大正15年に「地方文芸雑誌」があった証拠を発見!

- ◆「同人雑誌」とは異なる「地方文芸雑誌」
- ◆「地方文藝雜誌名簿」が現われた!
- ◆「地方文芸雑誌」と呼ばれる媒体が大正末期までは存在した
- ●大正十四年六月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十四年七月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十四年九月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十四年十月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十四年十一月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十五年二月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十五年三月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
- ●大正十五年四月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
◆「同人雑誌」とは異なる「地方文芸雑誌」
なかなか説明が困難であるが、あくまでも筆者は、作家を志望する者たちが集まってお金を出し合って制作をする、大正時代に隆盛した「同人雑誌」と、明治後期に東京の中央文壇とは違う、オルタナティブな「地方文壇」の雑誌を目指していた各地の主宰者、例えば、岐阜・小木曾旭晃の『山鳩』や、堺・鷲見霞洲の『ホノホ』などの「地方文藝雑誌」は、素人たちが自主的に発行する定期刊行物では共通なのだが、性質は両者は異なる媒体だと考えている。
史的展開では、『ホノホ』ら明治期「地方誌(地方文芸雑誌)」の後進が、昭和戦前に発行された『新文壇』や『希望の窓』等の「地方誌」につながる。そして戦前の「地方(文芸雑)誌」の読者だった者が、戦後の二十年代になって再生産したのが、戦後の「地方誌」「仲介誌」群である。
戦後、「地方誌」の世界は「趣味誌」や「仲介誌」と交流しながら確かに存在している。明治期からの地方誌の道統は、京町信哉の『島人形』や、愛知の鈴木秋穂『文鳥』、岐阜の山本華月らが発行や執筆を行った「地方誌界」へ継承されたのだと考えている
(逆にいえば戦後の『地方誌』の起源は、同人雑誌では無いという事だ)
現代では「同人誌」の意味が変化している。「コミケ」の「同人誌」が流行したことの影響である。
コミケットが「漫画同人誌」と共に「活字の同人誌」を「評論」という分野として広く再定義したことで、「文芸」や「評論」「調査研究」の成果を刊行した文字主体の頒布冊子も「同人誌」の類に包摂されることになった。
「一人で編集・印刷」したものが「同人誌」であるという形容矛盾を起こした事で、その他の定義も曖昧化して行き、むしろ不定期な「単行集」のほうが同人誌即売会では多くなった。
例え「月刊~季刊などの定期刊行物」でなくても、掲載コンテンツが「一つのテーマのみ」であったとしても、それも「同人誌」の概念に入るようになった。
だが戦前の「同人雑誌」は、やはり「同人」という「志を同じうする者(文芸誌なら文芸思潮によって集う等)」が、「お金(印刷費)を等分で出し合い」、「小説・詩歌、評論、彙報など様々な作品や記事」を掲載して、定期的に刊行するもの(巻号があるもの)であった。
その意味で、原則として経費は自分ひとりかスポンサーがおり、発行者も基本は「主宰者単独(多頭制の場合やセミプロ的版元もある)」で行う、「地方誌(地方文芸雑誌)」とは性格が異なると考える。
◆「地方文藝雜誌名簿」が現われた!
国会図書館デジタルコレクションが年末年始で休みに入り、「ログインなしに閲覧可能」な文献だけしか「在宅デジコレ」作業ができず、PCも修理中のため、スマホでチマチマと童謡雑誌『金の船・金の星』を読んでいた。
読者のおたよりを掲載して記者が応答する「讀者だより」欄では、若い教師や青少年たちが「自分たちが同人雑誌を発行したので見て下さい」的な通信も掲載されており、それを目当てに読んでいた。
そうしたら、大正十四年六月の『金の星』「讀者だより」欄に、なんと!
唐突に「地方文藝雜誌一束」という名称で、当時、発行されたいた地方文芸雑誌の六誌の名称等が発表されているではないか。
これは各媒体の広告出稿ではなく、編集部が好意で掲載したようだ。「入社(注 =購読・執筆のこと)希望の方は、直接發行所へ御照會下さい」とある。ここでは詳細な雑誌購読方法・雑誌の判型やページ数はわからない。
紹介された誌はおそらく『金の星』に「贈呈誌」として送付された雑誌ではないか。
『金の星』発行人または編集部記者が把握していた雑誌を、斯界の興隆を願って掲載、読者の拡大に協力したのであろう。
読者はこの「名簿」によって発行者へ連絡を取り、見本誌の取り寄せや購読会員になることが可能である。
◆「地方文芸雑誌」と呼ばれる媒体が大正末期までは存在した
そして更に、国会図書館デジタルコレクションの検索画面にて、雑誌名『金の星』&「地方文藝雑誌」でサーチをすると、大正十四年七月以降の『金の星』に「地方文藝雑誌名簿」が掲載されていた。
最終的には『金の星』「讀者だより」欄への「地方文藝雑誌」の掲載が、大正十五年四月まで行われており、無慮、四十誌が掲載されていたことが判明した。
戦後の「地方誌」の前身は、文学の「同人雑誌」とは別にあった「地方文芸雑誌」と呼ばれていた雑誌群に求められるだろう、という筆者の予察の根拠として、「地方文芸雑誌」が「大正十五年」迄、継続して発行されていた証明となる資料である。
不定期だが複数の号にて掲載があるので、全ての調査を行い大正十四年、十五年に於ける「地方文芸雑誌」一覧として、下記へ掲出する。
『金の星』への掲載であるため、掲出雑誌の多くは童謡・童話を中心に掲載した「児童文芸雑誌」だろう。発行された各地の雑誌題号がロマン主義を思わす「抒情的」な単語であることからも「児童」向け文学が中心である可能性が推察される。
これらの雑誌へ散文や和歌の掲載があったかどうかは不詳である。
なお筆者は「地方文芸雑誌」という領域は「児童文芸」も包含すると考えているので、「児童文芸」の雑誌であっても、日本各地の「地方」で発行された文芸志向の自主発行雑誌である「地方誌(地方文芸雑誌)」の仲間であることに変わりはない。
●大正十四年六月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『白鳥』(東京市外大井町北濱川一一四九・山口日出雄)
『理想』(京都市衣笠南道町・長野晶水)
『松葉の舟』(廣島縣芦品郡服部村・若井濶)
『流星』(神奈川縣中郡伊勢原町三〇七・岡山純義)
『銀の笛』(東京市本鄕區春木町三ノ卅二小立方・笠原信芳)
『ゴンドラ』(新潟市學校町二番町・淺野三郎)
※長野晶水は詩人、童謡作家として戦後も活躍
●大正十四年七月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『聖路』(岩手縣一關町八幡街・西野光二)
『松虫』(奈良市西御門町・中島佐武)
『銀の壺』(和歌山縣田邊町路町・草笛社)
『白い舟』(兵庫縣有馬郡貴志村下井澤・加滋喬雄)
『宵の星』(福島縣石城郡平町字田町五十四・會津靜雄)
『明詩』(埼玉縣越ヶ谷町 明詩社内・中村如水)
●大正十四年九月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『白路』(金澤市上胡桃町四九ノ五・白路社)
『聖路』七月号で既出
『銀星』(札幌市山鼻町一七九〇・中野くま雄)
『たび路』(大阪市外八尾町・旅路文藝社)
『赤い果』(島根縣鹿足郡津和野町萬町角・湊三七吉)
『白兎』(神戸市明和通三丁目七・藤原義文)
『蛸壺』(熊本市安巳橋通り十一・藤淵方 熊本民謠研究會)
『白鳥』六月号で既出
『銀の笛』六月号で既出
『すゞらん』(臺中市明治町五三六・鈴蘭社)
『紫陽花』(岡山市八番町八・紫陽花社)
※ 「旅路文藝社」は、昭和六年にもあって印刷業も兼業していたようだが、在宅デジコレが出来ないので「検索結果が一行」のみでもどかしい。
おそらく他の「鈴蘭社」「紫陽花社」などの結社についても、何か情報があると考えられるが、現在は国会図書館デジタルコレクションの検索が基本的に休業であるため、現状はこれに留まる。
追補情報はのちに執筆する予定です。
●大正十四年十月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『聖路』七、九月号で既出
『ときはぎ』(東京市本所區外手町八四・愛國婦人會隣保館内)
『理想』六月号で既出(長野晶水名義であったが今号は是野淸一郎名義)
『櫻んぼ』(岐阜縣關町萬屋町・佐藤登)
『白薔薇』(高知縣幡多郡具同村具同・橋田かつみ)
『綠の丘』(札幌市山鼻町一七九・中野くま緒)
※ 中野くま雄は『銀星』から『綠の丘』に改題したようである。今回は「くま緒」であるが前回は「くま雄」名義である(「緒」は誤植か?)
●大正十四年十一月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『草笛』(紀州田邊福路町・草笛社)
『夢路』(神戸市湊川町六ノ四三・田中一路方)
『夕風』(高知縣幡多郡中村町中之町・浦田武男)
『鳩ぽつぽ』(岩手縣一關町八番街・西野まさみ)
『綠の丘』十月号で既出(くま雄名義)
※ 草笛社は『銀の壺』から『草笛』に改題したようである
●大正十五年二月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『青い夢』(八王子市平岡町五八・薄井益太郎)
『すゞらん』大正十四年九月号で既出
『櫻んぼ』(岐阜縣關町相生町 金森武夫方・童心藝術社)
『理想』(京都市上京區衣笠南道町二十四・長野晶水)
『虹の影』(愛知縣知多郡半田町 丸一方・虹の影社)
※ 『櫻んぼ』は大正十四年十月号で既出だが、岐阜縣關町までの住所が同一で以下は異なっているため再度掲載した
※ 『理想』は大正十四年十月号で既出だが、六月号で長野晶水名義、十月号では是野淸一郎名義で、今号はまた長野晶水名義のため再度掲載した。
※ 薄井益太郎は戦後も「八王子周辺のわらべ唄」を刊行するなど童謡・わらべ唄の研究をしている
●大正十五年三月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『蛸壺』大正十四年九月既出
『童詩』(福岡縣矢部川驛前・與田準一)
『北の星』(東京市外南品川五ノ一八〇川村方・北の星社)
『新興童話』(東京市本郷區菊坂町六一・新興童話聯盟)
『パパヤ』(臺北市兒玉町二ノ一七宮尾方・臺灣童謠協會)
『憧憬』(東京府下北多摩郡砂川村一五七・憧憬社)
※ 與田準一は福岡出身の詩人・児童文学者として後に大成する。童謡・校歌の作詞、童話絵本多数。この頃は二十一歳で小学校訓導。
子息の橋本淳は、作詞家で『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒット。『ブルー・シャトウ』『亜麻色の髪の乙女』などのGSソングや、多くの歌謡曲を手掛けた。
●大正十五年四月の『金の星』「讀者だより」欄掲載分
『新興童話』三月号で既出
『こほろぎ』(東京市外平塚村下蛇窪二二七 秋本方・こほろぎ會)
『鳩ぽつぽ』大正十四年十一月に既出
『星の光』(高知市水通四丁 毛利方・星の光社)
※ 『鳩ぽつぽ』は前出時「一關町八番街・西野まさみ」であった。今号は(岩手縣一關町新大町六一 關方・東北童謠協會)で移転か