syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

【番外】「未知の問いを作る」、「日本十進分類法」によるアイデア発想法とは

 

なぜこの日本十進分類法によるアイデア・発想法を公開するのか

もう年も年なので、あと二十年も生きるかどうか分からない。

ならば、自分の中だけにしまっておくよりも、もしも利用できる方がおられるなら、その方が本望である。

そこで今回は、私が長く使ってきたアイデアの出し方の一つ、その名も「日本十進分類法(NDC)発想法」を公開します。

 

その方法とは、図書館で本の分類に用いられている「日本十進分類法」(NDC)を、企画・アイデア・発想の際の道具として転用するものである。

 

日本十進分類法は、本来は知識を整理するための分類表である。

しかし見方を変えれば、これは「森羅万象をどう分け、どう俯瞰するか」という思想のかたまりでもある。

図書館では世の中で作られた膨大な書籍を数桁の数字(例えば日本のノンフィクションなら916)で分類して配架する(本の背表紙の下部に数字のラベルが貼ってある)。

その背後には、NDCという社会科学・自然科学など世の中の「知識」全体を見渡すための構造があるのだ。

アイデア出しの発想法として有名なものにはKJ法、ブレーンストーミング、マインドマップなどがある。

しかし多くの発想法は、最後のところで結局は自分の頭の中に頼ることになる。

ところが人間は、自分自身が蓄積してきた「既知の智識」という枠・制限の中でしか考えられないことが多い。

「他人が発想」して「あっ」と驚くことはあるが、自分自身から思いも寄らぬ視点というものは、なかなか出てこないのである。

そこを突破し、自分の発想で自身が驚くために、私は日本十進分類法を使ってきた。

「NDC発想法」とは何か?

この方法の要点は単純である。

読書が好きな程度に知的な方であれば、誰でも使うことができる。

考えたい対象(=論点・概念・主題などのキーワード、これを対象Xとする)に対して、日本十進分類法の各分類を機械的にぶつけていくだけである。

対象Xに対して、NDCの区分表をみて、1から順番でもいいし、適当な分野からでもいいので、哲学、歴史、法学、経済、医学、宗教、文学、建築、交通、情報、教育、労働、福祉といった各領域を、半ば強制的に対象Xに組み合わせて、考える。

この「半ば強制的」というところが肝である。

人間の発想は、普通は自分の専門や関心の近傍しか動かない。

だがNDC発想法を使うと、本来なら結びつけなかった領域が無理やり接続される。

その結果、自力ではなかなか出てこない「未知の問題設定」や「考えもしなかった主題」が生まれるのである。

これは、単なる連想ゲームではない。

整理のための分類表を、未知の項目への接続を発見する装置として使う方法である。

言い換えれば、対象Xを社会全体の構造へ再配置する技法である。

とくに、論文の「問い」を考えるときや、一つの主題について複数の論点を洗い出したいとき、書籍の全体構造(章・節・項目)を作るとき、あるいは新しい学問領域の見取り図を作りたいときに、非常に役に立つのである。

「NDC発想法」を『患者学』で試したら

以前、私は医療系雑誌を作っていた関係で、医療政策などを勉強していた。そのとき、

医師には「医学」の学問があり、看護師には「看護学」の学問があるのならば、患者に関する学問があってもよいのではないか? いやむしろ在るべきでは

と考えた。

そこで誰に頼まれたわけでもないのに、どこかの大学へ「患者学部」を設置することを提案する、ということを考えて企画書を勝手に作った

しかも企画案だけでなく、患者学部で学ぶべき科目とその解説、つまりシラバスの見本まで作ったので、いっけんすると新しい学問の体系をゼロから案出したことになる。

(なお、この企画書をもとに各大学に電話営業をしたが、そもそも大学に学部を作る際に重要な視点が抜けていた、これは関係がないのでここでは記述しない。一番後ろに後述する)

しかし当然ながら、「患者学」という既成の学問体系は存在しない。

そこで私はNDC発想法を使ったわけである。

日本十進分類法の各項目に対して、「患者」という語を順番に与えていった。

たとえば「法律」と組み合わせれば、「患者と法律」という論点が立ち上がる。

そこから、「患者の権利擁護、自己決定権、インフォームド・コンセント、生命倫理、医師の職業倫理」といった問題群が見えてくる。

さらに「患者の権利と責務」の周辺には、患者の権利に関する国際宣言や、諸外国の制度、権利擁護関係(アドボカシー、エンパワメント、セルフエフェカシー)の概念や歴史などが連なっているため、医療関係で使用される人権意識や自己決定(服薬コンプライアンスからアドヒアランスへ)の考え方の学問を、「哲学史」的に取り込む必要があることも分かる。

 

またNDCの「9」にある「文芸」と患者を組み合わせると、結核療養所や入院先で文学サークルが作られ、同人誌が発行されてきた歴史が思い出される。

すると「患者と療養文芸」という切り口が立つ。

さらに、学問としては単に「療養所で同人誌を作った」とか「新聞の俳句欄に投稿した」などでは展開が開けない。

そこで、一ひねりすることが必要である。「病者・やまい・文学」の「三題噺」で、論文になりそうな主題を考えるのである。

「”病者の語り”とは何か―ナラティブ・アプローチの小児科での課題」

「日本文学における私小説と病いの関係性の深化-結核に於ける作家の表象」

「サナトリウムを舞台にした作品の系譜と変遷」

「完治しない病と折り合いをつけて生きる軌跡とそのあり方」

「隔絶された空間-病の社会性からみた『いのちの理論』への批判」

「クラインマンの「説明モデル」にケアマネジャーが介入することの是非」

(および各論点を諸外国と比較するなど)《以上は全く適当です》

様々な論点へ展開していくうちに、「病いの語り」をめぐっては、A・フランクの「病いの語りの三類型」、アーサー・クラインマンの説明モデル、グッドの議論なども参照可能であり、有用だと分かってくれば、それもシラバスへ採り入れる。

つまりNDC発想法は、「その対象に関する既存の学問がない」場合には非常に有効である。

ゼロから体系を立ち上げ、構成をする際の、骨組みの発見法として機能するのである。

今回添付したExcelファイルの「患者学」シラバス案も、そのような発想の産物である。

「NDC発想法」が開く視野と、その限界

この方法の効用は、学際的な視野を、思いつきではなく構造的に生み出せるところにある。たとえば「患者」という対象一つをとっても、患者+経済、患者+法学、患者+文学、患者+宗教、患者+建築、患者+交通、患者+情報、患者+労働、といった論点が一気に現れる。これは対象を全社会的に照射し直す方法であり、研究の入口として非常に強い。

別の例を挙げれば、私は以前、「おたく」が戦後に生まれた背景には、徴兵制度の消滅があるのではないか、と考えたことがある。普通、おたく論はメディア論、消費文化論、サブカル論、青年論の範囲で閉じがちである。ところがNDC発想法で「軍事」「国家」「徴兵」という語と接続してみると、戦前の日本では国家が男性の身体を統制していたこと、男らしさが制度化されていたこと、戦後にはその身体規律が崩れ、国家優先から個人優先へ移ったこと、そして個人趣味への没入が許容される社会が成立したこと、という連鎖が見えてくる。これは単なる思いつきではなく、制度史と趣味の文化をつなぐ視点である。

また、この方法は「専門家病」を避けるうえでも有効である。専門研究者ほど、既存研究の枠組みに閉じ込められやすい。だがNDC発想法は、分類上は隣接していない領域をあえて衝突させるので、既存学問の盲点を見つけやすい。

もちろん限界もある。NDCは近代図書館学に基づく分類である以上、インターネット文化、感情、サブカルチャーの細部、現代的な生活実感などを十分には整理しきれない。また、「分類にあるものだけを考える」という罠もある。分類されていない問題は、まるで存在しないかのように見えてしまう危険がある。

それでもなお、研究でも執筆でも最も難しいのは、しばしば「何を問うか」である。問いが立たなければ、調査も構成も始まらない。その意味でNDC発想法は、答えを出す技法というより、問いを作る技法としてきわめて有用である。整理の道具として知られている日本十進分類法を、発想のための装置として使う。私はこの方法に、まだ十分に活用されていない可能性があると考えている。

 

※大学に新規学部を設立する時に、重要なことは何か?

なぜ大学に、「新学問」として提案しようと考えたのか。

それは少子化を考えると、大学側も「学生の集客」のためにアイデアを受け容れてくれるのではないかと思ったからだ。

そして営業をしてわかったことは、重要なのはシラバスとか、教員・研究者の候補とかではなく、「その学部学科を卒業したあと、どうなる?」の提案が大事だったのである。

つまり「患者学部患者学科」を卒業した学生は、いったい何になり生活し、社会に役立つのか? を説明できるかということだ。

一つには「資格取得で就労ができる」という考え方がある。

そうした場合は、既存の資格(精神保健福祉士や介護士)は既に教育経路があるので、新しい資格の設立という大変なことも併せて考えないといけない。

「患者の権利を擁護し、社会での治療環境の向上を援助する職種」という主旨で「患者権利擁護士」などを考案し、この学部で学べばその資格が取得できるなどの特典が必要なのである。

そうでなければ、応募学生が集まらない。高校三年生が将来に対して明確なビジョンを未だ描けないとしても、単にその学科で学んでも就職時に役に立たない、潰しがきかないようでは受験者も生まれない。

その為にはまずは資格を国家資格にするために動かなければならないのだが、何より医療・福祉・介護の資格であれば、「資本主義」の原理によってその資格を持っていることで、資格者が就労し易いというシステムも必要となる(逆にいえば労働市場で資格者への需要が生じる必要がある)。

 

具体的に考えてみよう。

就労先を「病院」と仮定すれば、病院側が「患者権利擁護士」を「チーム医療」として雇用するメリットが必要だ。雇用しても特に何にも役立たないのでは採用しない。

そうなると、病院の収入の主力は「診療報酬」であるから、様々な「医療行為」に対して、「値付け」が必要となる。

つまり「健康保険」の「診療報酬点数表」に於いて、

「患者の権利と責務に関する『施設方針』を、患者権利擁護士の監修のもとで定め、恒常的に掲出し、同擁護士が1人以上常勤している場合は、月に1回のみ『権利擁護』算定料50点を算定する」

「2000点以上の手術を受けるの際に、常勤の患者権利擁護士が、医師の説明時に同席して患者に援助活動をした場合150点を算定できる」

などが、新規に収載されないと、病院が一生懸命に「患者の権利擁護」に取り組んでも、利益が生まれない訳である。

※「患者学体系」の例

 

 

 

 

おたく文化は突然発生したのではなく、戦前の趣味家・蒐集家文化の延長線上にある

第10項          趣味家が体現した観察・研究と創作・発信の両面性

近代における「趣味家」の多くは、同時に「蒐集家」でもあった。

彼らは単に蒐集を行うのみならず、木版画や和綴じ、孔版といった描画・製版・印刷に関する知識および技術を有していた。

そして彼らの関心は、浮世絵や江戸風俗に代表される「江戸趣味」、土器の採集を起点とする「考古学」的関心、さらには「土俗」の記録や土地の伝承の採集といった「郷土史」的な営為へと多岐にわたっていた。

また、郷土玩具や郷土史研究、寺社仏閣に対する関心も深く、具体的には、蒐印(御朱印蒐集)、絵馬や土鈴の蒐集、祭礼への参加、縁起物の蒐集、さらには故人の墓蹟探索などもが挙げられる。

さらに、彼らの興味関心は性科学やいわゆる「軟派物」(猥褻文書、春画、性神探訪、変態性欲に関する事例採集・記録や創作)にも及び(戦前〜昭和中期の通俗性科学では、同性愛・SM・フェティシズム等の性的嗜好は『変態性欲』『性的倒錯』として包括されることが多かった)、更には「変態性欲」的あるいはグロテスクな世界、すなわち「猟奇趣味」的な領域[*]にまで広がっていた。

こうした領域に対しても、単なる蒐集を超えて、調査・研究を行う姿勢を見せていたのである。

また、歌舞伎や川柳・俳諧といった文芸・芸能の方面にも造詣が深く、広範な関心と高い教養を有した文化的な多能者であったことが確認される。

加えて、こうした趣味家・蒐集家たちは、蒐集や研究を発表する機関雑誌の発行のみならず、自作の凝った年賀状、さらには千社札・蔵書票・土鈴・燐票・手拭などに至るまで、主に木版印刷によって自ら製作(自刻・自摺)し、交換する文化を形成していた。

このような創作活動は、単なる蒐集対象としての蒐集物を超え、自己表現の手段としても機能していたといえよう。

これらの創作的な寸葉品については、非専門家によって私製されたものであるがゆえに、蒐集の対象物として正当とみなすか否かについては古くから「賛否両論」があった。

しかしながら、趣味家とは単なる「集め屋」や「消費者」の段階にとどまらない。

ゼロから創作物を生み出す能力を備えた「創作者」としての側面をも有していた。

蒐集家として対象を観察・蒐集・研究し、寸葉品のみならず知識や感性を自己に蓄積する志向性(入力)に加え、それらを自らの表現として他者へ発信・提示する能力(出力)することをも併せ持つ存在であった。

こうした点から、趣味家は蒐集と創作の両面を兼ね備えた、極めて多芸多才な文化的主体として位置づけることができる。

第11項          戦前趣味家の行動性と人的交流

さらに、筆者が現代の「おたく」に擬している、戦前の趣味家たちは外向的で、対人的な人的交流にも積極的であった。

現代においておたくと称される人々には、閉じこもって書物や蒐集物に耽溺する内向的な印象が付きまとうが、「おたく」を戦前の趣味家に敷衍する際には、この点を勘案することが大切である。

当時の趣味家の実像は、蒐めている物の情報蒐集および、更なる蒐集活動の必要性から、むしろ積極的に戸外に出る志向性を有していたのである。

特に江戸期から戦前にかけては、現在のように交通・通信インフラが発達しておらず、蒐集や研究を進めるには自らの足で現地へ赴き、人との接触を通じて情報を獲得する必要があった。

情報に後れを取れば、望む蒐集品の獲得は困難となるため、室内に籠もるのみの消費的態度では満足し得なかったのである。

例えば、路上や公園で「燐票」や「商品」等の包装紙・商票を探索し、寺社へと足を運んで納札を貼る、あるいは名墓を訪ねて碑文の拓本を採取するなど、いわゆる「野外活動」を伴う趣味活動は、当時の趣味家にとって不可欠であった。

また、鉄道趣味においても、駅へ赴き列車を観察・記録する実地的行為がその中核を成しているだろう。

対人関係においても、彼らは情報蒐集を目的とした小集団や研究団体を形成し、蒐集家同士の茶話会や、寺社見学会等の行事を通じて交流を深めていた。

こうした場では、「機関雑誌」を通じて研究成果や最新情報の共有が行われ、極めて実践的な知的交友関係が築かれていた。

ただし当時の通信手段の制約から、交友活動は主に都市部に居住する者同士に限定される傾向はあったのは仕方がない。

学校・親戚・町内などの、生年を契機とする集団や、同じ関心・興味で集った団体では無い場合は、そこから逃避して自分の「私的空間」で趣味に耽溺するけれど、同好者による団体には親和性を感じる居場所があるということだ。

第12項          教養的趣味とマニア的趣味の併存

現代のおたくたちが「コミックマーケット」(コミケ)に参加し、自作の出版物を販売している姿は広く知られているが、戦前の趣味家においても、私家版雑誌の刊行や、百貨店における自らの蒐集品の展示会開催といった活動が見られた。

巨大なコンテンツとしての「漫画」は当時存在しなかったものの、仮に当時「コミケ」的な催事があったならば、趣味家たちは間違いなく、様々な「趣味」の媒体を分野別に区分けして同じように成立させ得たであろう

では、戦前に趣味誌の「コミケ」的な催事を開催した場合、戦前の趣味の中でも、特にマニアックかつ深い趣味とはいかなるものであろうか。

例えば、赤の他人の墓を訪ねて礼を捧げ、業績を偲ぶ「掃苔」は、一般には理解の及びにくい実践であろう。

あるいは、年賀状や絵葉書、千社札、燐票といった紙片を木版で自作し、同好の士と交換する美術的な趣向の面白さは伝わり難く、面白さは共有されないかも知れない。

足袋や駅弁の「ラベル」や「掛け紙」を蒐めて分類し、美麗な意匠を持つ寸葉品をスクラップブックに貼付・整理する行為も、一般人からは「なぜ」と、奇異に映った可能性が高い。

一方で、趣味家たちはこうした極めて深化した趣味の愉しみに加え、映画や音楽鑑賞、読書、相撲観戦、囲碁将棋といった、いわゆる一般的な「教養的趣味」も並行して嗜んでいた。

また、知的好奇心の強さから、「マニアック」とされる領域には至らぬまでも、蓄音機による音楽の室内再生、ラジオや科学模型の製作、鉄道車両の研究や写真撮影(現代の分類でいうとことの「撮り鐵」)といった趣味も、当時から併せて楽しんでいたことが確認される。

趣味家は特定の関心空間に閉じこもるのではなく、極めて多様な興味・関心を持ち、広範な分野に柔軟な姿勢で接していた

そうした多元的な趣味観のもと、教養的趣味への理解と、専門的な対象への深い探究心とを兼ね備えていたのである

(この「雑食性」は趣味家の「特徴」ともいえる。酒ラベルを集め乍ら切手・古銭も蒐める理由は、貴重な酒ラベルが登場した際への「交換要品」という、「政治的」な策略の使い道でもある。個人的には乗車券しか集めないとか、駅弁の掛け紙のみにまっしぐらという姿勢は好きではない。ゆえに切手蒐集家には親和性を感じにくい)。

第13項          蒐集家の価値観と、世間の無理解

趣味家や蒐集家の特質を一般人が理解することは、困難である。

こうした蒐集にかける情熱や、微細な差異への執着は、外部の視点からは奇異に映ることもある。

たとえば、市道和豊は、歴史研究の一環として趣味家および燐票家に関する調査結果の論考を私家版にて精力的に発表されている方である。

その業績の一つとして、戦前に満洲玩具を蒐集し、戦後には煙草関係の蒐集大家として名を馳せた煙趣家・須知善一に関する評伝、『満洲の曠野に非ず──戦後の須知善一』が挙げられる。

同書において市道は、蒐集家の典型的な行動として、

「印刷漏れや色合いの違い、通し番号などまで持ち出して『かんぞろ』範囲を広げ、希少価値を競う。そんなことにいったい何の意味があるのだろうか」

と「コンプリート」を目指す蒐集家の姿勢に首をひねっている。

そして、「揃うこと自体に意味はない(と、私は思う)」[1]と述べ、その価値観に懐疑的な姿勢を示している。確かに「(と、私は思う)」とあくまでも「個人の感想」としているのだが、「いったい何の意味があるのだろうか」という記述するので私は言及する。

この「かんぞろ」とは、蒐集界では聞いたことがない言葉であるが、推測すれば蒐集対象を漏れなく網羅し、完全なセットとして蒐集の目的を完結させる行為であり、現代の蒐集文化における「コンプリート」に相当するのであろう。

しかし、こうした「揃うこと自体に意味はない」という懐疑は、蒐集家の世界や趣味誌の文化に対する理解が乏しいことに起因していると言えよう。

蒐集家にとっては、ごくわずかな印刷のずれや配色の違い、製造時期が異なることや、製造した工場の差異といった微細な点が、他との差異を示す重要な情報であり、それ自体が蒐集の目的となるものだ。

「似たものと違う箇所を見つけ、希少なものを発見してコンプリートの価値」を創造するのが蒐集家ともいえよう。

例えば戦前に郵便局が「記念印」を設置した際は、単に同じ図案のスタンプであり、「郵便局名」が異なるだけであるのに対し、そこに「局名違い」を完蒐したい希望者がいた。

また、記念印を使用している期間すべてにおいて、「日附違い」を完蒐したいという希望者もあった。

一般の視点からは「どこが違うのか」「なぜ同じものを複数所持したがるのか」と疑問を抱かれるが、同じ図案でも「局名」「日附」「工場」などが異なれば「別のもの」として数えるのである。

これ以上は哲学的な話になってしまうが、「別のもの」と特定した人と、「同じもの」としか視えない人とのあいだでは、もはや理解可能な会話は成立しない。

そして戦前に発行された「記念煙草」をすべて完全に揃えることは難しいため、到達した方は、同好の士から大いに評価され、畏敬の対象となる。

それは斯界における常識であり、多くの蒐集家が目標とする到達点であるが、明確な「到達点」へ到着したことの喜びなら、理解をして貰えるだろうか。

 

市道氏は燐票や趣味家の事を調査されていたので、「完全蒐集」などには意味が無いという低評価には、意外な感を抱いた。

ところが、このような蒐集行動に対し首肯する者もいる。

作家の出久根達郎は、『かわうその祭り』(角川文庫、平成二十一年)の巻末あとがきにおいて、

「もの集めの熱狂を愛嬌と捉えず、何かおぞましと見る。そして、オタクという気さくなようで蔑んだ言葉が用いられた」

と記し、世間における蒐集家への社会的先入観や誤解に異議を唱えている。

この指摘は「蒐集文化」に対する深い洞察を示すものであり、趣味や蒐集を通じて表現される個人の関心の多様性と情熱に対する理解の必要性を認識させるものだ。

出久根の述懐は単なる共感以上に、蒐集家という存在に内在する価値観への尊重を促すものであり、蒐集家特有の思考や行動様式に対して、外部が安易な価値判断を下すことの危うさを示唆している

なお当時よりも令和の現代では、世間の理解も進み「おたく」という言葉に蔑みの意味を込めることは薄れている。

第14項          戦前趣味家と神田・秋葉原文化圏の連続性

深い趣味嗜好を持つ人々が集う場としての地理的特性は、戦前と戦後で大きく変化していない。

典型的な例が、東京・秋葉原である。

現在では「電気街」あるいは「おたく文化の聖地」として広く知られる秋葉原は、戦前においてもすでに、鉄道趣味や電気模型、ラジオといった分野に関心を寄せる愛好者たちが集まる拠点であった。

特に「萬世橋駅」周辺には、省線の鉄道や東京市電が交差する交通の要衝として機能し、都内各所から人々の往来を可能にしていた。

また、駅前には「萬世橋郵便局」が設置されていた。

おそらく集合場所としての利便性か、神田松枝町の貸席や神田和泉橋倶楽部、外神田の青柳亭等、神田にある貸席では納札・燐票・集古會などの会合がしばしば開催されている。

加えて、「萬世橋駅」跡地は後に交通博物館となり(現在は埼玉県さいたま市の鉄道博物館へ移設)、その趣味の地理的・歴史的継続性が示唆される。

そして、周辺の神田区地域には、戦前から趣味家・蒐集家を対象とする専門店舗が集中していた。

たとえば、切手商の和田商店(神田猿楽町)、科学教材社(神田錦町)、鉄道日本社(西神田)、浮世絵や版本を扱う書店「酒井好古堂」(神田淡路町)などが挙げられる。

また、謄写版印刷の技術を開発した「堀井謄写堂」も鍛冶町に本拠を構えており、印刷・出版が集まる地で、アマチュア出版の印刷機製作場としての側面も併せ持っていた。

さらに、青果市場のあった神田須田町地域では、千社札の制作や納札文化も根付いており、元・神田宮本町の神田明神の境内には「納札塚」が建立されている。

戦前に、伊藤喜久男周辺の趣味家たちが寄稿していた旅行雑誌『旅』の編集部も、神田駅ガード下に所在していた。

秋葉原から靖国神社に至る経路には、古書店街露店が市場的に展開しており、露店では趣味品の切手・古銭・錦絵・絵葉書などが販売されていた(「古書センター」の安部のスタンプコインよりも前にである)。

蒐集家として著名な池田文痴菴も、こうした、神田の露店で資料を蒐集していたという。

燐票蒐集の大家の古屋蘭傒神田松永町に在住、同じく小川沙久神田に在住しており、福山碧翠が主宰する「日本燐票協會」が神田松富町に事務所を置いたように、古屋らも燐票の趣味団体の本拠を自宅に置いて会合をしていた。

このように、秋葉原周辺には、鉄道、切手、模型、納札、古書・燐票といった多様な趣味領域を包含する空間が自然発生的に形成されていた。

現代において「アキバ系」という単語に代表されるおたく文化の萌芽は、決してパソコンやアニメの登場以降に出現したような近代的現象ではない。

すでに戦前のおたくたちの聖地、「カンダ系」とも呼べるような、地域的・文化的土壌が神田・秋葉原(萬世橋)周辺に存在していたことを見逃すことはできない。

戦前においても、趣味に深い愛着と資源(時間・金銭)を注ぐ人々が秋葉原に集い、自己表現と情報交流の場を求めていたのである。

第15項          戦争に負けた日本は、おたくを認容する「多様化社会」へ

明治中期以降、幾度も戦争を経験してきた日本は徴兵制を採用しており、国家は健康で逞しい体格を備えた青少年の育成を要請していた。

当時の青少年は「男性らしさ」の体現を期待され、身体的にその規範に適合しない者、「結核」などの病身で貧弱な男性は、しばしば軽視され、非国民と見なされることすらあった。

ところが、戦後において日本は、「国家」よりも「個人」が大事であると、平和国家との進路を選択した。

徴兵制度は廃止され、民主主義と、個人の尊厳が「権利」とされ(憲法13条)、男性に対して過度に「男性性」を強制する社会的圧力は、戦後は経時的に次第に希薄化していった。

この、日本の敗戦(による徴兵制度の廃止)という変化は、非常に大きいと筆者は考えている。

戦前には漫画は幼少年期特有の関心領域と見なされていた。

ところが、高度成長期には、だんだんと雑誌(週刊漫画誌)・テレビ・特撮・アイドルといった視聴文化に中学生・高校生が熱中したとしても、それを咎める声は次第に聞かれなくなった。

多様性」として受容される社会的土壌が形成されていったのである。

青年期に至っても、年齢に応じた「大人らしさ」「男らしさ」や、伝統的な趣味の枠に収斂することを要請される機会は減少し、個人の内面的関心に根差した「趣味」のなりわいが尊重されるようになった。

かくして、ここでようやく、かなり前に書いた「室内で活動する趣味」に戻るのだが、室内趣味を好む男性が、幼少期から一貫して自らの興味を深めていくことが可能な環境が整ったのである。

このことによって、結果として「おたく」と称される層が数多く登場、活躍までできる「趣味の多様性」を受容する社会的背景が生まれたと考えられる[2]

無論、徴兵制下においても、趣味に傾倒する者や学業を顧みずに雑誌制作に熱中する若者は存在していた。

だが、戦前と戦後を対比した場合、趣味そのものや趣味に充てられる時間の重要性に対する評価、ならびに「趣味家」と呼ばれる人々の数および彼らに向けられる社会的視線のあり方には、明確な差異が認められるという点に異論はないと信じるのである。

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戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題

[*]近代日本における梅原北明(『文藝市塲』等)の出版活動や、戦後の「カストリ雑誌」が扱った領域は、単なる「性愛(エロティシズム)」にとどまらず、犯罪・猟奇・怪異・病理・社会の裏面といった「人間の暗部や異常性への知的好奇心」が複雑に絡み合った精神空間を形成していた。
これらの一群を総括する概念をめぐっては、法的な規制枠組みを示す「発禁本」では文化的な動向としての評価軸から外れてしまう。
また、流通の秘匿性を示す「地下本」では出版形態(流通機構)の側面に偏りすぎるきらいがあり、その精神性や文化風俗的な側面を捉えきれないという難点があると筆者は考える。
さらに、「艶本」「好色本」「軟派本」「珍本」といった従来の書誌学的な表現では、性愛的側面(エロティシズム)のみが強調される結果を導いてしまい、「犯罪・猟奇・変態心理」というアングラ・悪趣味的な毒々しい側面(グロテスク)が捨象されてしまうのである。


したがって、本稿ではこれら「エロ(変態・性愛)」と、「グロ(猟奇・犯罪・怪奇)」の両者を包括する広義の概念として、仮に「特殊文献」という、上位概念を措定し、その下位区分として、当時の歴史的言説における「猟奇」および「変態」を主題とした文献群が、位置づけられるものと定義したい。

ここでいう「猟奇趣味」とは、「異常・怪奇・残酷・病的・退廃・禁忌・異様・不気味・禁断」の項目に対する興味・関心である。

それは残虐性を帯びた性愛(サディズムやマゾヒズム等)や、変態的な趣味のみならず、より広く、「異常・禁忌・怪奇・退廃」の諸相への嗜好性を含んでいる。

具体的には「血・死・犯罪・性・狂気・畸形・異常心理・怪談・グロテスク・倒錯」等への関心という形で表出するものである。

この構造をさらに深化させるため、本稿では当時(戦前期から昭和二十年代)の「猟奇雑誌」(実話雑誌、探偵雑誌、犯罪雑誌等を含む)に掲載された記事を対象に、その主題別の分類を試みた。
その結果が、下記の「戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題一覧」(表1)である。

表1:戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題一覧

本表が示す主題の数々を、1980年代から90年代の日本サブカルチャー界において勃興した、「悪趣味系」「鬼畜系」の精神性と照らし合わせてみたい。
そこには、戦後直後期の「カストリ雑誌」が提示した犯罪・性愛系の紙面構成が、時空を超えて地続きである様相が見て取れる。
つまり、戦前の猟奇・変態文献という存在が、近現代の日本出版史において常に流れ続ける通奏低音であったと言える。
【注記】
本稿の図表および引用文献には、現代の倫理基準において不適切とされる用語や表現が含まれるが、これらは対象期の出版文化および社会通念の実態を正確に検証するための歴史的資料(一次史料)であり、当時の社会通念や世相をそのまま記述することが学術研究上不可欠であると判断したため、改変を加えず原文のまま掲載している。
研究の客観性を担保するための措置であり、いかなる差別や非人道的行為をも容認・助長する意図はない。

 

[1] 市道和豊は研究のためには燐票のスクラップブックも古書店で購買している方であるが、やはり「観察者」の視点と、蒐集の「当事者」との間には温度差があるようで、「コンプリート」への共感は得られないようである。なお、筆者の主旨は完全蒐集を「理解できない」ことを批判する意図ではなく、当事者性の有無で物事の見方が変わることを示している程度である。趣味家の拘りを理解できない方が多いとは認識している。

[2]無論、これらに加えて他にも多様な要因が存在する。

戦前期においては、子どもは「多産多死」の状況下にあり、出生数は多くとも早世する例が少なくなかった。

しかし、医療技術の進歩および経済的基盤の安定により、児童の生命に対するリスクは大幅に低減された。

同時に、家族形態は次第に核家族化し、「家族計画」の概念も変容を遂げ、いわゆる「一人っ子」を丁重に育てるという社会的傾向が顕著となった。

高度経済成長期には、子どもたちの希望や欲求の多くが、物質的には実現可能となりつつあった。

テレビの普及を軸とするメディア環境の変化に伴い、児童・青少年を対象とする文化や趣味の領域は急速に多様化した。

その結果、単に鑑賞を通じて知見を深める「教養的な趣味」(映画・音楽)にとどまらず、「鑑賞」段階以上に深化する消費形態である、室内での没入型趣味(特撮・アニメ・ゲーム)を好む青少年が増加した。それらを「面白い」と認識・支持することで経済的な市場も確立、やがて「サブカルチャー」として社会的に定着し、発展していくに至ったと考える。

知性が高い「おたく」は親切だ。不良が先輩に「君付け」する事を”ポライトネス理論”で解明

第7項          「高等遊民」と「趣味家」と「おたく」

昭和三十年代以前、いわゆる「国民病」と称された結核に罹患し、長期療養を余儀なくされた若者でさえも、「いい若い者が……」と周囲から後ろ指をさされるような風潮が存在していた。

身体的事情による就労不能という状況であっても、社会はその個別事情に寛容ではなかったのである。

また、明治期以降、自らの趣味に傾倒し、その探究に専心する者は「趣味家」と呼ばれたが、しばしば、勘違いから「好事家」として家族や近隣から奇異の目を向けられた。「好事家」という語は文脈では揶揄的に括られることもあり、誉め言葉ではない印象も帯びている。

中には「高等遊民」と呼ばれる者もいたが、これは高等教育を受けたにもかかわらず、社会的・経済的な生産活動には関わらず、親族からの仕送りや私財をもって生活し、趣味や在野の学術研究に耽る人々を指す言葉であった。

近年では、制度の枠にとらわれず思想や表現を追求した戦前の「知識人層」として、肯定的な文脈で言及されることもあるが、「高学歴だが役に立たない」「社会に貢献せず、遊んでいる」という批判・皮肉の意味があった。

 

明治二十八年に古銭蒐集家の団体である「東京古泉會」では月の会費が十二銭であった。明治期との貨幣価値の換算は困難なのだが、当時の銭湯代は一銭五厘であるから、令和六年の都内料金五五〇円は三六、六六六倍となる。

十二銭は約四、四〇〇円程度に換算され、月の負担額としては結構高めの会費であろう。

こうした「趣味家」等への社会的評価や視線は、現代における「ニート」や「おたく」と呼ばれる若者に向けられるそれと共通する点が多い。

現代においても、無業状態にある若年層の中には、病気や怪我といった身体的要因により社会復帰が困難な者も存在する。

しかし実際には、パーソナルコンピュータの操作技能や各種資格の不保持といった制度的・技術的障壁が主因となっている場合も少なくない。

「ニート」とされる若者が、常に携帯端末やスマートフォンで遊興しているという通俗的なイメージは、実態を反映していない。

同様に、「おたく」という呼称もまた、過去には偏見と結びついて語られることがあった。

特異に見える言動や一部の犯罪事例が強調されることにより、「一日中ゲーム」「二次元の美少女に興味(生身の異性には興味がない)」「運動不足で肥満」といった、社会の固定観念も見られた。

服装への無頓着さも、趣味への資金集中や他者の視線を意に介さない傾向によるものであり、必ずしもファッション感覚の喪失や興味を放棄しているわけではない。

知識が特定の分野に極端に偏りがちで、会話も一方的になり易い点については、知的誠実さの発露であって、むしろ他者に正確な情報を全て伝えようとする善意に基づくものである。

さらに「おたく」たちは公共空間での身体的印象についても自覚的であり、たとえば「コミックマーケット(コミケ)」という所謂「同人誌」の即売会等の場では、服装への配慮や体臭対策を非常に意識的に行っている(この項はおたく的な言動についてなので、深くは触れないが、コミケに自身が制作した同人誌を展示し販売する人々は、頭脳的には知性が高いのである。知性があるということは併せて良識、常識の作法を弁えており、他者への親身な行動や謙譲の態度を取る者であるから、体臭や服装で他者へ迷惑を掛けない振る舞いをするのは当然であろう)。

対人の社交が苦手であるという一般的な印象に反し、実際には他者との関係性を重視する者も多く、温厚かつ親切な人物が少なくない

もともと、博識で知的能力の高い者が多いため、対人的な共感力や状況判断能力にも長けている傾向が見られることは矛盾しないのに世間は表層的な評価を下し易い。

混雑するコミケ会場において、荷物の重さや転倒にて困っている他者に対しては、さりげなく援助の手を伸ばすといった場面もしばしば観察される。

このように見ていくと、戦前に「好事家」「高等遊民」などと当時の揶揄的な価値観の視線にさらされた「趣味家」と、現代において誤解や偏見の対象となった事もある「おたく」との間には、社会的視線や評価の構造において共通する要素が少なからず存在する。

それは個人の実像を捉えることなく、総体的かつ通俗的な印象形成によって一括りにされ、誤認・誤解されていたという点で、両者は同質の現象として捉えることが可能であろう。

第8項          「おたく」と「〇〇氏」呼び

「おたく」の語源について、岡田斗司夫氏は『現代用語の基礎知識九七年版』(自由国民社)にて、

「SFファン同士がイベントで集まる場などで使われる二人称として発生、SFのイベントでは、参加者は単なる個人ではなく、所属するサークルを代表する人間、というとらえられ方だった。そのため「オタクのサークルでは」という意味での「オタクは」という呼び方が好まれた。この言い回しは、SFファンの間で爆発的に流行し、一九八二年のTVアニメ『超時空要塞マクロス』で、登場人物達が使うことによって、アニメファンにも一気に広まった」

と、説明している。

確かに、筆者が十九歳であった昭和五十七年七月、長野県松本市においてアルバイト先で出会った、漫画・小説・鉄道などの室内趣味に親しむ同僚たちは、年齢差が二歳から五歳程度ある親しくない同世代の相手に声をかける際、「〇〇氏(し)」あるいは「おたくは〜」と呼びかける傾向があった。

「山田さん」と呼ぶにはやや他人行儀に過ぎ、「山田ぁ」「山ちゃん」などと呼ぶには親しみの距離が過ぎると感じられる場合、両者のあいだに適度な距離感を保ちつつ、相手の感情を損ねることなく、かつ上下関係を意識させない丁度よい程度の、対等な呼称として「おたく」呼びは便利に使われていた[1]

なお、「おたく」は主として二人称として用いられるが、「〇〇氏(し)」という呼称は二人称に限らず、三人称としても使用される。

たとえば、二人で会話している際に、その場にいない人物について「〇〇氏は〜であった」と述べるときには「彼」「その人物」といった含意があったと考えられる。

このような呼称の発展形としては、「おたく」のほか、相手の名を呼ばずに特定する言い方として、

「アニキぃ」(軽妙な雰囲気を漂わせて)

「先輩」(ただし「後輩」は用いられない)

「兄【あに】」

「何々選手」

なども存在した。また、相手の感情をある程度無視しても許容されるような、一時的な上下関係にある場合、「おい、そこのバイト」などと雇用形態や職務上の呼称で声をかけることや、「そこのメガネ」など容姿的特徴を根拠に呼ぶケースも散見された。

筆者の管見によれば、手塚治虫が戦後間もない時期に年下の漫画家仲間に対して「〇〇氏」と呼びかけていた場面が、藤子不二雄Aの漫画『愛…しりそめし時に…』に描かれており[2]、この語の使用が当時の文化的文脈の中にすでに存在していたことを示唆している。

「おたく」や「〇〇氏」という呼称の語源については、複数の研究者・評論家により諸説が唱えられているが、いずれも決定的な証拠に欠け、自然発生的に生まれ、ある種のコミュニティ内部で伝播・定着したものと考えるのが妥当である。

その発生背景について、以下のように推測される。すなわち、日本語においては、話者が相手を呼び捨てにしたり、「君」「さん」などの敬称を付したりすることで、しばしば意図せず上下関係や心理的距離が明示されるという特徴がある。

もっとも、「君」という呼称は一義的に対等性を示すものではなく、用いられる文脈や集団規範によってその機能が変化する点に留意すべきである。

例えば、不良仲間や閉鎖的な集団(学校の部活動など)においては、先輩に対して「〇〇君」と呼ぶ用法が見られる。

一見すると目上に対する非敬称的な呼称であり、対等性の表明のようにも映るが、実際には単純な対等化ではない。

この現象は、ブラウン&レヴィンソンのポライトネス理論における「フェイス・ワーク」の観点から理解することができる。フェイスはメンツや体面だ。

人は相手の「ポジティブ・フェイス」(承認されたい欲求)と「ネガティブ・フェイス」(過度に干渉されたくない欲求)を侵害しないように言語行動を調整する。

この枠組みで見ると、年下が露骨な敬語を使用することは相手の上位性を過剰に強調し、自らの立場を低く固定する行為として、話者自身のポジティブ・フェイスを損なう可能性がある。

他方、呼び捨ては相手のポジティブ・フェイスを侵害しうる。

そこで「君」という呼称は、敬語体系を回避しつつも一定の配慮を示す、丁度良い位置の中間的なポライトネス戦略として機能するのではないか。

実は不良の後輩たちは、対等性を装いながらも実質的な序列を完全には否定せず(有形力を行使される可能性が高い為)、双方のフェイスを大きく損なわない折衷的表現を取り込んでいるのである。

したがって、不良の後輩における「君」呼びは、「矜持」や美学といった主観的要因だけで説明するよりも、不良の集団内で共有されたポライトネス戦略、すなわちフェイス維持のための実践として捉える方が妥当である。

それは上下関係を明示的に表現することを避けつつ、同時に秩序そのものは維持するという、社会的に調整された言語行動の一例といえる(不良はそんな事は考えていないだろうが)。

この不良の例からもわかるように、「上下関係の明示を回避したい」(=自分は下だという事の決定付けの回避)という欲求から、比較的真面目で繊細な気質をもつ人々が、より対等でフラットな印象を与える呼称として「〇〇氏」あるいは「おたく」を選択したのではないかと考えられる。
これらの呼称は、話者の呼び捨てにより相手の機嫌を損ねたり、あるいは敬称を使用することにより、話者に不必要な劣等感を誘発したりするリスクを軽減する、「安全」な手段として、一定の合理性を備えていたと考えている。

第9項          ドラマに既に表れていた、昭和四十年代の「おたく」

昭和四十年代半ばから、テレビドラマにおいて「おたく」的な役割をもつ登場人物が現れ始めた。

その萌芽は、子役が活躍する生活ドラマ「ケンちゃんシリーズ」の脇役に見出すことができる。

物語はケンちゃん一家が商売を営み、家庭や学校生活で起きる日常のエピソードを描いている。

同シリーズでは、俳優の山田慶造がインテリだがドジを踏む役を演じていた。役名は昭和四十年代までは「天才くん」「秀才くん」とされていたが、五十年代には「批評家さん」となり、揶揄的な印象から多少の敬意を含む名称に変化している。

出演俳優の年齢が上がったことも影響しているかも知れない。

また、俳優の進士晴久は各ドラマの従業員役として、真面目で愛嬌のある少年を演じていた。

たとえば「すし屋のケンちゃん」では、「マンガさん」という役名で、集団就職で上京し方言を話す住み込みの少年店員を演じた。

彼は「漫画は僕の全てだ」と語るほど漫画好きであった。

あるエピソードでは出前中に『少年ジャンプ』を読んでいると野良犬に寿司を食べられるという失敗をする。

店主でケンちゃんの父親役(牟田悌三)は、「ふん、全く良い歳してよ、こんなもの何が面白いんだよ」と、「漫画」に対する世代間ギャップを象徴する台詞を発している(ただし脚本家が本当にこのように漫画へ無理解だったり、思考を放棄したような価値観を持っていたとは考えにくいため、恐らく世間で共有される「だろう」、という印象作りの台詞ではないかと推測する)。

当時の劇中の「マンガさん」は進士と同年齢の十五、六歳の設定であったが、昭和四十六年当時は漫画がまだ子供の読物・娯楽とされており、中学卒業者が夢中になるのは「幼稚だ」とする年長者の価値観・規範があると考えられていた(統計を取った訳ではなく、幼稚の感性がどの程度受容されたかは不詳)。

同番組は、旧来の価値観を登場人物の台詞に取り入れるなど、一定の進歩性を持っていたが、ドラマ内での演技は、漫画に熱中し仕事で失敗する「ポンコツな店員」というステレオタイプにとどまっていた。

「漫画」が人物の軽率さや未熟さの造形を強調する道具として使われており、その限界あるいは、脚本家の故意も見て取れる。

なお、俳優の進士は五十五年の「ケンちゃんチャコちゃん」にも「マンガさん」として最終出演しており、当時は二十四歳であった。

「ケンちゃんシリーズ」では、進士と山田の両者が、慌てふためいたり、異性にドギマギして動作がぎこちなくなったりと、コミカルな演技で脇役を担っていた。

喫茶店で砂糖をこぼす、熱いコーヒーにむせて食器を倒す、写真撮影時に後ろへ下がって転倒するなど、明らかに挙動不審的な場面もある。

また、五十一年放映の「フルーツケンちゃん」では、「批評家さん」役の山田は「チェックのシャツ」を着て、シャツの裾をジーンズに入れるという、所謂「シャツイン」で太いベルト、黒縁メガネに長髪という、今日的な「おたく」的アイコンを体現していた。

勉強ばかりしている実直な「室内志向」の少年が、失敗やズッコケを演じることで生まれる落差の可笑しみや、流暢に話せない様子の演技を「コミカル」としているのは、現代の視点から見ると「マイナーをメジャーが笑う」という危うさも含んでいた[3]

「愛嬌」「揶揄」「几帳面」「真面目」が複雑に交錯しており、表現の平衡感覚を誤れば差別的・偏見的な印象を与えかねない。

当時の番組制作者世代が「おたく」的な人物への理解を十分に持ち得ていなかった時代背景も、これらの演出となった一因であったと考えられるが、更に踏み込めば、担当した脚本家は、その危険性やアイコン的な消費を分かっており、敢えて描写した可能性もゼロではない。

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[1]対人距離感による呼称としては、主に不良少年たちの間では、少し年上の先輩に対して敬意と愛情も込めて「何何くん」と呼び掛けていた。普通、君付けは目下に対してだが、この場合は力量の差があり完全に服従すべき年下が腕力や権力が強い年上に対して使うため、許される空気感があったようだ。この点は後述する。

[2]昭和三十年の人気ドラマ『日真名氏飛び出す』は、「氏」呼びであるが「暇なし」の洒落の意味が強いと思われ、「〇〇氏」呼びのケースとは異なると考えられる。

[3]漫画に於いても「勉強・読書量が多いために視力が低下した少年」が掛けている「メガネ」を「牛乳瓶の底」的に描写することで「アイコン」化しており、脇役として「メガネくん」「博士くん」と呼び、「真面目さ」と「不器用さ」の落差を笑う作品があった。

戦前の「おたく」と「徴兵制度」、身体性からみた戦後の内向的少年へのスティグマ

第3項          国家の「健男児」観

明治時代以降、特定の事物に対して強い興味や関心を抱き、それに深く傾倒する傾向を持つ者は、「趣味家」として多く登場してきた。

こうした趣味家は、肯定的には「通(つう)」(例:茶通、骨董通)と称される一方で、否定的には「道楽者」あるいは「高等遊民」とみなされ、怠惰・頑迷といった否定的な評価や、「いい御身分だ」といった皮肉を伴う揶揄の対象ともなった。

 

明治維新以降、日本は「富國強兵」を国是とし、資源・領土に乏しい国情の中で、国家の総力を挙げて列強と肩を並べる「一等国」化を目指した。この国家目標の下、国民、特に男性が強健な兵士となることが最優先とされた。

兵役への従事や家業への従順な従事が社会的に推奨され、個人の趣味や関心に生活の中心を置く生き方は、国家の理想像とは相容れないものと見なされたのである。

もっとも、国策としての「富國強兵」がただちに青少年の身体鍛錬や運動奨励を伴ったわけではない。

内田魯庵は、東京の古参小学校「育英小学校」の卒業生として、当時の体育教育の軽視について以下のように回想している。

「其頃は體操が置かれたばかりで私もお一ツ二ツを教はったが、ダムベルも球竿も無く、徒手運動ばかりで生徒も興味が乗らす敎師も重きを置かなかつた。體操などは怠けても先生にも父兄にも決して叱られないで、マジメに體操なぞをしてゐると先生からも父兄からも却て笑はれ戒められたりしたもんだ」

当時は身体活動や体育が学校教育の中でも軽視されており、運動に勤しむことは揶揄の対象ですらあった。

工部大学校では、学術成績優秀者には「書籍」が贈られ名誉とされた一方で、運動成績優秀者には「蝙蝠傘」や「置時計」などが与えられ、卒業式の当日、列席者は受賞者に拍手するが、運動の受賞者に対しては、

「笑い聲や騒音を交へて冷笑を帶びたので、学術賞者が悠揚として誇り顔なるに反して運動受賞者はコソコソと逃げ出して隠れて了つたもんだ」

と、学芸>体育の関係性を語っている[1]

江戸の封建時代(武士)への対抗なのか、こうした状況を見る限り、明治初期の日本では「文武両道」の理念はさほど尊重されておらず、むしろ知の鍛錬こそが美徳とされた時期であったともいえる。

趣味がそうであるように、当時の人々にとって病気という不可抗力の状態もまた、本人の意思とは無関係であっても社会的に評価を左右する要素であった。

たとえば北川扶生子による論文「病むこと、看ることの意味」では、戦前の男性が徴兵検査において結核等の疾患により「兵士」として不合格となった際の心理について、結核患者向け療養雑誌の『療養生活』誌に寄せられた詩や文章を素材に読み解いている。

当時の病弱や男性の気持ちが伝わる好論文であり、「兵庫」の「鬼放」による投稿詩「丙種」(『療養生活』一九三七年十月)には、次のような記述がある。

友の出征の見送に

丙種の私を皆が見た

丙種だからと

悲観はせねど

自然療養で達者になれば

銃後の守も重からん

と、私は此の気で皆を見た

この詩を受けて北川は、

「彼らにとってもっとも耐えがたいのは、同じ年代の男性たち、友人たちと並び立ったときの、周囲からの軽侮のまなざしである。『丙種』という規定は、自分のすべてを決定してしまうように思える」(北川,2022)

と述べ、「丙種」という区分が自己評価に深い影響を及ぼしていたことを指摘し、「同性と比較して辛い」思いをすることに対して理解を示している。

確かに詩の作者は「丙種だからと、悲観はせねど」と前向きな言葉も綴っているが、内心は劣等や羞恥心に苛まれているからこそ「他者から向けられた視線」に敏感だったのだろう。

友達の門出は見送りたい、その気持ちで同席したが、見舞われる世間の視線が痛い。「回復したら見ていろ」という強い矜持が無ければ、耐えられなかったであろう。

そして、男性患者の懸念をより切実に具体的にしている文章として北川は次の投稿を挙げる。

「苟も日本男子と生れて兵役に服する事が出来ず『丁種』兵役免除と云ふ如き、女子同然の資格しかない不名誉な物を貰つた僕である。生れ付きの不具者なら仕方もないが立派な五体を持ち乍らあの兵役免除証とか云ふ一枚の紙を持つて帰つた時、僕はワア/\と男泣きに、メソ〱と女泣きに泣いたのであつた[…]今の非常時日本に際して之は何んと云ふ不甲斐ない存在である事よ!」(徴兵検査体験記「丁種の囈言」『療養生活』一九三十三年五月)

北川は総括として「国家にとっての有用性でしか自分の価値を測ることができないのは、これらの投稿の限界ではある」と評し、「より強く権威と一体化しようとする心理も見られるだろう」と、当時の青年は国家あっての自分という存在であり、体制に迎合しているような評価をしている(北川,2022)。

しかしながら、「投稿の限界」との評価には戦後的な価値観が色濃く投影されており、必ずしも当時の投稿者の実感に即したものとは言い難い。

徴兵制度が社会制度として絶対視されていた時代において、「健全な肉体」を持たぬ者が社会から厳しい視線を受けたことは、むしろ当時の社会構造の側に「限界」があったと見るべきである。

たとえば、当時の校歌や応援歌の歌詞に頻出する下記の、

「たて、健男児」

「今こそ奮え、健男児」

「健やかに進め」

といった語句が示すように、「雄々しく」「健やか」「丈夫な体躯」を備えた生徒・学生こそが、「希望」に燃えて生きるべき「理想の生徒・学生像」として称揚されていた。

このような価値観は各学校で繰り返し唱えられており、学生たちは日常的にそのモデルを内面化せざるを得なかったと考えられる。

この状況を直ちに「洗脳」と断じるのは早計であるにせよ、体格の劣る男性にとって生きづらい環境であったことは想像に難くない。

真の「限界」は投稿者自身にあったのではなく、むしろ徴兵検査において「甲種合格」とならない虚弱体質や病弱者に対し、厳しい視線を向ける当時の社会の側に存在していたと言うべきであろう。

なお、戦前が持つ健康な肉体賛美は戦後に突如、分断されて消滅した訳ではない。

戦後において徴兵制が廃止され、国家への奉仕という枠組みが失われ、個人の尊厳が尊重される社会を迎えた後も、昭和後期には三島由紀夫や長渕剛のように、かつての虚弱な自己の身体を鍛え上げることで「強靱な身体」を獲得することから、自己形成を果たした人物が現れている

(つまり、鍛えなければ主張ができない言説なのか? ということだ。長渕剛は身体強化について色々な理由を纏う様だが、根本的な所は「ひ弱」な身体を忌避したいという「男らしさ」への希求がゼロとは考えられない。論を屈折させてしまうが、このように自分がそうなりたいという「男らしさ」を実現する為に、筋肉を付けることで、その根底には「自分の脆弱さを否定」する気持ちがあることを見透かされてしまうという、余り「男らしい」行動とは評価されないではないか)

これは、戦後においてもなお「頑健な身体」や「強さを想起させる外見」が、若者にとって社会的承認を得るための重要な手段として生き続けていたことを物語っている。

第4項          身体観と趣味家の相関

ここで、これらの「身体観」と趣味家との関係を考察しよう。

切手・古銭・紙モノ蒐集・模型・ゲーム・詩作・俳諧・書誌学といった「室内趣味」に親しむ者は、比較的内向的で、観察・記録・分類・沈思・創作といった行為を好む傾向が強い。

彼らにとって身体とは、活動の「主役」ではなく、知的探究や審美的感性を支える「静的な器官」として位置づけられていた。

ここには、身体の「鍛錬性」を中心とした軍国主義的な身体観(「健男児思想」)とは異なる、もう一つの身体観が潜在していたといえる。

趣味家たちの世界においては、華奢で虚弱な身体もまた、精緻な感性や深い執着、執筆活動、蒐集癖といった特性を支える要素として肯定されうるものであった。

現に、蒐集趣味の担い手には、少年期に病弱であった者や、運動に不向きであった者が少なくない。

つまり、趣味傾向のなかには、身体への「願望」や「劣等感」の反映があるとともに、「健男児思想」から距離を取ることで精神性・記憶・過去・物への愛着といった価値を創出する試みも含まれていたと考えられるのである。

これは、後の「おたく文化」とも地続きの感性であり、「弱き身体から勁い精神へ」という逆説的価値転換が、趣味という場を通して実現されていた可能性も示している。

一方、戦前の「頑強な身体=健男児としての国家的な理想像」という枠組みに対して、趣味家たちはあくまで「弱き身体=私的世界の深度」というもう一つの生き方を提示していた。

身体を鍛えるのではなく、興味や関心対象への「凝視」や「執着」によって自己を形成するという態度である。

こうした態度は、戦後の「内向的」傾向の青少年や、サブカル的趣味の系譜においても継承されていく。

青少年の身体が戦前の社会的競争や国家的動員から離れ、多様化する自己表現や、関心対象へ集中する主体として再定位される過程が戦後にはあったが、戦前の「趣味家」にもそれは内在していたといえる。

第3項          戦後の「私的空間」と内向的少年

明治から昭和戦前期にかけて、病弱・虚弱・内向といった身体的・性格的特質を持つ知識人・趣味家が、自己表現の場を「自室」すなわち私的空間に見出し、そこで読書・執筆・蒐集・分類・編集といった営みに没頭する姿はしばしば観察される。

このような「室内趣味」は、外界との競争や肉体的実践を志向せず、自己の内部世界を掘り下げ、そこに独自の宇宙を築く姿勢であったといえよう。

たとえば、正岡子規は病床六尺の中で寄稿を執筆し、また弟子を通して俳壇を形成した。

山中笑のような蒐集趣味の文人たちも、自宅の書斎を起点に交友網を築き、知的・審美的な活動に邁進した。

こうした「虚弱性」と、「知的凝集性」の結びつきは、「鍛錬される身体=健男児思想」という国家的理想とは一線を画す、もう一つの市民的・知識人的な生活様式、人生の姿勢であった。

この「内向的知性と私的空間」の連携は、戦後においても断絶することなく連続していく。

敗戦とともに「富國強兵」の国家身体観が否応なく解体されると、国家と個人の身体が直結することは急速に弱まった。

戦後の復興過程で身体は物資難のなか、「生き延びる」ための実利的道具となり、やがて経済成長とともに「健康」や「体力」は消費的身体イメージに置き換えられていく。

このとき、「私的空間」すなわち「自室」における没入型趣味は、むしろ戦後社会における身体的競争から逃れる場所として強く再編される。

たとえば、戦後の「ラジオ少年」や「模型少年」「短波放送愛好家」などは、外部との接触を最小限に保ちつつ、自室のなかに高度な知識体系や技術、あるいは理科系・機械系の文化を構築していった。特に「机の上」における趣味の発展は、戦前の「書斎」文化と地続きのものと見做せるのである。

やがて一九七〇年代から八〇年代にかけて登場する「おたく」的主体、つまりアニメ・マンガ・鉄道・戦史・アイドル・模型・美少女ゲームなどへの深度ある関与を行う者たちも、この「内向性と室内指向」「虚弱と知的密度の深化」の系譜を継承していると考えられる。

彼らの多くは、集団活動よりも個人的蒐集、体系化、アーカイブ、創作に傾斜し、「体験」や「共有」よりも、「知識」「資料」「記録」を重視する志向を持っていた。

これはまさに、戦前の趣味家が切手帳(ストックブック)や、スクラップ帖、写本、拓本集、採集帖を通して「知の箱庭」的な世界を構築していた構図に酷似している。

そして注目したいのは、「趣味誌」や「地方誌」「同人雑誌」という自主発行雑誌の継承である。

戦前の『寸葉趣味』等の蒐集趣味誌や土俗の特殊研究雑誌は、昭和後期の「趣味誌界」やコミケで頒布される「評論領域」での活字主体の「同人誌」(というか単行文集、冊子)における構造と機能を予告するものであった。

どちらも、自発的な編集、個人的執筆、自力印刷、交友網での頒布という形式を採り、同好者の分野横断的な連帯も支えていた。

第5項          戦後の「体育」から距離を取る「おたく」

総じて、戦前において国家的理想の身体像に馴染めなかった者たち、「虚弱、病弱、文弱、内向、痩躯」をもつ者は、私的空間における趣味活動を通じて自己の存在を確保してきた。

これは戦後においても、工業化社会における競争原理からこぼれ落ちた者、もしくはそこに意識的・自発的に距離を取った者が「おたく的感性」として再起したことと相似形な現象である(自分は他者とは異なる、という自我もあるが)。

肉体の理想から開放された「身体なき没入」とも言うべきこの傾向は、知的欲望と細部への執着、記録と再現への意志によって、各分野で特徴づけられる。

「徴兵制」が無くなったといえ、その残滓は高度経済成長期における教育政策に残っており、体育行事(運動会・マラソン大会・体力測定)やクラブ活動に於いての団体行動や上下関係は重視された。

集団行動として「右向け右」や「集団行進」が訓練され、「体を動かすことが苦手」「競技が不得手」といった児童は、しばしば評価の低い存在や、同級生から競技大会から排除される者と見なされることもあった。

「体育」科目の本来の目標である「体を動かす習慣」よりも、競技の勝者や優れた身体機能が優位とされる価値観が、そこにあった。

このような教育環境下において、身体能力に劣る少年、あるいは競争や集団行動に適応しにくい内向型の少年たちは、集団学校生活において疎外されがちであった。

彼らは運動会や体育の授業で劣等感を覚えやすく、「体育(スポーツ)ができる男子=明るく人気者」という、「見えない序列構造」のなかで、文化系的な志向や趣味に居場所を見出すこととなる。

内向型の少年たちは「図書室」「理科準備室」「美術室」「放送室」など、学校の片隅にある静かな空間を居場所とし、読書、昆虫採集、鉱物標本、天文、絵画、模型、ラジオ工作といった「一人でできる趣味」に傾斜した。

こうした傾向は、当時の雑誌『子供の科学』や『小学◯年生』にも表れており、いわば「内向性の避難所」としての児童文化も並行して存在していたのである。

また、戦後教育における「明るく元気な子ども」像は、生活指導や生徒指導の分野でも強化され、俗にいう「陰気な子」「暗い子」「おたく的な子」は、通俗的で人間的な成長途上の教師達からは浅薄な判断で「社会性がない」「協調性に欠ける」として是正指導の対象とされることも多かった。

この感情的な指導・評価により、内向的な子どもたちには「外交的=優勝、内向的=劣敗」との不当なスティグマが与えられ、次第に学校外の場で自分の嗜好を伸ばすようになり、趣味的自己形成は学校教育の外側に拠点を求めるようになる。

たとえば、七〇年代以降に出現する同人誌即売会、模型クラブ、鉄道愛好会、ミリタリー研究会、音楽ファンクラブ、漫画研究会などは、こうした「学校では承認されにくい感性」の逃避先として機能したのであり、「内向・虚弱・個人指向・非競技的身体」の居場所としても活用された。

これは戦前における趣味家や蒐集家の団体の構造と通底しており、知的凝集性を中心とした「別の社会的承認」が形成されていたと言える。

戦後の学校文化のなかで、教育の主流から逸脱した少年たちは、長らく「落ちこぼれ」「変わり者」として扱われてきたが、戦後サブカルチャー史の文脈では、むしろ重要な創造主体者であった。

七〇年代末から八〇年代初頭にかけてのマンガ・アニメ・SFブームを支えた中心層は、まさにこのような、「健男児思想」よりは弱いといえど「公立学校的な集団精神・身体観」からは、溢れ出た内向的な少年たちであった。

つまり、戦後教育が志向した「健康で社交的な身体・言動」は、同時に「非運動的・内向的な身体」を伴う趣味的な文化資本群を抑圧してしまう傾向にあったが、当事者たちはその反動として「室内趣味」の活動に深化を見せ、「おたく文化」が昭和の高度成長期以降に日本で独自に発展したと、捉え得るのではないかと筆者は考える。

 

[1] 内田魯庵「明治十年前後の小學校」『明治大正の文化』博文館、1927

戦前の「おたく」青少年と、その特性と因子を仮想する

第1節    明治期の「おたく」からの系譜




この節では、「趣味誌」を発行する青少年や、「蒐集趣味」を持ち趣味家となる青少年について、その基底にある気質を検討したい。

戦前に「趣味家」「好事家」「高等遊民」と称された人物像は、現代における「おたく」と相通ずる側面があると筆者は考える。

そこで本節では、戦前と現代における時代的背景の差異を踏まえつつ、特定の対象に対し深い関心と継続的な熱意を寄せる人物の気質を考察し、「趣味家」理解の基礎となる「身体観」などの諸要素を明らかにしていく。

第1項          明治期男性の室内趣味と戸外趣味

明治時代から昭和戦前にかけて、「趣味」を存分に享受し得たのは、時代背景上、主として男性であり、その中でも「室内趣味」への志向を持つ者が、「蒐集」や「研究」といった趣味活動に向かう傾向が強かったと推察される。

ここで用いる「室内趣味」という語は、筆者の便宜的な造語であるが、中国由来の「文人趣味」に近似する概念である。

「文人」とは、いわゆる「文房(書斎)」に居する人物であり、伝統的には「書画・詩・囲碁・琴・篆刻」などを嗜む存在であった。

それに対して、明治から昭和期にかけての日本の趣味家においては、この文人趣味が、文学(詩文・散文)・土俗・郷土史、あるいは古銭・切手といった蒐集趣味に転化したものである、というのが筆者の仮説である。

中国において「文人」の対概念が「武人」であるのに対し、本稿における「室内趣味」の対概念は「戸外趣味」である。自宅や書斎で行う蒐集・研究・鑑賞を中心とした趣味に対し、テニス・ボート・柔道・相撲など、屋外で身体を用いて行う趣味を「戸外趣味」と位置づける。

前者の趣味を志向する者が「趣味誌」の発行や「事物の蒐集」に深い関心を寄せることが多かったのに対し、後者に傾倒する者がそれらに関心を寄せる例は比較的少ないと思われる。

もっとも、掃苔や盆栽などには、室内における研究・鑑賞と、屋外における墓地訪問・植栽管理とが不可分に結びついている側面もある。

趣味活動の範囲には濃淡(スペクトル)があり、蒐集・整理・研究などの室内作業が主軸であっても、それに伴う発掘・購買・旅行・例会参加といった戸外活動が不可欠である場合も多い。

しかしながら、読書・囲碁将棋・講談・落語・芝居・活動写真といった趣味は、一般的な大衆趣味として広く受容されてきたのに対し、掃苔や板碑蒐集のような活動は、当時から「特殊な趣味」と見なされることが多かった。

たとえば、掃苔・板碑研究の大家として知られる磯ヶ谷紫江は、中学生の頃より青山墓地に通い、昼食をとったのち二、三時間を墓前で過ごし、「その人と冥語を交わす気分」で額づいていたという逸話がある(後述)。

掃苔趣味は、通常は歴史上の著名人物の墓を訪ね、その人物の生涯を調査して敬慕の念を深めることを目的とするが、その過程で墓石の拓本を取り[1]、歴史・風俗研究の資料とすることも行われた。

また、子孫や祭祀継承者が絶え、所在不明となった墓所を発見する「探墓」も一部には含まれる。このような活動は、墓地を「歴史的遺跡」としてとらえるならば、考古学的関心の副次的実践と位置づけられるものであり、本来的には奇矯な趣味とは言い難い。しかし、それを「墓一筋」に徹する形で行う人物については、往々にして「おたく的」と目されがちである。

実際、明治当時においても、「掃苔」や「足袋のラベルの蒐集」など、一般的ではない趣味をもつ若者は極めて稀であり、同世代の友人たちからは「風変わりな人物」と見なされた例もあった。

これらは、現代においてサブカルチャー的分野に没入し、特定の領域に熱中する「おたく」と称される人物の気質と重なる。

要するに、我々の祖父・曾祖父の世代においても、特定の主題に深い関心を抱き、室内において資料を整理し研究を行うような、「おたく」的気質を備えた人物はすでに存在していたのである。本書にて取り上げる「趣味誌」発行者や趣味家たちは、まさにそうした気質の持ち主たちである。

第2項          「室内趣味」に親和性が高い要素

「室内趣味」への執着要素について考察すると、心理的特性として、以下の諸因子が想定される。すなわち、「熱中」「凝り性」「頑固」「正直」「道理の遵守」「責任感」である。

  • 趣味に没頭し、日常的に取り組むことを厭わず、容易に離脱しない(熱中)
  • 徹底的に一つの対象に対し深く探究し極めたいという欲求が強い(凝り性)
  • 思考様式や対象への執着に柔軟性を欠く(頑固)
  • 対人関係において誠実で裏表がなく、真面目に物事に当たる(正直)
  • 規律や倫理観に敏感で、モラルに外れた行為を避ける傾向がある(道理の遵守)
  • 義務感を自己規定し、「自分がやらねばならぬ」という強い使命感を持つ(責任感)

これらの特性が強固に存在するほど、「趣味」への執着が深まり、ことに「室内趣味」への没入傾向が強まると筆者は考える。

「道理の遵守」を加えた理由は、こうした気質の持主が、たとえば不良集団や暴走族のような逸脱的集団に属することに本能的な抵抗を覚えるからである。

他者に迷惑をかけたり、交通ルールなどの法規を故意に破ったりすることに倫理的嫌悪を感じるため、反社会的な病理集団との親和性は低いと想定される。

この観点は、昭和十六年に精神医学者の下田光造博士が提唱した「執着性格」の第二因子に通じるものである。

ただし、心理学的定義とは若干異なる視点での援用である。

下田によれば、「執着性格」は「熱中性・徹底性・強い義務感」が特徴であり、正直で真面目、他者からの信頼を得る模範的人物に多く見られるという。

また、塩見邦雄らによる研究[2]では、執着性格の第一因子として「几帳面」「整頓好き」「やり始めたら最後までやり通す」「不正や怠慢を許容しない」「責任感が強い」などの要素が挙げられている。これは「真面目因子」または「勤勉・正義因子」と呼べよう。

対して第二因子は、「きまじめ」「凝り性」「熱中」「正直すぎる」「頑固」「生一本」といった性質に関連しているとされる。筆者はこれを「おたく因子」と仮称したい。

これらの因子を備えた青少年は、ひとり部屋にこもり、自ら楽しみを創出できる性質を有していると考える。

運動神経があまり良くなく、野球やサッカーの「プレイヤー」当事者にはならないが、野球のスコア帳をつけたり、紙相撲の取り組みに仮託したり、プロレス同人誌を制作したりといった「観察と記録」の側面では才能を発揮する。

昭和後期においては、まだ「サブカルチャー」という括りは一般化していなかったが、『ビックリハウス』や『ポンプ』といった雑誌に投稿し、「文字によるやりとり」を通じてコミュニケーションを楽しむ少年も存在した。

また、室内でプラモデルの制作や半田ごてによるラジオ製作に熱中する「科学少年」「工作少年」も少なくなかった。

もっとも当時はインターネットも存在せず、趣味は完全には室内で完結せず、情報収集や物品獲得、ファン活動のためには外出が不可避であった。

よって、アイドル・鉄道・軍事・プロレスなど、屋外活動が一部を占める趣味と部分的に重なることも多い。ただし、「引きこもり」という語が未登場であった時代においても、学校に滅多に来ない子や、近所の子の遊びの誘いに応じず自宅から出てこない子どもも確かに存在していた

また、当時から室内は家族のみの領域と捉え、「他人を家に入れるべきでない」とする親の姿勢も存在した。

昭和四十五年頃、筆者の小学校友人の家庭では「汚れた足の他所の子を室内に入れるな」との指導があったようで友人宅に上がれない事例があった。

現在的感覚で言えば、当時すでに「清潔恐怖」「衛生観念」の先行型家庭が存在していたと推察される。そのような家庭では同級生と一緒に遊ぶ機会が制限され、部屋での「一人遊び」が促進されることになる。「一人っ子」の増加もこれらの諸因子を増加する背景となったことだろう。

 

なお、大正期における趣味傾向に関する資料も存在する。大正五年に発表された論考には、数年前(大正三年頃)に都下の中学生を対象に実施された趣味調査の結果が掲載されている。回答結果を以下に掲げる。

一・音楽及び絵             一一七人

二・釣り          八〇人

三・盆栽          二〇人

四・相撲及びボートレース        五三人

五・養畜          二二人

六・芝居          一二人

七・碁・将棋・かるた                九人

八・昆虫採集  二人

九・大弓          二人

十・娯楽なし  五人

また、これとは別に「やや旧い中学の調査」として、遠足・散歩・旅行が中学時代を通じて人気であり、運動では野球・庭球・柔術が主であったとされる。

釣りと採集は一年生に多く、学年が進むと音楽や卓球、読書への関心が高まる一方で、俳句の愛好者はきわめて少数であり、四・五年生に稀に見られる程度であったという。

さらに瀧浦文彌の調査によれば[3]、大正五年当時、慶應義塾大学における俳句・和歌の諸文学的サークルの数は減少傾向にあったが、早稻田大学には「文藝同攻會」(会員二百名)が存在し、高等師範学校には俳句・短歌の会が、東京歯科医学専門学校には発句會があった。

これらの趣味の調査や学校内のサークルの数によって、大正期においても「室内趣味」に親しむ者は、数的には少数派であったと考えられる。

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[1]拓本は対象物に画仙紙を密着させ、墨で表面の文字や紋様などを和紙に写し出したもの。対象は「金石文」(刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑など、金属や石に「刻出・鋳出・象嵌」の方法によって現れた文字)である、句碑・歌碑・道標・道祖神・記念碑・梵鐘・通貨・レリーフ・文鎮・銅剣・銅鐸・瓦當(軒丸瓦の先端)・磚(焼成煉瓦)。そのほか、瓦・火鉢などの焼き物、自然の「葉っぱ」も採ることがある。石碑に刻まれた昔の書体がわかるため、「臨書練習」をするための書道の手本として発達した。

写し採る方法には「乾拓法」と「湿拓法」があり、「湿拓法」には「直接法」と「間接法」の二種がある。

「直接法」は対象物に直接墨を塗り紙を載せて写し採る。しかし魚拓や版画の様に左右反転の鏡文字となるので「拓本」とはされないではないし対象物を墨で汚損してしまう。

「間接法」は和紙を水貼りしたものを対象物に密着させ、七~八割程度乾いてきたら、墨を含んだ拓包(タンポ)を紙の上から打ち叩いて墨を載せて写し採って剥がす。上墨という、拓本を採る方法の標準だ。

道具は自作。墨も松脂を燃やした煤(油煙墨)を煮て乾燥させたもぐさの葉をを混ぜて練る。

碑文の蒐集としては、全国各地に建立された、ある歌人の歌碑を主題にする、碑に文を書いたある書家の書碑のみを主題にする、などテーマチック蒐集法がある。例えば河合の場合は「良寛碑」(江戸時代の僧侶・良寛の歌碑が全国各地に建立されている)に傾注。貞心尼碑(良寛の弟子の尼僧の歌碑)、会津八一歌碑、亀田鵬斎碑(江戸時代の文人・書家で鵬斎が書いた石碑が全国に七十以上ある)、幕末の三舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の併称)書碑を採ったという。

昭和四十年頃から京都を中心に「日本拓本家協会」が設立されたが、高齢化で会員減少が進んでいるという。

※河合荘次「和紙の表情:石碑を写す拓本の妙技」『水の文化』41号、ミツカン、2012年

https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no41/05.html

[2] 塩見邦雄・永田正明・遠藤晶・中田栄「執着性格の構造〜日本人の心の構造の研究〜」日本教育心理学会総会発表論文集(39)、1997-09-24

[3] 瀧浦文彌「硏究學生と趣味」『開拓者』11(8),日本基督教青年会同盟,1916-08

投稿雑誌への応募は規則がある。漢詩文を謝絶した『今世少年』細かい規定の『女子文壇』圏点の禁止の『学生文藝』

第5項          原稿の規則が決まっている

明治三十年代以降、各種の投稿雑誌は寄稿の規則を詳細に定め、読者=投稿者に対して明確な指示を与えていた。まず明治三十年二月創刊の『中學新誌』(神田南神保町・中學書院)の「寄稿規則」をみると、投稿原稿は封筒に「中學新誌原稿」と朱書することを義務づけている。

原稿用紙は十行二十四字詰とし、句読点も一字として数えること、さらに各篇ごとに住所氏名を別紙に記すことを求めた。文章・詩歌・学話など種類の異なるものは必ず別紙を用いることとされ、また原稿用紙の中に他の事を記してはならないとした(私信を書くと送料が低廉な第四種郵便扱いにならないため)

郵送料が不足して差し出されたものには版元が不足料を払うことはなく絶対に受理しない。また未完の原稿を送付されても採用は困難だと定められた。

ここには、規格化された原稿用紙の使用、体裁の厳格な統一、さらには郵便制度との関係も明確に示されていたのであった。

 

続いて、明治三十三年の『今世少年』が定めた「投稿規則」をみると、「和歌・新體詩・普通文・和文」の投稿を広く歓迎する一方、「漢文・漢詩・横文」は謝絶している点が特徴的である。「横文」とは英文のことである。

文章は一行二十四字詰四十行以内、四百字詰め原稿用紙であれば二枚程度とし、字は楷書で明瞭に書くことを求め、振仮名は必須としなかった。当時、「詩」とは「漢詩」のことであったため「新體詩」と称して近代に起こった詩を区別していた。『今世少年』は「漢詩」は掲載せずに「新體詩」に限っていたということになる。

投稿は編集者によって取捨され、優れた作品には短評を付すとされるほか、一年間に概ね八回ほど懸賞文を募集し、読者を奨励する仕組みを設けている。原稿には文題の下に住所・姓名を明記し、封筒には「今世少年投稿」と朱書することを求め(他の郵便物との混同を防止するため)、郵送料の不足している物は受理しないことなど、『中學新誌』と同様の規定もみられる。

ここでは、少年少女を対象とした奨励策が組み込まれている点に雑誌の性格が表れている。

 

さらに明治四十四年の『女子文壇』の投稿規定は、「女子に限る」と明記されている点で、投稿が可能な読者を性別で限定している。

原稿には必ず「女子文壇投稿」と書き添え、女子文壇社宛に送付し、郵送料の不足・未納は受け付けない。小説・詩・雑録には振仮名を付すことを求め、小説は二十四字詰八十行以内、散文は三十行から五十行以内、初めての投書は三十行以内とし、詩や雑録は行数の制限は無いとした。

また、種目毎に応募は一人一篇限り、和歌・俳句も一人一章限りと、複数投稿の制限を課している。

用紙は読者欄の「誌友くらぶ」以外では葉書投稿を認めず、半紙・原稿用紙・罫紙に限定している。

さらに図画は毛筆画で薄い日本紙に描き、大きさは二寸×三寸、一人一枚限りと細則を設け、投稿の締め切りは毎月十五日必着と定められた。『女子文壇』の規則は、対象を女子に限定するとともに、文字数や行数、投稿数、図画の大きさにまで細かく基準を設けるなど、より精緻な規定を有していたといえる。

※ 『女子文壇』7(6),女子文壇社,1911-05

 

明治四十四年の『學生文藝』(聚精堂)では、投稿の文体や題材は自由とする一方、政治的時事論を禁じることを明記している。

用紙は半紙、書体は楷書とし、仮名は平仮名を用いると定めた。ただし短歌・俳句は葉書でも可とし、またコマ絵は薄葉の日本紙とした。

原稿には題の下に住所・姓名を明記し、投稿は種目別に別紙に認め、その篇首に文の種目を記すことを求めている。また種目毎に投稿可能な字数や句数が制限されていた。

封筒や葉書の表面には「學生文藝投稿」と朱書し、コマ絵には一枚ごとに住所・姓名を記入することが義務づけられた。原稿中に他の用事を記すことは禁じていた。

入選作であっても、既に他の新聞雑誌に掲載された作品は無効とするなど、投稿の独自性を強調している。さらに、句点は各自で施すべきであり、圏点[1]を施すことは一切禁止するという細かい規則も設けられていた。

 

以上、各雑誌に共通してみられるのは、封筒に投稿誌名を朱書すること、住所・姓名を明記すること、郵送料の不足があるものは版元では決して受理しないことなど、郵便による投稿制度の定着を前提とした規定である。

 

その一方で、各誌ごとに特色がある。『中學新誌』は未完原稿の排除と原稿用紙の規格を強調し、『今世少年』は懸賞制度を組み込み奨励的性格を示した。『女子文壇』は投稿者を女子に限定し、行数や枚数、さらには図画に至るまで詳細な基準を定めた。『學生文藝』は題材の自由を掲げつつ、政治的論評の禁止や圏点の禁止といった思想的・形式的な制約を設けた。

各誌の投稿規定は、想定読者層(中学生、少年少女、女子、学生)や誌面構成の特徴を反映しつつ、投稿の実務的な側面を精緻化する役割を果たしていたといえる。

 

出版文化史的にみれば、これらの投稿規定は単なる事務的手続きの明示にとどまらず、読者=投稿者に対して「編集部に受け入れられる表現形式」や「正しい書き方」「適切な文体」を青少年に習得させる役割を果たしていたといえる。原稿用紙の規格化、文字数・行数の制限、仮名遣いや句読法の指定、さらには題材選択の規制などは、読者を「投稿者」として訓練し、出版物にふさわしい言語表現や原稿作法を投稿を通じて自然に馴化させる制度装置であったと見ることができる。

 

[1] 圏点は傍点ともいい、語句を強調・注意するために、親文字の右脇に一文字毎に施す記号である。「﹅」(黒ゴマ)「◉」(蛇の目)「◎」二重丸などがある。

昭和45、46年の学生趣味誌の特徴は、ヒト・カネ・時間・責任の欠如

第1項          昭和四十五年の学生趣味誌

人気が高かった趣味誌、『石狩』誌を発行していた木川有の回想によれば、昭和四十五年前後の趣味誌界は、『VABI』誌に見られる自由度の高い誌面(雑文・随想など)と、『切手』誌に代表される郵趣的誌面のローカル化という、二つの潮流の影響を強く受けていた。そして、両者の要素を折衷・融合した発行者と読者が学生主体の「学生趣味誌」が多数出現したのである。

『VABI』誌は、創刊当初こそ広告中心の構成であったが、第四、五号頃より記事主体へと転換し、特に読者からの近況報告や悩み相談といった投稿欄を充実させたことによって人気を博した。この誌面構成は他の趣味誌にも波及し、昭和四十六年後期頃まで、その影響下にある雑誌が相当数発行されるに至った。

 

当時の人気誌としては『VABI』『知多』『月冠』などが挙げられるが、昭和四十七年四月に『VABI』誌が休刊すると、誌界の重心は『月冠』『石狩』『富士』へと移行した。

なかでも『石狩』において展開された「趣味誌株式市場」「趣味のテスト」「消印博物館」といった企画は、他誌において模倣されるなど一定の影響力を持っていた(木川有「「趣味誌」小史」『石狩』第二〇号~第二四号、昭和四十七年連載)。

 

誌名の傾向としては、郷土性の表象を意図したものとみられるが、『関西』『近畿』『加賀』『神戸』など、発行者の居住地に由来する「二文字」の地名を冠したものが多く見受けられる。

この点については、当時の印刷手段が主として謄写版であったことも関係していよう。文字数が多い題号は謄写版原紙を製版する際に手間を増大させるため、簡潔な二文字の題号構成が実用的な選択として定着したと考えられる。

『石狩』は双子の兄弟である木川有・明によって発行され、本誌部分を兄の有が担当し、広告版を弟の明が受け持っていた。このような家庭内における役割分担は、趣味誌の制作において散見される現象である。

発行・編集・発送といった諸作業が個人の負担に依拠する以上、家族の協力が重要な支えとなるのである。実際、宛名書きや入札誌の集計、広告の整理などの作業を、年少者や家族成員が補助する例は少なくない。

たまたま兄弟の趣味が共通することもあるし、年長者が上下関係として支配従属的に宛名書きやオークションのとりまとめなどを年少者に手伝わせることもある。

また、入札誌や広告誌の発行は特に労力を要するため、配偶者や子女が無償で作業を支援する場合も多く見られた。

このように、趣味誌は基本的に営利を目的としないため、外部労働力に対する報酬を支払うことが困難であり、その運営は家族的・私的な縁故による労働に依存せざるを得なかった。友人知己が協力する場合もあるが、継続性の点では家族労働に及ばないのが実情である。これらの点は、学生趣味誌が小規模媒体として存立する際の構造的特徴の一つといえよう。

なお、兄弟による発行事例としては、昭和五十年代に斧田健一郎・健二がそれぞれ別個に『かぶとがに』『セブン』を刊行した例も確認される。このような事例は、同一家庭内における趣味的関心の共有と作業分担という現象を示すものとして、趣味誌文化の人材供給面を考察する上で興味深い。

 

第2節    昭和四十六年、盛衰の差が大きい学生趣味誌

昭和四十六年創刊の趣味誌としては、

『宝蔵会貼込帳』(京都、近藤比呂重、昭和四十六年)

『郵思』(広島、吉田孝、昭和四十六年)

『白鷺』(姫路、福田博和、昭和四十六年)

『SANUKI』(香川、大山高弘、昭和四十六年)

『みえ』(三重、小川隆生、昭和四十六年)

『ホップ』(秋田県雄勝郡稲川町、柴田誠、昭和四十六年)

『ホビクラブ』(埼玉、小田和秀、昭和四十六年)

『ムスタング』(香川県、遠藤哲、昭和四十六年)

『三多摩』(国立市、三多摩郵趣同好会、昭和四十六年)

などが確認される。

昭和四十年前後から蒐集趣味誌、特に郵趣誌の増加が顕著となり、小学校から大学に至るまでの学生による発行が目立つようになった。このいわゆる「学生趣味誌」の台頭こそが、昭和四十年代における重要な特徴である。実際、

「昭和四十三年に十数誌の創刊だった「趣味誌」世界も四十四年には約四〇誌、四十五年には約八〇誌、今年もすでに十数誌の創刊を見て、各「趣味誌」上では盛んに『趣味誌ブーム』と書かれ始めたことはご存じの方も多いと思います」(村松規雄)

と指摘されている。

この急増の背景としては、第一に、六〇年安保・七〇年安保を契機とする学生運動・労働運動の高揚が挙げられる。

これに伴い、ビラや機関紙の印刷を目的として、学校や職場に謄写版印刷機が広く普及した。

第二に、高度経済成長下における青焼きコピー機の普及が、自主的出版活動の印刷技術的背景を支えた点も見逃せない。

さらに、経済成長の進展により、学生が紙・インク・切手・封筒といった初期費用を負担し得る程度の小遣いを有していたことも、創刊を容易にした要因であったと考えられる。

 

学生趣味誌は構造的に不安定であった。印刷は粗雑で可読性に乏しい場合が多く、発行の容易さに比して継続には相当の労力を要することが十分に認識されていなかった。

その結果、定期試験や受験を優先するため無断遅刊や自然消滅的廃刊が頻発した。

また、趣味・娯楽の多様化により発行主宰者の関心が分散し、当初掲げた定期刊行が維持できない事例も多い[1]

加えて、郵便料金値上げによって経費が小遣いの範囲を超過することで資金難に陥り、初期費用は賄えても継続的負担に耐えられず、短期間で廃刊に至る事例も少なくなかった。

さらに、廃刊時に購読者への連絡がなされず、預託金や入札代金をめぐる金銭トラブルが生じるなど、運営上の問題も顕在化した。年齢的要因から記事内容に深みを欠き、その結果としてベテラン蒐集家の寄稿や購読を得にくく、研究的記事が集まらないという悪循環に陥る傾向も指摘できる。

総じて、「金銭」「時間」「責任感」の三要素の欠如が、人間的な幼さの残る、学生趣味誌の短命性の要因であったといえよう。

昭和四十五年に八十誌が創刊されたにもかかわらず、二年後の昭和四十七年には六~八誌程度しか存続していなかったという指摘(木川有「「趣味誌」小史」『石狩』二十号、昭和四十七年)も、この実態を裏付けるものである。

加えて、アルバイトや恋愛といった思春期特有の生活変化に伴い、「発行そのものに飽きる」という心理的要因も、継続を阻害する一因であった。

他方で、地理的分布にも偏在する特徴が認められる。東京・大阪・名古屋といった大都市圏では必ずしも発行が盛んではなく、むしろ北海道や西日本、四国といった地域において活発であった。この理由については複合的に考える必要がある。

第一に、大都市に比して娯楽の選択肢が限られていた地域では、「雑誌を作る」という行為自体が有力な余暇活動として機能した可能性がある。

第二に、当時は自動車の普及が現在ほど進んでおらず、若年層が休日に遠出する機会も限られていたため、室内的・個人的な趣味活動が相対的に優位であった。

第三に、謄写版印刷と郵便流通を組み合わせることで、地域的条件に左右されず発行・流通が可能であった点も重要である。

さらに、「蒐集趣味」自体が地域差や社会的階層差を顕在化させにくい性質を持つため、地方においても参入障壁が低かったことが、郵趣を入口とした「学生趣味誌」発行の広がりを支えたと考えられる。。

昭和四十五年前後には沖縄切手の投機的ブームが生じ、「記念切手」が投資・利殖の対象ともなっていた。この動向と連動して、切手のオークションを扱う入札誌も増加した。

しかし、発行主体が学生に移行するにつれ、前述の通り、「発行動機の低下」や受験などで遅刊・休刊が頻発し、預託金や入札代金の未処理といった事務的混乱も生じた。こうした状況に対して、戦前からの趣味家である伊藤喜久男は、

「私はガラクタ品の整理に入札誌を利用しているが、気心のしれた三、四の入札誌には現品を送らず目録出品で済ましている。疑うわけではないが、広告などをみて入会し出品しても、何だか心配でたまらないこともある。半年以上も過ぎているのにウンともスンともいわぬ入札誌もある。こうした三号入札誌を散見するのは誌界のために嘆かわしい」(『新趣味』昭和五十三年、三十二号、愛友社発行)。

と述べ、長期に「趣味誌界」を視て来た年長者として学生主体の運営に対する懸念を表明している。

昭和四十六年前後の学生趣味誌は、印刷技術の普及と経済的余裕を背景に急速な拡大を遂げた一方で、その持続性において多くの課題を内包していた。この両義性こそが、当該期の趣味誌文化の特質であったといえよう。

 

[1] 佐賀県の林直正が発行した『博趣』誌は、昭和三十九年の創刊時には「趣味品収集交換誌」と副題があり、「切手・古銭・絵画・その他」を対象としていたが、昭和四十二年には副題を「趣味総合誌」と改め、対象も「切手・古銭・美術・古文書・運勢・レジャー・その他」へと拡張している。この変化は、社会におけるレジャー概念の台頭と、発行者自身の趣味嗜好、関心の多様化を示すものとして注目される。