syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

『趣味誌』や『地方誌』を理解するために必要な何か

『趣味誌』と『地方誌』の構造

『趣味誌』の歴史的な展開を語る前に,予備知識が必要だ.

『趣味誌』の定義は非常に困難である。仮に簡易に述べれば、出版史における媒体の領域の一つであり、商業誌(定価が付され、取次店や売捌所を流通して書店小売店に配本する仕組み)とは異なり、個人または同一の趣味で結社した同人組織が発行する媒体。『自主発行雑誌』としての定期刊行物だと考えてほしい。

 

筆者が広義の『趣味誌』というものを、一番上位の概念としたのは、『地方誌』が沿革的に明治期の『地方文芸雑誌』の流れの上にあるため、『地方誌』という言葉を包括的な上位概念にすることはできないからだ。

『営業雑誌』ではなく、営利を目的にせずに本業の傍らに『趣味』(道楽も含む)で個人が、独りまたは同人制度で発行する定期刊行雑誌という意味では、書籍や冊子の「自費出版」「私家版(私家本)」と似た性質である。ただし現代では自費出版の「新聞・雑誌」という定期刊行物は見られない。

 

そこで『自主発行雑誌(自主発行誌)』という語を案出したが、これは著者一人が提唱しているに過ぎない。そのため本書では『蒐集趣味誌』や『文芸同人誌』など素人が発行する、雑誌体裁をとった刊行物の最上位の概念に、広義としての『趣味誌』を暫定的に充てている[1]

 

その広義の『趣味誌』の中に、『地方誌』と、狭義の『趣味誌』である『蒐集趣味誌』がある。

『地方誌』は、地理分野でいうところの『地方誌』とは異なる。これまでの国文学研究者が、明治期に発行された各地の文学雑誌を「地方文芸雑誌」と呼んでいるものだ。

本書ではこの明治期の「地方文芸雑誌」を含め、文芸が主体の『趣味誌』(ここでは青少年による自主発行誌程度の意味)を、『地方誌』と称する。

これは実際に『地方誌』という名前で呼んでいた世界があるためだ。昭和戦前から『趣味誌』の世界にいる「趣味家」や、文芸に興味ある青少年たちの間では、『地方誌』と呼び合い、それが通じていた。

そして戦後の『地方誌』には、大別して詩歌や小説を掲載する『文芸誌』と、個人広告を中心とする『仲介広告誌』があった。

 

裏付けは、昭和二十二年の『地方誌』の番付表で[2]、東方に『仲介誌』、西方に『文芸誌』と分けて著名誌を評価していることからである。ただ、物々交換などの情報を掲載するのが中心の『仲介誌』は、終戦直後の物資不足という一時的な社会状況を反映したものであり、生活が随分と豊かになった「高度経済成長期」には自然消滅し、『地方誌』は元通り「地方文芸誌」となっていった(昭和五十年代まで広告中心の雑誌があったが、それは「郵趣」や「雑談」が中心の「総合趣味誌」の世界に吸収されていた二、三誌に過ぎない)。

  • 『地方誌』の起源を探る

◆雑誌が日本各地で買えるようになった訳

探る前にいったん、雑誌が書店に販売されるための流通、「取次」の歴史を概観したい。

新聞の取次店が明治十一年に設立されてから販売網が整備されていく。というのは、当初は雑誌が欲しい地方の書店は新聞の取次店から受け取っていたのだという。

政府が同業組合の設立を奨励し、明治十九年には「東海堂」が新聞と雑誌の売捌き取次を開業。その他「良明堂」「上田屋」「至誠堂」「長明堂」が大取次として設立されていくと、明治二十年十一月に、版元・取次・書店の三業種が混合している「東京書籍営業組合」が新たに発足し、金港堂の原亮三郎が頭取となった。

参照:『出版販売小史 : 東販創立十周年記念』東京出版販売、昭和三十四年

明治二十三年三月には大橋佐平が「博文館」の卸・小売として神田神保町に「東京堂」を設立し、「北隆館」の前身も明治三十四年に福田金次郎が京橋に北陸組を開設する。なお地方から東京の新聞が欲しいという需要が減ったため、雑誌は新聞とではなく、書籍とともに取次が送ることになった 。

参照:『出版販売小史 : 東販創立十周年記念』東京出版販売、昭和三十四年

これで「東海堂」「東京堂」「良明堂」「上田屋」「北隆館」の五大店がそろう。次に「至誠堂」「文林堂」を加えた七社取次となるのが明治四十年頃である。その後に脱落、統合などがあり、戦前は東京堂・北隆館・東海堂・大東館の四社が大取次で、それが戦時中の統制経済で「日配」に統合となるが、ここでは明治時代までを追うのみとした。

大取次の発達は交通の発達によりもたらされたものだ。学制発布で教科書・参考書の発行が盛んになり、また地域の読者を対象とした新聞の発行も発達したが、雑誌は地域対象では経営が覚束なかった。

 

しかし明治二十年代から輸送が発達し、特に日清戦後からは鉄道の敷設が盛んとなり、青森から徳山まで縦貫、九州や北海道一帯でも開通し始めたことで、雑誌を含む出版物が日本国内に流通できることになっていく。明治十年までは鉄道の延べ敷設距離はわずか一〇四キロしかなかったが、明治三十年末には約五〇〇〇キロまでに延長されている。

参照:『出版販売小史 : 東販創立十周年記念』東京出版販売、昭和三十四年

 

◆『地方誌』が生まれる様々な前提

『地方誌』はごく簡単にいえば地方の青少年が発行する、自分たちの文芸(小説などの散文・詩歌などの韻文)作品を活版印刷謄写版印刷で掲載し、全国の読者・会員に主に有料で頒布したものである。

戦前は家庭が裕福でなければ、小学校を卒えたら商店に就職するか、農商業を手伝うなど「労働力」を期待されたため、働きながら「趣味」や「文芸」に深く接することはほぼ不可能である。

戦前の小学校から旧制中学等上級教育機関への進学率は約一割~二割代であり、旧制中・師範学校・高女に子女を進ませることは、それが地元でも指折りの富裕層であることの間接的な証明である。

そのため、ここで言う『地方誌』の発行者や読者の「青少年」は、主に旧制中学、旧制高校・高女・旧制大学の生徒、学生となる[3]

 

『地方誌』(=地方文芸雑誌)が勃興するには前提があり、明治時代の商業誌としての少年少女雑誌には、読者が投稿する欄が数頁~十数頁設けられていたし、投稿そのものを目的にした雑誌(懸賞雑誌)、『中学文壇』『女子文壇』等も営業誌として発行されていた。

また先述したように、大取次が発生したことで、地元でも仲卸的な「地方取次」が生まれ、地方から雑誌を発行しても書店への販売網が形成されて、経営が成り立つようになる。

◆仮説、『雑誌ごっこ』が『地方誌』を生んだ?

青少年は東京と地方で発行された商業的な投稿文芸雑誌を参照して、自分たちの作品を活字化できるという影響下にあった。

「地方文士」を気取る彼らは、一種の「ごっこ遊び」の一つとして、「出版ごっこ」、「雑誌ごっこ」を行い、その結果、営業雑誌の投稿雑誌を模倣した『地方誌』が発生したと筆者は考える。

営業誌は販路が全国であったせいか、『中学文壇』等「年齢」や、『女子文壇』等「性別」で読者層を分けたが、『地方文芸雑誌』は地域の文壇の活性化を担うために発行者の居住地周囲数十キロメートルを読者範囲として設定している。

併せて、現代に生きる私達は、明治期の「地方」の状況を、今とは違ったものと捉えなければならないだろう。

明治時代は現在のように「東京一極集中」ではなかったことが忘れられているのではないか。

江戸時代の海運航路の影響で、日本海側の「石川」や「新潟」が人口数で第一位になるほど、地方都市は栄えていたのだ。各地の領主、大名による「地方分権政治」江戸幕府の中央集権ではあったが地方の独立性も高かった「藩」《江戸時代は「藩」では無く「御家中」などと呼ぶが》)の名残りがあり、地方の経済圏で生活していた頃は、『地方文芸雑誌』が発行されても成立したのである。

そして明治三十年代になると、『地方文芸史』を著した小木曽旭晃が主張するように、東京中心の「中央文壇」(権威)に対して「地方文壇」がカウンター的に形成される動きがあった。

 

地方の版元の営業雑誌および非営業的雑誌雑誌が成り立った理由は、全国には現代の書籍卸商(取次)に該当する「売捌店」が、総数で三百~四百しか無かったことと、雑誌の発行部数が現代よりも多くなくても商売が成立したことも理由となるだろう。

 

明治二十年頃、徳富蘇峰によると「当時、雑誌の発行部数は、概ね千部以下にて、通常五百、六百という位にて、千を越えれば先ず盛んなりと云うべきであった」という。

参照:徳富猪一郎「九 民友社創立と『國民之友』の發刊」『蘇峰自伝』中央公論社、昭和十年

また、二十年後の明治四十年前後については誠文堂の小川菊松が出版回顧録で語っている。

「その頃の雑誌の発行部数というものは、せいぜい二千部か三千部が普通で、一方、売れるなと思うものが、七、八千部から一万部前後である」 

参照:小川菊松『日本出版界のあゆみ』、誠文堂新光社、昭和三十七年

徳富蘇峰の民友社が発行する『國民之友』は第十号目で一万部の大台に載り、明治二十一年七月の第二十五号では一万六千部に増加している。第二十五号まで『國民之友』に掲載された同誌の全国に於ける売捌所は三百三十店であった

参照:有山輝雄「言論の商業化:明治20年代『国民之友』」『コミュニケーション紀要』四号、昭和六十一年

全国の三百三十店から計算すれば、通常の雑誌を五百部発行したところで、全国各地の書店に普く流通させることは難しいことがわかる。

東京・大阪の大都市では一店から複数冊が注文されるだろうから[4]、地方には各売捌所に一冊程度が入荷されるかどうか微妙という程度になる[5]

発行部数が多くなければ、「マスメディア」の効果を考えることは不必要であり、特に東京や大阪という大都市から発行しないと商業的に「致命的」ということは無かったのだ。

 

これは当時の食料品(味噌・醤油・菓子など)が地場で生産され現地消費という、小規模な商売で行われていたことと相似形である[6]

大量生産・大量消費の時代で無い場合は、こじんまりと自分の身の丈に合った「それなり」の程度で良い。雑誌が五百部で利益が出るというのなら、現代から見れば小規模であっても印刷料金や家賃・光熱費などの経費負担も小さく、報酬が少なくても生活に困窮するほどでは無かったのであろう。

 

中央・地方、どちらの商業誌も読者投稿欄を設けた目的は、販売促進/将来の「寄稿家」の養成/純粋に文章能力の向上がねらい/読者投稿が誌面を埋めることで依頼原稿が低減し画稿料や編集管理の節約/など様々だろう。

 

読者で投稿者(これを『投書家』と呼ぶ)の中には毎号作品が掲載されるという、文章が巧みな者が現れ、そのような常連『投書家』同士は互いに親近感を感じて文通したり、個人発行の『地方誌』への参加を依頼したりする。その結果として、投書家同士の全国網も発展することになる。もちろん読むだけの学生も当然いたであろう。

 

田山花袋の『田舎教師』は小説ではあるが、埼玉の熊谷中学の生徒たちが行った文芸活動がモデルである。明治期の著名な地方投書家である、石島薇山をモデルにした「石川機山」が文通する描写がある。

「投書家交際をすることが好きで、地方文壇の小さな雑誌の主筆とつねに手紙の往復をするので、地方文壇消息には、武州行田には石川機山ありなどとよく書かれてあった」

そして『地方文芸雑誌』という言葉が、時と共に省略されていったことから、短縮された『地方誌』という言い方が生まれたのではないかと、愚考する次第である。

 

【『地方誌』の先駆け】

地方からの投書もある小規模な雑誌の先駆けの一つに、愛媛で明治十四年創刊の『愛比賣新報』が挙げられる。

愛媛県伊予郡北伊予村に武市庫太(号は雪燈)という、正岡子規より四歳ほど年上の生徒がおり漢詩を通じて子規と親交があった。

この庫太の伯父、武市英俊は湊町で印刷業の傍ら、少年少女の投稿雑誌『頴才新誌』に範を取った、雑誌『愛比賣新報』を明治十四年六月に創刊し土曜毎に発行した。菊判二十頁位で、内容は投書・官令・論説・雑録・諷詠(詩歌)であった。

参照:柳原極堂著『友人子規』、前田出版社、昭和二十一年

  • なぜ『地方誌』『趣味誌』『文芸誌』は仲間なのか

そして『地方誌』と『趣味誌』『文芸誌』らが同じ領域で扱われる理由を説明したい。

明治時代の新聞は当初、政治・経済を掲載する「大新聞」と、街の話題や娯楽を掲載する「小新聞」とに分かれていた。維新の気風も残っていたものか、天下国家について政論するのが男子の意気であり、文学をやる者は「軟弱の徒」であるという評価もあった。

 

当時、散文や詩歌に没頭する者は閑人であるから、「趣味」で古銭やラベルを蒐める者と同様に「道楽者」として同一視されたのではないだろうか。

そのため、プロを目指す成分がさほど多くはない道楽的な「文芸誌」と、趣味だと言い切っている「蒐集趣味誌」は同じ仲間であろう。

ついでに触れれば一般人から見ると゛奇異の道″に見える「土俗、活動写真、演劇、書画骨董」などの『特殊研究雑誌』もまた、同じグループに入れられたのではと考える(そのため、筆者は『新思潮』『白樺』など、真面目にプロ作家を目指して、志を同じくする者が拠出し合う印刷費で発行する同人雑誌は、『趣味誌』のなかの『文芸誌』とは肌合いが異なると考えている。休刊しても「第六次」等で、何度も蘇生するのであるし。ただし、甲誌は純粋なアマで道楽、乙誌は真面目にプロ指向と分けるのは困難だ。主観的な感触で判るだけだ。境界は不分明であり定義づけられるものではないだろう。「自主出版雑誌」という視点では同じであるから、丸ごと研究対象にしている)。

 

『地方誌』と『蒐集趣味誌』等が分断されない理由は人的交流にもある.明治の十三、四歳の文学少年は『中學世界』『ハガキ文學』(齋藤昌三、鎭目桃泉との交流)等、若年者が対象の読者投稿欄がある雑誌で、知り合った投書家仲間を形成することもあった.それが後の「趣味家」の人脈に繋がることも起きた(例・木村毅磯ヶ谷紫江、鷲見東一ら)。

 

では次に、「地方誌」「文芸誌」(の一部)、「園芸誌」らが同じ読者層で購読・発行されていたことを証明しよう。

◆鷲見東一が読んでいた地方誌、蒐集趣味誌たち

鷲見東一という方は、明治三十年代の若い頃に『地方(文藝)雑誌』の『ホノホ』を、堺で「関西新詩社」を結社して発行していた。『ホノホ』は当時の「地方文壇」が発行する雑誌として、『山鳩』『野の花』『白虹』とともに「四大地方誌」と呼ばれる(「地方文壇」とは、東京の「中央文壇(東都文壇)」に対するカウンターとして、東京以外の「地方」の青年文士たちが各地で文藝雑誌を発行してその界隈の「文壇」を形成して盛り立てようという動きがあった。その地方文壇の人材を供給する源の一つとして、筆者は『女子文壇』『中学文壇』『新聲』など、読者からの兼業文藝投稿がメインの雑誌にも注目しているのである)。

 

鷲見東一の来し方については別項で詳述するが、ここでは鷲見が元・地方誌の有力発行者であったこと。しかし昭和十年代には「郷土玩具」や「羊羹ラベル」「駅印やスタンプ」等の蒐集者になっていたこと。それらの蒐集について一角の人物として敬慕され、複数の『蒐集趣味誌』に寄稿していたことを前提として抑えていて欲しい。

 

鷲見は、趣味誌『鶴城』(第二巻第三号、昭和十年三月)に寄稿した、「私のこと」という記事に於いて、自宅に送られる贈呈誌について触れている。

これらは鷲見が購読していたものではなく、毎号発行の都度「贈呈」されたものである。単純に『趣味誌』誌界の著名人へ贈呈した意味や、鷲見を友人として送付したものもあるだろう。また、原稿の確保に悩みことが多い『趣味誌』の発行者にとっては、原稿依頼に快諾して、無料でも寄稿してくれる鷲見は重要な方である。寄稿の掲載誌以外でも常に無料で送付をするのは、交際上からも欠かせないことである。これら複合的な理由があり鷲見のもとへの贈呈誌が多かったのだろう。この原稿では下記の雑誌が送付されていることが分かった。

・『髫髪歓賞』(鳥取板祐生・所蔵の郷土玩具の紹介)謄写版印刷・表紙は二十度刷りも、和紙和綴》

・『草紙』(三重の伊藤蝠堂・郷土玩具)《伊勢・富田の伊藤吉兵衛が『古茂里』の次に発行、四六判和紙刷り手習い草紙型、伊藤の蒐集物陳列場『於茂千也箱』のおもちゃ祭り記事を掲載》

・『土の香』(愛知の加賀紫水・土俗/方言研究)《「土俗研究趣味雑誌」で愛知県中島郡起町、加賀治雄(紫水)の土俗趣味社より発行》

・『趣味タイムス』(名古屋の吉田氏・蒐集趣味/文芸趣味)名古屋市西区、吉田栄一》[7]

・『交蒐』(神戸の蒲原抱水・蒐集趣味)《大正十三年に神戸の関西交蒐會が創刊、蒲原抱水(數人)が主筆)》

・『田舎』(大阪の住吉土俗研究会、横井赤城・土俗/郷土玩具)《『以奈可』表記も、横井照秀。百部限定。伝説/方言/土人形他》

・『いぬ張子』(「東京に於ける玩具趣味家の人々が集まって研究、機関紙)とある)《祖父江梧樓、土俗玩具研究会の機関誌。活版・四六判》

・『雉子馬』(「九州に於ける趣味家が集まって発行。郷土玩具を蒐集する人の参考資料」とある)《こちらも偶然だが東京と同名の「土俗玩具研究会」、梅林新市。昭和九年から通巻十二号迄発行、活版・四六倍判四頁+口絵、二百部限定》

・『五倍子雜筆』(澤田四郎作・土俗/随筆)《『五倍子雜筆』には近畿の民俗/方言/禁忌/性科学研究/民俗資料等を掲載、記録のみならず自らの採集を中心に論説。過去に雑誌発表の論説に更に研究・加筆したものも。

参照:『近畿民俗 : 近畿民俗学会会報』第一巻第四号、近畿民俗学会、昭和十一年

沢田は小児科医を開業したが、民俗学への時間を取れず、代替行動として『五倍子雜筆』を暑中と新年のあいさつをする私家本として昭和九年七月に創刊。軍医として出征、シベリア抑留から昭和二十二年に復員。昭和二十九年十月に『シベリア日記』として第十三冊を発行して終刊。『近畿民俗』誌に注力。

参照:『沢田四郎作博士記念文集』、沢田四郎作先生を偲ぶ会、昭和四十七年

・『郷土玩具』(東京の有坂與太郎・郷土玩具/新玩運動)《昭和七年に『郷土秘玩』誌を松下正影(郷玩店経営)と有坂與太郎が共同編集で発行したが、意見の不一致で五号で終刊。有坂は昭和八年から『郷土玩具』を発行。商業雑誌として建設社より書店経由で販売したが、月刊で購読する読者は不足し返品が多かった。直接定期購読に切り替えたが、部数減少は止まらず二十九号で終刊となる》

その他として、『郷土と蒐集』(未詳)、『スタンプ』《京橋の江口次郎、日本スタンプ協會・駅印等スタンプ全般》、『趣味の友』《大阪の林勇スタンプ商會か?》、『オールスタンプ』《柘植宗澄が昭和九年六月に駅印趣味誌として創刊、昭和十年一月の八号から『趣味の港』と改題》、も送付されていたという。

《》内は筆者の補注。

参照:川口栄三『郷土玩具文献解題』、郷土玩具研究会、昭和四十一年

参照:梅林新市「昭和時代玩具誌盛衰記」『書物展望』第七巻十一号、書物展望社、昭和十二年

上記を見ると、郷土玩具誌が多いが、『土の香』や『五倍子雜筆』は『特殊研究雑誌』の一分野の「郷土雑誌」の仲間である。この稿の掲載誌『鶴城』と『交蒐』は紙モノの「蒐集趣味誌」である。『趣味タイムス』は文芸も加味された「蒐集趣味誌」、『スタンプ』は昭和十年のスタンプ集めブームに特化した趣味誌である。『趣味の友』が林勇の発行のものであれば「郵趣誌」である。

鷲見のもとに届いた雑誌は多様で、「郷土玩具」「土俗」「蒐集」「郵趣」「文芸」に関わる『趣味誌』『地方誌』が同じ人物の読書対象として同居していたことが分かる。

 

なお鷲見は元・新聞社勤務であるためか、

「趣味以外の雜誌については殆んど連日寄贈されぬ日はない程の有様で、毎日それらを読む為めに追はれてゐる有様であるが、私は毎日、これ等の書冊を讀むことを樂しみとし」

ていたと、前掲記事で述べている。

更に、

「又これ等を讀む事以外には殆んど仕事が無い。朝から晩まで雜誌を讀むことを仕事にして生きてゐる訳である。それがために原稿を賴まれた場合は殆んど断るといふ事なく清濁併呑の勢いで何処へでも寄稿してゐる」

と続き、終日雑誌を読み、原稿を書くという生活を送っていたことが分かる。

鷲見東一の生年は、明治十六年。この稿を執筆した昭和十年には五十八歳である。昭和八年の内務省調査では、定年の年齢は五十歳が五七%、五十五歳が三四%であったというから、鷲見はすでに職(新聞社勤務)から隠退し低徊趣味に浸っていたのであろう。

これまで鷲見東一は、非常に多作な執筆者でありながら、『蒐集趣味誌』の世界では、話しても意味が分かるまいとでも考えていたのか、『ホノホ』時代、つまり地方文芸雑誌の思い出を語ってはいないようである。

成人後、全く文芸に関する「地方誌」との接点を持っていなかったかと考えていたが、最近、『文藝と趣味』(神奈川県高座郡茅ヶ崎町・渡邊金一)という昭和十一年八月に発行された、「地方誌」を入手した。そこには第一面に鷲見東一が「蒐集するには」と題して寄稿していた。

『文藝と趣味』に掲載されている趣味家は鷲見だけであり、広告欄には「月刊廣大」「文藝雑誌薔薇園」「鈴蘭」など趣味誌界では聞いたことがない地方誌が掲載されている。そして、川柳雑誌/民謡雑誌/化粧品製造販売法/朝日常識講座/家の光/科学画報/を譲るなど趣味誌では見かけない書籍の譲る告知、「食用カタツムリ安価分譲」「染み抜き液分譲」「蠅取り紙の作り方分譲」など「副業誌」的な情報があり、確実に『地方誌』(文芸誌)と判断できるのは、やはり仲介広告欄で「コントを求む」があること、「櫻華社の『当選歌全集』求む」があることだ。

櫻華社は「標語」や「公募の歌謡」懸賞情報を扱う出版社であるから、その読者は「蒐集趣味」ではなくて「文芸趣味」だと確定できるのだ。

本誌『文藝と趣味』でも「コント・短歌・川柳・冠句・物は付・俳句・標語」や散文が募集されていた。

『趣味誌』の世界とかろうじて結んでいる細い糸は、愛知から発行されていた『郷味』という「趣味・蒐集・文芸」の誌の広告だけである。(『郷味』は興味深い雑誌であるが、ここでは詳述せず別項へ譲る)

◆趣味誌の入札欄に見る趣味誌と地方誌

もう一つ、この図版は蒐集趣味誌の『鶴城』(第六巻第四号、昭和十四年四月)における、入札による分譲欄で、書籍・雑誌の部門である。赤線で囲んだ箇所をご覧になればわかるように下記の記載がある。

「一六九 地方誌文藝園藝其他取交 20冊 一〇(円以下同様)」

「一七〇 同 文藝誌新文壇 異號7冊 一四」

「一七一 同 自由人、自由文藝往来 4冊 一〇」

これは、一六九番が先行する説明であり、続くふたつは「同」とあるように、「地方誌、文藝誌、園芸誌」の領域である『新文壇』という雑誌、『自由人』、『自由文藝往来』という雑誌を示している。

つまり、この図書類の譲り渡し広告を出稿した人の認識では、鳥取県から発行されていた、『新文壇』は活版の文藝雑誌ではあるが、「地方誌」であり「文藝誌」の範疇であることを現している。

そして、園芸雑誌の一部もまた大きなくくりの趣味誌に属するものであったことも分かる。ただ、園芸雑誌の中には、「広義の趣味誌」にさえ入らない誌もある。それは「盆栽」の技術指導や研究が主体のもの、「植物の種の改良」を研究することが主体のものだ。それらは発行元が「盆栽園」などの園芸業者であることが多い。

◆なぜ「園芸雑誌」が「地方誌」の仲間になるの?

まだ少し、「園芸雑誌」が「地方誌」「趣味誌」の読者層が読む雑誌であることを、我々現代人には理解がしにくいかも知れない。

「広義の趣味誌」に入る「園芸雑誌」は、「農業雑誌」の下位領域だと言えば、少しは理解してもらえるだろうか。

当時の地方誌で「農業系の雑誌」は、農家の「副業」の情報も扱っており、「園芸」も副業情報的なのだと考えられるのだ。

農村向けの『地方誌』は、文芸と仲介広告欄のほかに「副業情報」および「農業情報」や、「家禽飼育情報」も厚めに掲載していた。

昭和十年十月創刊の『副業之光』(名古屋市中区明月町、副業社、菊判・十銭、月刊、農家副業の実際的案内雑誌) [※][8]や、昭和十二年の農村向け総合誌の『月刊 農業と副業』(高松市東瓦町、副業社、菊判四〇頁活版、一部六銭)がある。

※林眞「愛知県で発行された昭和前期の雑誌(続1)」『郷土文化』名古屋郷土文化会、昭和六十一年

これらは小説・文藝・標語などの公募情報と、養鶏・家畜・農事の記事を併せて掲載していた。読者は園芸・副業・文藝・体験談・俳壇・仲介広告欄と、自分に合う様々な欄に投稿した。

 

なおここでいう「副業」とは、現代でいう「投資」や「内職」「アルバイト」の類ではなく、農家の所得不足を補うため、主業の米麦生産以外の園芸・家畜・農業生産を「副業」と位置付けている[9]

 

そもそも『農業雑誌』に「文芸」が関係あるのか不思議かも知れない。おそらくそれは農民文学の先駆けともいえる「田園文学」に起源が求められると筆者は考えている。

大正二年に創刊された、活版の営業雑誌である『田園新聞』(渋谷・田園社、七銭)は、「地方青年の修養機関で、農村問題の研究、田園文學[10]の鼓吹」を目的とする雑誌であった。

大正四年時点の『田園新聞』の「寄書規定」によれば、原稿を募集し優秀な作品には等級に応じた賞品を贈呈していた。その種類は「田園思潮」欄は「農事に関する論説・建案・地方の物産人物批評意見・見聞実験談」、「田園文学」欄は「小説・小品・和歌・俳句・俚謡など文芸類」、「田園時報」欄は「田園問答・田園奇聞・青年会報・談話室・支部通信」という読者欄兼雑報欄である。

 

もちろん農業・酪農の専門記事もあり「副業としての緬羊の飼育法」「土壌肥料論」「優良種苗商投票」などが掲載されている。また各地の「青年会」の様子も報告されている。農家の青年で文学好きであれば、一冊で全てが賄える雑誌である。大正三年の『趣味之農村』もまた同様であろう。

 

プロレタリア文学運動の雑誌[11]のように、「職業別文芸雑誌」の草分けとも考えることができそうだ。

つまり大正から昭和初期の「プロレタリア文学」同人誌の先駆けとして、非商業誌で「田園文学」を扱う『地方誌』が、農村文学の前史として考慮される価値があるのではないかと考える。

 

昭和二年には、「農民文藝の研究及び制作」を目標とした『農民』が創刊された。発行所は「農民文藝會」(北多摩郡砧村喜多見台)だが、これはなんと、『文章世界』等の投書家として名を馳せたのち、プロ作家になった加藤武雄の自宅であった。発売は加藤と『新聲』で縁がある新潮社の名前が表紙にある。

参照:紅野敏郎『文芸誌譚』丸善雄松堂、平成十二年

戦後、昭和二十三年の例であるが、『文鳥』という文芸主体の『地方誌』には、農業関係の地方誌とみられる、新潟県の『農報』誌の広告が出ている。

 

他にも相互乗り入れ状態の証拠は見られる。蒐集趣味誌『交蒐』誌には「郷土趣味及蒐集趣味の研究雑誌」の副題を持つ『熊野趣味研究』(和歌山県海南市・上中宗太郎)が、広告を出稿している。『交蒐』の読者は、広告欄から判明する限り、『古玩と史蹟』や『佐渡郷土趣味研究』誌を読んでいた。当時の蒐集を趣味とする人の何割かは民俗学にもシンパシーを感じていたか、民俗学的興味がある人は、資料を集めるという視点から『蒐集趣味誌』との互換性があったのかも知れない。

【欄外注】

[1] 一橋大学名誉教授の山本武利は色川大吉の「自分史」という言葉にインスパイアされ、「自主発行雑誌」を「自分誌」と命名している。

「占領初期の民衆のメディア創刊の一大ブームは、さしずめ『自分誌』の時代ということができよう。『自分誌』の刊行には、思想家、社会主義者など戦前にそのメディア活動が権力に弾圧された自由民権期型のインテリだけではなく、青年団員、引揚者、結核療養者、戦争未亡人など従来メディアに無関係だった人びとが目立った。センカ紙利用のガリ版印刷など等身大の雑誌刊行に走った」とした。※山本武利「『自分誌』の時代」『プランゲ文庫・雑誌コレクションに寄せて』2000年

当時の一般の人々が、「自分誌」を発行した原動力は、体験を自慢したり、書く事で自己満足したりすることでは無い。ましてや雑誌による利益を得ることを期待していない。明治期以来、「営業雑誌」以外は儲からないものだ。ネット時代のこんにちも、有名無名問わず人はブログやHPを経て、SNSで発信・意見交換をしている。《自らの想いを何かに書きたい》という識字率が高い日本人固有の単純な動機であり、《書くことで生きづらい時代の閉そく感を打破できれば》という内心の発露もあっただろう。厳しい時代を生き抜くためのよすがとして、『生きがい』のために原稿を書き、生活が苦しくとも乏しい資金で紙媒体の発行を続けた。このことを山本は「人に見せたり、売るためではなく、生きがいのために筆をとり、なけなしの金をメディア活動に投じた。『自分誌』は困難な時代を克服し、新しい未来を拓く自分のためのメディアであった」と考えており、戦後に簇生した個人発行の『自分誌』について、本質を見抜いている。

[2]日本海』七月号掲載。昭和二十二年一月に趣味と仲介実益評論『日本海』誌(新趣味社・斉藤嘉昭)が発行

[3] 旧制中学(師範学校含む)の進学率は明治三十三年が一一%、大正十四年が約二〇%、昭和十五年が二八%。

高等女学校の進学率は、明治三十三年が二・七%、大正十四年がが一四%、昭和十五年が二二%であった(文部省『日本の成長と教育』)。

[4] 東京での取次商は、明治二十年だと「東京書籍出版営業者組合」数は、百三十一店。だが、これは卸と小売店を合算している。明治十五年であれば、小売を除外した「問屋」「仲買」の加盟数は合わせて六十店舗であるから六十店プラスマイナス五店程度であろうか。※山口順子「明治前期における新聞雑誌の売捌状況 : 巌々堂を中心にして」『出版研究』16巻1985年

[5] 実際に『國民之友』を例にすれば、明治二十年から明治三十一年の間の『警視庁統計』<東京府下配布部数・地方配布部数>から計算すると、東京府下に全部数の32%~68%が配本されているので、地方へは0~1冊程度になるだろう。但し『警視庁統計』では、東京府下は売捌店への配本数であるため、その内から地方へ渡る部数もある

※有山輝雄『言論の商業化 : 明治20年代「国民之友」』コミュニケーション紀要4 1-23、 1986

[6] 例えば飲料のラムネ商も、瓶の回収という手間を考えれば、その時の商品の運搬手段による規模によってしか生産量を決められない。これが雑誌なら部数に当たる。つまり、ラムネを自転車や徒歩によって、お得意先へ配達できる量、荷車なら荷車で運べる量、時代が進んでトラックが導入できれば、トラックで運べる量へと生産数が拡大するという具合である。自転車で一日に一人がラムネを二百本配達するのが限界であれば、それに見合った販売商圏内で、配達と回収をするほかに手立てはないから、明治期は各地に様々な零細店が簇生できた訳である。

[7] 『趣味タイムス』の広告欄には「文芸雑誌」が出稿している。

『月刊モダンプリンス』(島根県・紫陽花社。文学・音楽・映画・スポーツ・ゴシップ記事を掲載、「女ばかりの同人雑誌」が惹句)

『文藝苑』(福岡県若松市本町・文藝苑社、月刊活版発行)

『自由文藝』(岡山県早島局五日市・自由文藝社、毎号三十余頁・文藝を募集し優勝カップ争奪戦・懸賞金が出る。口絵は誌友の肖像写真満載)

[8] 昭和十三年六月に『家禽界』(昭和三年九月創刊、農村を対象とした養鶏・小家畜・家内工業・作物の雑誌)が『副業之光』を合併し、『家禽と副業』に改題した。

[9] 日本の農政史上、明治三十年代から「副業」が振興されてきたが、大正四年の農商務省からの示達で農家の「副業」は農業生産以外の農産加工、家内工業を指すようになった。

例えば「兵庫県では、柑橘、柿、養鶏、大阪府では養豚、佐賀県では干柿、岐阜県では、茶、養蚕、長崎県では、柑橘、新潟県では、機業、養蚕、藁細工、静岡県及び三重県では、製茶、養蚕、などである」という。政府が副業を奨励した意図は、「増大する都市人口への米の安定供給のため、米増産を農家に求める一方で、農家の現金支出の増加に対処しなければならない、という状況の下で、農家の所得不足を補うための対応という性格が強い」という。

参照:荒幡克己「明治後期からの「副業の突励」政策について」『農業経済研究』第68巻第4号、1997年

[10] 明治二十九年に「田園文學」という田園文学を中心とする文學雑誌が三重で創刊されている。発刊の辭をみると「田園文学」とは「都市の文学と長閑で自然豊かな田園の文学は異なるもの」とのことで地方青年を鼓吹している。そうは言っても「寄贈雑誌」欄には『新聲』『帝國文學』『文學界』など中央文壇の雑誌が来ている。わずか十二冊を発行して終刊となった。

[11] 『種蒔く人』(大正十年)、『文芸戦線』(大正十三年)、『戦旗』(昭和三年)等