syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

投稿雑誌『女子文壇』(1)「頑固一徹? 明治時代の男子も下心アリ」

 

■投稿雑誌『女子文壇』

少女たちも投稿雑誌へ文藝投稿をしており、そこから才能が開花して、後に閨秀歌人、作家になった者もいる。

明治五年の学制公布当時は、作文教育は手紙の書き方など定型文が中心であったが、明治十九年に小学校令が公布され男女問わずに国民全体に教育が浸透していく。特に国語教育(綴り方)の成果によって、文字の読み書きができるだけでなく、日常生活を創造的に文章で書くことができる子どもが増えていた。そして明治二十八年の「高等女学校規程」[1]、明治三十二年の「高等女学校令」の公布によって女子教育が向上したのは、女子の読書人口や投稿人口増加の要因であろう。

 

今井邦子の「水野仙子さんの思ひ出」[2](今井邦子編『日本女流文学評論』中世・近世篇、明日香書房、昭和二十三年)に下記の記述がある。日本初の少女雑誌『少女界』で投稿をしていた今井が、『女子文壇』を知って読むとそこには昔日の『少女界』投稿仲間を発見したという話である。

「それから私たちは誰がはじめたともなく、その新しい雜誌『少女界』の投書をやめてしまった。そして自然に移っていつた。その時代唯一の婦人文藝雜誌であつた『女子文壇』というのは明治三十八年一月から發行されたものであるが、主宰者として詩人河井醉茗氏が居り、その詩壇を擔當して居った。(中略)

小説も募集されているし詩歌はもとより評論、隨筆すべて文學に關して深切な指導をしていた。明るい快い文學的の雜誌であった。或る日私の姉がそれを一册上諏訪町(現在の諏訪市)から買って家へ持つて歸つた。そこで私たちは、はからず『少女界』時代の馴染の人々の名を見た。服部貞子氏は創作欄で奮って居るし、根本松江氏もお初ちゃんも何か書いている。それで私たちはすぐその雜誌へ投書をはじめた。服部氏たちとは再び手紙の往復が始められるやうになった。時代は明治三十年代の終りから四十年に進んでいた。投書雜誌の常として一年二年と經過するうちに始終すぐれた誰それといふ人が出來がちなもので、『女子文壇』でも創作欄はお貞さんの時代ともいふべきものがあり(中略)時代をつくるやうになると本人はいつ出しても相當の成績をおさめるし新鮮な興味を失ってくる。そこでお貞さんは巧みに躍進していつの間にか『女子文壇』を去り、博文館の『文章世界』の投書家となつてしまつた。そこでも忽ち群をぬいて投書家の中で優秀組、今の東寳社長、秦豊吉氏だの川浪道三氏だのという人々と、新進若手として時には本流文壇の人々の批評にものぼるやうな進歩のあとを見せていた。『文章世界』の編輯主任に田山花袋氏が居た」

同時代に於ける創作者の才能の芽というのは、昔も今も一定の限りがあるのだろうか。ある割合以上に増えも減りもしないようだ。投稿の世界では時間の経過とともに『常連』が固定化され、そのうちいつもの舞台では飽き足らなくなって他の媒体に移ったり、プロ化したりする。そんな世界が明治期から続いていたことが判る、思い出の文章である。

 

「女子文壇社」は博文館の出版部にいた野口竹次郎が独立して創設したもので、その前に弟の野口安治が文光堂を興して『秀才文壇』を出していた。兄弟そろって『文壇雑誌』を発行するという珍しいケースなのだが、『秀才文壇』誌を女性向けにしたものだった。

ところが女性向けのほうが遥かに売行きは良く、個人経営の出版としては大成功だったと河井醉茗は書いている(「女子文壇の思い出」河井酔茗『南窓』、人文書院、昭和十年)

 

そして『女子文壇』の著名投稿家として、水野仙子(服部貞子)・三宅やす子・三ヶ島葭子・今井邦子(山田邦子)・若山喜志子(太田喜志子)・杉浦翠子・平塚伊都子・生田花世(長曾我部菊子)・望月れい子・神近市子・若杉島子・岸次子(魔野つぎ)・前島優梨子・島本久恵らがいると、河井醉茗はいう。(前掲書)

『女子文壇』編集の河井醉茗は詩人。服部貞子は水野仙子ペンネームであり後に田山花袋の弟子を経て作家となり、川浪道三(田山花袋門下の歌人・川浪磐根)と結婚した。今井邦子(投書家時代は山田姓)はアララギ派歌人である。

水野仙子と山田(今井)邦子は共に、明治四十一年には閨秀作家として『女子文壇』の七月号以降は投書家ではなく、「寄稿家」として作品を取り扱うことを編集会議で決定され、『女子文壇』の新進作家となった。

五十嵐圭「評伝水野仙子 近代文学研究資料第272編」『学苑』第二百九十四号、光葉会、昭和女子大学近代文化研究所、昭和三十九年)。

 

詩人の横瀬夜雨は「女子文壇の人々」と題して、河井醉茗の五十歳の誕生祝会の当日と後日に出会った女性投書家との邂逅について随筆を書いている。下記の十一名の諸嬢の名前を挙げている。

「向うから山田邦子さんが歩いて來るのに會つた」

「板倉鳥子さんが來た。華奢である」

三宅やす子さんも入らした」

「手跡の美事な方になほ三宅恒子さん」

「生田花世さんも居られた。遠藤たけの子さんも來た」

「會が終つてから鹽崎とみ子さんにお目にかゝつた」

「前田河廣一郎氏夫人や吉屋信子さんや河野槇子さんなどの缺席したのは意外だつた」

「平塚白百合さんは藤澤に入らしたので、會へは出なかつた」

「板倉鳥子さんが古河から自動車を飛ばしてはじめて常陸へ來た」

 

なお『少女界』は金港堂書籍[3]から明治三十五年に創刊された、日本で初めての少女雑誌である。

文化史研究者の嵯峨景子によれば、少女の投稿媒体としては『少女界』より、吉屋信子や森田たまが投稿していた『少女世界』(博文館)[4]のほうが優位に立っていたらしい。

「同時代の他の雑誌『少女界』や『少女の友』に比べ、『少女世界』は読者の文芸投稿とその指導に対して熱心な雑誌であった。『少女世界』における読者投稿とその指導の積極性は、編集者沼田笠峰がもたらした特徴である」

嵯峨景子「『少女世界』読者投稿文にみる「美文」の出現と「少女」規範」、『東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究』№80、平成二十三年

 

■投稿雑誌に於ける読者たちの交友

この節では、『女子文壇』『少年界』『中學文壇』の青年子女向け雑誌および、趣味的な雑誌『童話』『活動之世界』誌に於ける読者欄を例にして、当時の女学生、中学生、師範学校[5]を中心とした青少年たちが全国で交友していた実態に迫ってみたい。

 

こうした少年少女雑誌・趣味雑誌の読者欄を通じて読者間では交誼があり、結社の設立告知や、同好の士に対し仲間入りや雑誌の購読を募集したことを明らかにする。それらの事象は、青少年らが「地方文芸雑誌」や「特殊研究誌」を創刊する際、購読者や寄稿者を集める人材の源になったということを、理解するのが目的である。

なお「誌友」という語句の初出の決定については不詳だが、筆者が国会図書館の検索で得た範囲の結果では、『少年園』の明治二十六年六月号が“草分け”ではないかと推察している。

同誌の広告欄に「少年文庫誌友懇親會」の御知らせがあり、七月二日に「今般少年文庫誌友の懇親を結び斯文の進歩を図らんの目的を以て(略)文庫誌友懇親會を開かんとす」([6])とある。

 

また、『少年園』では、明治二十八年三月七日に東叡山中、三宜亭にて「松風會」という『少年文庫』の投書家たち(原文は寄書家)の集会が開催されたことを報じている。出席は二十三名。半日、写真を撮ったり、談話して喫茶や菓子を食べたりしたという(『少年園』一五六号、少年園、明治二十八年四月)

そして「誌友」と「誌友同士」の交流活動についての定義だが、

  • 雑誌の読者同士であるが、多くの場合は互いに居住地を隔てた未知の人である
  • 商業誌の版元が提供する誌上の「読者交歓」欄の頁や、「誌友大会」的な催事によって生じた、読者同士の文通/物品交換/売買/実際の出会いなど何等かの交誼が生じた
  • 投稿が懸賞文芸欄で入選されたり、お便りの投書が採用されたりなど、その作者名を誌上で何度も見る「常連」のスター的存在の投書家がおり、その人を慕う読者との交流

あくまでも読者同士は、私的な関係の誌友である。

そして『趣味誌』を含む、「地方文芸雑誌」の発行者同士の交流は、どちらかというと公的な要素が多く、交換誌・交換広告等、「結社」同士の渉外活動があり、商業雑誌の「誌友俱楽部」に於ける「誌友」の交際とは少し趣きが異なっている。

長尾宗典は「誌友交際の思想世界」 [長尾, 2018]に於いて、「地方での雑誌発行を含む『誌友交際』は急速に衰退していったとみてよい」と記述する。商業雑誌上の「読者同士の文通」と、「自主発行誌」の発行者同士、あるいは発行者と読者との交流を一緒にしているように見えるが、その二種類を分けて考える立場を筆者は取る[7]

 

明治期から戦前までの投稿型の営業誌である少年少女雑誌では、読者が詩文等の投書ができるほか、「誌友俱樂部」「通信」「読者の室」など欄の名前は異なるが、読者からの投書を掲載できる機能を持つ欄があった。そこでは当該誌についての感想や意見、誌友同志の文通、物品の交換、そして地方での誌友同士の会合や、雑誌製作(読者募集の勧誘)に関する告知を可能とした頁として成り立っていた。その欄への読者からの葉書をより多く掲載するために、本文よりも小さな活字を字間と行間も取らずに密植活字でギッチリした版面が形成されていた。

■読者らが結社して雑誌を発行した具体例

小国民』を改題した『言文一致』は「互報」欄が読者の手紙欄であるが、独特の文体で交誼を紙面で行っていた。盛んなのは郷土に「読者会」を設立する呼びかけで、その結社で活動が盛んに発展したのか、機関雑誌を発行したお知らせも掲載されている。

「諸君、出たぞ/\大眼玉多年の宿望の雑誌『あやめ艸』(越後新発田・佐藤宗次、あやめ會)ようやくこの頃生まれた。諸先生の小説、新派歌人の短歌、新体詩、俳句などあって(略)ただの五銭だから続々静海子方へ申込み玉え」

(『言文一致』第十五巻第五号・三三四号、言文一致會、明治三十六年三月)

他の少年少女雑誌でも同様な読者同士の交流を行っている。

学校の先生たちの許可を得て『不如帰の會』という、『婦人世界』や『女學世界』など雑誌の回覧會を設立したので、会員募集」

(『女子文壇』第六巻第十号、女子文壇社、明治四十三年八月)

少年たちは、自分たちの地域で会合をしている。

「諸君、僕らの少年文會では大々的懸賞で種々の文芸を募って少年の記者ばかりで雑誌を発行しています。入会して下さい(美濃付知町 早川孝平)」

(『少年界』第五巻第五号、金港堂書籍、明治三十九年五月)

明治四十年の『中学生』誌の「掲示場」には、

「短文、新體詩、和歌、俳句、川柳を募集す。秀逸者には、本紙雜誌『花薊』を呈す。(投稿所。横濱市南太田町、薊會編輯部)」とある

※『中学生』第二巻第四号、中学社、博報堂、明治四十年四月

同年、『少年文壇』誌では明治期ならではの「知識」の向上を目指す青少年らの「機関雑誌」が発行されるという知らせがあった。

「起たれよ本會々員諸君、私等は此度智識の發達を計り、文化の進歩を圖るを目的として、少年圖書館を設立して名を『青翠會』と號しました。此の度會員大募集中であリます機關雜誌としては、八ページ位の『楓』てふ小雜誌を發行して居ます。一部の定價に印刷實費二錢であります。又懸賞文を募集します、規則書入用は必ず三錢切手封入の事。懸賞作文を募集す。一等は粗品ですけれ共、繪葉書三組、二等二組、三等一組です、文と共に必ず切手又は葉書を封せられよ。福岡縣宗像郡河東村(吉田正美方靑翠會)」

※『少年文壇』第三巻第四号、文学会、明治四十年四月

これで、「雑誌ごっこ」の各地の『地方誌』の発行が、投稿雑誌系の少年少女雑誌で告知されていたことが分かる。

 

大正期には「活動写真」の趣味に於いて、単純な俳優のファンの域を越え研究的な雑誌を作ろうと集う結社も発生しており、商業誌の『活動之世界』に立ち上げを知らせていることが多い。

普段から同誌の「読者だより」欄にて、読者同士は文通(「レターの交換」)を行い、俳優ブロマイド・映画プログラム・フィルム・ポスター・映画雑誌、新聞体プログラム[8]などの活動写真の資料を相互で交換していた。

「今度、活動写真に関する雑誌『道草』を発刊することにしましたから下記へ往復はがきで(芝浜松町深井白葉)」

(『活動之世界』第四巻第三号、活動之世界社、大正八年三月)

「斯界の諸君!! 我等は新春早々『キネマ界』なる一誌を生産せり。奮って入会せられよ。詳細は郵券封入にて(豊橋市関屋町福田方白銀の鈴)」

(『活動之世界』第四巻第三号、活動之世界社、大正八年三月)

「私たち(ゆかり、清窓、柿沼)が集まって月二回『シネマ・ゴシップ』という雑誌を発刊いたします(神田大和町山寺方香風生)」

(『活動之世界』第四巻第三号、活動之世界社、大正八年三月)

『童謡』の世界においても若い世代が、童謡を中心にした「文芸誌」を発行していた。

大正期に『赤い鳥』(大正七年創刊)、『金の船』(大正八年)と並ぶ三大児童雑誌と称される『童話』(大正九年四月創刊、コドモ社、千葉省三編集長)誌[9]でも読者が雑誌創刊の告知文を掲載している。

『童話』は特に「投稿雑誌」と銘打ってはいないが、「創作募集」をしており、綴方・童話・童謡・図画を募集し、各欄は選者による評価で、入選・佳作を掲載している。総頁八十頁のうち十二頁程度を発表舞台として割当てている。

読者たちが利用できる、おたよりコーナーの「通信欄」が設けられており、そこでは、談話会開催の知らせや、自分が発行している雑誌を告知する方もおり、日本各地で十代の子が童話・童謡の自主出版雑誌を発行していたことが判る。

「私は十五ですが(略)今度『白鳥』という文芸誌を創刊しました。皆様の御入会を歓迎します。詩・童謡・和歌・俳句・短文・童話・創作等を募集しております。投稿下さい。郵券二十銭お送り下されば見本として一部差上げます」

東京市 山口日出雄 大正十四年五月号)

「私の発行せる『理想』のため、本誌愛読者諸兄のご後援を願います」

(京都衣笠 長野晶水 大正十四年五月号)

「私の童謡誌『オアシス』に御稿下さいまし。会費二ヵ月十二銭」

大阪市南区谷町 吉村光雄 大正十五年一月号)

「今度、沼津にも『童話會』と言う会を起して、誌友を集めみんなが会合して日曜日には楽しく語り合いたいと思って居ります」

(静岡 ナカミナミ トシヲ 大正十五年一月号)

「私の発行している童謡と童話の雑誌『焚火』の見本を入用な方は自作童謡一篇と二銭切手をお送り下さい。表紙は美ししい木版印刷です」

(東京西巣鴨町向原 瀧澤久雄 大正十五年一月号)

「私は此の度、少年共同雑誌『夢路』を発行することになりました。左記の所に申込み次第、規則書お送り致します」

(神戸市淡川町田中一路方 夢路社 大正十五年一月号)

なお、この「夢路社」の告知では「規則書」をお送りするとある。

■結社には「規則」が付き物だった

戦前の機関雑誌発行の結社は、「会則」などの規則を書いて機関雑誌の巻頭なり巻末に掲出することが多かった。そのため広告で見本誌を送るという趣旨のほかに「会則希望者は郵券〇錢で急送」と、会則の入手手段を記すことも行われた。

「会則」の伝統を見事に戦前と戦後に共通して行っている事象があるので紹介する。

「趣味家」で民俗研究家でもある武田鋭二(号は蒐筆庵。逆算して明治三十年生まれ《満年齢表記か不明》)は、大正十三年に生地、岡山で「蒐集趣味誌」の『烏城』誌を発行した際、「会則」を作って掲出している。そして昭和三十八年の六十六才の時に武田はチューインガムの包み紙蒐集家のためを思い、『我無』というガム包装紙の情報と研究を行う趣味誌『我無』を創刊した。

「三つ子の魂百まで」というとおり、『我無』誌にも「会則」を巻頭に掲出している。筆者は『烏城』も『我無』も家蔵しているが、両誌共、半紙に謄写版刷りという点も共通している。武田の中では『趣味誌』という「自主出版雑誌」の方法は「こういうものだ」という基本の枠組みが構築されていたのだろう。下記に烏城援助会および我無会の「会則」を記す。

 

《大正十三年 烏城援助会会則》

  • 本会は烏城援助会と称す。
  • 本会はあらゆる趣味品の蒐集家を以て組織し、各会員は己が趣味に関する研究したる記事、或は少しにても蒐集趣味に関する記事を、一ヶ年二回以上機関誌へ投稿記載するの義務を有す。
  • 本会は趣味ある同好之志の入会を求む
  • 本会員は第二条の外、金銭上の義務として一ヶ年に一円五十銭以上の援助をなすこと。
  • 本会は毎月会員の研究になる投稿記事満載の烏城を発行す。
  • 本会は月刊烏城の外、時々趣味本を発行す
  • 本会は永久共立共栄主義を守る。
  • 本会の事務所を岡山市下石井三一三武田鋭二方に置く。

武田鋭二『烏城』(烏城援助会、大正十三年)

 

《昭和三十八年 我無会会則》

我無 我等 ガムを愛し ガムをカム/ガムの外 樂みなし/ガム 我無 ガム/このたびガム愛好者により団結しガム愛好者の親睦を厚しガムを研究しガムに関するものの蒐集に努力するため/「我無会」を創立し機関誌「我無」を発行す

@会員はガム愛好家を以て組織す

@会費は年200円とす

@会の維持は会費及び寄付金を以てす

@会誌は年六回発行す

@会の事務所は次の処に置く

海南市阪井 武田鋭二宅に置く 

昭和38年2月11日

会則ではあるが出だしは一篇の詩のようにみえ、「ガムの外 樂みなし」とは非常にチューインガムの包み紙蒐集に淫したものだと感動する。

■「愚かで不束者」同士の文通

『女子文壇』文通欄の「交際を望む」分野では、その世界独特の言葉や文章が使用された。

雅やかに恰好をつけるのは男子の「筆名」と「堂号」だけではなかった。女子も「筆名」を使用し、その誌上でしか通用しない言葉を操っていたのだ。

例えば「手紙」は「レター」といい、相手から文通として貰いたい手紙は「御玉章」と称している。外来語に価値をみて和訳せずに「レター」というかと思えば、「写真」を「うつしえ」、「玉章」を「たまづさ」と「訓読み」し大和言葉で表現する者もいる。

不特定多数を相手にしているので年齢は不明であるが、まずは「御姉様方」と尊敬して呼びかける[10]。都会ではないところに住んでいる際、山奥なら「山家」育ち、海辺なら「浜辺育ち」として、「自分は田舎育ちなのです」と遜る。

 

さらに、自分は「不束者」で「教育もない」と学力・知恵も卑下することが、この世界(「誌友俱樂部」)での不文律だ。令和時代に「マウントを取る」や「上から目線」という言葉が生まれたが、明治期の読者同士ではとんでもない話で、自分の身を丸めて縮こまり、「下から、下から」の姿勢で相手を立てて、相手の情けに縋って手紙や物の交換を頼んでいる状態である[11]

 

例えば文通相手の募集文言は「北の果ての浜辺に住む浅学者ですが」と住所地プラス自己を謙遜する言葉の組み合わせで始まるのが様式になっている。

「私は塵の都に住む浅学な者ですが」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

「誌友の皆様、山家に住む不束者ですが」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

という文が多く見受けられる。「塵の都」はロンドンの比喩「霧の都」に倣ったものではなく、「騒々しい都会に住む者」という意味だろう。

御礼を述べる際も遜ることを忘れてはならない。それがここでの作法である。

「私の様な者にも御玉章下さって誠に有難う」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

「御交際求めましたところ、田舎者にとの御さげすみも無く」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

と、彼女たちは誌上で恐縮しながら、相手ににじり寄っていくのである。

 

男子の場合も同様であるが、男子は謙遜をしていてもどこか毅然とした部分を捨てきれないように感じられる。これは漢文を用いた「少年美文」の為ではないかと考えられる。「少年美文」は多数の人数への演説や啓蒙には向くのだが、自分の感性を読者欄で開陳するには立派過ぎる。

「余は下野の片田舎に住む、浅学無智の一井蛙にすぎぬ。而して性、誌を愛す。好んで少年界文林を見るに悲しや、吾が下野の人士は暁の星の如しである。嗚呼吾が郷には人なきか。奮起せよ諸兄、余は悲憤慷慨にたえぬものである(大柿の里 秋月)」

(『少年界』第十巻第六号、金港堂書籍、明治四十四年六月)

この文は文通相手を求めるものではないこともあり、一応、勉強の足りない「井の中の蛙」として謙遜しているが、最後は弁論部の演説口調となっている。

■死ぬまで文通、「必ず返事を」

そして文通については、末尾に決まり文句のように「お返事はきっとしてよ」「末長く御交際」を願いたいと書いている。(※表現はほかに「永久に変わりなくご交際」)

この「末長く」という言葉は、携帯メールが普及するまで昭和末期頃に行われていた手紙の文通希望欄でも同様に、女性は「末長い交換を望みます」と書いていた。その源泉は明治三十年代からあった(イコール、雑誌を通して全国で文通する文化の最初期からということ)ことが判った。

 

ただ筆者は個人的に「末長く」文通することについてこう考える。

究極にはどちらかが逝去する迄。あるいは少なくても人生の一と区切り分(中・高・大の卒業、就職・結婚など環境の変化)迄は継続すると。だが文通希望者の多くは、軽い気持ちで交誼するため、数回の往復で手紙が途絶することもあろう。

そのため一種の「社交辞令」として使われた「美辞」として「末長く」を捉えている(中には「皆様と共に白髪になるまで愛読致します」との表現もあるが(『女子文壇』第六巻第五号、女子文壇社、明治四十三年四月)。この社交辞令的な矛盾を、現代で例えると別れの場面で、「また今度。いつか会おうね」に近い。これは今日で互いの関係はお終いでは無いことを匂わせているが、単に時期を曖昧にしつつ穏便に「次はない」と断っている方便である。関係が継続するのであれば具体的に次回の話が出てくる。時期を指定しない曖昧な「また今度」によって、上辺は相手も自分も傷つけずに親切を装える言葉である。察しが悪く相手が「今度はいつにする?」と聞いてきたら難渋するだろう。

 

だが明治四十三年、この言葉を婉曲に捉えず、真面目に「末長く」と取り組む女性がいた。

まず『女子文壇』は現在発行中の文学雑誌中で最も交際希望者が多い雑誌であるとして、問題はその文通の態度にあると、彼女は指摘する。

「一時的でなく永久的にとは、交際希望者が皆一様に唱えらるゝ語ですが、果たして永久に交際していらっしゃるかどうか、甚だ疑わしいものです。私が八十有余名の交際申し込み者中、今日まで一年有余日、かつて私が病床に倒れていた時なども優しく慰めて下すったり等して、いつもと変わらず交わって下さるのは、ただ八名しかございません。その他は大抵一、二回、或は四、五回位で音信不通になってしまいます。どうしてこんな事になるのだろうと、私もいろ/\研究してみましたが、全体皆さんのお心が永久的でないのだろうと思います。初めから余り喋々しく手紙や葉書の交換をする方は、必ず永くつゞきません。先ず、月に二回又は三回位に定めて、やり取りをすると、飽きも来ず、書く材料にも尽きません。それを余り/\書いていると、後には書く可き材料がなくなる。書くことが無いから、つい/\ご無沙汰をすると言う風になって来るのだろうと思います」

 

更に、文章に真心がこもっていない/若い女の匂いが無い/筆のままに書き散らかしている/字がぞんざいで丁寧でないと、封を切ったら人格を疑う手紙が多いと憂いており、若い文芸家としての自覚を投書者は求めている。

「末長く」を唱えながら実際には、一年後には約一割しか残っておらず、その他の九割も四、五回のやり取りのあとで音信不通[12]になってしまうのでは、「末長く」はやはり明治期でも社交辞令でしかなかったようだ。

『女子文壇』を読んでいるだけが共通点でお互いに何も知らない同士では郵送する手紙の会話も長く続くことはないだろう。

次項で語るが「不幸な境遇」を嘆く少女も少なくない。これは決して差別的な見解ではないが、ヒトは暮らしやすい場所の雰囲気や、話しやすい相手というものが生じる。それは趣味や関心事が共通していたり、知的レベルや生活環境が同質だったりすると叶えられやすい。誰もが人格者で徳を持つであるのなら別だが、ヒトは慢心・驕傲したり、劣等感を抱いたりするものだ。不幸な境遇にある少女と、都心で女学校に通学している御嬢様とが、末長く文通するには何が必要だろうか。バイオリンやピアノの所持は関係ないとすれば、書物によって身につけた「教養」だろう。古今東西の古典に通暁していれば、文章を達意に書け、話題は途切れない可能性は高くなる。

単に「無学」ですが、「お情けを」下さいと、受動的で待っていても、末長く文通はできないはずだ。

 

少女たちが投稿文芸欄で、頻繁に誌上に採用される方と文通したいと思ったのは、文章によって相手の知的な程度を計ったためであろう。そして文通に際して写真を送ることを求めたのも写真に現れた容姿つまり見た目で、文通相手として見定めをしたのではないか[13]

 

こうした女学生を中心とした、若い女性同士の文通による交誼は、実際には長続きしなかったようだが、容姿や内面がお互いに思慕するようなマッチングが成立した場合は、明治時代末(※明治四十四年に新潟の親不知海岸で女学校の卒業生同士による心中事件が契機といわれる)から、大正時代吉屋信子花物語』の舞台が女性同士)からあった、「女学生」の「エス(SISTER)」といわれる関係[14]、女学生の同級生間、上級生との間での友情以上恋愛未満的な親密関係に繋がった部分もあるのではないかと思われる[15]

 

エス」関係の場合は遠隔地での文通ではなく、顔を合わせる同じ学校に通学しているという、距離的に近接することで関係性は長く継続できたといえよう。女学生には「エス」があったが、団体生活を営む点で旧制高校には寮生活があったため、男子の学生同士でも親密な交際が存在している。

■硬派に於ける、親密な「学生男色」

明治期は男子学生もまた親密な関係がある。地域・学校により呼び名は「お稚児さん」「少年」「ニセさん」「念友」等と異なるが、「学生男色」というものが寄宿舎(学生寮)を中心に男性間の交際として存在している。

明治初期、夏目漱石の兄が東大の前身である「開成校」にいた頃の挿話があるが、上級の男子学生からラブレターを貰うということがあったことが次の作品で判る。

「兄は或上級生に艶書【ルビ ふみ】ふみをつけられたと云って、私に話した事がある。その上級生というのは、兄などよりもずっと年歯上【ルビ としうえ】の男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてその文【ルビ ふみ】をどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困ったと云っていた」

硝子戸の中」『夏目漱石全集10』ちくま文庫筑摩書房、昭和六十三年

堀辰雄も大正時代の旧制高等学校(堀は大正十年に第一高等学校理科乙類(ドイツ語)へ入学、寄宿舎生活を体験)を舞台に「学生男色」を主題にした作品『燃ゆる頬』を描いている。三枝という学生と知り合った時のことである。

「彼が上級生たちから少年視されていたことはかなり有名だった(略)私と三枝との関係は、いつしか友情の限界を超え出したように見えた」

(「燃ゆる頬・聖家族」新潮文庫、新潮社、昭和二十二年)

また堀は別の作品でも少年同士の恋愛を描いた。

「路易はその少年のいつも血の氣のない頬がその時ばかりかすかに赤らんでゐるのを夜目にこつそりと見た。(略)路易は自分がその同級生に愛されてゐることを知つた。しかし路易にはそれよりか、自分がその少年自身になつてしまひたいのだつた。教室で、路易は、その少年の細そりした頸や軟かい髮のまはりに夢を編んだ」

(「顔」「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房、昭和五十七年)

このような男子学生の「男色」について、明治期の「学生男色」について研究した前川直哉は、

「恋愛対象としての女学生の登場により,男子学生にとって「恋」「恋愛」がより身近な概念となり,同時に「恋」「恋愛」への憧れが増したことである。その結果,「男子学生同士の親密な関係」もまた「恋」「恋愛」と認識されるようになり,「男女間の恋の代替物」のように認識されつつ,「恋」「恋愛」に憧れる男子学生(すなわち「軟派学生」)の間に受け入れられていったのではないだろうか」

と、明治三十二年二月の「高等女學校令」公布で女学校が設置され、女学生という異性愛が手の届く範囲に降りてきた影響が大きいとする。そして、男子と男子の親密な交際は異性愛の代替手段として受容されたことを指摘している。

 

確かに主体(学生)が障害によって、ある憧憬する対象を入手したり、目標を達することが阻止されたりして叶わない場合、代替物で満足する傾向が若い年齢特有の現象として起こりえる。例えば海外旅行したいが時間と費用的に不可能な場合にテレビで旅行番組や海外ドラマを視聴したり、運動が苦手な学生が他の学問に打ち込み成果をあげたりなど、一種の「代償行為」であろう。

そして男子学生同士の親密関係は二つに分かれるとし、軟派学生の「男同士の恋」と「硬派学生の男の友情」のパターンで認識されるという。軟派学生の恋は女学生の登場による異性との恋愛の代替であり、硬派は恋愛とは直結しないもので「無害化」されていたとする。「無害」とはおそらく「契り」は結ばない意と解釈する。

※ 前川直哉「明治期における学生男色イメージの変容 : 女学生の登場に注目して」『教育社会学研究』第八一集、日本教社会学会、平成十九年

「男女間の恋の代替物」として女学生ではなく男子へ行ったと前川は論じるが、明治時代でも現代のアイドルファンと似た者がいたので、代償行為として男子学生に向かわず、当時の竹本京枝ら「娘義太夫」という人気アイドルへ向かう学生もいたと思われる。

岡本綺堂は「寄席と芝居と」で、

「その当時における女義太夫の人気は恰も今日の映画女優やレビュー・ガールに比すべきものであった。(略)明治二十二、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる有様であった」

と、記憶を頼りに記しており、明治時代の寄席は東京で大小合計して百軒を越えていたということから、三十三軒もの寄席で娘義太夫が公演され、若い男性ファン(どうする連)が声援を送ったことになる。

岡本綺堂「寄席と芝居と」『綺堂芝居ばなし』旺文社文庫、旺文社、昭和五十四年

当時、男色をする「硬派[20]」学生はいわゆる不良学生であったという。

「所謂硬派の不良少年は美少年、稚子の為めには如何なる労力をも敢て辞せなかったと同時に金銭に対する観念が至極冷淡であった、現代は必ずしも左様でない鶏姦をした上に自家の金品を盗み出さして己れは勝手次第な事をして飛廻る」

「不良少年(四)」「『神戸大学新聞記事文庫』社会(22-08)『中央新報』明治四十五年六月二十日

「重複するか知らぬが不良少年の犯罪行為を差別すれば()硬派()軟派()盗児団の三種となる、硬派は喧嘩口論を好み男色を漁り団体を組織し又は徒党を組んで帝都を横行する。

軟派は外面丈けは温良の風を装い女子の誘惑を事とし大抵の場合単独行動を執るのである。盗児団は一定の職業住所無き不良少年の類だ。

硬派に就き一実例を挙ぐれば作田繁雄(変名)の如きは喧嘩を常習とし鶏姦を無上に好み犯罪場所は大抵人家でなく青山、谷中の墓地に定って居た、彼は検挙されて実兄に引渡しとなった。

軟派の実例を云わんに伊島悪十郎(変名)なぞは日本医学校の生徒で一年間に十一名の良家の娘の蕾を破った恐ろしい奴だ、これも説諭の上実父に引渡した。

浮浪青年の大立物として有名なる卯貝実(変名)ほど悪辣な手腕を揮った奴はなかった、彼は目下名古屋監獄で苦役に就いている。軟派中醜名を轟ろかしていた管現(変名)は通行の婦人中美人と見れば直ちに例の好心黙し難く泣こうが叫ぼうが一向御介意なしに引担ぎ野原や墓地へ行って強姦んだものだ、彼は一度其筋の手に捕えられ出獄後東京に居堪らずして朝鮮に高飛し昨今某方面に活動して居る、又某海軍中将の息で当時盛に醜名を唱われた某息某会社に在りて重役の椅子を占め今では羽振もよく真面目な生活を営んでいる」

「不良少年(六)」「『神戸大学新聞記事文庫』社会(22-08)『中央新報』明治四十五年六月二十二日

■文通欄の「なつかしい」を考える

文通を希望する文章で、女性には特に「なつかしい」という言葉が散見される。

これまで先行研究では少女雑誌誌上での「なつかしい」という言葉について、川村邦光は、「『想像の共同体』での合言葉・キーワード」であって、「時の経過を通じて自分が変貌していく感覚」がこの言葉に込められており、「時間的な断絶」「移動性の感覚」が学校制度の中で培われたという [川村, 2007]。あるいは、佐藤(佐久間)りかの論文では、「少女たちの間の距離を無化し、想像の共同体を作り上げる魔法の言葉」だとしている [佐藤(佐久間), 1996]。

 

しかし筆者は、時間・距離的な間隔が開いた後で起きる情緒としての「懐かしい」とは異なり、大和歌的な雅やかな、それこそ「少女美文」に則った「枕詞」の一種ではないかと考える[16]

実際、「おなつかしい誌友諸嬢様、初めてお目にかゝります」(『女子文壇』第三巻第二号、女子文壇社、明治四十年二月)という、時間・距離で考えたら矛盾が起きる文言「初めて」が使われているのだ。

「なつかし」は形容詞で「なつく」と「し」(如)でできている。動詞の「しく(如く)」を略した言葉を接尾しており、「形容詞の活用語尾 (しか・しく・し・しき・しけれ) 」となり(略)「なつかし(懐かし) は『(心に)近寄る如し・親しむ如し』等が原義となります」

(※やまとことばのみちのくサイト : 語源探求のこころみⅡ.実践理論 :実践例

https://gejirin.com/mitinoku2.html(令和6年3月23日閲覧)

と、説明されるように原義には、時間や空間の隔たりは関係していない。対人感覚で、親しみのなかに礼儀を込めた言葉であろう。

例えば、「平塚白百合様お懐しうございますわ。かねがね『女学世界』誌上で御芳名を拝見いたし御才華のほど、筑波のふもとの草がくれより、しかすがに、お慕い申していますのよ」

と、茨城の少女は、『女子文壇』の誌友会幹事にも列している著名な投稿家[17]、平塚白百合への慕情を、「やまとことば」である「しかすがに」も用いて表している

(『女子文壇』第六巻第五号、女子文壇社、明治四十三年四月)。

 

実際に会ったことはないが、誌上で作品等を見ていれば「未知」ではなく「既知の間柄」になる。誌上で活躍を拝見していれば、自然に沸き起こる親しみの感情を現した言葉である。川村のいうように「オトメ共同体」 [川村, 2007]で使われる、「オトメ体」の合言葉的に彼女らの言葉遣いを特殊化してしまうのは、少し輿望を担いさせ過ぎではしないだろうか。

 

川村は「オトメ体」を使えば「オトメ共同体」の住人に在り続けることが可能であり年齢とは無関係だという。「読者をやめれば、この世界から抜け出るかといえば、そうではない」としている。

川村自身の体験からか「現在でも、おもに高等女学校で、六〇歳以上の女性のなかに<オトメ体>で手紙を書いているひともまま見受けられる」 [川村, 2007]などを例に引き出している。

ただ、それはあくまでも例外のケースであり、おそらく女学生を卒業したり、読者から離脱したり、就職などの機会によって「女学生言葉」を使った文章を書くことは失った(止めた)と筆者は考える。

 

例えば、昭和戦前期になってしまうが、「長府高等女学校」を卒業して十年後に作成された写真集があるが、それぞれ元女学生が文章も寄せていても、誰ひとりいわゆる女学生が使用した「てよだわ言葉」で寄稿はしてはいない。これは確かに公になる文章ではあるが、同窓会の製作による卒業文集であるから、もっと砕けた当時の言葉使いの片りんが数名に見られるかと思ったが、全くないのである。

 

「お友達の皆様、その後、お障りもなくお過ごしで居らっしゃいますか。平素より打ち絶えてのご無沙汰、何卒悪しからずお許しくださいませ」

的な固い文が主流であった。

なるべく砕けたものとしては、

「もう一度あんな生活がしてみたいと、お思いになりませんか? あの頃の先生がお聞きになったら、きっと『もう結構!』って苦笑なさるかもしれませんが。では皆様! また逢う日まで

「まあ、は未だ楚々たるマドモアゼル。皆々お美しいお容姿。噫それなのに、それなのに。私はおさんどんのなりそこないみたいに。恥ずかしくって躊躇してたんだけど、有志の方々のご熱心に負かされて、狸のおべべを脱がされ、平身低頭して差し出したるはこのフォト一葉」

くらいである。

(『十年』、長府高等女学校第十六回生同窓会、昭和十三年)

そして昭和三十年代になれば、公式として婦人の手紙の模範文例には「てよだわ」言葉は使用されなくなっていったようだ。

昭和三十年のハウツー書、『婦人の新手紙』の作例を見てみよう。

「安子様 久しくお目にかかりませんが、お変わりなくご壮健にいらせられることと賀し上げます。さて、二、三日前に出しましたクラス会の案内状御覧いただいたことと存じます。(略)今度こそ貴女様もご出席くださいませ。(略)あなたのお忙しいことはよく知っておりますが、半日だけ女学生時代の思い出に、何もかも忘れて遊び暮らそうではありませんか。いずれ積もるお話は、お目もじの上にて、かしこ」

(小西麗水『婦人の新手紙 : 頭註・類句・作例』、成文社、昭和三十年)

現代から顧みれば古臭い面があるが、至って礼儀を弁えた、常識的で健康な文章である。ただ、手紙というのはどちらかといえば公式的な色合いがあり、差出先との距離の近さによるが、話言葉で手紙を書く者は少なく、形式を守り、手紙特有の作法があるため「話言葉」での使用例を探してみた。

 

川村は指摘していないが、川村が提唱される「オトメ体」イコール「てよだわ言葉」というのは、戦後は日本映画のなかに「役割語」として見つけることができる。女学生の言葉使いとして明治期にあった「てよだわ言葉」を始めとする女性的な会話は、昭和三十年代の日活映画に於ける、OLや若い女性店員たちの台詞では健在なのだ。動画で五本程度、確認してみると、

「○○しちゃってよ/どうしてよ/ああら、私のとこなんか○○よ/そんなのっておかしいわ/どうなさるおつもり/ねえ〇〇下さらない/それであなたの〇〇をしてみたの/やられちゃったわね」等が使用され、基本的に女優は「てよだわ言葉」で台詞を発している[18]

このような「てよだわ言葉」は、日本映画の台詞に投影されていたように昭和三十年代後期までは「役割語」としては使われていた。

 

言葉は時代とともに変わるものであり、女性の社会進出や時代の変化によってその後は、「役割語」としても失われていったのであろう。川村は、

「『女学生ことば』は女性のことば遣いとして一般に是認されていたわけではなかった。ふさわしくないことば遣いとして、差し控えるべきものとされていたのである」

と、「てよだわ言葉」が社会から受け入れられなかったような考察をしている。

しかし批判されていたのは「女学生言葉」が生まれた明治時代であり、身分制度の残滓が残る時代に社会の中堅層が「下流社会が使用する言葉で下品である」と拒否したためである[19]。だが、「でよだわ言葉」は、当時の比較的富裕層である「女学生が使う」という「フィルター」を通ることで、「女性らしい言葉」としてだんだん認識されて変化していった面もあると考える。

■とても不幸な少女が多い「文通」欄

なぜ明治の女子は親密を求めたのか。『女子文壇』の読者は、貧富の差が激しいように見えた。「アメリカ留学」の情報を求めている方、清(中国)の役所に年俸千二百円で雇用された方など、女学校に通うお嬢様層がいる[21]

「誌友の御姉様ヴァイオリン御不用でしたらお譲り下さいませんか」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

「お手元に二絃琴お持ちの方はお譲り下さい(注・この方の住所には<十八番屋敷>という文字がある。お屋敷だろうか)

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

上記のように裕福そうな、お嬢様が主流の購買層だと考えていると、反対に孤独で憐れな方も、多いことに気づかされた。

 

「独り淋しき片田舎で暮す私が心底を察し給わらば終生までも忘れません」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

友達を作らない子は明治期から、ずっと存在しているのだ。ただ彼女らの嘆きが本来の意味で、物理的に孤独なのか、自分の生活圏には「小説や詩」を語れる友が存在しないという、精神的な空虚さなのかは不明である。

「私は親しく語る友もなくただ一人女子文壇を友としております。どうか御玉章下さい」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

「私は友人もなき不幸なる一少女であります」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

独りで「寂しい」と誌上で嘆く少女が結構な数、存在しているのである[22]

次のように、孤独と謙遜が合わさると更に物悲しい。お寺で独りは確かにこわい!

「私は世にもわびしき山寺に朝夕心さびしき月日を送る、無学無智の小女でありますが、お情けにてご交際を数ならぬ拙なき身をもおいといなくば折々写真や玉章の交換をもお願い申し上げます」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

と、読む方が沈痛な想いに打たれる文もあれば、随分、軽く不幸を語る少女もいる。

「私の父はね九月十二日に、あの世の人となってしまったのよ。兄弟もなく、母と二人で寂しく世を送っておりますから、御暇のとき御手紙ください。妹と思って頼みます」(『女子文壇』第三巻第三号春期增刊、女子文壇社、明治四十年二月)

語尾に『ね』と『よ』を付すだけで、屈託のない、恬淡とした姿勢が感じられ、深刻なムードが消える効果を生んでいる。

 

なかには、文通ができない身の上の少女もいて、手紙をいただいて有難うという御礼の次に、

「私は両親に去られ、幼き妹と伯父上の世話になり毎日生花と裁縫のみ通う不幸者ゆえ、皆様からお手紙いたゞいても御返事差上げる事がかなわないのでございます」

(『女子文壇』第六巻第五号、女子文壇社、明治四十三年四月)

と、以降は誌上で「永久に御交じり下されませ」とお願いしている。「伯父」が虐げているのかと思ったが引き取って活花教室に通学させているのだから鬼ではない。

 

文通欄は多士済々で、俳句を「狂気」のほど好む者もいれば、絵葉書を欲しいという信濃上田の子もいた。

「御姉上様方のうち、東京の江戸橋郵便局へお務めの方に御交際を願います」

(『女子文壇』第六巻第五号、女子文壇社、明治四十三年四月)

とのお願いが掲載されたが、長野からなぜ、「江戸橋局」をピンポイントに指定しているのだろうか。

筆者の推理だが、この少女は「絵葉書」を蒐集しているためだ。

当時の絵葉書は官製の「紀念絵葉書」であれば、郵便局で販売をしている。多分、長野の上田の郵便局には販売用に配られる枚数が少ないのではないか。そこで、東京の江戸橋郵便局は新聞種になるほど[23]有名な、絵葉書を販売する郵便局であるから(本局的な扱いなので配布される枚数が多かったようだ)、そこへ勤務している御姉様なら絵葉書についての融通が利くのではと、少し智恵を巡らせたのではないか。絵葉書ではなく「紀念切手」の在庫を求めての行為かもしれないが、この子が郵便局勤務で享ける職務上の「役得」を期待していることだけは間違いない。

■明治の男子も、女子に下心アリ

「誌友俱楽部」欄の少女たちの文章は、謙譲あり、言葉使いの良さもあり、抒情的であるが中には、非常に勇ましい少女の訴えもある。『女子文壇』等の女性向け雑誌の誌友欄で、女子を求めているのに男子が介入することがあり(現代でいえば「女性専用車両」に故意に乗車する男性のような者か)、それを厳しく弾劾している。

「近頃男子で女子に交際云々という方で、女の様に女の名を用い、何々子等と麗々しく申し立てるお方があるが、一体なぜです。男と女は決して敵視している者ではない。だから男は男らしく正々堂々、男のように名乗ったら女だって思うところがあってよ」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

この方はもしかしたら正々堂々と男性の姓名で近づいてきたら考えることも吝かではないようだが、他の女性は全て「お断り」している方が多い。

 

どのように判明したのか不詳だが、年齢までバレてしまった男性もいる。

「小説をよく出される日本橋小林櫻花さんなんと言う方は二十六、七にもなる男の方です。女の群へ仮声を使って顔出しなさるのは卑怯ですわ」

(『女子文壇』第三巻第四号、女子文壇社、明治四十年三月)

この子は「女の群れへ声を変えて混じるのはずるい」という描写がうまい。男性が『女子文壇』誌らの女性へ手紙を出すことには、多くの女性は基本的に反対であった。

 

ある女性は故郷、越後の諸姉と絵葉書で交際したいと述べたあと、

「…私二月号に交際を求めましたら、男性の方よりの通信の夥しいのには実に驚きましたよ。私男子の方よりの交際は絶対に謝絶してよ」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

と、断固として不要だと述べる。

 

だが編集部(記者)側は、男子からの通信も女子は受容したら良いのでは、という姿勢であったことが次の問答でわかる。

「記者様ひどいじゃあありませんか。私は此の欄でエハガキ交換お願ひしましたのよ。だがあんまりですワ、男子の方が名前だけ女子のにして、御寄こしになるのですもの。私は、男子のお方との交際は御願ひしませんでしたから、筆法が男子と認めたら御返しは致しませんの。近頃は此の類が續々ありますよ。(磐城双葉の美枝子)」

この女子の抗議に対し、現代なら炎上が必至に思える「お門違い」な記者からの返答であった。

「マアさう憤慨せずに交友して御らんなさい、澤山のなかですからいろいろの方もありませう、其中から一人の信友を新しく得れば非常な幸福です」

(『女子文壇』第四巻第三号春期增刊、女子文壇社、明治四十一年二月)

性別が異なることは「いろいろの方」の範疇には無い。いくら人権意識が現代と違う明治期であっても、この女子は、男子が女子の振りをして連絡してくることに生理的嫌悪を催していることが類推できないのだろうか。「男子の方が名前だけ女子」というのは封書やはがきの裏面に男の名前だと読まれない可能性があるから、女子の名前を借りるという「手口」である。このほかにも男子の連絡を謝絶する女子は存在しているというのに、男性編集部の弊害か。

「(略)しかし男子の方はお断りいたします」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

「姓名不明の方には返事差上げず、男子の方は無用」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

と、ほとんどの男子はバッサリと斬られている。

文通には写真同封を求めることが多かったようで、中には、

「私、御姉様方の御写真が拝見したくてならないの、どうか送って下さいな」

(『女子文壇』第五巻第五号、女子文壇社、明治四十二年四月)

という、慫慂が強い通知文もあり、これが万一、男性からの発信だったらこわい。

ところで、女子からの苦情には誠実に対応した方が良いと筆者は考えるが、『女子文壇』ならではの編集者の苦労もあったのだ。

 

『女子文壇』の編集を三号目から編集を引き受けた詩人の河井酔茗[24]は、最初から、投書の十中八九は男子の作品で、それを女性名で投稿していることに直ぐに気づいたという。

そこで男子の作品は弾き出し、完全に女性の作品だけを掲載するように努めた。それでも最初の二、三年間はある程度の水準が必要なこともあって、採用は男女半々程度になってしまう。ようやく四、五年目からは、ほとんど女性作品で占めることができたそうだ。

(「女子文壇の思い出」河井酔茗 著『南窓』,人文書院,昭和十年)

つまり創刊当初は未だ知識等に差があって、男子の投書の質の方が良かったのであった。

この、自分の性別を偽る投稿男性の挿話で、明治の男子学生も昭和の若者男性も、異性に煩悶しそれを求める言動(女性側から見れば「キモち悪イ」という評価だが)に、手管を尽くすことは変わりがないと分かる。

■「明治生まれの頑固一徹男」の魔の手

明治四十年頃の男子中学生は、明治二十五年前後の生まれであり、彼らは成長すると、ちょうど昭和戦後期の「明治生まれの頑固親父」という公的な印象を付けられてきた世代に該当する。

その「頑固」というのは「信念を枉げない」という利点も伴うが「身持ちが固く寡黙」で、気骨があって、近所の子にも悪いことは厳しく注意する人というように、漠然と漫画やドラマ等様々なシーンであたかも「長所」的に描写され語られてきた。「明治生まれの男、頑固一徹」は畏怖される一面、誉め言葉でもあった。

 

そのため筆者は明治生まれの男性はなぜか「好色」ではなく、「硬派」であるという印象を受けてしまい何となく堅物だと思ってきた(複数の性体験を持たないことは普通だと思っていた)。  

だが、「女性向け投稿雑誌」で、女性の振りをして、他人を欺いてまで異性と交際をしたいような、「卑劣」な行為をしてきた男性も混じっていたのであった。

 

公には天下国家を案じ、直ぐに悲憤慷慨調の漢詩・漢文を作るような能力を以てしても、彼らの性衝動を抑制することはできなかったことは、一面、人間らしく一安心するような気もする。だが、「謹厳実直」だと考えていた明治男の偶像が毀れてしまったような残念さもあり、その両義を味わうことになった。

 

「明治生まれの男が頑固親父」という言説は、今後の研究でなぜそのような世代を対象とした公的印象・評価となったのか、玩味されるべきではないだろうか。

ただ、当たり前だが、女子が男子を好まずに排除していたことは、全員の総意ではない。

「京都にたゞ一人淋しゅう暮らしている私に(略)真の兄様の如く御交じり下さる方がございましたら(略)お手紙ください」

(『女子文壇』第六巻第五号、女子文壇社、明治四十三年四月)

と、男子からの手紙を待っている女性もいる。

もちろん、男子学生側からもラブレターを渡したりしていたようだ[25]

 

低年齢層向けの『少女界』でもあっても、男子学生の手は伸びていた。

「伊藤様の御説の通り、男子の方から手紙が来て困ります。それで文林なんかに投書したいと想っても、住所は書きたくありません。県だけ示していただくことはできますか」

(『少女界』第四巻第十一号、金港堂書籍、明治三十八年十月)

「記者さん、私の近村なる磯部村にてわね、二十才にもなる男子が、『少女界』の和歌や又は俳句などを時々度々投書致しますよ。その男の本名は(萩原某)と云うのよ(上毛 一少女)」

(『少女界』第四巻第十一号、金港堂書籍、明治三十八年十月)

「本名」を暴露したという事から、男子は「女性名」で投稿をしていたのかも知れない。ちょうど日露戦争の講和が終わるかどうかのこの時期、「富国強兵」下で成人男性は健康な「兵士」であることを期待されていたであろう。出征せずに、『少女界』に韻文を投稿していることが、同じ村に住む年下の少女[26]に分かってしまった青年はこの投書に接し、見っとも無いことだと恥じて止めただろうか。

■積極的な女子読者の誘いが炎上

『中學文壇』では、女学生も投書が可能だったが、「誌友俱樂部」の役目を果たす同誌の「壇友之聲」欄にて、「羽後小町の里 草の舎桂子」が、山形の霞舟[27]という男子に当時としては見識ある者の目を覆わせるような文言を弄して迫っている。

「山形の霞舟様、あたい思うのよ霞舟さんて方は男らしい立派な優しい好い男の子でいらっしゃると。それに。詩文や何かは甘くていらして、天晴れな文士様だと思うわ。私惚れてしまいましたの。ホゝゝゝゝ。未だ面識もないのに失敬な、凛とした目であたいを睨んでいらっしゃる。ホゝゝゝゝ。ご免遊ばせ、あたいね、羽後の小町の生まれた、土地のもので美人ですよ。あら、なんで知って、醜いくせになんてお口がお悪い霞舟さん。あたいこれからあなたと御交際致したいと思いますの。ですけど、あなたが堅くていらっしゃるから、あたい見たいな女は厭でしょう。いえさ何にもそんな不正な恋などと滅相なたゞ同志相親しむ、異性の神聖なお付き合いを願うばかしなのよ。ホゝゝゝゝ」

(『中學文壇』第八巻第二十四号、中學文壇社、明治三十九年十一月)

この文を書いたのが本当に女学生なのか、実は男子学生が悪戯したものかどうか不詳だが、この文は問題化し「大騒ぎ」になる。

 

翌年一月号の「壇友之聲」欄に、茨城県の長松松月という「文壇は神聖」と考えている学生が、叱咤する文を投書した。

「草の舎桂子に敢えて一言す」として、この痴言は真面目な婦人の言動なのかと疑い、「神聖なる文壇上に於いて異性に対して淫猥なる語を」吐いて、あなたは将来、良妻賢母になれるか、「まるで醜業婦の類」なので慎んでもらいたいと批判している

(『中學文壇』第九巻第一号、中學文壇社、明治四十年一月)

実に正論ではある。真摯だからこそ編集部は、選んで彼の文を掲載したのかも知れない。

その翌月には本意が良くわからないがやはり「桂子へ一言す」と題した文があり、「咄々、何らの痴漢ぞ、神聖なる本誌は公園の密会所とは違うなり」と、やはり「神聖」な場で「怪しむ交際を求む」のは唾棄すべき行為だとしている。

(『中學文壇』第九巻第四号、中學文壇社、明治四十年二月)

『中學文壇』には「軟派」[28]が少なく、「硬派」が多かったのかと思われるが文章の掲載は編集部が中に入っていることを忘れてはならない。

 

例え「羽後小町の里 草の舎桂子」に対して擁護する発言や「自分もお願いします」的な投書が来信しても、それらを排して編集部が掲載しなかったことが推測される。情報の取捨選択をするのが「編集」という仕事の核であるからだ。

草の舎桂子が「不良少女」だったかは不明だが、誌上でこのような騒ぎを起こすくらいであるから、真面目であったとは考えられない。

 

明治期後半にはすでに都会では男女の仲に積極的な女学生が出現し、明治三十七年六月三日の『都新聞』が、女学生と小学校教員の痴態を報道している。

日本橋区の小学校教員(二十二才)が、高等女学校の生徒(十九才)とが傍目も恥じずに英語交じり会話しながら接吻して歩いていた。巡査が見咎めて、怪しからぬことは止しなさいと説諭したが、女学生は『怪しからんとは失敬だ。お互いに愛する人同士が愛情を交わす接吻をしたとて怪しからんと咎める貴方が怪しからん。公園で接吻をしてはいけないという法律がいつできましたか。法律にいわれの無きことを貴官からあれこれ言われる筋合いはない』と弁じた。巡査も呆れ果てたが、更に説諭して立ち去らした」

(都新聞愛読者会『忘れられた明治人─都新聞で読む百年前の東京』柏書房、平成十四年)

という公衆の面前で痴態を現し、それを咎める警官に喰ってかかるほどの女学生は「例外」だと考えるが、大正時代には「不良少女団」が結成される程度には複数の不真面目な女学生がいたという[29]

■女学生と化粧の歴史

『女子文壇』では「化粧は女性のたしなみ」という姿勢であり、明治四十年代には化粧をしている女学生も存在している。だから、その化粧を誰に見せるか考えれば、女学生が男子中学生・師範学校生と交際したいと思っていても、特に不思議はないだろう。

女学生の「化粧」に関する先行研究としては、小出治都子が「高等女学校の美育からみる「少女」と化粧の関係」の中で、

「『オトメの祈り』(注・川村邦光の著作名)には、「少女」が化粧をしていた事実が書かれている。しかし、具体的にどのような化粧方法でどのような化粧をしていたかは論じられていない。石田の研究にも、「昭和に入る頃までの女学校では、化粧をしないで学校に行く生徒は女性としての身だしなみを欠く不道徳な者とされていた」

という記述がある。「その具体的な資料は提示されていないため、その真偽を確かめることが必要である」と小出は問題提起をしている。

※小出治都子「高等女学校の美育からみる「少女」と化粧の関係」『コア・エシックス』七号、平成二十三年)

 

『女子文壇』誌では、明治四十四年三月号から藤波芙蓉が「化粧問答」という読者の化粧に関する相談に乗る頁を「Q&A方式」で連載した。管見の及ぶ限りではこれが女学生へ「化粧法」を具体的に教えた記事の嚆矢だと推察できる。

 

つまりギリギリ明治の末期には女学生は化粧に関心があり、化粧をしていた。そして白粉やクリームの使用法のほか、痩身・ニキビ・縮毛・脱毛・薄毛・美白・色黒・わきが・多汗・隆鼻術など、現代と変わらない身体・美容上の悩みや劣等感も抱えていた。

 

「化粧研究會婦人修容會」の顧問という肩書の藤波芙蓉[30]は、『女子文壇』(女子文壇社)に「化粧問答」を明治四十四年三月から、『女子文壇』が終刊となる大正二年八月迄連載した。翌月の大正二年九月からは『女子文壇』の継続雑誌である『處女』に連載の場を移し「新化粧問答」とした。

(『處女』第九巻一号、女子文壇社、大正二年九月)

同時に『婦人畫報』にも大正二年五月から昭和八年までの約二十年間、以前と同題名の「化粧問答」という連載を行っている。

鈴木則子「近代日本コスメトロジーの普及と展開をめぐる一考察~美容家・藤波芙蓉の分析を通じて」『コスメトロジー研究報告』21号、平成二十五年

 

「眉毛を濃くする薬は何でどこで売っていて、如何に化粧したら濃くみえるか」

(『女子文壇』第七巻十二号、女子文壇社、明治四十四年十月)

「首につけた白粉が剥げない方法は」

(『女子文壇』第七巻十二号、女子文壇社、明治四十四年十月)

「白粉を付けて綺麗になるが鼻の先が剥げる時は」

(『女子文壇』第七巻八号、女子文壇社、明治四十四年七月)

どの質問に、的確に商品を紹介したり、商品が無い時はその自作法を講じたりしている。

 

また単に化粧のやり方を回答するだけでなく、例えば「眉毛が薄いから毛生え薬を検討している」という方には両者の作用機序から説明をして何故「毛生え薬」ではだめなのか、そして眉毛の薄い問題解決法も提案している。

(『女子文壇』第七巻四号、女子文壇社、明治四十四年三月)

 

藤浪は、「鼻を高くしたい」という問いに、

「隆鼻術はあるが、一生取返しのつかないこともあるから不自然で危険を伴う人工偽飾は御止めにした方が安全」

(『女子文壇』第七巻十四号、女子文壇社、明治四十四年十一月)

と、冷静な判断をしている。また「水晶おしろいの原料は何か」という質問には「原料をすっぱ抜くと商売に対して気の毒ですからお預かりとする」

(『女子文壇』第七巻四号、女子文壇社、明治四十四年三月)

と、回答内容から真摯で高潔な人格者であったことが推察される。

 

おそらく「レゾルチン」・「サリチル酸」など科学的な解説は、女学生に理解できたか不明であっただろう。専門家である藤波に処方を示されても「タルク」や「過酸化水素水」をどこに買いにいけば良いか、女学生と知識の格差がある段階であり、大都市以外では回答通りのことを実現することは難儀であったことと思う[31]

 

あらゆる化粧・身体に関与する悩みを解決するのを見てか、

「教壇で訳もないのに動悸がして声が震えるがどうしたら治るでしょうか」

(『女子文壇』第七巻十四号、女子文壇社、明治四十四年十一月)

など、藤波には読者が化粧以外の悩み事も訴えるほど、信頼しきっていた。

 

明治四十四年十一月号では、藤波が発明した毛髪のツヤを出し「くせ毛」レベルなら修正できる「美髪剤」を読者に小分け販売するとして、「女子文壇社」の「用達部」から発売した。

 

通常、日本の雑誌が物品を通信販売する際は「編集部」ではなく、「代理部」という部署名を使用するが、女子文壇社は「用達部」と表記をしていたのは興味深い(切替時期は未詳だが、大正二年九月の『處女』では女子文壇社化粧顧問・藤波芙蓉の通販化粧品は「女子文壇社代理部」が申込先になっている。種類も以下の八種類に増加した。毛はえの「強髪劑」/シミ取り・化粧下の「艶肌劑」/練洗粉の「トレートクリーム」/「日やけどめ」/化粧水の「艶美水」/「コールドクリーム」/クセ毛直しの「美髪劑」/髪油の「美髪香油」)

『處女』九巻一号、女子文壇社、大正二年九月。

次回、「女子文壇」(その2)では、下記の内容を予定しています。

■絵葉書交換のトラブル
■どうしても返信が出せない事情
■ストーカー的な「問合せ」コーナー
■「少女美文」とフェティシズム
■明治期の『特定班』と『“剽窃”警察』
まぼろしの「少女共同体」
■「ハート・ロマンス・ライフ」は女学生の「符牒」か
■「共同体」は両刃の剣
■明治期の少女も「写真交換」を好む
■読者を集めて「誌友大会」

【引用文献】

佐藤(佐久間)りか. 1996. 「清き誌上でご交際を─明治末期少女雑誌投書欄に見る読者共同体の研究」. 『女性学』. 1996年. 第 4 巻.

川村邦光. 2007. 『オトメの祈り―近代女性イメージの誕生―』. : 紀伊国屋書店, 2007.

長尾宗典. 2018. 『近代日本の思想をさぐる 研究のための15の視角』. 「誌友交際」の思想世界.  吉川弘文館, 2018.

《注釈》

[1] 「高等女学校」という名称ではあるが高等教育ではなく、女子中等教育機関である。明治四十三年には女子の尋常小学校入学率は約一〇〇%に達した。男子の旧制中学は自治体立であり、設置が制限されていたが、高等女学校はそうではなく、女学校の在籍者数のほうが男子の旧制中学よりも多いという。

[2] 本名は服部貞子(明治二十一年十二月三日生~大正八年五月三十一日歿)、福島県岩瀬郡須賀川本町の商家生れ。筆名に「服部水仙」「水野仙子」。長兄の服部躬治は歌人で『少女界』(金港堂書籍)の歌壇の選者。服部貞子は、須賀川尋常高等小学校首席卒業、裁縫専修学校卒であるが(『新公論』第二十六巻第十二号、新公論社、明治四十四年十二月)、『少女界』『女子文壇』の常連投書家であった。『女子文壇』の一号から小説を投稿していたという(「女子文壇の思い出」河井酔茗著『南窓』、人文書院、昭和十年)。

『文章世界』にも投稿していたが、明治四十二年五月、家出同然に上京。田山花袋の下宿で内弟子となって文学指導を受く。十二月からは永代美知代と共同生活した。文学的に反対した師匠田山の反対を押し切り、文通していた文学青年の川波道三と結婚。前田晃が大正三年に『讀賣新聞』の婦人部長に招聘された際に前田晃の助手代わりに同新聞に入社する。「身の上相談欄」を担当するが半年後に病に伏す。姉のケサも『女子文壇』に投稿し文才は刮目されるものがあったが、医師の道を選び草津に「鈴蘭医院」という日本人初の、ハンセン病の病院を建てた(五十嵐圭「評伝水野仙子 近代文学研究資料第272編」『学苑』第二百九十四号、光葉会、昭和女子大学近代文化研究所、昭和三十九年)。

[3] 金港堂書籍…博文館、春陽堂と並ぶ明治の出版社。社長は原亮三郎(第九十五国立銀行頭取、衆議院議員)。駅逓寮などに勤め、横浜で明治八年に金港堂を創業、翌年東京・日本橋に移る。教科書、教育書、『少年界』『少女界』『教育界』『靑年界』『婦人界』『文藝界』『軍事界』の七大雑誌を発行した。(参考:『朝日日本人物事典』)

[4] 明治三十九年九月創刊。沼田笠峰が編集主任となる。月刊、菊判百十頁内外で十銭。「少女會館」欄《「学芸」(短文・短歌・俳句)「顧問」(記者への手紙)「談話」(読者同士の手紙の交流)「娯楽」の四部門》に、読者の投稿作品を掲載した。増刊でも「少女と文藝」特集(明治四十一年四月)を行った。昭和六年十月で廃刊 [杉本邦子, 1999]。

[5] 【戦前の小学校教員の俸給・制度 昭和五年時点】

小学校教員には「本科正教員」(一部・高等小学校二年卒から師範学校を五年で卒業。二部・中学五年卒で師範学校を二年で卒業)「准教員」(準教員養成所卒)「代用教員」(中学校卒または同程度と地方長官が認めた者=教職経験年数、官公・私設講習会の受講が必要)

正教員は規定の年限奉職し罰則に触れなければ校長になれる。準教員と代用教員は「小学校教員検定試験(明治三十三年~実施)」に合格すると正教員の資格が与えられる(教職経験があれば無試験、なければ学科試験と授業の実地検定がある)。

俸給:地方で差異はあるが、正教員初任給は男子四十四円~四十六円・女子四十二円~四十四円。二~三年目に二~三円昇給する。代用教員は初任給男子三十円、女子二十八円、昇給は正教員と同様。準教員は一定していないが代用教員より二~三円多い。また明治四十三年から「首席訓導」(教頭)が置かれた。

師範学校は向学心があって家庭の経済的事情で中学へ進学できない生徒が学べる公費の学校であった。学費以外の費用も掛からないというが、文部省の調査では全国的には師範学校一部において、給費生は六七%で私費生が三七%であった(昭和十年)。基本的には寄宿舎(全寮制)に入るが大正中期からは通学生も誕生したという(昭和五年時点で通学生の割合は二七・四%)。公費生であるためや教育レベルの観点から、師範学校生を中学生が罵詈、嘲笑することもあった。師範学校を卒業後、所定の年限(十年間)のあいだ教職に就く事で授業料免除と生活費が支給された。師範学校での成績によって、卒後の俸給が三段階に格付けされて各小学校に配属された。師範学校卒は尋常小学校国民学校)の訓導(教諭)になり、高等師範学校卒が、師範学校・中学校の教員になるという進路の違いがあった。出典:『文芸戦線』第七巻第五号、文芸戦線社、昭和五年

[6] 『少年園』一一二号、少年園、明治二十六年六月

[7] 筆者の経験から言っても、『趣味誌』の発行者同士で交わす手紙の内容と、何かの雑誌で知り合った方との文通の内容は全く異なるものであった。「親密感」の質が異なるとでも言おうか。フォーマルなビジネス的な付き合いと言おうか。『趣味誌』の発行者へ出す場合は無料進呈欄の用途として使う郵趣品や寸葉品を同封したり、逆に相手側からのご恵送に感謝したり、社交辞令が多い。同世代であって、多少馴染みになれば謄写版印刷上の悩みを相談するなど、発行者ならではの話題や付き合いはあった。だが、それでも手紙の「文通」のように家族との悩みや、学校内の出来事など、私的なことは書かない傾向があった。

[8] 「第一新聞」「AOI」「敷島新聞」「金春館週報」「大陽週報」などを映画館が発行。「第一新聞」は浅草の帝國館の新聞、「AOI」は「葵館」の新聞、同館は大正二年に赤坂に開館した日活の直営館。無声映画時代の洋画専門で徳川夢声がスター弁士。永井荷風断腸亭日乗』を始め、多くの作家が日記・随筆に記している。

[9] 千葉省三は明治二十五年十二月十二日に、小学校の教師である父・亀五郎の子として栃木県河内郡篠井村で生まれた。旧制宇都宮中時代には友人と同人誌『ひらめき会回覧雑誌』を発行した。同中学を卒後、代用教員、二社の出版社勤務を経て、大正六年に画家の萬鉄五郎が紹介し、児童向け出版社「コドモ社」へ入社し『コドモ』誌の編集者となる。同僚の浜田廣介が『良友』の編集をしており、その勧めで童話を書いて同誌へ掲載する。当時の児童雑誌は、編集者が小説などを書いて発表するというシステムがあり、取材・編集・割付だけでなく創作の能力が必要だった。大正九年に『童話』の創刊編集長に抜擢された千葉は、創作童話を掲載する・新人を発掘する・日本の郷土性のある作品を尊重するという姿勢で雑誌の製作に当たった。余談だが昭和四十年~昭和五十四年の光村図書『しょうがく しんこくご』一年生の教科書には千葉省三の童話「チックとタック」が掲載されている。なお、コドモ社は文京区小石川にあり、社長の木本平太郎が大正元年に創業した。

[10] ただし御姉様と呼びたい子は、自分のことを「妹と思って」という要望がある形が多く、男性社会での疑似家族である「兄弟分」を模した関係を希望しているのかも知れない。

[11] 愚見だがこれも博徒香具師が、初対面時に使う挨拶(『仁義を切る』におけるお互いの口上を発する順番の譲り合いや、自己は小さくつまらない者であるという謙遜など)の影響が、どこかにあるのではないかと考える。

[12] 現代のSNSツールでいうところの『既読スルー』

[13] このほか、文通が盛んであった頃に未知の相手を想像するよすがは、使用してくる便箋・封筒の選択というセンスで推し量った人もいる。また美麗な文字であれば何故か性格や容姿も良いと思い込みがちである。ただ、美形・美声・色白などが好まれるにしても、「蓼食う虫も好き好き」という諺が昔からあるように、好みや趣味はそれぞれである。これは異性に求めるものがそれぞれでないと、ヒトの「多様性」が無くなり種が滅亡する危険があるためという。

[14] エス以外の表現もあった。「女学生間にあるオメ或はオデヤと称する同性の愛の如きも然り」警視庁第三部長栗本庸勝氏談「学制と性欲教育(二)」『神戸大学新聞記事文庫』教育(2-49)『二六新報』大正二年六月一日

[15] 少女雑誌の文通交際のほか、「女学生にとっては夫となるべき男性以外との交際などもってのほかだった(略)愛情をもった存在でなければならないという要求と、しかしその愛情は夫(と子ども)以外には向けてはいけないという要求のもとで生じてきたのが、同じ女学生との友情関係だったのだ」と、「良妻賢母」であることを教育された女学生の安全なる友情・恋愛関係が当時の女性同士の親密関係という指摘がある。※ 古川誠「『性』暴力装置としての異性愛社会」『法社会学』五十四号、平成十三年

[16] 例えば「僕の許へなつかしき本誌が毎月十三日に着します」など(『少年界』第九号第四号、金港堂書籍、明治四十三年四月)

[17] 編集者は『女子文壇』第七巻第八号、女子文壇社、明治四十四年七月で「著名投稿家」を『誌友の腕利き』と表現している

[18] 参考:日活『三つの顔』(昭和三十年)・『愛しながらの別れ』(昭和三十年)・『サラリーマン物語 勝って来るぞと勇ましく』(昭和三十八年)・『サラリーマン物語 勝って来るぞと勇ましく』・『丘は花ざかり』(昭和三十八年)

[19] なぜ下品なのかは長崎靖子の「女学生の言葉遣いに対する社会的意識の変化」で解説されている。

「數年前までは女學生には自ら女學生用語なるものありて一種高尚なる口調なりしことは女子教育に經験ある人の知る所ところなり 然かるに近年女學の勃興するに從ひ比較的下流社會の子女が極めて多數に各女學校に入學するに至りしより 所謂お店の娘小兒が用ゆる言語が女學生間に用ひらるゝに至れること左に掲ぐる例の如し

○なくなつちやつた○おーやーだ○行つてゝよ○見てよ○行くことよ○よくツてよ○あたいいやだわ○おツこちる○のツかる(以下略)」(『讀賣新聞』明治三十八年菴月十六日雑報欄)

この記事の中では、「てよだわ」言葉は、「下流社會の子女」から広がりを見せているとする。同様の内容を示す記事が『讀賣新聞昭和十年八月五日の「讀賣婦人評論」に、掲載されている。

「今から卅年前目下断髪禁止令で名聲を博している府立第二高女に私の在學していた頃、時の校長は『てよ、だわ』禁止のお觸れを出したことである。即ち「よくてよ」「いやだわ」式の言葉は、元來花柳界の女性の慣用語だつたのを、彼女らが明治元動の間に勢力を得てから、その影響が上流へ、ひいて一般婦人へも及んだ結果であつて斷じて良家の子女の口にすべきものでないといふのだつた。成程「よくてよ」「いやだわ」は上品な言葉ではない。といつて校長閣下の命令どおり一々「よろしうございます」「いやでございます」といつてゐたのでは短い遊び時間に用が足りない。結局せっかくのお觸れも無視され、黙殺されたまゝで終わつた」長崎靖子「女学生の言葉遣いに対する社会的意識の変化」『川村学園女子大学研究紀要』第二十二巻第二号、平成二十三年

[20] 硬派の恰好は「硬派は破れ袴に五度も水を通した衣服を着け幾年かの風雨と戦った帽子を横ちょに冠り朴歯の下駄を穿き常に喧嘩口論を好み少年をパクッて居る」という。「不良少年(十一)」「『神戸大学新聞記事文庫』社会(22-08)『中央新報』明治四十五年六月二十七日

[21] 『女子文壇』より低年齢層の『少女界』にもいる。「皆様、私は不器用ですが、オルガンを久しく勉強いたしましたから、音楽のお好きな方にはお教え申ます。お望みの方はお出あれ。東京小石川区上富坂町 秋元某」(『少女界』第四巻第十一号、金港堂書籍、明治三十八年十月)

[22] もちろん男子も嘆いており、『少年界』にて「諸君、僕は田舎の一貧児、しかも病魔に襲われて呻吟の身、語るべき友もなく毎日寂寥に泣いております。読書が慰籍ですが貧困児には書を求める財がない。御同情ある諸君、読み古しの本があれば恵んで下さい(山口県 伊藤某)」(『少年界』第十巻第五号、金港堂書籍、明治四十四年五月)の例があったが、男子は嘆くべきではないという精神論があったのか少ない。なお少年誌であるためか、この投書には編集者から「同情はするが、そのような事は友人から申し出た方が宜しい仕方です」と、少したしなめている短評が付けられた。他人へねだって待つのではなく自ら求める姿勢が大切だと。「求めよさらば与えられん」の精神を持てという指導だろうか。男が自己の窮状を満天下に晒して書物を恵投されるのは怪しからぬという叱声だろうか。

[23] 『萬朝報』が、明治三十九年五月六日に日露戰役に関する最後の繪葉書、「第五回紀念繪葉書」が売り出されたが、各郵便局は混乱したと報じている。「数多の気絶者負傷者を出すに至りたる」ほどで、特に「江戸橋本局は最も雑踏を極むる」ために前夜から逓信次官や警視庁部長らが監視、群衆が騒ぎだしたので午前五時十分前に販売開始。七時に一萬四千組が売り切れたので他局の分も貰い九時に再発売したが瞬間で売り切れた。江戸橋から鍛冶橋まで二万五、六千人が群衆となって溢れていたという。この「江戸橋本局」は、「駅逓寮」跡地に明治二十五年に建設した「江戸橋郵便局」のことだ(日本橋郵便局とも改称されることがあるが、どちらも同じ建物を指す)

[24]東京日日新聞』の新聞の前身『電報新聞』の記者であったが、ちょうど退職したので『女子文壇』に就職したという(「女子文壇の思い出」河井酔茗 著『南窓』、人文書院、昭和十年)

[25] ラブレターを渡すと先輩の「硬派」学生から鉄拳制裁された。「事の真否を確めし上友誼上忠告せんと同志相図りてその意味の回状を廻し五年級生徒数十名が去る十六日午後の休憩時間に武永を運動場に呼び出して同人を取り巻き「君は女学生に艶書を送り又マントを着て散歩した事もあろう」と詰問したるに剛郎は「マントも持たず又艶書も送った覚えなし」と答え事実を否認したるより血気に逸る学生等は何を生意気なと言うより早く剛郎を袋叩きにし殴る蹴るの狼藉をなしたり」

「一中生の鉄拳制裁 : 女学生に艶書を送りしとて運動場で乱打 : 五年生十一名停学処分」「『神戸大学新聞記事文庫』教育(33-22)『神戸新聞』大正六年三月二十三日」

[26] 雑誌の購読者層としては、指摘した児童は小学校高学年位の可能性もあるし、二十才との年齢が判るくらいの関係性であれば、同じ町村内で親兄弟・親戚同士が知り合いということもありそうだ。このような事態を回避するため、『中學文壇』誌であれば、男女の投稿は可能であったし、せめて年齢的には『少女界』ではなく、『女子文壇』をなぜ選択しなかったのかと思う。

[27] 「霞舟」の号は、山形城が「霞城」と呼ばれたことから名付けたと考えられる

[28] 軟派学生の恰好は、「金モールの帽章を高く付け美々しい衣服をゾロリと着込み、色帯を〆め紫紺色の学帽を冠り、リボンで羽織の襟をキッチリと結び絹天の麻裏を穿くか、又はエメナルを塗った華洒な靴に万年筆を携帯し薄化粧をしている、言葉も勿論硬派と異って『厭ですよ、御出でなさいよね、僕知らないの』などと汁の垂れそうな女子的の言葉を用いて誘惑の手を伸しつつある」と新聞ではいわれた。「不良少年(十一)」「『神戸大学新聞記事文庫』社会(22-08)『中央新報』明治四十五年六月二十七日

[29] 大正二年に東京の不良少女団が新聞報道されている「琵琶会、歌留多会の美しい名称の下に多くの機会を作って彼等を罠に懸けた事も多かった。殊に此の時代に注目すべきは不良少女の胚胎であった芝公園を中心とせる黒組、本所立川及び押上を牙城とせる銀杏組、本所に跋扈せる根津のすみれ連などは最も有名なもので、其他立派な家庭の女が私かに党与を組んで不良少女と相提携していた」「不良少年の今昔 : 昔は決闘今は強盗 : 昨夜交詢社で講演 : 山本捜索係長談」「『神戸大学新聞記事文庫』感化問題(1-12)『時事新報』大正二年五月二十八日

[30] 藤波芙蓉は明治末期~昭和戦前にかけてマスメディアで活躍した男性美容研究家。宮城県仙台市の鹿野太美治・ゑんの間に恒吉として生まれた(明治三十二年頃に藤波志摩の婿として、藤波家に養子に入る)。仙台の第二高等中学を卒業後、作家を志して尾崎紅葉氏に弟子入りし、文筆家としての『東京市養育院月報』に執筆。『都新聞』の記者を経験し美容研究の専門家に。藤波は旧来の日本の化粧法は芸妓を手本として、顔を真っ白に塗って紅を指す不自然なものであると指摘、これを「旧式化粧術」とした。中学時代に米の女性宣教師が西洋式の化粧をするさまを見て影響を受けたことで、個人がもつ素顔の「自然美」に化粧という人工的な美を施すことを提唱する。これを「新式化粧法」と命名、「化粧道」に精進して日本の近代的化粧法を啓蒙していく。また、クリームやアイブロウなど自身が開発した化粧品も創製し『女子文壇』『少女画報』『婦人画報』らの代理部で通信販売した。著書に『新式化粧法』(博文館、明治四十三年)、『新美装法』(婦人文庫刊行会、大正五年)、『美粧』(東京社、大正五年)など。

なお、藤波芙蓉の生没年には異説があるが、筆者は「明治五年生~昭和二十年歿」という説を是認する。藤波自身は生年が明治九年であると、明治四十四年の『女子文壇』九月号に掲載された『化粧問答』の回答のなかで記している(『女子文壇』第七巻十一号、女子文壇社、明治四十四年九月)。しかし本人の執筆とはいえ、雑誌上の原稿であることは何らかの事情で年齢を偽ったり、誤魔化したりする可能性もゼロではないだろう。奈良女子大の鈴木則子は、藤波の生年を「戸籍により明治五年生まれ」としている。よって「戸籍」という公文書を確認した鈴木の明治五年説を支持するものである。なお歿年も昭和二十年説と昭和二十七年説がある。鈴木は藤波の縁者(子孫)への調査によって昭和二十七年没としているので、生没年両方とも鈴木説を採用するものである。

出典;鈴木則子「近代日本コスメトロジーの普及と展開をめぐる一考察~美容家・藤波芙蓉の分析を通じて」『コスメトロジー研究報告』21号、平成二十五年

[31] 「皆さんも良くご存じの硫酸苦土すなわち瀉利塩を適宜、薔薇水【ルビ;しょうびすい】もしくは桃花水に溶解させたものです」と言われても時代柄なのか筆者もわからない。