syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

青少年の同人雑誌出版の現実性と経済

 


 はじめに

※注 筆者が本項で「同人雑誌」と表記しているのは戦前には「機関誌」を「機関雑誌」と呼ぶように、「誌」ではなく「雑誌」の二文字を接尾していたからである。同時に現代の「同人誌」と差別化する意識もある

(現代のいわゆる"同人誌"は本来の意義から遊離しており、「コミックマーケット」の慣習が普及したことで、「同人」でない「個人」が、巻号がインクリメントされない「冊子」または「単行文集」を発行しても「同人誌」と謂う現実がある)。


明治期から戦前期にかけて、青少年が活版印刷による雑誌を自費で刊行することが可能であった経済的背景について考察する。まず、大正期の同人雑誌においては、八〇頁前後・千部程度の印刷を、各同人の拠出金五円から十円程度で実現していた具体例が複数確認される。こうした事例により、活字印刷が当時の若者にとって必ずしも非現実的な選択肢ではなかったことがわかる。

続いて、当時の印刷所が提示していた料金表をもとに、頁数や部数ごとの価格体系を整理すると、少部数でも比較的低コストで印刷が可能であったことが実証される。とりわけ、大正末から昭和初期にかけての印刷費低下の傾向は顕著であり、物価指数や藤沢恒夫の証言を手がかりに、この時期に私費による雑誌刊行が急速に広がった理由を読み解くことができる。

また、昭和八年版『出版年鑑』の記述によれば、震災後の印刷業界は料金の下落、材料費の上昇、賃金格差、さらには過剰生産による競争激化に直面していた。婦人雑誌の付録競争によって大量印刷の需要が増し、大手印刷会社が下請体制を整備したことも、小規模な出版に好影響を与えた可能性がある。

さらに、実録的小説や回想記からは、同人費の滞納や集金未収、金銭管理の不備といった現実的な問題が浮かび上がる。印刷所との価格交渉や同人間の摩擦といった困難を乗り越えながら、雑誌の継続が模索されていた。

最後に、昭和初期の教育実務書に基づき、学校文集の編集や印刷、会計管理の実際を復元すると、費用見積や印刷交渉を生徒自らが担っていた例が確認できる。これらを通じて、当時の印刷料金の低廉さと出版実務知識の普及が、青少年による雑誌刊行を可能にしていた歴史的条件として機能していたことが明らかとなる。

一人五円で雑誌を出す――大正期の同人たちと印刷費の実態

大正期における同人雑誌の印刷費について検討を進めたい。まず、大正六年に創刊された『異像』という同人雑誌の例がある。活版印刷で八〇頁、二百五十部の発行に要した経費は五、六十円程度であったと記録されている[1]

この五十円を現代の貨幣価値に換算すると、「企業物価指数」によって大正六年は令和六年の九五二倍にあたり、四万七千六百円となる。つまり一部当たりの単価は約一九〇円である。なお、この雑誌は「帝國大學獨逸文學科」の学生七名によって学費のなかから拠出され一人頭七円強で、現代の物価換算では六千八百円となる。当時の学生の趣味としての金額としては高額すぎない範囲といえよう。

続いて、大正五年二月に創刊された第四次『新思潮』を取り上げる。五名によるもので、創刊号は六十頁、七百部を発行、雑誌制作に要した費用は約六十円であった。第二号以降は五百部を印刷し、毎号の費用は四、五十円程度とされる。

一人あたりの負担は毎号約十円、現代換算で約一万四千円(大正五年の企業物価指数は令和六年の一、一九七倍)であり、一部単価は百二円となる。ただし、同人の人数が五名と少なく、一人当たりの負担額が大きくなっている。

また、大正六年頃に江口渙ら五人が『星座』という同人雑誌を創刊している。こちらは一人あたり五円、合計二十五円で発行に至ったと、大正九年『文章倶楽部』(新潮社、五巻十二号)に記録されている。

「私達同人が『星座』と云ふ雜誌を一つやつて見ようと云ひ出したのは、大正五年の十一月當時で、佐藤春夫、木村幹兩君の發意であつた。丁度その頃久米、芥川の四代目『新思潮』が盛んにやってをる折抦で、私達同人もそれに向ふを張つて大いにやつて見る考で始めたのであった。當時の同人は佐藤春夫君と木村幹君と私と東京刊行社の經營者久保勘三郎君と灰野庄平君とであった。一人が五圓づつの出版費でやり出すことになり、木村君が編輯人となつたし、私が發行人になつた」

一人頭四千七百円となり、金額的には『新思潮』の半額以下であり、より無理のない設定であったといえる。

さらに、大正十五年には『街』という同人雑誌が早稲田高等学院の学生たち十三名によって創刊された。作家の寺崎浩は、

「『街』の創刊は大正十五年四月のことだつた。まだぼくたちは早稻田の高等学院に在学していた。同人費は五円(たしか五円だったように思う。)親元から仕送りをうけている学生のぼくたちにはなんでもない金額だったが、それでも同人費はとゞこおりがちだつた」[2]

と、旧制高校生で仕送りを受けている身ではあるが、五円は「なんでもない金額」だと証言した。

五円は現代(令和六年)の約三千九百円であり、学生にとっても無理のない出費であったと考えられる。同人は十三名いたため、総額は六十五円(約五万八百円)となる。

ただし『街』には一部に疑問も残る。

大正十三年に梶井基次郎らが同人雑誌『青空』を創刊した際、寺崎浩の父が岐阜刑務所の所長をしていた関係から、印刷費が廉価のため同刑務所において印刷を行った。これを踏まえると、二年後に寺崎自身が関与した同人雑誌『街』の印刷も、同様に岐阜刑務所が選択されるはずだが、『街』は別の印刷所を用いている。

大正期においては、一人あたり五円から十二円の拠出をもって、数名(概ね五名から十数名)の若者たちが活版印刷による雑誌を継続的に発行していた実態が浮かび上がる。しかも、同人たちは多くが旧制高校帝国大学に在学する者であり、当時の就学率を考慮すれば彼らは中流以上の階層に属していたと見なせよう。このため、雑誌一号あたり十円前後の出資は、彼らにとってさほど過重な経済的負担ではなかったと推定される。

印刷費の内訳についても、具体的な数値が残されている

大正九年の名古屋における活版印刷料金を『名古屋印刷史』(名古屋印刷同業組合、一九三〇年)に依拠して確認すると、次のような価格が提示されている、

  • 組版料金:五号活字、四六判・八十錢以上/菊判・一円二十錢以上
  • 印刷料金:千部以内一頁に付き四六判・二十五錢以上/菊判・四十錢以上

仮に四六判三十二頁・千部刷の雑誌を制作する場合、組版費が二十五円六十銭、印刷費が八円、合計三十三円六十銭となる。

さらに大正十三年の名古屋では、

  • 組版料金:五号活字、四六判・一円以上/菊判・一円五十錢以上
  • 印刷料金:千部以内一頁に付き四六判二十五錢以上/菊判・四十錢以上

で、同様の条件では組版三十二円、印刷八円、合計四十円となる。物価上昇があったのか、やや高騰している様相が読み取れる。

こうした実態を踏まえ、同人雑誌に詳しい作家の高見順も戦後の回顧で、

「わたくしが出發した大正末期からは、丁度同人雜誌全盛時代で、月三圓なり五圓だせばできたのですが、(略)殊に戦後は簡單に同人雜誌が出せないようですから、再び投稿雜誌の比重はぐんとふえてきていると思います」[3]

この証言は、戦後の第二次『文章俱樂部』の訪問記者に述べたことだが、大正末期における同人雑誌制作が、若者の拠出可能な範囲内で成立していたことを如実に物語っている。

加えて、月々の仕送りや学資の一部を流用することで、雑誌制作への参加が現実的な選択肢となっていた。こうした事実は、出版草創期における青年層の知的欲求や創作意欲が、経済的に完全には自立していない学生層においても、具体的な出版活動として結実し得たことを示している。「同人雑誌」というメディアが、知的表現の媒体としての機能に加え、青年文士たちの社会的ネットワークの形成にも寄与しており、戦後に展開する同人誌文化にも通じる重要な萌芽的契機として位置づけられるだろう。

 

[1] 『文章俱樂部』(五巻十二号、新潮社、大正九年

[2] 寺崎浩「同人雑誌『街』の思い出」『文章倶楽部』5(5/6)、牧野書店、1953-06

[3] 高見順「作家訪問」『文章倶楽部』第四巻第九・十号、牧野書店、1952-09

  なぜ同人雑誌は量産されたのか

前項で、同人雑誌という出版形態が当時の若者にとって十分に現実的であり、自己表現の場として社会的に成立していたことが判明したが、その下支えとして物価の下落が関係しているかどうかを検討する。

「企業物価指数」の推移を見ると、令和六年(2024年)を基準とした場合、明治四十四年(1911年)から大正四年(1915年)までは、一・四八四倍から一・四四八倍の範囲で比較的安定的に推移していた。ところが、大正六年(1917年)には九五二倍前後に急落し、その後、大正七年(1918年)から昭和四年(1929年)にかけては、七二六倍から八四二倍の水準で推移。特に大正八年(1919年)から大正九年1920年)にかけては、五九三倍から五三九倍という底値を記録しており、物価水準の大幅な下落が確認できる。

このような物価安の背景には、第一次世界大戦後における国内経済の過熱とその反動として訪れたデフレーション局面が存在したと考えられる。印刷業界においても同様に費用の低廉化が進行したと推定される。

この点については、同時代の関係者による証言がいくつか残されている。たとえば、作家・藤沢恒夫は大阪高校在学中に同人雑誌を発行し、大正十四年三月、二十一歳の時には、後に高い評価を受ける『辻馬車』を創刊した。彼は著書『私の大阪』(創元社、昭和五十七年)において、当時の状況を以下のように回顧している。

「当時は全国的に同人雑誌ブームの時代と呼ばれたほどに、各府県から大学・高校・その他の専門学校の学生たちを主体とした雑誌が百冊以上も刊行されていた。物価が安くて雑誌が出しやすかった関係もあったろう」

この証言からは、同人雑誌の制作が広く展開された要因の一つとして、物価水準の低下が印刷費用の低廉化を招き、それが学生層による雑誌発行の現実的条件を支えていたことが判明する。限られた資金しか持たない青少年層にとっても、自己表現の自主的な雑誌制作が現実的に実行できる条件が整っていたのである。

同様の見解は、同時期における作家・菊池寛の発言からも確認できる。大正十一年に著書『文藝春秋』において、印刷費の低下と同人雑誌の増加傾向の関係について次のように記述している。

「同人雜誌の績出應接に暇なし。紙代印刷代の低下せしためなりと云ふは皮肉にして、作家凡庸主義の影響なりとなすは、余の自惚なり」[1]

これらの記述は、印刷費用や用紙代の値下がりが、同人雑誌の勃興を後押しした一因であるとの見解を示す。物価の下落が雑誌制作を加速させたという実感が、文中から読み取れ、大正半ばから末期にかけては、過去に比べ極めて低廉に同人雑誌が制作できたようである。

この制作環境の変化は、戦後において「同人雑誌全盛時代」と呼ばれる状況を回顧した高見順の次の発言とも一致する。

「大正十四年前後の實に空前絶後とも言うべき同人雜誌全盛時代のことを思い出させられた」(高見,1958)

と、言うように、若者が実行可能な文化活動、「同人雑誌全盛時代」が到来したのではないだろうか。

一般には大正十二年の関東大震災前後から昭和初期にかけて、空前の同人雑誌ブームがあったと言われていることとも符節が合うが、筆者は関東大震災以前から印刷料金が低廉化して同人雑誌を製作する動きが顕著となり、大戦後の不景気が到来したあとも、一旦生まれて育った文化活動としての同人雑誌製作は継承されて行われたのだと考える。そして同人雑誌の制作活動を長く継続させ得たのは印刷料金の値下げの維持に負うものであろう。

さらに、同人雑誌の台頭による影響により、「投稿雑誌」が衰退することに連動していたことが、当時の投書家出身の評論家・木村毅によって指摘されている。木村は「同人雑誌の出現」という文章において、次のように述べている。

「『文章世界』を頂点として、投書雑誌が衰微して来たのは、印刷費が低廉となって、青年の小遣い銭で優に同人雑誌がつくれるようになったからである」(木村毅,1979a)

木村は、印刷費の下落が同人雑誌の生産を増加した契機であることは的確に捉えているが、その背後にある経済的な構造変動――すなわち大戦後の物価下落や印刷資材の流通変化、地域印刷業者の増加といった側面には踏み込んでいない。

 

以上のように、大正中期から末期にかけての印刷費低廉化は、偶発的な好条件ではなく、国際的・経済的文脈のなかで必然的に生じた変動であった。中・高等教育機関に通う学生たちが、三円~五円程度の拠出によって同人雑誌を制作することが現実のものとなり、それまでの「投稿」という受動的形式から「発行」という能動的な出版文化へと転換する原動力ともなった。

この動向は、関東大震災以前からすでに始まっていたものであり、災害後の不況期においても、一度成立した若者の出版文化としての同人雑誌は継承されていった。その継続可能性を支えた最も重要な要因が、印刷料金の低廉水準の安定であった。

大正期における同人雑誌制作が「ブーム」として広く展開された活性化は、青年層の文学的・表現的欲求の高揚のみでは説明しきれない。

物価の下落と、それに伴う印刷費の低廉化という経済的要因によって、「同人雑誌」媒体が自立し得る基盤が整えられた。出版文化の歴史において、青少年主体による自主発行雑誌が制度外で機能しうる可能性を確立した重要な転換点であり、この萌芽は戦後の「同人誌文化」の基礎を形成する重要な歴史的契機として位置づけられるであろう。

 

[1] 菊池寛文藝春秋その一同人雜誌」『文藝春秋』、金星堂、1922

 

大正時代の「営業雑誌」の印刷料金

なお、大正十三年に刊行された『新聞雑誌の作方と読方』によれば、同人雑誌ではなく、営業雑誌においては、たとえば菊判二百頁の雑誌を一万部製作する場合、以下のような費用見積が示されている。

組版代・一頁の組版代一円五十銭×二百=三百円/紙代(菊判全紙・両面三十二頁取り)・一連二十円、一万部で六万六千枚+ヤレ紙で二千六百八十円/印刷・製本代・五百円」

以上を合算すると総計は三千四百八十円となり、一部あたりの原価は三十四銭八厘と試算される。

もっとも、ここから人件費や書店流通にかかる口銭等を差し引いた後の純益は、決して潤沢とは言えない。実際、同書においては次のような記述がなされている。

「雜誌社そのものゝ純益として、大したことはない。それでも親子三人位ゐの生活の資として、社員の二人も使用し廣告収入を謀り、小規模の雜誌を出して行くならば、内容や遣り方にも據るが、先ず三千部も賣れたらいゝとされている」(住谷,1924)

この証言によれば、五百円程度の粗利が得られれば、三千部規模の営業雑誌であっても、家族単位での生活基盤を成し得たことがうかがえる。

なお、当時の貨幣価値を現代と比較するのは一概には困難であるが、銭湯の入浴料を基準とする換算(大正十三年から令和五年にかけて約一千百倍)を用いるならば、五百円はおよそ五十五万円に相当するものと推定される。

震災と円本ブームがもたらした印刷料金の乱高下

前項で印刷料金の低下があったことを検討したが、関東大震災直後の一時期においては、印刷料金が一時的に急騰したとの記録もまた、複数存在する。

印刷図書館館長・沢田巳之助は、当時の印刷業界の様相を以下のように述懐している。

「震災直後、罹災工場の機能が停止したため、活動している印刷会社において、料金上昇の傾向が出ている。活動出来る印刷工場に仕事が集中し、出版社としては発行を急ぐため、組版代にしても従来A5判二頁一円位だったものが、一円五十銭でも一円八十銭でも良いからやってくれ、ということになるとやはり商売だから、値の良い方でやることになる。時局に便乗したわけではないが一時的に料金が高騰し、印刷会社が儲かった時期であった」[1]

この証言は、東京における罹災印刷所の壊滅と、非罹災地域への受注集中という地理的偏在が、短期的な需給の逼迫と価格高騰をもたらしたことを示す。震災以前の料金水準では、印刷を委託することが困難で約二倍に高騰するような局面も一時的に生じたのである。

同じ東京のエリアでも被災度に濃淡があり、神田/深川/芝/本所/日本橋区は火災で印刷工場が焼失したが、牛込区等には残った印刷所が多く、下町の印刷工場の復興が遅れている間に、出版社からの注文が殺到したということだ[2]

大阪でも同様に東京の出版社からの注文が続いたという。東京の至誠堂が『井上英和中辞典』の注文を翌日に持ってきたことを皮切りに、三省堂が『コンサイス英和辞典』を大阪に発注したという[3]

二倍料金がいつ頃まで続いていたのか不詳だが、印刷工場の復興には時日が掛かるため、一年程度は震災以前の五、六十円にて、同人雑誌を製作することは、東京の一部地域で困難な時期があったことが推測される。

しかしながら、印刷料金の長期的趨勢としては、震災後もおおむね低落傾向が継続していたことが指摘できる。たとえば『日本印刷年鑑一九五三』(日本印刷工業会、昭和二十八年)では、大正十年に東京雑誌協会が印刷料金の引き下げを求め、東京印刷同業組合がこれに反発した経緯を紹介している。

「大正十年に東京雑誌協会が印刷料金の値下げを要求、東京印刷同業組合は拒絶したが、組合員に対し長文の警告文を発した。要旨は、『印刷物は需要が一定しているから値下げしても需要が増加するものではない。ゆえに、結束して値下げしないように努力せよ。一旦引下げるとそれが標準相場になる惧れがあるから、自殺的行為である』しかし、このような警告を発しなければならなかったことは、印刷料金が次第に低落しつつあったことを示している」

震災後の価格低下の背景には、大正末期より始まった「円本ブーム」の影響が大きいと考えられる。一冊一円という破格の廉価で文芸全集を頒布する「円本」は、大量印刷を前提とした出版形態であり、印刷業界はこれを支えるべく輪転機の導入や自動化製本機械の設置など、大規模な設備投資を敢行した。震災復興の過程で最新設備を導入した企業が多かったこともあいまって、印刷業全体の生産性は飛躍的に向上し、それが結果として印刷料金の低廉化に結びついた。

ただ、円本ブームの方があとで、震災から復興する際に最新の印刷機に変えていたという記述もあるし、円本に対応して機械化が促進したという証言が「活版印刷の基礎知識」にある。

関東大震災で多くの印刷所は壊滅的な被害を被ったが、再建するにあたって多くの印刷会社は当時の最新の印刷システムを導入し、「円本」などの大部数を生産することが可能となる素地を作った」(八木書店, 2015)

震災後の「円本ブーム」で、書籍の発行部数はこれまでより十倍になったという。そのため大量印刷に耐え得る体制も必要となる。印刷と造本の技術が進歩したことで、結局は量産による低価格化が実現されることに繋がった。

「1万部も出れば大ベストセラートといわれた当時、何十万という単位の仕事が4~5年もつづいたのである。印刷・製本工場は、発想を転換して大量生産に対応できるよう設備改善に取り組まねばならなくなった。製版・印刷技術の改良が急速に進み、高速輪転機が導入された。製本関係も機械化が進んだ。紙折機が導入され、糸かがり、丸味出し、パッキングなどの工程も機械化されるなど、合理化が促進された」(ダイニック,2003)

と、製本所の社史も「円本対応」で技術革新が促進されたことを伝えている。

この印刷技術革新は「地方文芸雑誌」に影響をもたらしたか。当時は大部数の目安は活版印刷に於いては三千部が目安だったというので、千部未満も多い「地方文芸雑誌」には高速印刷の面では直接的な恩恵があったとは考えにくい。

活版印刷で版の耐久性から、三千部は、書籍雑誌の製作費の一つの基準で、印刷代金・製本代金とも、三千部以下には割増料金が、以上には割引料金が適用された」(編集部,2015)

という。

さて昭和を迎え、世は昭和二年の「金融恐慌」に入っていたが、円本以外の雑誌や文庫本の発行も盛んであり、昭和三年でも出版界周辺の紙問屋・製本業・箔押業は、売上が隆盛だった。

しかし、印刷業界の内実は異なっていたことを、凸版印刷が社史の「円本ブームとその後の不況対策」項に於いて、『印刷雜誌』昭和三年十二月号の記事を引用しつつ当時の状況を説明している。

「昭和三年は、不景気を喞【ルビ:かこ】たれながら、印刷界は大多忙であった。即ち仕事は、『非常に』といふ形容詞を附し得るほど多忙でありながら、印刷料金は亦た『非常に』低下するといふ、不思議な現象を示した。之れは印刷界に妙な競争が絶へず、維持し得べき料金率を維持し得なかったことに基因するけれ共、一面には続出せる円本や多部数の雑誌印刷の影響を被ったと見て宜いであらう」(凸版印刷, 1985)

円本ブームに便乗した印刷業は大量印刷と高速印刷に対応するため、設備拡張を行った。また参入する同業者も増加したため、市場で自社が有利になるには、受注量を増加させようと動いた。つまり料金値下げによって仕事を得る、過当競争に陥ったのだという[4]

この料金値下げは、円本ブームが終わった後も続いていたと『印刷美術年鑑 昭和八年版』は伝える。需要減少のため、料金の低下で誘引したという。

「圓本流行時代、印刷の大量生産に應ずるため機械の増設、設備の擴充を圖った印刷界も、圓本時代の解消と共に、之等の淸算に迫られたのであるが、之に績く七年度は諸材料品の暴騰にも拘らず出版界の不振、一般印刷物の需要減少のため、不當競爭が激化し引受料金は際限なく引下げられた」[5]

昭和五年に至っては、濱口内閣(濱口雄幸総理・井上準之助蔵相)の「金解禁」政策で、世界恐慌の影響も加わり、日本経済は不況となり、名フレーズの「大学は出たけれど」で代表される失業時代、東北の貧農家は娘を身売りする状況であった。不況で印刷物需要は低下、かつ印刷材料費の高騰が同時に進行した結果、昭和七年でも受注を増やすために印刷料金を下げていた[6]

もちろん業界はこの現状を等閑視せずに懇親会を設け、過当競争を回避する協定を結んでいた。その実効性は定かではないが、

「円本ブームの終了をみこし、料金低下を防ぐ目的で、東京印刷協和会が昭和四年十月に創立された。(略)既存の東京印刷同志会、東京印刷連盟会、十日会を合体したもので、東京の有力会社三十有余社を糾合した話合いの機関であった。無統制な自由競争下にあって商業道徳を無視するほどの価格競争に苦しんでいた各社は、深刻な体験から協和会の趣旨に賛同して協定料金維持に協力し、業者間の融和と懇親を促す効果をあげた」(凸版印刷, 1985)

東京印刷協和会が結成され、料金協定による競争制限を図る試みもなされたという。このように、大正末期から昭和初期にかけての印刷業界は、震災特需による一時的な料金高騰を挟みつつ、円本需要に対応した生産体制の拡充と、それに伴う構造的な料金低下の時代を迎えたのである。

なお、大正期に謄写版印刷機が学校を中心に普及すると、初期投資と手間暇は掛かるが活版よりは廉価な謄写版によって、個人・同人の出版が増加していく展開が生まれていく。

※ 蒟蒻版もあったが、資料によって異なるが三十~百部の印刷が限度であった。実際に筆者は試行していないのだが、蒟蒻版で頁物の雑誌を作る場合、その煩雑さからも、十六頁程度の雑誌でも二、三十部を刷ることが人力での限界ではなかったと推測する(寒天に紙をきちんと置いて、寒天の端を壊さないように注意してめくって剥がすという作業は面倒)。

 昭和初期における同人雑誌の印刷費用

昭和五年に発表された「同人雜誌は如何に編輯、經營されるか」では、当時の同人雑誌の印刷費用が詳細に掲載されており、青少年や在野の発行者が雑誌制作にどの程度の費用を要したかを具体的に知ることができる。

本文八〇頁、発行部数一〇〇〇部という仕様を前提に、その印刷費用の概算は以下の通りである。

・組賃:八〇錢(一頁)

・刷賃:二毛(一頁)

・製本:七厘(一部)

・紙代:三圓(一連)

・表紙、二度刷で紙共―十七圓(一〇〇〇部)

(これは極く安い印刷所でそうなので、印刷所によると組賃:九十五錢から一圓五錢、製本、一錢を取る所もある))(木村, 1930)

ただし、これらの価格は非常に安価な印刷所における最低見積もりに基づいており、実際には組版が一頁あたり九五銭から一円五銭、製本代が一部あたり一銭に及ぶ場合もあると記されている。上記の明細により合計金額は、

「約一二〇圓(カット代を合せて)の金がかゝる。(尚、この計算は、何もかも非常に安く見積つてあるといふことを忘れられない様に、へマをやると、八〇頁の雜誌、一〇〇〇部刷るのに、一五〇圓位は直きかゝるのである)(木村, 1930)

以上を合算すると、カット代を含めた総費用は約一二〇円に達するが、印刷所の選定や制作過程の齟齬によっては一五〇円を超過することもあるとされている。この金額を当時と現代との物価指数(一、〇二三倍)差で換算すれば、一二〇円はおよそ十二万三千円に相当し、一部あたりの原価は約百二十三円となる。

したがって、現代価値に換算すれば八十頁の同人雑誌を四~五百円程度で販売するという想定が成立し得る。また同人五人で負担する場合は一人、二万四千五百円となる。

さらに、同時期の別資料[7]によれば、印刷部数に応じて単価が逓減する制度が存在した。

「同人雑誌から五、六千部どまりまでの雜誌などだと四六判一頁當り千部未満四毛五糸、二千部まで四毛、三千部まで三毛五糸、五千部まで三毛」

と、部数増加による単価の引き下げが確認される。仮に八十頁・千部印刷の場合、印刷代は三十六円、加えて組版代(四六判9ポベタ組、頁当たり一円五十銭×八十頁)を合算すれば、合計費用は百五十六円となる。ただし、この金額に紙代や製本費用が含まれているか否かは資料上明記されておらず、不確定である。

 

以上の検討から、昭和初期における同人雑誌の印刷も、内容や頁数、部数に応じて費用に開きがあるものの、一定規模での発行は、工夫次第で若年層や学生グループの手にも届く範囲にあったと考えられる。

特に共同出資による費用分担、もしくは廉価な印刷所の選定によって、大正期と同様に現実的な発行が可能であったといえよう。当時の同人雑誌文化は、経済的ハードルが決して絶望的に高いものではなく、青少年に対する印刷経費においても自立的活動の基盤が成立していたと結論づけられる。

同人費を払わないヤツ、盗むヤツ

同人雑誌は、継続的な発行にあたり、印刷費をいかにして捻出するかという課題が常に伴う。そのため、月単位で徴収される同人費が、そのまま機関誌の印刷費用に直結しているとは限らない例も存在する。たとえば、高井有一の実録的小説『真実の学校』には、昭和七年当時における活版雑誌の印刷費用に関する具体的記述が見られる。

同書によれば、秋田市で「北方教育社」を結成し、綴方研究雑誌『北方教育』を発行していた成田忠久【なりた・ちゅうきゅう】は、同誌の印刷費用を三百部・四十頁程度の体裁で一号あたり四十五円と見積もっていた。この場合、同人費が月額七十銭であれば、三十名の同人を確保することで、月収二十一円、年間二百五十二円に達する計算となる。送料や雑費を差し引いても、年四冊の刊行が可能と見込まれた。残る二百七十部は一部三十銭で頒布し、誌代収入によって経営を補うという構想であった。

しかし、成田の試算は現実には破綻した。購読者からの誌代はしばしば滞納され、同人費の未納も相次いだため、結果として収支計画は「捕らぬ狸の皮算用」に終わったと高井は記している(高井, 1976)

このような同人費の未納は、戦前・戦後を問わず、同人雑誌運営における恒常的な問題であった。同人誌の休刊・分裂の理由は、「文芸思潮」の対立という観念的な(高尚な)問題ではなく、生々しい金銭的トラブルに起因する場合が少なくない。たとえば、原田種夫(郷土玩具雑誌も発行した事がある)は、芥川賞候補作『風塵』において、実体験に基づく同人雑誌運営の金銭的困難を詳細に描写している。

小説中では、ある同人誌『どのごとんか』(「何のことか」の意。昭和十三年の北九州にあった雑誌『とらんしつと』[8]がモデルか)の印刷代が三ヶ月以上未払いであり、印刷所からは「入金がなければ印刷しない」と通告される。これに対し、主人公は以下のように述べる。

「元々儂たちの雜誌の經營を砥部に委しておくから不可んのだよ、砥部は同人費を半年も滯納しとるばかりでなく、月々の廣告料を厘錢も入れんからこんな事になる、丸で儂たちは高い同人費を出し合つて『どのごとんか』を砥部のため利用されとるみたいだ」

ここでは、同人の一人である「砥部」が、同人費および広告料を納入せずに作品発表だけを続ける姿勢が問題視されており、他の同人との間での不公平感が募っていたことが分かる。従来は「同人」という関係性ゆえに黙認されていたが、印刷所の対応により、事態は表面化した。

砥部は常に金銭の話になると逃げており、その一方同人雑誌を発行しているのは自分の手柄のように語っているという「食えない男」であったが、今回は談判しようとなった。

砥部は談判を受けた末に印刷費を支払うと約束し、勤務先の成金社長から「文化的運動への寄付」として百円を受け取るものの、それを印刷費には充てない。

その代わり、市役所の人事課長を通じて印刷所に圧力をかけ、「未払いがあっても印刷せよ」との行政的便宜を取り付けるという展開が描かれる。

『風塵』はフィクションではあるが、原田自身が『九州詩壇』『九州藝術』『九州文學』といった実際の同人誌に関与していたため、同時代の読者にとっては写実的描写と受け取られたであろう。

原田は戦後においても、同人費未納の常態化を嘆いている。昭和二十五年には『九州文學』誌上で次のように記している。

「日配閉鎖による資金の不流通による困難、賣掛代金未收、同人費未納などが經營難の原因である。この内で、我慢ならないのは同人費滯納四萬圓といふ數字である。同人の熱意のほどが疑はれてならない」[9]

同人雑誌では、同人規約において「同人は毎月○円を納入すること」「三ヶ月以上滞納した場合は資格喪失」と明文化されていることが多いが、実際には滞納者を直ちに除名する例は少ない。同人関係の継続や生活事情への配慮もあり、数ヶ月の猶予を設けることが通例である。除名処分が下されるのは、音信不通のまま一年以上にわたり滞納が継続し、かつ復帰の見込みが立たないような場合に限られることが多い。このように、同人費の滞納とその対応は、同人雑誌発行においては、理念や創作よりも現実的な問題として重くのしかかっていたのである。

(これは印刷費とは別の問題だが、どうも様々な資料を読むと真面目に同人雑誌に取り組んでいるのは数名であり、あとはそうでもない人が多い。そのためか同人雑誌から受賞者やプロデビューが出ると、ほとんどが瓦解してしまう。特に主宰者が受賞できずに会員の掲載作品が注目された場合、心中はおだやかではないだろう。与謝野鉄幹与謝野晶子の方が著名な時は面白くなかったようで晶子が気を使っていた事があった。吉村昭津村節子はたまたま結果としては夫妻でプロ作家となったが、途中は苦しいものがあっただろう。同じ目的を持つ者同志が「切磋琢磨」するのは理想ではあるが、ヒトには「妬心」があるので、人間関係は難しい)

また、会費の滞納のほか、同人雑誌における金銭管理の問題も看過できないだろう。現代のようにPCやレジスター等の会計補助装置が普及していなかった時代においては、売上金や集金金の拐帯・紛失といった事例は、同人雑誌に限らず企業や商店・団体に共通する深刻な懸案事項であった[10]。現金を扱う時代、集金や購読料の管理をめぐって内部トラブルが発生することは少なからず存在していた。

大正十三年の同人雑誌『ダム・ダム』で起きた事例を壷井繁治が自伝で記述している。

「わたしたち一同は手分けして広告取りに奔走し、いろいろの出版社はむろんのこと、薬屋、化粧品店から、南天堂筋向いの「スイート・コーナー」という小さなコーヒー店にいたるまで広告を掻き集め、それでやっと印刷代をととのえた。このように努力して出した『ダム・ダム』が、創刊号だけで潰れてしまった第一の原因は、経営の仕事を受け持っていた同人の●●●が同人費や広告料を着服して行方不明になったからである。(略)ある程度文学的才能を持っていた男だが、小柄で美しい妻君のために、街の化粧品店から香水を失敬してくるような盗癖があり、その彼に雑誌の金を扱わせたことは、猫に鰹節を与えたようなもので、わたしたちのうかつさであった。後に彼は窃盗事件で逮捕された」[11]

同人雑誌は、創刊することも廃刊することも比較的容易であるが、最も困難なのは「継続」である。その維持には、同人費の悉皆徴収/広告料の営業的獲得/金銭出納の管理/印刷費請求への適時な支払、さらには同人からの原稿収集とその選考・評価といった、多岐にわたる実務が求められる。これらはすべて、一定の組織的・経済的な処理能力と対人交渉能力を要するため、社会的経験や管理的スキルに乏しい青少年にとっては、極めて高度な遂行能力が必要とされる課題であったといえる。

 

[1] 沢田巳之助「新宿区印刷業界の歴史と思い出-勃興期から終戦まで康文社印刷所時代を回顧して」『印刷史談会』三十三、一般財団法人印刷図書館、年不明

[2]当時の大手印刷工場で被災を免れたのは、精美堂(後の共同印刷)、秀英舎であった。東洋印刷、凸版印刷(本所)、國文社、三省堂(神田三崎河岸)、中外印刷、三秀舎は倒壊・焼失などの被害を受けた。

[3] 谷本正「印刷界60年の潮流に生きて」『印刷史談会』二二、印刷図書館、1978

[4] 現在は、価格競争における「値下げの過当競争」について報道される機会が少なくなっているため、その深刻さや実態が十分に理解されにくい状況にある。「過当競争」問題を想像しやすくするため、昭和三十年代の食品業界における事例を参考として挙げたい。当時、「魚肉ソーセージ」や「即席ラーメン」、「粉末ジュース」といった即席食品が相次いでヒット商品となった際に、いわゆる「二匹目のどじょう」を狙い、食品メーカーのみならず、商社、水産会社、さらには製薬会社といった異業種までもが市場に参入した。企業はシェア拡大やスーパーマーケットにおける「目玉商品」としての採用を目指し、他社よりも低価格を提示する「値引き」戦略をとった。しかし価格の競争は、一時的には流通量を増加させる効果をもたらしたものの、過度な値下げによって製造原価を下回る「不当廉売」に至り、結果として収益が確保できず事業からの撤退や廃業に追い込まれる企業も少なくなかった。

[5] 「業界槪况」『印刷美術年鑑昭和八年版』、大阪出版社、1933

[6]共同印刷の社史では具体的な印刷料金の単価引き下げ額を記している。通し料金は活版平台と輪転は約三割引、平版では約五割引であった。

「印刷業界は得意先争奪が激化し、印刷料金の引き下げを招くことになる。昭和二年の前期と、料金値下げがはじまって一年後の昭和八年前期の印刷料金単価をくらべてみると、和文組版の定期ものが一ページ平均一円七十一銭から、一円五十九銭へ。活版平台が一通し平均で四百三十九系から三百七糸へ、活版輪転が九十九糸から六十七糸へ、平版が六百四十八糸から三百十八糸へと、それぞれ大幅に低下している」

松尾博志「三号館に研究室―民間印刷会社ではじめて」『創造の系譜:共同印刷の80年』、共同印刷、1977

[7]郡山幸男『広告印刷物の知識』,誠文堂,1930

[8] 『九州文學』は『とらんしつと』『九州藝術』『文學會議』と第一期『九州文學』の四誌が合同した

[9] 原田種夫「九州通信2」『日本未來派』第三十四号、日本未來派、1950-04

[10] 昭和三十年代以前に生まれた世代にとっては、学級会や学生サークル活動などにおいて「会計係」を決定する際、「〇〇さんなら安心だ」「△△君、盗んじゃだめだぞ」という冗談まじりの言葉が交わされる場面が想起できるだろう。これらの揶揄的表現には、金銭の取扱役には信用が不可欠であるという時代特有の通念が反映されている。実際、現金の一部流用や領収書金額の改竄、あるいは売上金の持ち逃げといった不正は、稀ならず発生しており、理由を公にせず懲戒処分や解任に至る事例もあったのである。例えば筆者は昭和五十年代に五、六件の金銭拐帯・横領事件(レジからの窃取、売上報告の虚偽、商品買い付け代金の着服、領収書の改竄等)を見聞きしている。またスーパー・マーケット勤務時代は毎日複数名の万引き犯が捕まっており、ヒトは隙あらば不正を働くものだと認識するに至ってしまった。

[11] 壷井繁治『激流の魚-壷井繁治自伝』、光和堂、1966