別冊太陽『発禁本III』の誤記や疑問点
- はじめに
- ■「福山碧翠が燐票の趣味の会『綿会』を発足させたのは明治三五年のことだった」
- ■「燐票、切手を始めとした近代趣味は昭和初期頃、大きな趣味のブームとなった。こうした時代風潮に刺激されて、郵貯を中心とする趣味の会が全国に生まれていったのは、大正末から昭和初期にかけてだった」
- ■「明治三〇年ころの絵葉書ブーム」
- ■「郵貯を中心とする趣味の会」
- ■「本格的な研究はなく、コレクションの自慢や簡単な解説にとどまっている。また、子供っぽいガラクタ趣味や、現在でいうオタク的な傾向も強い」
- ■キャプションの充実を望みます
- ■「ガラクタ趣味」とは何でしょうか?
- ■「発禁本III」を参照した後世の研究者へ悪影響
- ■「戦後はかつての「趣味人」たちの交友網がなくなった」■「昭和四五年あたりを境に戦前からの趣味の流れが途絶えていく」
- ■「趣味研究の中でも考古、江戸趣味、郷土研究、書物研究といったジャンルは、コレクトと違ったベクトルを持っている。確かに蒐集というプロセスは同じであるが、モノそのものより記録、結果としての体系化へ向かおうとするまなざしがそこにある」
- ■「趣味的な研究は既成のアカデミズムからほとんどが無視され、まさに好事家の自己満足としてしか見られてこなかったことを忘れてはならない」
はじめに
七面堂究斎という方が「閑話究題 XX文学の館 談話室」というブログを経営されており、そのコンテンツに「別冊太陽「発禁本」勝手に補遺」があることを見つけました。
別冊太陽「発禁本」を読まれた七面堂究斎さんが、ご自身の得た知識で不備や誤りを補遺しているものです。
私も、今から約25年前に別冊太陽『発禁本III』のほうを読んだ際、あまりにも多くの誤解に驚き、「事典を発行している平凡社ほどの良出版社が、校正や校閲を充分には行わなかったのかどうか?」と、少々感情に流れた文章を書いてしまったことがあります。
しかし、七面堂究斎氏は「完璧を求めるのは酷であり、この分野は非常に難しいため、研究者同士が互いの研究成果を精査し合うことで、初めて正しい書誌が完成する」との立場を示されており、「誤り・疑問・推定」などにその誤謬を段階的分類を与えながら、同書の不備を補おうとする「建設的」な姿勢を取られています。
その真摯な見解と補遺に、深く敬意を表したいと思います。
なお、平凡社は昨年2024年8月に『発禁本の世界 城市郎コレクション 明治・大正・昭和の禁断の出版史』を刊行しています。もしこれが2001年頃からの『発禁本』を復刻していく趣旨であるならば、『発禁本III』もまた、将来的に復刻される可能性が考えられます。
しかし、過去の版をそのまま流用すると、誤りがそのまま残ってしまうため、七面堂究斎氏や私が指摘した疑問点については、ぜひ再調査をお願いしたいところです。
なお、私は七面堂究斎氏のように猥褻本には詳しくありませんので、以下では主に『趣味誌』に関する内容について述べることにいたします。
●まず、発行当初に驚愕したのは「発禁本III」(城市郎・米澤嘉博、平凡社)の収載内容が、「主義・趣味・宗教」であったことです。
「主義」や「宗教」では内務省らが発行禁止処分を与えることはあるかと存じますが、こと「趣味」に於いては「発禁本」の範疇ではないと考えるので、なぜ「趣味誌」が発禁本なのか? という矛盾がついに理解できませんでした。
確かに『趣味誌』の世界には、齋藤昌三や九十九豊勝、伊藤竹酔ら猥褻本に親和性がある方もおりました。しかし趣味誌の99%は猥褻や政府批判とは無縁なのです。発禁本でも地下本でもありません。せっかく集めた『蒐集趣味誌』を紹介したいあまりに、『発禁本』のシリーズに入れたのだと仮定をした場合は、著者としては不誠実、版元としては不見識、無定見かと存じます。
以下、趣味誌、趣味に関する個別的記述について
■「福山碧翠が燐票の趣味の会『綿会』を発足させたのは明治三五年のことだった」
この記述は、「綿」ではなく「錦」の誤記です。「錦会」でもまだ不十分ですが……。
「錦」という言葉を当時の福山らは何故使ったのでしょうか。燐寸のラベルの意匠が「美しい」という、雅やかな意味を込めているようですから、「綿」では趣旨を理解をされておりません。
(ex.錦鯉、錦絵、米の銘柄の美山錦・山田錦、力士の四股名など)
そもそも『錦』は会報の題号であり、会の正式な名称は「日本燐枝錦集會」です。
発足は三五年ではなく明治三十六年(※)であり、発起人には福山碧翠だけではなく、ほかに、柳川一蝶斎、桂文楽、早川中康で回章を出したのです。
複数名がいるため、「福山碧翠」単独ではなく、「~ら」「~たち」などの複数形で表現するのが適切でしょう。
※同会の発足については明治三六年十一月説が有力
榎木文城は、明治三六年一一月という
(榎木文城「我國最初の燐票蒐集」『趣味蒐集』八四号、昭和一四年四月)
そのた、
寸葉子「寸葉史考其一一」『寸葉趣味』七六号、大正一四年の記述や、
村田唖月「日本燐票史」『手紙雑誌』明治四十二年三月号も「三十六年十一月を期して第一回を淺草區代地大黒屋に開いて」と記述する。
これが以後の通説になっており、『錦』誌においても各記事で三六年と記している。
他に三十七年説もある。
「日本燐枝錦集会は明治三十七年に創立」
(『早附木』大正七年、日本燐票協会)
だが、これは明治三十六年十一月と年末に近いための誤解かと考えることもできる、しかし明治三十五年説は「発禁本III」でしかみたことはない。
■「燐票、切手を始めとした近代趣味は昭和初期頃、大きな趣味のブームとなった。こうした時代風潮に刺激されて、郵貯を中心とする趣味の会が全国に生まれていったのは、大正末から昭和初期にかけてだった」
この記述ですが、燐票蒐集は明治・大正時代にはすでに新聞にも掲載される趣味となっており、切手に関しても、明治時代の郵便制度開始以来、広く親しまれていました。
提案としては「燐票、切手を始めとした近代趣味は明治期に勃興し発展していたが、昭和初期頃、更に裾野を広げ、蒐集趣味の中心となっていった」くらいが適当かと思われます。
この記述では蒐集文化の大流行の主題として、明治の「絵葉書」や「特印」収集、大正期の「官白」収集、「記念煙草」の蒐集、昭和十年の「スタンプ集め」といった重要な要素が抜け落ちていますが、これは執筆者がコレクターではないため致し方ありません。
■「明治三〇年ころの絵葉書ブーム」
との記述が二箇所に見られますが、絵葉書の収集が本格的に流行したのは、明治三三年の私製葉書条例施行以降であり、「明治三〇年」というのはやや時期が早すぎるように思われます。「頃」の定義は曖昧ではありますが、提案としては、ぼかして「明治三十年代」と表記するのが適切ではないでしょうか。
■「郵貯を中心とする趣味の会」
こちらの表現はよく理解ができません、おそらく誤解に基づいております。
ここで書かれた「郵貯」とう言葉は「郵便貯金」の略称です。
確かに、「旅行先で郵便局の貯金印を集める」という一風変わった蒐集趣味は存在したと考えられます。
実際、昭和十三年には「蒐印貯金」という名称で、旅先の郵便局で貯金を行い、通帳に櫛型である局の黒活印を押印してもらうことが流行しました。
これは、当時の時勢を反映し、「貯金報国」の一環として奨励されていたものです。
しかし、この「蒐印貯金」と混同している可能性があるとしても、記述されている時期とは異なるため、適切ではないでしょう。
もし「郵貯」ではなく、「郵趣」(ゆうしゅ)と記したかったのであれば、その意図は理解できます。
しかし、本項目の各所において、著者は繰り返し「郵貯」という表現を用いています。
「郵貯」を趣味として扱う概念は存在せず、記述の意味が不明瞭であり、後世の研究者にとっても参考にならない可能性があります。
おそらくは執筆者が「郵趣」を勘違いして「ゆうちょ」と覚えてしまった疑いがありますね。
勘違いは誰でもあることで、蒐集趣味の世界は特殊な用語も多く、ベテランの方でも「寸葉品」(紙モノ)のことを「すんよう」と読まず、「すんぱ」と呼ぶ方が見受けられますが、読み間違いかと思われます。
辞書的にも「葉」を「よう」と読む際は、「平たい形のもの。紙」を示します。(例:「胚葉(はいよう)・薄葉(うすよう)」)
なぜ「ぱ」と読むことがありましょうか。
※京都で矢原様が「寸葉会」を結社しており「すんぱかい」と呼称しておられますのは、結社名ですので、何か意図があっての事だろうと忖度しております。
そして「郵趣」という言葉が広く普及したのは、戦後になってからのことです。
■「本格的な研究はなく、コレクションの自慢や簡単な解説にとどまっている。また、子供っぽいガラクタ趣味や、現在でいうオタク的な傾向も強い」
『発禁本III』の130ページに掲載されている「『趣味誌』の種々相」では、昭和初期に全国で発行されていた会員制の『趣味誌』について、上記のように記述されています。
しかし、少なくとも「郵便切手」に関する『趣味誌』では、三井高陽らが相当深い研究を行っており、この記述には疑問が残ります。土俗・民俗・方言の分野でも同様です。
特に三井高陽は、大正14年に欧州留学した際、ドイツの切手展に作品を出品するほどの高い見識を持つ人物でした。
また、当時の趣味界には「研究派」と「蒐集派」の対立があったように、煙草・印紙・駅印スタンプ・絵葉書などに関しても、それぞれの分野で本格的な研究を行っていた「趣味家」が存在していました。
執筆者はおそらく、当時の著名な『趣味誌』を十分に読みこんでいたとは思い難いですね。
「積読」という言葉があるように、古書を買ったことに満足して内容を精読しないことは往々に見受けられることです。
古書蒐集の量がイコール知識の量ではないかとも思います。
(古書を集める方を貶める意図は全くございません。記事を執筆する場合は積読では不十分ではないかという趣旨です)
■キャプションの充実を望みます
『発禁本III』では、『寸葉趣味』『趣泉人』『京都寸葉』『交蒐』など、『蒐集趣味誌』まで網羅し、図版を掲載している点には感心しました。
これはあくまで推測ですが、蒐集された雑誌と記述内容の間に十分な説明文がない場合が見受けられます。
例えば、久保山勝が発行した『新星』の図版が掲載されています。そこには久保山が印刷業に携わっていたことや、『別府春秋』も発行していたことを記載することが期待されます。
また、趣味通信社が発行した『特価書籍総目録』(昭和28年)の図版もありますが、これは上山田温泉の原田善太郎によるもので、彼が地方議員であったり温泉旅館や水商売の経営、さらには広告マッチの取次など、多岐にわたる活動を行っていたことなども説明にあれば、読者への情報提供として楽しめるのではないでしょうか。
さらに、伊吹茂による戦後の『蒐集時代』も掲載されています。伊吹は映画愛好家であり、「高木新平」の後援会に関わるなど、伊吹映堂としても知られています。また、『蒐集道』という謄写版印刷誌を発行しております。
加えて、伊吹茂の師匠は『少年倶楽部』で連載された「豹の眼」や「角兵衛獅子」の挿絵を手がけ、少年たちを熱狂させた伊藤彦造画伯(大分出身)でした。
このような背景を踏まえると、図版に付されるキャプションのさらなる充実が望まれます。
■「ガラクタ趣味」とは何でしょうか?
滋賀の久保知和が発行した貼込誌『寿駄袋』を、「ガラクタ趣味」という項目に分類しています。
(なお、『寿多袋』という同名の『趣味誌』も存在しますが、こちらは水曜荘主人・酒井徳男によるもので、別のものです)
しかし、これまでに挙げられた『趣味誌』の数々は、そもそも『発禁本』ではありません。それにもかかわらず、『趣味誌』を『発禁本』として扱っている理由が、全く理解できません。
その上で、『寿駄袋』は昭和50年代に作られた個人発行の『趣味誌』であり、久保氏自身が、勤労のかたわら、ラベルや券などを集めて、それら寸葉品を製本した紙に、貼り込んだうえで、自身のエッセイなども織り交ぜた、時間と手間の掛かった手製の冊子です。
これは実際、当時、購読していた経験が私にあるため、子供っぽいという「ガラクタ」扱いされていることが悲しいという感情的な部分もありますが、「ガラクタ趣味」などという低評価な造語は、不適切ではないかと考えるものであります。
■「発禁本III」を参照した後世の研究者へ悪影響
『発禁本III』を参考にした後世の研究者に、実際に誤解を与える影響が出ています。
ある本の中で、研究者は『発禁本III』からの引用をもとに述べていましたが、『発禁本III』の記述では、発刊された背景についての解説が不足しておりまして、誤解されてしまっております。
具体的に書くと差し障りがあるので、この辺で。
■「戦後はかつての「趣味人」たちの交友網がなくなった」
■「昭和四五年あたりを境に戦前からの趣味の流れが途絶えていく」
このように、『趣味誌』と『趣味』の戦後が記述されていますが、実際にはそうではありません。
むしろ、言論の自由が確立された戦後のほうが、『趣味誌』の創刊はより活発に行われていました。「発禁本」を扱い、出版の社会的背景に詳しい執筆者ですから、戦後の言論の自由という観点は自明のことではないのでしょうか。
また、趣味を通じて見知らぬ者同士が出会う「交友網」としての機能は、平成時代になっても完全に失われたわけではありません。
戦後間もない頃の地方『趣味誌』には、物資不足という時代背景を反映した「仲介広告」欄が設けられており、読者が交換したい品物や譲ってほしいものを、字数制限付きではありますが、無料で掲載することができました。抒情文芸や歌謡詩を中心とした「文芸」の『地方誌』も盛んに発行されています。
この現象について、木村竜彦氏は以下のように述べています。
「発行者は全国の『趣味人』の情報のとりもち役を、自ら買ってでているわけで、それも非常にマジメな動機から出発しており(中略)見知らぬ土地の、たくさんな人のとりもちに意義を感じるという、それが楽しくてしかたがないという…そんなへんな人間の群であったように私は思う」
(木村竜彦「回想の地方『趣味誌』」、胡蝶豆本、昭和55年)
このように、戦前に続き、戦後も日本全国津々浦々に交友網が張り巡らされていました。その媒介となったのが、地方発行の『文芸誌』や『蒐集趣味誌』だったのです。
さらに、村松規雄氏も燐票の交換について、次のように述べています。
「この頃知り合ったのが和歌山の幹島文男氏である。氏の発行する『趣楽月報』を見て名古屋の某氏と交換したり、燐票をゼネラルからスペシャルに変えていった。(中略)蒐集は、少しでも蒐友ができればすぐに数千種は集まるが、その整理が大変である」
(『蒐集百話 燐票の巻』「蒐集世界」昭和38年5月号)
『発禁本III』では、戦後に『趣味誌』の世界が衰退したかのように記述されています。しかし、「戦後」と一括りにしても60年以上の歳月が含まれますし、「趣味」も多彩なため、その表現では範囲が広すぎて具体性に欠けます。
この記述は、もう少し具体的にどの分野なのかを指し示すほうが良いかもしれません。
おそらく『趣味』は「蒐集趣味」を指しておられるでしょう。
蒐集の範囲は非常に幅広く、蒐集趣味を深く掘り下げた宝くじ、酒票、煙装、燐票、新聞題字といった専門誌もありました。ガムの蒐集誌もありました。
中高生が中心となって発行した雑文主体の「総合趣味誌」も昭和五〇年代には盛んでした。
時代の流れとともに、新たなジャンルの『趣味誌』も登場しており、例えば映画ファン誌、相撲ファン誌、文通誌、軟派誌、など多くの分野へ発展していきました。
さらに、昭和50年代には、宮崎県の篤志家が中高生の『趣味誌』発行を支援する動きがあったほか、岐阜の山本華月が趣味誌中心の印刷業を経営するなど成人が青少年育成として保護的にはたらくこともありました。
北陸地方では、小学6年生の児童が不良雑誌(いわゆるヤンキーの記事の趣味誌)を自ら作成するなど、その時々の時代背景を反映した多様な動きが見られました。
確かに戦前に活躍した趣味家は、昭和50年代には少なくなっていたことは否めません。しかし『京都寸葉』はあり、伊藤喜久男もたまに顔を出す趣味誌がありましたし、昭和20年代の名物人物や有名な蒐集家は、昭和50年代までは数多く存在していました。
人、物、流行の出入りや盛衰が激しいのが『趣味誌』「(紙モノ)蒐集趣味の界隈」です。
絵葉書や創作燐票、足袋票の蒐集は下火になったりしましたが、代わりに「ポケットカレンダー」「電話ボックスのピンクチラシ」「映画割引券や高速道路チケットなどの券類」「宝くじ」「テレホンカードなどプリカ」「納豆、ガムさや、牛乳栓などの食品票」等のコレクターが台頭しました。
趣味誌と趣味に関する歴史的消長について、結論付けるのはなかなか、難しいところがあるかと思います。
■「趣味研究の中でも考古、江戸趣味、郷土研究、書物研究といったジャンルは、コレクトと違ったベクトルを持っている。確かに蒐集というプロセスは同じであるが、モノそのものより記録、結果としての体系化へ向かおうとするまなざしがそこにある」
この記述の中で気になるのは、まず「ベクトル」、方向性としてはいるが「蒐集」と江戸趣味、郷土研究、書物研究を差別化しようとする意図があることです。
市井の考古学者、風俗研究者、郷土史家、愛書家といった人々のほうが、執筆者のいう「コレクト」(おそらく「蒐集趣味」のことを指しているのだろう)よりも高尚であるとするような論調です。
つまり、ものを集めることはあくまでも「道楽」に過ぎず、江戸、郷土史家、考古学などの分野は体系化されることで江戸文化の研究者や地方史研究者、書誌学者となる可能性があるため、「蒐集」という行為よりも格が上だと言いたいように感じられます。しかし、本当に体系化できないものは、体系化されたものよりも劣るのでしょうか。
このように、あらゆるものを「アカデミック」の枠組みに組み込めば「価値がある」とするような、昔からある「趣味家」への蔑視的な見方には違和感を覚えます。
ただ、確かに分野によって研究の「方向性」は異なるため、もしこの記述の執筆者が大学の研究者であるならば、そこまで異論を唱えるつもりはありません。
しかしながら、この文章の後段では「切手、古銭、燐票といった蒐集趣味は数量を重視し、単なるコレクションにとどまるのに対し、前述の考古学や郷土史といった分野では、ものを集めることで歴史やその背景を読み解くことが本質である」と断言しており、あきらかに、蒐集はあつめるだけで数の多寡を競い進歩がないとしており、この点には疑問を感じざるを得ません。
まず、ガムの包み紙や牛乳のフタ、旅館のラベル、足袋票といった多くの蒐集趣味において「完全蒐集」はそもそも不可能です。したがって、「完全蒐集が求められる趣味」と「そうでない趣味」という分類の前提自体が誤っています。
むしろ、蒐集によって集まったものを年代順(縦の軸)や地理的観点(横の軸)で比較し、社会の変遷を読み解いていくという見方もできることが重要でしょう。
また、切手収集に関しては、イギリスでは「紳士の趣味」とされており、アルバムを作成する際には、その切手が発行された背景や意義を調べるのが一般的です。ただ値上がりを期待する投機的な蒐集とは異なるのです。
日本でも、かつては小学生が切手収集を通じて歴史や地理を学び、社会科の成績が向上すると言われていたほどです。
古銭収集もまた、高価なだけに十分な知識がなければ偽物をつかまされる危険性があるため、知識が不可欠です。知識を持たなければ、手に入れた古銭を通して悠久の歴史に思いを馳せることすらできません。
確かに「寸葉品」と呼ばれるものを集めている方の中には、単に量を誇るだけのものや、教養がほとんど必要としない蒐集品もあります。
しかし、大部分の蒐集趣味においては、その背景や歴史を紐解くこともまた楽しみの一環となっています。江戸趣味や土俗研究、郷土史研究、書物史の記録だけが特別に高尚であるわけではありません。
そもそも、著者が尊重する「モノそのものよりも記録や体系化へと向かおうとするまなざし」を「学問の系統へ組み入れる」や「アカデミズムへの親和性」と考えるのであれば、蒐集家たちが集めているキャラメルの箱や足袋ラベルといったものは、そもそもアカデミズムの枠組みに取り込まれることを望んでいないのです。しかし、だからといってそれらは「研究」と関係ないと軽視すべきではありません。
例えば、日本酒のラベル(酒票)を研究することで、なぜ「正宗」という商標が多いのかといった知識が得られます。また、明治時代のマッチラベルの蒐集・研究には、マッチの化学的知識、登録商標の知識、明治期の輸出経済や日清戦争の影響、さらには木版印刷・石版印刷に関する理解が不可欠です。
決して「ただ集めた多寡で満足しているだけ」ではないのです(もちろん、単に集めること自体を趣味として楽しむ蒐集家も存在します)。
考古、江戸趣味、郷土研究、書物研究が「コレクト」とは異なると主張する執筆者は、これらの研究の基には、様々な事例、資料の「蒐集」が根底にあることを失念し過ぎではないでしょうか。モノを集めることと、方言、風習を集めることに階級差は無いと考えます。
現在の民俗博物館の基礎ともいえる「アチック・ミューゼアム」を作った澁澤敬三は、明治維新による俄か上流階級出身の妻からコレクションを疎んじられています(妻・登喜子は岩崎弥太郎の孫)が、これに似た感じに思えます。
■「趣味的な研究は既成のアカデミズムからほとんどが無視され、まさに好事家の自己満足としてしか見られてこなかったことを忘れてはならない」
具体的な根拠を示さずに重大なことを断言し、「忘れてはならない」と読者を啓蒙しようとする姿勢には、困惑を覚えます。
私の考えでは、趣味的な蒐集ではなく、趣味的な研究が「既成のアカデミズムからほとんど無視されていた」とするならば、それは決してアカデミズム側の悪意や防衛ではなく、単にアカデミズム側が迂闊で気づかなかった、あるいは認識しても取り上げなかった結果に過ぎないと考えます。
そして、もし気づきがないのはアカデミズムの理解不足であり、無視をしていたという故意とは異なるのではないでしょうか。
帝大の坪井正五郎博士は結果的には『集古』と集古会を作りました。少なくても明治期は民間の蒐集活動、付随する展示や研究活動はアカデミズムとは全く無縁とは言えないでしょう。スタール博士はどうなりましょう。戦前の帝国大学の教授たち、あるいはその後継者たちが、集古會以降の紙モノやスタンプなど蒐集趣味の多様化や「趣味家」の奥深い世界を知らなかっただけの話だと私は考えます。具体的にいえば坪井博士のような人士を得られなかったということ。
そもそもどこからどこまでが「趣味的研究」なのかの定義もなく、乱暴です。土俗・民俗の分野では、東條操先生らアカデミズムの方も特殊研究趣味雑誌を購読しております。執筆者が方言研究をした「橘正一」をどう評価するのか興味があります。
また「趣味的研究」とはすぐに結びつくものではありませんが、青少年が自費で発行する雑誌という広義の意味で「地方誌」界のインフルエンサーであった、河野紫雲は國學院大學学長になっております、以下、趣味誌・地方誌界の人とアカデミズムの関係を並べます。
- 歴史学者・考古学者の中澤澄男は大学教授だが郷土玩具を蒐集するのは勿論のこと、手拭い蒐集の美蘇芽会が発行する昭和八年の『佳芽乃曽記』誌に手拭由来談を寄稿
- 大供会には久留島武彦(児童文学者)、高島平三郎(児童心理学者)、巌谷小波(児童文学者)がいた
- 磯ヶ谷紫江の紫香會には篠崎四郎(考古学者)がいる
- 掃苔の会には学者が多い。そもそも藤浪剛一は医学博士である、史蹟関係の会にも白井光太郎、三上参次は帝大名誉教授。鳥居龍蔵も東大助教授
- 集古会に大槻文彦(国語学者)折口信夫(民俗学)など
彼らの研究に、趣味誌や趣味の活動が全く効果を示していないとはいえません。
また、仮に知る機会があったにもかかわらず取り上げなかったのだとすれば、それは学問的に価値がないと是々非々で個別の研究者が判断されたということであり、「市井の学問や趣味的研究が、アカデミズムによって意図的に葬り去られた」といった、主語が大きな、大げさな話ではないでしょう。
揚げ足をとるようですが「葬る」ということは少なくても一旦は「生きていた」ことになります。一度も生きてないものは死にません。しかし「葬りさる」ほどの対抗勢力になっていた事があったとも思えません。
この執筆者の意図が何処にあるのか不明ですが、「趣味的研究」の評価について、学術研究と対抗して考えるのは、果たして意味があることなのでしょうか。
もし、今後『発禁本III』を復刊されることがあれば、原著者の文章を尊重することとの挟み合いになるかも知れませんが、研究資料としては欠缺があるので、原文のほかに充分な注釈などを追加されることを望みます。