「日本煙草包み紙蒐集の歴史(戦前篇)」
- ■戦前の煙趣ブームはいつか?
- ■煙趣はブームといえるか
- ■戦前のタバコの集め方
- ■戦争に巻き込まれた『香煙』誌
- ■記念煙草高騰の理由
- ■戦争でタバコ蒐集家が増えた
- ■記念タバコの設定範囲が難しい
- ■戦時中の意外な集め方
■戦前の煙趣ブームはいつか?
戦後、煙趣大家になった須知善一の回想では、大正5、6年頃はまだ記念煙草の包裹蒐集は燐票より下位だったという
関東は煙趣が重要視され関西は低調だった(関西は神戸を擁し燐票が盛んだったのだろう)[1]
「当時は千社札が盛んであり、新錦絵というべき恩地孝四郎などの創作版画の抬頭期で木版に趣味があったので、木版などの民製包裹に惹かれたのであるが、それは地理的条件だったのである。常陸(茨城県)下野(栃木県)磐城(福島県)の大産地を控えていたからである」(『煙装』昭和32年、42号-43号合併号)
では煙趣ブームの初っ端はいつか。
昭和11年説、12年説、13年説(小山彰「祝発刊」『莨の友』創刊号、昭和26年)がある。
武田修は同時代を生きておられ、
「記念煙草は現代趣味蒐集界の寵児となって来たかの感あり、それは毎月各趣味誌の案内広告欄を見ても如何に多くの記念煙草関係のものが出ているかによって明瞭に裏書されている」
という。
(「記念煙草總目録」『趣味の港』第38号、昭和12年7月)
昭和13年冬にはやや下火になった(柴田春郊「趣味徒然草」『鶴城』昭和13年11月号)という指摘がある。
■煙趣はブームといえるか
戦前は未だ専売公社も記念タバコや観光タバコ、私煙などを濫発していない。蒐集対象品が少ないため、ブームというほど、裾野は広くなく専門に集めている者が数名から十数名いて淫していただけではないだろうか。
昭和10年代、煙趣家としては、有名どころの京都の山内長左衛門、横浜の可山道之助、村岸峯吉(滋賀県県議で古銭なども蒐集)、武藤喜邦(郷土玩具愛好家、特に姉様人形で有名)、今村仙湖、富田寛がいた。
(豆本作家田中栞のブログで『愛書家名簿』(昭和16年刊、雑誌愛好会)が紹介されていた。その記述によると、富田は静岡県引佐郡都田村に在住し、「煙草に関する文献、雑誌」を蒐書していたそうだ。(http://blogs.yahoo.co.jp/azusa12111/folder/641659.html 平成25年7月29日閲覧)。
富田は総合蒐集家であり、昭和10年にブームが白熱する「スタンプ」も集めており、当時の趣味誌に記事を投稿している。
なお、「『鶴城』の赤松巌は特集して「煙草号」を出したし、敦賀の柘植宗澄の趣味誌『趣味の港』にも煙草分譲欄があった(から盛んであった)」と、『煙趣手帖』(昭和36年34号)の「煙趣家の思い出」に須知は書いている。
武藤喜邦の兄、大村喜昭の煙趣コレクションも大したものであり、これを煙草蒐集の大家、廣田庄三郎が買い受けてコレクションの土台にしたという。
「現在の蒐集趣味界に於いて最も流行しているのは記念煙草」
(武田修「記念煙草の価値」『伊勢蒐楽』昭和13年1月号)
という指摘もあるし、
「記念煙草包装の蒐集熱は昭和十二年初頭から一大流行となり、誰も彼も手を付け集め始めたもの」
(川沼二郎『記念煙草とは?』『伊勢蒐楽』昭和13年2月号)
という指摘もある。同じ蒐集趣味雜誌の編集者なのだから、号と筆者は異なっても原稿の整合性をチェックしてもらいたいものだ。
東京朝日新聞の昭和14年3月24日号によれば、当時、民製を除き日本の普通煙草は外地も含めて五〇余、その他舶来煙草が八〇余、廃止煙草が二〇余、記念煙草が六〇余に、軍隊煙草、慰問煙草があり、二〇〇種を超えていたというから、蒐集対象としては、ある程度は蒐集意欲を掻き立てられる多様性はあったかもしれない。
煙草の蒐集が盛んになった理由としてXYZ生という匿名の寄稿家は、
「支那事変勃発以来。皇軍慰問煙草[2]などと銘打ったものが出来るやうになってから。之が流行に拍車をかけ蒐集趣味関係の雑誌には、盛んに煙草記事が現はれ、其の値段などが終始発表され、之を一商品として売るために買ひ集める問屋風の店まで沢山に現れて居る」
(「臺灣より見たる煙草蒐集界」『趣味蒐集』第73号、昭和13年5月)
と、公的な記念煙草以外で、特殊煙草の増加により蒐集対象の母集団が広がったことがブームの一原因だと分析できる。
また、専売局は二〇万個以上の注文であれば、個人法人を問わず指定のデザインの包裹で印刷したものを作成してくれるようになったので、それも後押しとなっているという。
例えば某富豪が結婚祝いに結婚記念煙草として披露宴の引き出物として贈呈したものが高値を呼んでいたという。
■戦前のタバコの集め方
昭和13年当時の煙趣は、「煙草空箱」の蒐集という感じで呼ばれ、普通煙草、記念煙草、外国煙草の三種に分けて集めた。なお、朝鮮、臺灣のものは内地に含めて考えられた。満支・南洋については「外国煙」と分類したかどうかは不明である。
内地は年代順、外国は国別に蒐集し、スクラップブックまたはアルバムに貼り込んで整理した。京都の専賣局のアルバムは折本式(御朱印帳のようなもの)だったらしい
(小塚省治「煙草空箱の蒐集と整理」、『伊勢蒐樂』、昭和13年3月号)。
カタログ、リストとしては昭和12年の『京都寸葉』4月号に、森清一が目録を発表し、同年6月号に『鶴城』に鷲見東一が目録を出した。
そして昭和12年7月の『趣味の港』に武田修が専賣局の京都工場材料掛の調査になる「記念煙草總目録」を発表した。
昭和12年8月には『記念煙草目録(一)』が廣田庄三郎の著書として、神戸の蒐集趣味雑誌社(松本喜一)から発行されている(アート紙、三〇頁、菊判半裁写真版六〇点入り、収載範囲は大正四年の大正大礼『八千代』~昭和一二年の琵琶湖『光』まで、送料共三三錢)。煙草を網羅したカタログ文献のさきがけであろう。
続いて昭和14年7月に、やはり著者は廣田で『専売局煙草総目録─けむり草』を、松本喜一が専売局創業三五年記念として五〇部限定で発行した。発行所は「煙草の家」だが私家版である。『けむり草』は普通煙草の目録と研究である。
戦前の煙草蒐集大家は未だいる。廣田花蝶と恒光重正氏である、廣田庄三郎と花蝶は同一人物であるそうで、花蝶はかなり変わった人だと須知善一に評されている[3]。
煙草の趣味誌としては『響』(のちに『煙草』に改題。昭和8~13年の5年間の発行。専売局に勤務していた甲斐仁が発行。
甲斐は戦後、専売公社の販売部長になった方で、『日本たばこ名鑑』(甲鳥書林、昭和30年)を編纂した、煙草の研究と蒐集の第一人者。煙草関係で蒐集した資料や包裹は仕事柄、門外不出であった。関東大震災の時から蒐集をはじめ、大蔵省の火災と日本本土空襲のときの二回、コレクションを焼失している。
昭和13年の段階で「日本記煙會」(若林壽之助)というのがあったが、この会は、各自が十枚ずつ木版刷の私煙を出し、それを皇軍将兵慰問煙草として指揮官に送付、残りを煙草蒐集の趣味家で頒布し合うという会で、趣味誌を発行していたかは不明である。
■戦争に巻き込まれた『香煙』誌
そして『香煙』誌(昭和17年)という数奇な運命を辿った煙趣雑誌がある。
『香煙』は、戦時中という厳しい背景があったにも関わらず、滋賀県長浜町の今村仙湖(本名は精一)が四〇歳代のときに個人で香煙会を設立したときの会報である。『香煙』が日本の煙草蒐集趣味者の最初の結社であるといわれることが多い。
まず17年5月に無題の創刊準備号(半紙二つ折り14ページ孔版)を出したが、入札、分譲、交換欄があった。7月には今村精一の雅号である「香煙洞」からとって誌名を『香煙』1号(22ページ)として五〇名限定で発行、巻頭に満支煙の「鳳凰牌香煙」という煙草の貼り込みを付けた(臺灣在住の許雪郷が寄贈したもの)。
記念煙草の発行は昭和15年の紀元二六〇〇年以降途絶えており、普煙の変化も見られないという、蒐集家にとってはお寒い状況の下、記事は南方煙草や満州たばこのカードについてであった。五〇名の会員には廣田、若林、富田、沼宮内など煙趣家の重鎮を始め、名古屋の吉田栄一・林勇三・大川如水、東京の山形秋渓・小山彰、長野の小松盛雄の名前が連なっている。
17年10月には、今村氏が上京した際(箱根の如水会総会出席と兼ねて滋賀を発ったようだ)、新宿の中村屋で「関東香煙会」が開催された。その模様は昭和18年1月の「近況お知らせ号」に書かれている(出席者は今村、大川、小松、山形、沼宮内、五十嵐信二、土方芳元、都沢寒月、松下暢、橋本稔、小山彰の11名)。
『香煙』は今村が出征したため、一号限りで中絶したという説があるが、これはもう少し話が込み入っている。
「昭和一八年の或る日、今村氏より香煙会会員名簿及び金一〇円也を添えて、徴用のため明石の軍需工場に行くことになったから会の運営を引き受けて貰いたいとの来信があり」
(長谷川金一郎「紫煙のゆくえ」『莨の友』九号)
という出来事があった。長谷川氏は結局、躊躇しているうちに自分自身も陸軍軍属となったため会の運営ができなかったという。そして、今村は徴用に続いて応召となり、フィリッピン方面へ出征、昭和20年春に戦死された。
「預かった一〇円は郵便貯金に入れておいたが、子供の小遣い銭にもならなくったが、いまも心苦しく思っている。地下の今村氏は現今の煙草会の発展を喜んでいるだろう」
と長谷川は結んでいる。戦争が蒐集趣味誌の継続を途絶えさせるという悲しい時代であった。
■記念煙草高騰の理由
蒐集家の減少によって、現在の「ヤフオク」でタバコ包み紙は、昔に比べて低廉で落札されている。しかし戦後の一時期は、記念煙草は高い価値を呼んでいた。武田修によればこの理由は以下で説明されるという。
- 「発売地域が限られる」
- 「郵便での依頼が行えないので発売地域に住む蒐友に依頼するしかない」
- 「局印は官報などで使用を知ることができるが、記念煙草はニュースを取る手段がない」
- 「郵送するのに官白やレッテルなどと違い第一種か小包でしか送ることができないから経費がかかる(燐票などは見本品として第四種郵便で安く送ることが当時はできた。グレーゾーンだが)」
- 「内地と植民地間で煙草の移出入は認められなかったので中身入りを取り寄せられない。あき箱はOKだが大量には集まらない」
集めるにあたってこれらの障碍があるため、価格が高騰したのではないという。
■戦争でタバコ蒐集家が増えた
普通煙草のほうは面白い動機がある。それは、兵隊として出征したとき記念に何かを蒐集しようとして煙草の包み紙を集め始めたという人がいるということである。
軍隊の煙草なんて「恩賜の煙草」くらいしか知らない筆者にとっては、陸軍が兵隊に配給した煙草は北支においては非常に多様性に富んだものだった事が驚きであった(煙装蒐集家の間では「満支煙」と呼び、一万種はあるだろうといわれ、三千種の展示会はあったが、日本のコレクターのものを持ち寄っても五千種くらいしかないのではということである)。
嗜好品であるから、専売局の煙草事業部が製造した同じ味のものを、どの戦地にも届けて、兵士に配給していたと思い込んでいたのである。
包裹の違いに特に興味がない普通の兵隊は、毎回違う味を吸わされることになる。
いうなれば、今日は「ピース」で明日は「ラーク」のようなものである。愛煙家たちは日替わりでどんな気持ちだったのだろうか
(煙草吞みは気に入った銘柄以外は不味いと感じるものだ)。
話はそれるが、軍隊で煙草の味を初めて覚えた人は多いようで《日本では江戸時代以来の喫煙率は低かった》、世界的に徴兵制度と喫煙率はリンクしているらしい。確かにもはや徴兵制度がない日本では喫煙率が下がっている。
■記念タバコの設定範囲が難しい
記念煙草の最初は大正4年11月10日に発売された大正大礼(御大典)の口つき煙草「八千代」であったが発売数も少なかった(昭和49年の『煙趣マガジン』の評価では極美で三万六千円、普通で一万五千円)。
ところが昭和8年10月21日から29日に、東京の日本橋三越において催された「煙草博覧会」[4]で発売された「朝日」「チェリー」の二種の記念煙草を皮切りに各地の展覧会、大演習記念などのイベントで記念煙草の発売が増えた。
年間に四〇、五〇くらいの発行なのだから「スタンプの濫発よりもさらに集めやすく専売局で製作されるものであるから私製されないのが魅力である」と、伊藤喜久男は評価している。
記念煙草の範囲をどこに置くかは明確ではなかったらしく、一番広義であるのは、普通煙草以外の煙草は全て記念煙草とするもので、これだと、昭和12年3月5日の大阪松坂屋増築記念バットも記念煙草になる。
また、日清戦争の時、煙草は民営であったがこのときに「かちどき」「萬歳」「大勝利」など時局煙草が出たのでこれも含めるべきだという考えもある。
ブラジル、朝鮮、台湾など外国で発売されたものあるし(おそらく、ブラジルが東郷元帥を讃えて昭和9年に発行した「元帥」、肉弾三勇士を讃えた「三勇士」、エヅプトの「トーゴ―」「三笠」などのこと)、昭和3年に郡山で博覧会があったときに記念票をつけて販売したケースや、大阪のカフェが開店記念にバットを5本入れたケースを配ったノベルティの例もある。
日本専売公社が「記念煙草」と認めた/認めないで趣味界で論議になったものがある。
戦前では「十六師団凱旋五本入り非売品記念煙」をどうするかで武田修の『京都寸葉』上でもめた。
昭和12年の松坂屋増築という煙草は公社が記念煙草と認めたケースなのだが(公社を引退後、『日本たばこ名鑑』を著した甲斐仁は「記念煙草にしたのは間違いだった」と認めている)、昭和33年に非売品として「ビジネス特急こだま号記念」としてこだま車内の中で配布されたタバコは「記念煙草」として公社は認めなかった。
しかし蒐集家の間で論議を呼び、「煙装クラブ」と「関西煙趣会」が「非売品だが記念煙草としての条件を具備しているので記念煙草として取り扱う。番号は二五四号とする」という共同声明(!)を出して落着した。
なお、大正3年の「東京大正博覧会」では、専売局が「東京大正博覧会会場内製造専売局」と書いた丸型のスタンプを作り、『朝日』(八錢)と『ゴールデンバット』(五錢)に押印した一種の記念煙草的なものがある。
■戦時中の意外な集め方
戦時中、普煙(普通煙草)などを思わぬ方法で沢山集めた人がいる。
ペンネーム、H・天坊という人だが、ある軍港都市の配給事務所で軍属として4年間働いていた。統制下、昭和16年4月から煙草は空き箱と引き換えに一人一個で販売していた。
しかしその空き箱は再利用するわけではなかったので、流通しなくなった昔の煙草の箱でもいいし外国の煙草でもよかったという。そのため町の煙草屋には新旧、国内外の煙草の空箱が集まった。天坊氏が勤務していた事務所には市内二〇軒の煙草屋から空き箱が集まり八万個にもなった。
その処理方法は専売局に返すのだがそれには「光」や「金鵄」などと種類別に分別しなければならないので、面倒で放置のままであった。
昔も今もゴミの分別は面倒なものだ。そこで一計を案じた天坊氏は、自分がその分類処理をやると買って出た。目論見通り、わずか一ヶ月の間にコレクションは五〇〇種にも上ったという。
その中には新旧の普通煙草はもとより初期の記念煙草、臺灣、朝鮮、満州、南方の軍用煙草(『恩賜の煙草』とは別のもの。煙草は嗜好品なので平時は酒保(売店)で販売されたが、戦時(戦闘による交戦、行軍移動時)には部隊から食糧と同じように無料支給された)も入っていた
(参考:H・天坊「蒐集家の夢宝の山」『趣楽月報』四〇号、昭和三二年)。
かなり長くなったので、戦後のことは稿を改めたい。
戦後も、殿村弘「莨の友会」『莨の友』、記煙グループの森義信や、横浜の沼宮内健義「紫煙会」から始まり、小松盛男「煙装クラブ」の『煙装』、『関西煙趣』など沢山あり、語ることは尽きない。
[1] 関西地方で、あまり煙草蒐集が盛んでなかったことは次の記事でもわかる。
「大正一四、五年頃、神戸の趣味品交換会に顔出しするようになりました。この会は田中繙賞氏主催で毎月湊川新開地の酒類商組合事務所で催されました。当時記念乗車券に全力を挙げていた大川如水、『蒐集趣味雑誌』発刊以前の松本喜一、スタンプの小松原通洋、塚本好牛、木版趣味の小林好燐、山下翠松、丸山松莚(注・当時は木版燐票製作者として有名なかた)、廣田花蝶等その他、柳下儀一郎らが来ていました。出品物は官白、記葉、初三郎の沿線圖、木版物、記念乗車券、寶船、駅辨票、足袋票、新聞題字などが人気の中心でたばこ関係は微々たるもので出品されても殆ど關心が払われず、殊に切手類は皆無でした。
当時たばこ関係に興味を持って蒐めていたのは神戸の山下翠松氏(注・神戸区加納町)、御影の廣田花蝶氏と私位のものでした。(中略)
廣田氏が勅題を表した私煙を木版刷で趣友に配ったことがありました。その後沼宮内氏が之亦、木版で出すやら趣味家の私煙が出初めました。当時の趣味界の王座は何といっても土鈴でした。趣味家が寄り寄りにグループを作り、お互いに招待したりされたりしたものでした。
その催の記念品たる土鈴に私煙を添付することがボチボチ流行してきました。かくて趣味家が私煙に興味を持つようになって来た時、その波に乗って生まれたのが若林氏(注・若林壽之助)の「記煙會」でした。これは暫時熾烈になってきた戦争に際し皇軍将士慰問という美挙と、自己の蒐集欲の満足とを兼ねた一石二鳥の催しでした。各自十枚ずつ會へ出しこれにたばこを入れ、現地の指揮官十名に一セットずつ贈ったものでした。残りは会員各自の交換用で特製アルバムに挟まれた豪華版でした。指揮官からの感謝状は若林宅にあります。なお贈ったたばこの中身はバットでした。」
(松房敏夫「リレー煙談 四 思い出」、『関西煙趣』3号、昭和30年12月)
あまり関係ないのかも知れないが、この頃の専売局が発行する記念煙草の苞裹を作っていたのは、京都工場であった。
「一九三七(昭和一二)年から翌年にかけて、「戦勝百萬一心」「愛國」「愛國百萬一心」「武運長久皇軍慰問」などと銘打った、兵士慰問用の「朝日」と「錦」という煙草が登場した。慰問用たばこは、子どもの絵などが印刷されたカード付きで、たばこの裏面の書込み欄に部隊名と氏名を記入すると、兵士個人に届くようになっていた。このようなたばこは、一九四二年まで製造され、戦地に届けられた。」
(上記の説明は丸ごと「たばこと塩の博物館」のサイトから、「皇軍慰問たばこ」の項目の引用です。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/1995/9512dec/imon.html)
日本の軍隊煙草の製造、配給、銘柄に関する網羅的記録はインターネット上にはないし、成書にも見当たらないので、筆者は困っているのである。
なお「百萬一心」とは、戦国時代の毛利元就の言葉である。
「百」という文字は「ノ」の一画を省いて見ると、「一日」と読める。万の字はわざと「萬」ではなく略字「万」を使って「一力」と読めるようにした。つまり「百万一心」を「一日一力一心」と読めるようにしたのだった。
「日を同じくし、力を同じくし、心を同じくして全てのものが協力すれば、あらゆることを成し遂げることができる。それゆえ残酷な人柱を建てて、大切な領民を失うことはないではないか」と。元就は紙に「百万一心」と書いて部下に渡した。
この字を高さ約一・八メートルの石碑に彫って埋め、人柱の代わりとした。
[3] 廣田花蝶(本名は庄三郎)明治27年生まれ、昭和37年没。神戸御影町在住、大阪の北堀江で末廣車両製作所を経営し、荷車の高級車輪を製造。郵樂会員で手彫切手、葉書、文献、土鈴、煙草などを蒐集。御影郵趣会顧問。
[4] 煙草博覧会
昭和六年、大蔵省の外局である専売局は煙草の卸を販売店に直接行うようになった。
このため、全国のたばこ小売人に「煙草小賣人組合」を結成させ、その上部団体として、おおきな地域ごとに「煙草小賣人組合聯合會」を設けた。
国民に対して煙草に関する知識の普及と宣伝を目的に、煙草産業の実際の展示や歴史の紹介を行ったのが各地の「煙草展覧会」だった。
これは最初に昭和八年に東京(会場は日本橋三越。大東京煙草小賣人組合聯合會と専売局が主催。六十三頁の「煙草展覧会図録」・八十九頁の「タバコ展覽會出品目録」も発行された)、金沢、大阪で開催され、昭和九年に郡山、岡山、坂出、福岡も続き、昭和十年には札幌でも開催された。