syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

昆虫採集セットの青・赤色水について

【「昆虫採集セット」の色水化について試論】

はじめに

戦後の玩具版「昆虫採集セット」には、殺虫液と防腐液として赤・青色の液体が小瓶に入れられて同梱された。  
この液体は、本来の機能としては、其々採集直後の昆虫を速やかに殺し、標本として保存するための腐敗防止を意図した、という理解が本邦の「玩具版昆虫採集セット史研究業界」における通説である。

 問題の所在

しかしながら、薬剤に赤・青の着色が成されている理由については、永年にわたり明確な説明が存在しない。  
一説には、「プラ容器における赤と青が量産容易で廉価であったため」とする説もある(EXPO鴻池氏談)※この説は内容液が無色であることを前提とする。

近年、ネット上では昭和五十年代頃以降に市販された廉価版の採集セットでは、液体が殺虫剤や防腐剤としての実効的な化学成分を欠き、単なる着色水に置換されていたとの指摘も見られる。

斯様な変化は、教材用品としての製造コストの抑制や、安全性の配慮といった実務的理由に加え、視覚的な演出効果が優先された結果であると考えられる。

後期の玩具的「昆虫採集セット」に於ける赤・青色の液体は、薬理的効果が無力化された象徴的な色水であり、視覚的・玩具的演出に重きが置かれていた可能性がある。  
つまり科学的・実験的な印象を与える「象徴的な色水」を同梱していたに過ぎないと予察される。

 赤・靑液の新説を提起する

筆者は、上記も踏まえ此の赤・青の着色液の由来に関する新たな仮説を提示したい。  
それは、戦後昭和二〇年代後半に行われていた「蛙の解剖実習」に於いて用いられた「色素注入」の手技に着目するものである。

当時の理科実習では、ゼラチンに着色料を混合させた液体を用い、解剖対象の蛙の体内各部に色素を注入する手法があった。  
具体的には以下の様な配色と注入部位の対応が見られる。

- 心室に「朱色」のゼラチン液を注射  
- 消化器に「群青」色 同上  
- 膀胱に「黄」色  
- 肺には「無色」  

色素液を緩徐に注入し、冷水中で凝固させた後、ホルマリン液を充填した瓶にて保存標本とした。  
蓋し、色別によって臓器部位を識別しやすくするための工夫であったと考えられ、視覚的理解の教育手法であろう。


さて、注目すべきは「解剖器セット」および非玩具的性格を帯びた「昆虫採集用具」の両者が、何れも当時の教材製造業者(例えばトンボ刃物)によって製造されていた点にある。

そもそも昆虫採集セットには「本格理科教材としての実用的な器具で構成した品」(東京昆虫材研究所等)と、「小物玩具として流通した廉価品」の二系統、更にその中間的業者(文具メーカー)が混在して存在しており、玩具的業者は本格的セットをモデルとして参照している節がある。  
ということは玩具的業者は「解剖器セット」にも通じている。

そこで、解剖実習用教材に於ける「色素による可視化」という教育的知見を、玩具版「昆虫採集セット」に同梱される赤、青色の液体に実質的な薬効を持たせない事に対応する際、援用された可能性が高いと推察する。

機能を持たぬ色水であっても、子供の興味を惹く「理科的イメージ」を演出する上で、赤・青の液体は商用として一定の象徴的意味を持っていたのであろう。

結論

薬剤から着色水への移行は、単なる経済的・制度的理由だけでなく、かつての理科教育における「色素注入」体験の記憶を踏まえた、教育的意味づけの転用と見做すべきである。  
この新たな「視座」は、本邦における玩具版「昆虫採集セット」文化史の展開を理解するうえで、教育的記号性に着目する重要な「補助線」を提供するものと確信するものである。