戦後直後、地方に雑誌が生まれたわけは
「戦後雑誌」の特異な時代
戦後直ぐに、『地方誌』が各地で創刊されており、昭和五年頃からの戦前も含めて昭和二十二年頃までは一種、自主出版誌が盛んな「黄金時代」であった。
しかし、編集者や国文学研究者でも『地方誌』の存在、発行自体を知らない方は多い。
戦後直後に東京・大阪以外の各地方で多くの個人雑誌・地方文芸雑誌・仲介広告誌が数多く発行されたことについての考察に於いて、戦前から『地方誌』の世界があった事が理由である事実を知らない方が存在しており、これらの蔟生を「不可解な現象」として捉え、首を傾げている文章を残されている。
映画趣味誌
例えば映画の趣味誌については、『映画芸能年鑑』の編輯者が、戦後に「映画雑誌」の発行がインフレ状態だったとして、その一時的な隆盛と衰亡について次のように触れている。
「さらに新しい現象としては地方都市における映畫研究雑誌の發刊がおおく、京都では「映畫藝術」[1]「映畫集團」[2]「映畫マガジン」[3]名古屋では「映畫サロン」[4]「テラス」[5]「映畫とFAN」[6]仙臺では「映畫新報」[7] 福岡では「映畫展望」[8]鳥取では「映畫文化」[9]などが出ている。
この映畫雑誌インフレも昭和二十一年末を峠として整理期に入ったが、さらに昭和二十二年に入って深刻な用紙ききんの影響をうけて經營体の薄弱な新興出版社は發行不能におちいって姿を消すものが生じ、さらに發行を繼續するものも合併號が續出、資材面からの經營困難と、同類相食む映畫誌のとも食いの傾向がいちじるしい」
「映画雑誌」は他の領域同様、戦時の統制経済時代に統合・合併されて、一般向けには『映畫評論』『新映畫』の二誌が残ったのみである。
だが終戦後、映画は当時の娯楽の王様であり、もともと映画雑誌の需要があったことから、『スタア』『キネマ旬報』をはじめ十誌以上の復刊や創刊が商業雑誌として相次いだ。
そんな中、上記のように地方都市で映画研究雑誌の創刊があったのだが、これらは「営業雑誌」と「地方誌」、およびその中間形態の雑誌が混合されており、小資本で用紙不足であった「地方誌」的な映画研究や映画ファンの雑誌が最初に淘汰されていった現象に過ぎない。
上記に示した以外にも、当時発行された「地方誌」というか「趣味誌」の映画分野は西日本の発行が多い。これは撮影所があるために、まず京都に多く生まれており『映畫クラブ』(下京区麩屋町・映畫クラブ社)、『映畫の若葉』(東山区祇園末吉町・映畫の若葉社)、『映画時代』(京都文藝社、昭和二十三年)がある。
西日本としては、大阪の『シネマ時代』(大阪市福島区茶園町・新進堂出版部)、神戸の『映畫歌劇』(神戸市生田区北長狭通・映畫通信社)、九州の『映畫タイムス』(福岡市東職人町・映畫タイムス社)、『映畫街』(佐世保市白南風町・映畫街社)、金沢の『映畫人』(金沢市堀川町・映畫人社)、『文化映畫』(金沢市南町・映畫文化協會)がある。
東京は商業雑誌がひしめいていたためか『同好會々誌』(昭和二十年十二月、東京・映画ト演劇同好會)のみが確認できるくらいである。
地方誌研究者の誤解
文芸面での『地方誌』研究者も同様に「地方誌」の存在を知らないようであった。
林眞は、昭和末~平成初期に、明治後期の地方文芸雑誌や戦後の『地方誌』を丹念に調査して書誌を作製してきた研究者である。
ところが、林は戦後に簇生した『地方誌』については独自に『戦後雑誌』という分野名を付しており、創刊と終刊の多さに「特異な時代」という認識を持っていた。昭和六十一年の『郷土文化』百四十七号に発表した原稿では、
「戦後雑誌とは、昭和二十年八月十五日以降、昭和二十五年までに発行された雑誌を云う。著者がこれまで色々の所に書いてきたように、昭和二十一年はじめから、全国各地に新しい雑誌が次々に創刊されたが、二十六年までにそれらの雑誌の殆んどが、つぎつぎに消えて行った。一つの大変興味ある、特異な時代を形成したのである。ここに愛知県で発行された戦後雑誌についての記録を止めて参考に供する。わづか四十年しか経過していないが、殆んどの雑誌を見ることが出来ない。多くの方々の御教示を得て、より正確な記録に高めて行きたい」
と記している。
※ 林眞「愛知県で発行された戦後雑誌(1)」名古屋郷土文化会編『郷土文化』41(2/3)(147)、名古屋郷土文化会、1986-1
林の当記事で挙げられている誌名は雑多である。趣味誌もあれば、民間の文芸同人雑誌、国鉄など職場の文芸サークル誌も含んでいる。探偵小説雑誌に中学の校友会誌、地方の俳句・和歌雑誌、懸賞雑誌、宗教雑誌、図書館や役所の発行誌、朝日新聞や中日新聞が発行をした企業雑誌的なものもある。
中日新聞社の登山雑誌『岳人』は明らかに書店売りの営業雑誌であるし、『中日スポーツ』は、スポーツ新聞である。
このように発行形態や発行主別、分野別の視点もなく、単に「発行時期が終戦日から昭和二十五年まで」というだけで混合していては、何を記録できるのか不明である。
映画雑誌同様に「営業雑誌」と個人的な自主出版的「地方誌」、文学同人の「同人雑誌」の区別が付いておらずに「雑誌」として一括りにした為、林はこの時代は雑誌にとって「特異な時代」という誤解を生んでいる。
つまり林のいう『地方誌』は、単純に発行地が東京以外の「地方」であって、『地方(文芸)誌』を示してはいなかったのであり、後世の研究者にとっては未整理な研究となって残念である。
趣味誌・地方誌が簇生した訳
終戦直後、文芸に興味があった青少年がどのような気持であったのか、大岡信(昭和六年生)が『現代詩大事典』の監修のことばで、次のように残している。
「私は中学四年生になったとき、友人三人と一緒に、年長の友人のようだった二人の教師とともに『鬼の詞』と題するガリ版雑誌を発刊(八号まで)した。「焼跡の堀立小屋のような中学校の校舎で、日暮れにガリ版を刷った。リルケ、日本浪曼派、中村草田男、ドビュッシー、立原道造、そして子供っぽい天文学などがぼくらの中にロマンチックに変貌しながら住んでいた。」(第一詩集『記憶と現在』あとがきより)
第一詩集のあとがきなどを引いたのは、日本の戦後のはじめのころ、詩を作る少年たちの周辺がどのような雰囲気だったかを、スナップ・ショット風に寸描しようと思ったからである。私たちは運よく空爆をまぬがれ、焼夷弾にも焼かれずに生き残ることができたので、現在にまで生存することができた。私に関して言えば、「鬼の詞」を一緒に作っていた他の仲間は全員とっくに鬼籍に入ってしまった。
私一個の貧しい経験をご披露したのは、第二次大戦の終わったころは、日本中どこでも、似たような少青年がいて、現代詩などという言葉は聞いたこともなく、こつこつと紙に字を書きしるし続けていた、ということを書いておきたいと思ったからである。(略)2007年8月」
戦時中は、国家によってささやかな蒐集趣味生活さえ棄てることを余儀なくされ、『趣味誌』『地方誌』の発行と購読の楽しみや苦労を奪われた「趣味家」(研究及び蒐集)と「自主出版人」たちであったが、終戦によって「出版・言論・集会の自由」がある民主主義の恩恵を受けることになった。
発言をする障壁が取り払われたので、地方文芸誌や『趣味誌』が簇生したのである。乱立・簇生したのは戦前からの需要があったことに加え、物資不足に悩み満足な行楽や娯楽がない時代の人々は、日々の疲れの癒しや寸暇の楽しみを映画・ラジオのほか「活字」に見出したのであった。「仲介広告誌の蔟生」で述べたように食糧・物資不足を補填するための生活情報雑誌として「仲介誌」が先頭に立って地方誌界を形成していき、文芸誌や趣味を主題にした雑誌も創刊されていく。
しかし戦中から続く用紙やインクの入手難もあり、昭和二十三年頃から商業誌・私家版問わず、継続が困難となり終刊誌が続出し、最初に「仲介広告誌」が物資の好転で需要が減じ、昭和二五年くらいから、地方誌界の全体は一見、下火に見えるようになる。
なお、当時の「地方誌」界で指す「地方誌」とは地方文芸誌であり、東京も含み、アマチュアの文芸人が発行・購読する、読者投稿主体の雑誌である。
明治時代には東京に版元がある商業誌として「中学文壇」「秀才文壇」「中学世界」など、投稿雑誌から始まった素人の文学青年・子女向けの懸賞文芸投稿雑誌があった。これに対して地方は地方で、「地方文壇」としての文芸雑誌を興す運動もあり、中央と比肩してもそん色のないものから、単なる個人雑誌程度のものまであった。これらも『地方誌』と呼ばれ、各県に投書界での名物男やファンがいたりした。
『地方誌』と称しても風土記のような「地誌」を中心とした『地方誌』ではないし、地域メディアとしてのフリーペーパーとも異なる。
たとえば石川啄木の『小天地』(B5判変型、二五頁、三〇〇部、二十銭)も『地方誌』の仲間ではあるが、創刊号しか発行されていないことも影響し、全国の投書家や発行者たちとゆるい紐帯の『地方誌』交友網を結んでいたかは現在の私の調べではまだ定かではない。少なくても啄木の日記にある明治四〇年の年賀状発送リストの中に、私が「戦前の趣味家・青年文士」の名前として記憶しているかたは見当たらなかった。
話はずれるが、啄木が『小天地』を一緒に出した大信田落花(金次郎)は啄木より年下だが裕福な呉服屋の息子[10]というから、彼が印刷代などを出捐したのだろう。後にこの委託金のためトラブルになっている(大信田は盛岡地裁検事局で「告発の覚えなし」と啄木側についている[11]。
戦争の影響でヒトとモノが地方にあった
明治期に『地方文芸雑誌』が活発だった理由は以前に詳述したが、戦後の一時期に『地方誌』が隆盛だったのは「戦争」が影響している。空襲があったのは日本の大都市や工業地帯である。そこでは印刷所が焼け、版元や作家など文芸雑誌に関わる人々が罹災し、郊外の実家や縁戚の家へと疎開した。そのため昭和二十年八月の終戦時にはむしろ戦災の被害が少ない、郊外や山間部の方が、大都市や港湾部よりも資材や人材の面で優位であったのだ。
札幌でも『札幌市史』が、印刷機能の温存と「疎開作家」について記録されている。
「戦後は自由が保障されたこともあって、文学活動は一挙に盛んとなっていった。特に北海道には疎開者、引揚者の中に優れた人材もおり、全道的に活況を呈していた。中でも札幌は空襲を受けず、印刷所が機能し、印刷用紙にも恵まれていたので、東京の出版社が数多く移ってきており、それにともない文学者の疎開、移住もみられていた。これらのこともあって昭和二十年(一九四五)から二十四年にかけては、札幌は空前の出版ブームを迎え、文芸出版物や文芸誌の刊行が相次いでいた。」
(札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ「戦後の文学状況」https://adeac.jp/sapporo-lib/text-list/d100050/ht015620 2024/03/09)
昭和四十年以降まったく地方文芸誌がなくなったわけではないが、『趣味誌』界との絆は薄く、文藝同人雑誌との境界があいまい、あるいは完全に『文芸同人誌』化している。
戦後の『地方文芸雑誌』と『文芸同人雑誌』とは、どこが異なるのだろうか。
それは「地方誌界」を形成していた『地方文芸雑誌』は、誌界の人材交流が盛んで日本全国が投稿者と購読者の対象であったことが特徴だろう。そして『仲介広告誌』の名残りともいえるが会員の「無料広告」欄が設置されていることも挙げられる。
対して、『文学同人雑誌』は、もちろん門戸は全国に開放されている形はあるが、やはり構成員が地域・学校・知人など『地方文芸雑誌』よりも人材の縁が深く濃い関係にある。
また、発行・製作者の年齢層は『地方文芸雑誌』よりは高めであり、年齢・技術の面で『地方文芸雑誌』よりもアマチュア要素が薄くなる。ともすれば出版知識が豊富だったり、出版業界に縁故があったりと、編輯面や販売面で『地方文芸雑誌』よりも完成度やプロ度が高い。
『地方文芸雑誌』が書店販売される例は希少だが、『文芸同人雑誌』は同人の縁故、伝手で地域の書店店頭に置くことは可能であろう。
ただ、出発が『地方文芸雑誌』で途中から『同人雑誌』になったものや、時代が進むに連れて両者の境界例となる雑誌もあり、明確な線引きは難しい。
仕分けが可能ではない部分として考慮されるのは、例えば下記のものであろう。
- 会費か一部定価か
- 原稿料支払いありか、逆に掲載料金負担があるか
- 商業広告の掲載の有無
- 取次経由の書店販売ありか、会員購読のみか
- 印刷方法(活版、謄写版印刷)
これらの要素が複合することで、プロ志向の営業雑誌から友人同士の発表媒体までスペクトラムを形成する。
長期間は継続しにくい中で
誌面を埋める原稿の集まりが悪くなり、資金繰りの悪化に追い込まれるという点では『地方文芸雑誌』も『文芸同人雑誌』も同じ悩みを抱え、十年継続する雑誌は稀有である。
しかし『北方文芸』(札幌市、北方文芸刊行会。[12])は二十九年間発行し休刊。
戦後、組合内のサークルで文学活動が盛んになり、公務員、郵便局、電電公社、国鉄、日通などが同人雑誌を発行したが『全逓文学』も昭和三十四年から平成十一年まで五十年を刻んでいる。
『足利文林』(足利市役所の三田忠夫が創刊、のち中島粂雄発行)は三十二年間の長きにわたり発行していたが平成二十四年に終刊となった。
同人雑誌で一番長いのはおそらく『文學草紙』(昭和十四年~平成二十年)の六十九年間かと推測する(文学同人雑誌以外ではSF同人雑誌『宇宙塵』が昭和三十二年から平成二十五年までの五十六年)。
私の知っている『地方文芸雑誌』系文芸誌では、作詩を中心とした『はーぷじゃーなる』(大阪)と、美祢市の田園文芸雑誌的な『ふるさと』が昭和六十年前後までは発行されていた。
【注釈】
[4] 『映畫サロン』(東区長塀町・三晃社)
[5] 『テラス』(中林区大船町・テラス社)
[7] 『映畫新報』(週刊、長町大窪谷・映畫新報社)
[8] 『映畫展望』(福岡市住吉・三帆書店。活版十五円)
[10] 齋藤昌三によると、大信田落花は盛岡の呉服店の若主人だったが株に手を出して落魄、細君とも別れて大震災後は、齋藤のところで四、五年居候生活をして、文学の年表作りの手伝いをしていたとのこと。大信田から白井鉄太郎を紹介され、白井から平凡寺を紹介されたという縁があるという(齋藤昌三「少雨荘交游録」)。
[11] 啄木の『渋民日記』によると、沼宮内警察分署長から委託金費消の嫌疑がかかっており、雑誌『小天地』(盛岡・小天地社、明治三十八年九月に新詩社の同志、大信田落花と創刊、一号限りで終刊)の件で大信田落花とのことを啄木は尋問された。落花へ手紙を出し聞いてみると、告発のことは心当たりがないという。啄木は落花と友人であるので「これは誰かの悪意ある企画に相違ないと覚った」という。ある一派から妬み嫉みを受けて陥れられたと推測した。啄木が無実であっても警察沙汰になったことが世に知られれば評判を落としたり、啄木を苦しめたりすることが出来ると考えてのことではないかと。
次に盛岡地方裁判処検事局から葉書が来たので落花を訪ねると、何も悪意を持っておらず当然もてなししてくれる。検事局に出頭したところ尋問された。「予は有の儘答へた。さらば大信田をつれて来いといふ。すぐ伴ふて来た。検事は大信田に訊問した。その答が無論予の言と同じ事であつた。予はかくて何事もなく飄然として裁判処の門を出た」と、嫌疑は晴れたという。
[12] 前市立小樽文学館長小笠原克氏が中心で昭和四三年から発行、平成九年以降は休刊。北海道の場合、紙媒体は他県とは異なり『財界さっぽろ』等、各分野の雑誌が独立創刊されることが多い。
『北方文芸』は『地方文芸雑誌』界とは無縁であるが、同人雑誌でもない。