外科手術で治癒(緩解)した場合、就職・復職先が問題だった。新たな就職が困難な場合や、体力的に原職に復帰することができない事情などを抱えた者は、「アフターケア」を和訳したと思われる「後保護」施設に入所して、生活を医学的管理下に置きながら職業訓練を実施する。
就職が困難だというのは、当時の日本の会社では結核回復者の就職希望者の採用を見送る場合があったのだ。重労働や残業を課さなければ労働ができるとしても、中小・零細企業では労務管理が十分ではない場合もあり、失業者が多い時代には結核回復者への配慮を以て雇用する職場は少なかったのである。
現代でも長期入院から退院した患者や、刑期を終えた出所者が就職市場に再度戻ることが困難である。
出所者の更生保護と、結核など闘病者の更生保護には共通する障壁があり、両者を保護・援助する施設内には職業訓練や更生施設が設けられたのであった。
また、昭和二十年~四十年代までは療養所からの退所者は「住宅難」にも悩まされていた。
終戦後の日本の都市は住宅が不足していた。貸間や貸家の大家は入居者が結核の罹患者や回復者と分かると、転居を通告していた時代であった。結核を患うと生命に影響が及ぶだけでなく、基本的な日常生活が送り難くなり、実家以外での在宅療養も困難な時代であった。
●自主出版雑誌発行へ自家印刷を志す
印刷所のことを扱うにあたり記録しておきたいのが、地方誌や同人雑誌の発行者の中には問題意識を抱えて、自分自身で活版印刷を行う起業家もいたことである。
昭和二十年代から四十年代には同人雑誌等の発行者で「自家印刷」を夢想したことがある者は結構おり、資金調達や居住面積という障害によって多くは諦める。
戦後、地方誌『新文壇』の向山正治も「印刷を自分でやろう」と活字を少しずつ買い求めては、活版印刷の準備を始めた。狭い自室は寝室兼編集室兼印刷室となったという。
参考:細田伊佐夫「『新文壇』その前身からの歩み」『新文壇』五巻五号、新文壇社、昭和三十三年
そして主に詩集・歌集を中心に廉価で「自費出版」を詩人等の創作家たちから引き受けることになったことは、『新文壇』の裏表紙に掲載された自社広告から判明している。

●病身の詩人・真尾倍弘夫妻が印刷機購入
昭和三十一年、詩人の真尾倍弘と作家の悦子夫婦は活版印刷業を開始した。真尾夫妻は東京の出版社で働いていたが(倍弘が目黒書店で、悦子は赤坂書店)、茨城の土浦市を経由して福島県の平市へ移り、一度、昭和二十五年に郷土雑誌『石城文化』(いわきぶんか。十二頁・活版・千部発行・二十円)を創刊した。この誌は売れなかったが、「町の皆が自由に発表できる雑誌を作りたい」と、倍弘は再度病床から立ち上がった。悦子も「家の中のものを全部売り払おう」と夫に同調した。
この時、倍弘は結核療養中で、悦子は右足が小児麻痺を、手には関節リウマチを患っており、子どもは麻疹にかかって発熱中だった。倍弘は抗結核薬を内服して臥床しており、家中が病人だらけであったという。
貧困と病苦の中、倍弘の姉に五万円を借りて手動式美濃判サイズの活版印刷機を購入。掘立小屋の自宅の押入れを取り払い、重さ二百五十キロの印刷機を設置した。
だが素人ゆえの悲しさか、中古品の存在を知らず高価な新品を買ってしまったのだった……。
ふたりは「氾濫社」という出版社を興し自宅に表札を掲げた。街の投稿誌『いわき』を創刊したが、活字を買うお金も無いのだった。原稿を貰う都度、東京の活字屋に一文字ずつ活字を注文し、足りない時は近所にある同業の活版屋に借りて版を作成するという工夫で乗り切った。
更に知恵を重ね、大きな活字が無い時の方法を編み出した。
悦子は八号活字の周りにちり紙を巻いて九号の大きさとして植字したのだ。また、頁の半分のみ刷ったら版面を一旦、解版して、バラバラにリセットした活字を集めて、残り半分の頁を組版してしのいだこともあったと記している。
近所の活版屋は氾濫社をライバル視せずに、活版印刷には素人同様の悦子が相談・質問すると、快く教えてくれた。業務用の断裁機まで無料で貸してくれたのみならず、「奥さんにはハンドルが重いだろう」と、悦子に代わって断裁までしてくれたという。この挿話を読んだときには、市井の細民同志が協力しあって生活している姿が浮かび、涙がこぼれた。