syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

日本「ファンタ・ゴールデン・アップル」はあった事について」の大反論文

はじめに:ファンタ・ゴールデン・アップル存在証明論

都市伝説やマンデラ効果では片づけられない

筆者には、昭和50年頃、千葉県の利根コカ・コーラボトリング販売地域で「ファンタ・ゴールデン・アップル」の500ミリリットル瓶を飲んだ経験の記憶がある(千葉在住、利根コカ・コーラボトリングの製品だ)。

本稿は、この個人的な記憶だけを根拠に販売の事実を断定するものではない。当時の資料、後年に出版された商品資料、複数の証言を照らし合わせ、どこまで言えるのかを考えるものである。

「ファンタ・ゴールデン・アップル」は、2000年代初頭からインターネット上で存在の有無が議論されてきたようだ。2002年には、まさにこの論争を扱う記事が公表され、同年に同名商品が発売されている。*1

その後、ネット上では、日本コカ・コーラ社が「過去に日本国内でそのような製品を販売したことはありません」と回答した、との見解が紹介されるようになった。 《日本コカ・コーラ社は時代ごとに社名変更があるが、本稿が対象とするのは昭和50年前後が中心なので、本稿では地方のフランチャイズを統括する、東京本社すべてを日本コカ・コーラ社としている》

「ファンタ・ゴールデン・アップル」については「都市伝説」あるいは「集団的記憶の錯誤(マンデラ効果)」としてほぼ決着し、ネットでは定説化してしまった様子である。

だからこそ、筆者はここに、かつてない論考をもって反論したい。

ただし、筆者はその公式回答の原文や公式文書を直接確認できていない。 したがって、ここではそれを確認済みの公式声明として扱うのではなく、ネット上で伝えられてきた回答として検討します。

筆者は平成9年に扶桑社から『ザ★ジュース大図鑑』を刊行したが、そこには「ファンタ・ゴールデン・アップル」に関しては論点として記載していない。

当時は、国立国会図書館に通い、飲料業界紙や年鑑から発売データを集めていた。炭酸飲料、果実飲料、粉末飲料、サイダー、果汁飲料、乳酸菌飲料など幅広い分野を扱ったため、すべての商品について同じ密度で調査できたわけではない。ラムネの歴史を掘り起こすだけでも難しく、昭和50年代以降の細部は後回しになりがちだった。

それとともに、筆者自身にはゴールデン・アップルを飲用した記憶があったため、後年になって「そんな商品はなかった」という主張が起こるとは思いもよらなかった。

論点として関心を持たなかった点は、申し訳ございません。 『ザ★ジュース大図鑑』に記載できなかった欠缺を、本稿で補わせてください。 当時は研究も浅く、コカ・コーラの地方ボトリング会社の差異についても強調していない点も同書の欠点です。

長文なので、先に本稿の問題意識を述べておきます。

筆者は「ファンタ・ゴールデン・グレープ」と「ファンタ・ゴールデン・アップル」を、着色料の変更などが続いた時期に登場した、通常の定番商品とは異なる商品群だったのではないかと考えている。

これらが企業にとって失敗作だった、あるいは社内で好ましくない記憶(「黒歴史」)として扱われたのではないか。

日本コカ・コーラ、あるいはその一部の関係者にとって、恥部に近い存在にゴールデン・アップルはなっていたのではないか。

更にタイミングとしても、ゴールデン・アップルが、コカ・コーラ社とその製品をめぐる様々な事件・事故・不祥事が重なった時期に発売されたという因縁こそ、謎を解く鍵になるのではないか。

だが「黒歴史」説は現時点では、裏や確証が確認できない仮説である。 実際に何が起きたのかという事実と、資料が残らない理由についての推測は、分けて論じなければならない。

もちろん、陰謀論という反発が起きそうな「黒歴史」説以外にも、ゴールデン・アップルが存在したことを論考しているので、時間があるときにでもご覧ください

日本コカ・コーラ社の公式見解と各地の販売実態

ネット上で紹介される企業側の否定回答が、仮に正確な引用であったとしても、それだけで地域ごとの販売実態をすべて説明できるかどうかは、回答の対象範囲や参照資料を確認して判断する必要がある。

企業の公式見解は重要な資料だが、社内記録の蓄積状態と網羅性や、担当した社員の回答者が参照した資料の範囲がどの程度だったのかもわからないので、頭から信用することはできかねる。

日本のコカ・コーラシステムは、原液の供給、製品の企画開発、マーケティング活動などを担う日本コカ・コーラ株式会社と、製品の製造・販売などを担う各地のボトラー各社で構成されてきた。

したがって、各ボトラーの販売品目や発売時期を調べる際には、本社の記録だけでは十分といえる担保はなく、地域ごとボトリング会社の社史、製品便覧、広告、容器や王冠なども確認する必要があろう。*2

この点は、各地のボトラーがどの商品を、いつ、どの容量や容器で発売したかを記録している本稿の表にも関わる。

アサヒ飲料や、キリンビバレッジのように、同じブランドの商品であっても、全国すべての地域で同時に発売され、同じ容器構成で販売されたとは限らないのである(もちろん、地域限定販売品はどの清涼飲料メーカーにある)。

とはいえ、地域差があるという一般論だけで「ゴールデン・アップル」も地域限定で発売されたはずなのだということで、この問題を結論に導くことはできない。

個々の地域の記録を掘り起こすことが必要である。

筆者は三十年以上にわたって、日常生活商品の取材や資料調査に携わってきた経験から、企業の広報部門の回答が常に誤りなく、またすべての資料を網羅しているとは限らないと受け止めている。

広報担当者が把握している情報は、担当者ご本人の知識や記憶、過去の社史、社内で参照できる資料に左右されるのだ。

こちらの質問の内容によっては、担当者がすぐに資料を見つけられず、「不明」と回答されることもよくある事であった(あとは担当者の気質次第で、倉庫や古参社員に聞き取りしてくれて事情が判明することもあるし、「宿題にさせて」といわれ後から資料を郵送してくれることもある。稀に、時間的に空いていれとき、専務や社長が同席して呉れる僥倖に恵まれたこともある)。

取材や広報部の担当者が即答できないことを、隠蔽の証拠とみなすことはできない。

企業の記録が散逸した、保存対象にならなかった、合併後に引き継がれなかった、あるいは資料が別の部署や工場に保管されている、といった可能性もある。

本稿において、資料が見つからない理由として隠蔽の可能性を検討する箇所もあるが、隠蔽を示す直接資料がない限り、単なる仮説の域を出ない事は予めご了承ください。

各地のボトラーが発売時期や商品構成を異にしていたことは、筆者自身の経験にも表れている。千葉県在住だった筆者は、子どもの頃、ファンタといえばオレンジとグレープを思い浮かべる。

ところが昭和51年に鎌倉へ修学旅行に行った際、神奈川・静岡・山梨を販売地域としていた富士コカ・コーラボトリングのテリトリーであったためか(当時は地方ボトリング会社制度など小学生は知らないが)、「ファンタ・レモン」が売っている自販機を初めて目にした。

これは個人の体験であるが、各地の商品の発売時期を調べる際には、こうした地域差を確かめることは、特にコカ・コーラ社の場合は大切だと感じた経験である(よって、コカ・コーラ社の商品なのに、全国で同時期に同一容量と包装の商品が発売された様に書かれているブログやnoteは、その点でもう、なんというか……)。

本稿では、当然ながら発売時期に関する全国一律の説明を各地のボトラーにそのまま当てはめない。

確認できた資料、筆者自身の記憶、複数の人の回想、資料から導く推論、そして企業の意図に関する仮説を区別しながら、「ファンタ・ゴールデン・アップル」をめぐる問題を検討する(そのためにもエクセルの表にして掲出した「アップルとゴールデン・グレープのボトリング会社別発売一覧」は重要です~)。

第1章:物的証拠の限界へ反論

1.1 「ゴールデン・アップルが無い」="悪魔の証明"だ

そもそも、「なかった派」は最初からハンディを負っていることを自覚しているのだろうか。 ある物が「存在しない」ことを証明するのは、「存在する」ことを証明するよりも一般に困難である。

この問題は、古くから「悪魔の証明(probatio diabolica)」と呼ばれてきた。

もともとはローマ法・中世法学において、ある者が自らの所有権を有することを、その取得原因から過去へと遡って逐一立証することの困難性を指した法学上の概念である。

今日では転じて、ある事物が「存在しなかった」「存在しない」という消極的事実の立証が著しく困難であることを示す表現としても、意味が拡大して用いられている。

「ファンタ・ゴールデン・アップルが存在した」という命題であれば、実際に販売された製品、当時の広告、商品写真、カタログ、新聞記事、販売店の記録、現物など、その存在を示す一つの確実な資料を提示すればよい。

これに対して、「ファンタ・ゴールデン・アップルは存在しなかった」と断定するためには、どの時期の、どの地域の、どの販売形態を対象とするのかを明確にしたうえで、製品カタログ、広告、新聞・雑誌、販売記録、企業資料など、存在する可能性のある資料を相当程度にわたって検討し、そこに痕跡が無いことを挙げなければならない。

しかも、現在確認できる資料に記録がないことと、当時その商品が存在しなかったこととは、論理的には同じ関係とはならない。

「自分が調べた資料には載っていない」という事実から、直ちに「当時、その商品は存在しなかった」と結論することは論理的ではない。 前者はあくまで「現時点で確認できた資料からは存在を裏付けられない」という資料上の判断であり、後者は「存在しなかった」という歴史的事実についての、より強い断定だからである。

歴史的事実の検証において重要なのは、資料が見つからないこと自体を存在否定の証拠とするのではなく、どのような資料を、どの範囲まで調査したのか、また、その資料群が当該商品の存在をどの程度記録し得る性質のものであったのか。そこを見極めることである。

まして、販売期間が短い商品、地域限定商品、季節商品、販売店限定商品、あるいは後年の製品一覧から省略された商品については、現在残されている資料だけから「絶対に存在しなかった」と断定するには相当な調査を要するであろう。

「ファンタ・ゴールデン・アップルは存在しない」という断定をするのであれば、まずその断定を支える具体的な資料と調査範囲を示す必要がある。

存在を示す資料が「一つ」見つかれば「存在した」という命題は崩れないのに対し、存在しなかったことを立証するには、単に「一つ」の資料に記載がないというだけでは足りないのである。

この点を踏まえ、調査範囲と資料の性質を示して「存在しなかった」との結論へ論じている文章を、筆者は寡聞にして見たことがない。

ただし、存在を主張する筆者側にも、提示した資料が何を証明し、何までは証明しないのかを明確にすることが求められよう。

1.2 パッケージ写真・広告が「見つからない」理由

ネット上の「なかった派」は、実物のパッケージ写真や広告がまったく見つからないことを主要な根拠としている。

しかし、これは以下の理由から証明にならないのである。

第一に、昭和50年代の広告資料は体系的に保存されていなかった。 当時の企業は、広告やパッケージを現在のようにデジタルアーカイブ化していない。 売上高の前年同月比を上回ることが至上目的であり、宣伝材料は売上のための手段だった。印刷物は使い捨てが前提で、次に売れる商品の開発や、不振エリアのてこ入れの主旨が優先である。

商品資料を丁寧に保存する意識は、たいていの企業人では低かった。

第二に、地域限定・期間限定商品は記録が残りにくい。 地域の商品であり、全国展開がなければ広告媒体も限られる。 短期間で販売を終えれば、資料もまとまりにくい。

社員個人の事務机のファイルにあった資料群が、上司や東京本社まで共有されない時代である。

担当の退社時だけでなく、社内の部署移転でも旧プロジェクトの書類は廃棄され、本社が移転しているとなれば、目的を持って保持しないかぎり、さらに失われやすい。

第三に、着色料問題という「失態」によって、存在が「なかったこと」にされた可能性がある。

「無かった派」は着色料問題を閑却するか、単純化しがちだが、問題はもっと複雑である。

改良した着色料を使った初期の対応バージョンが失敗した経緯を見落としている論考が多い。

合成着色料の技術問題で「新・グレープ味」が一時的に販売中止に追い込まれ、その代替として「ゴールデン・グレープ」が緊急的に(まさに「取り敢えず矛先を納めるための一時的に」)発売された。

「ゴールデン・グレープ」の売上は低迷したが、その中で「ゴールデン・アップル」も続いて発売されたとすれば、そこには何らかの意図があった可能性がある(詳細は第4章で考察する)。

また、企業側の行動として、様々な問題を抱えていた時期の商品関係は、整理や保存が後回しになった可能性、積極的に記録・保存されなかった蓋然性が高い。

様々な対策に追われて資料整備がおろそかになったのか、あるいは資料の一部が故意に隠匿・廃棄されたのか……。

いずれにせよ、「ゴールデン・アップル」の残存資料が少ないことだけをもって、商品の不存在と結論づけることまではできない。

1.2.1 コカ・コーラ社の「被害社意識」

日本コカ・コーラ株式会社社史編纂委員会編による『愛されて30年』(日本コカ・コーラ、1987年)には、「ゴールデン・グレープ」についての記述が見当たらない。ファンタ・グレープのどぎつい紫色の着色料事件についても、本文では、

「昭和49年以降広まってきた消費者の自然志向、さらに合成着色料の間題から、ファンタは一部消費者団体の関心の的となった。」*3

と記されているだけである。

筆者が参照した範囲では、自社の着色料に問題はなく、安全性もあった、という趣旨は述べられているが、「新グレープ」の沈殿問題への具体的な言及は見当たらない。

ただし、社史は紙幅や編集方針により記述を選ぶものである*4。

社史編纂上、意図的な記述の取捨選択があったとしても、それ自体は社史編纂上では珍しいことではなく、どの会社もやっていることであり、直ちに非難されるべきことでもない。

そもそも「一方、消費者運動の標的となった合成着色科は」という文脈における「標的」という語句からしても、消費者のために着色料を変更したとは思えない。

筆者には、自社が消費者運動の「標的」となったことを強調する語り口に、企業側の立場からの弁明という印象がぬぐえない。

このような他責志向の会社であるなら、自社の恥部や暗部を糊塗したり、記録から外したりする可能性は十分考えられる。

外資でもあり、その企業風土はわが国のそれとは根本的に異なっていたことも推測できる。

ただし、社史や記事の表現だけをもって、会社防衛的にのみ主張した、あるいは資料を隠匿したと断定することはできない。ここは、筆者の読解と事実認定を分けておきたい。

日本コカ・コーラ社の「被害社意識」は他の資料にも見受けられる。

宮本敦夫が『日本工業新聞』に連載した「企業ドキュメント さわやかさと共にコカ・コーラグループ」という提灯記事(失礼。広告主に忖度・配慮した記事ですね)にも、

「コカ・コーラもこの消費者運動の標的にされるのである」(第42回、平成5年2月1日)

「ホームサイズ破びん問題、さらに反コカ・コーラ運動といった具合に、次々と難題がコカ・コーラに対して襲いかかってくるわけである」(第42回、平成5年2月1日)

「この時期、コカ・コーラを苦しめたもう一つの問題はファンタに使われていた合成着色料問題である」(第43回、平成5年2月2日)

とある。 宮本は「標的」「難題」「苦しめられた」と記述、やはり日本コカ・コーラ社は無謬であるとの立場の筆致である。

自社が招いた事故・原材料の方針であるのに、どこまでも「消費者運動」側を自社を抑圧するものとして対立し、企業の考えを正当化しようとしている。

なにより末端の客が「ノー」を突き付けているのに「時代がら、消費者運動が盛り上がり」というように、リベラル勢力による「市民運動」によって致し方なく対応した的に、矮小化しているのは反省が不足しているのではないか。

この新聞記事はコカ・コーラグループを扱った全54回の新聞連載記事である。

掲載費や協賛金の有無を示す資料は、筆者の手元では確認できていない。そのため、タイアップ記事だったと断定することは避けたい。

ただし、引用した表現からは、企業側の立場に寄り添った語り口が感じられるし、これまでの出版体験から往々にして料金を払い掲載する記事体記事はあるから広告的だろうというのが筆者の読後感である。

企業とライターの力関係に於いて、スポンサー寄りや企業礼賛になるのは仕方がないことである。そのため、ライター個人の意図について評価するつもりはない。

なお以前、コカ・コーラの取材をした筆者の私に対して、この記事を単行本化的にした「製本された冊子、および新聞記事のコピーのまとめまで二つを、日本コカ・コーラ社は呉れた(一つで十分ですよ!。

実は当時は若くて、この冊子を呉れた真意をわかっていなかった。 企業としては「礼賛記事」に沿って書けばよい、という意味だったと思う。 これがあれば広報部署は楽ができる。おそらく新聞掲載から冊子刊行までを一パックにして、新聞社が企業に企画提案した「取材商法」の一種だと思われる。

ゆえに、「ゴールデン・アップル論議」で言われる、「なかった派」の主張である、

「『なかった派』の根拠で一番強いのは『缶も、ビンの王冠も、宣伝のポスターも、実在を示す写真も、なにも現物が存在していない』という点」

というのは、「ゴールデン・アップル」の存在を「あった」とする考えにおいては致命的なことではないのである。

 「いわゆる「ジュース」の缶・瓶コレクターがおり、これまでコレクションとして『ゴールデン・アップル』を所持している方が皆無であるから『存在した』という主張はおかしい」

 という点についても反論ができる。

1.2.2 何処かにある可能性は「ゼロ」ではない

ネットでわからない事などは山ほどある。

ウィキペディアの記述に間違いが混じっていることは日常茶飯事で目にするし、ネットで調査できる事、問題解決したい事には限界がある。

筆者は明治から平成にかけて清涼飲料水の発売データを二万件近く蒐集したが、これらの文字情報に対応する、商品姿の写真がすべてネット上で見られるかというと、およそ10分の1以下しかないと思われる。

ファンタ・ゴールデン・アップルの商品写真やフタの写真がネットにないということは、これらの清涼飲料水の写真がネット上に見あたらないことと全く同じである。

また、「野に遺賢あり」と昔から称される様に、私たちの知らないところで優れた研究をしている方*5はいる。

あるいは密かに先行研究を覆す論考を書いているが発表の機会に恵まれていない方もいるだろう。さらには、大量のコレクションを持ちながら、門外不出で秘蔵している方もいる(昔は新聞雑誌の取材にも応じない"偏屈"な蒐集家は多かった)。

世間に発表されていること、日の目を見ていることだけが、世のすべてではないし、目に付かないものが"限界"だと考えない方が良い。

自験例でいえば、長年、「日本初の缶コーヒー」は「UCC缶コーヒー」だといわれていた。 ところが1997年に業界紙での記述を発見した私は、「外山食品のダイヤモンド缶コーヒーが最初である」と主張した。 だが、活字では存在しているのだが、まったく、実物缶も写真も発見できなかったため、

「姿・形も見つかっていないではないか。単に発売予定に過ぎなかったのではないか。ダイヤモンド缶コーヒーが第一号説は違う(島根のミラコーヒーなのだぞ)」

と、反論されてきた。

2024年なって、ようやく「ダイヤモンド缶コーヒー」の商品姿の写真を発見した。

さらに統計資料にも「缶コーヒ―」が、集計対象として掲載されている事も突き止めた。

このようなことがあるのだから、現在の調査の深浅で見つけられことはあるだろう。

清涼飲料水のコレクター自身がよく分かっていることだろうが、「まだまだ、自分は多くを蒐めたとはいえない」という不全感を持っていると思う。

記念タバコや記念切手のように一応の限りがあり「コンプリート性」が存在する蒐集分野であればともかく、延々と発売される商品分野ではコレクションに「ゴール」はないのである。

1.2.3 販売の「地域と期間」が限定されていたためか

ファンタ・ゴールデン・アップルの販売形態が「限定的」だったとすれば、現在まで商品記録や現物が見つかりにくい理由の一端を説明できるかもしれない。

販売地域や期間が限られていれば、広告の出稿量や流通した容器の数も少なく、社内資料や販促物、消費者の手元に残る現物が、全国販売の定番商品に比べて僅少となる可能性がある。

瓶容器が残っていない事については説明が可能だ。

ファンタは、瓶本体に「オレンジ」などのフレーバー名を印刷せず、既存のファンタ共通瓶を使用する。

そのためフレーバーの区別は、瓶の透明部分に見える液体の色、王冠の違いによって、店頭上、区別の表示を委ねていた。

だから、ファンタ・ゴールデン・アップル専用の瓶はもともと存在しないだろう(時代によってはフレーバー専用瓶はあるだろう。もしゴールデン・アップルにも専用プリント瓶が存在するようなら筆者の不勉強なのでご指摘をお願いします)。

また、王冠が見つからないのは、経費の問題という仮説が立てられる。

発売当初から永続性を考慮せず「一時的な商品」と位置づけられていた場合は、専用の王冠を新規に印刷発注しなかったかも知れないのだ(ただし、社内内部で「一時的な代打」の流れと考えていた群と、「ゴールデン・グレープ」に続く「ゴールデン・シリーズ化」を考えていた群があった可能性はある)。

「一時的」の場合、次の三つの経費削減策の可能性が考えられる。

  1. 先行品の「ファンタ・アップル」用王冠をとりあえず丸ごと転用
  2. 「ファンタ・アップル」王冠と、版下は同じだがゴールデンのほうは黒ではなく、刷色を変化させていた
  3. 頭頂部は「ファンタ・アップル」と共有だが、側面には「GOLDEN」などの文字を加刷した

1の場合は残った王冠は当然、先行品のアップルと見分けがつかない。

2の場合は長年の経時によって、色が褪色してしまって、これも先行品のアップルと混同された可能性がある

3の場合だけ、残っている可能性があるのだが、短期間の商品と認識していた場合は経費的に側面に加刷する可能性は低い

この、王冠の転用というか、複数の王冠を使用するという考えは、コカ・コーラ関係では決して荒唐無稽な空想ではない。

画像を参照してください

(画像出典:Jonathan McElwain 「Drink Coca-Cola Star Wars: The Japanese Coca-Cola Campaign of 1978」 2024 https://blog.theswca.com/2024/04/drink-coca-cola-star-wars-japanese-coca.html)

「新・グレープ」の場合には、新を訴求したいためボトラーごとに、王冠が異なる場合があったのだった。

上半分の文字が紫色バージョンと、従来の黒バージョンの2種類があるという。

各ボトラーは両方ではなく、どちらを一方を採用した。(画像では三国コカ・コーラボトリングが紫色を選んでいる)。

そして王冠側面への加刷はやはり「新グレープ」の訴求として事例がある (画像出典:Jonathan McElwain 「Drink Coca-Cola Star Wars: The Japanese Coca-Cola Campaign of 1978」 2024 https://blog.theswca.com/2024/04/drink-coca-cola-star-wars-japanese-coca.html)。

「GRAPE」の加刷が、東京・長野・中京・四国・北九州・南九州の各コカ・コーラボトリングで行われていたという*6。

ファンタ・ゴールデン・アップルの王冠に変則的なことが起きている可能性はゼロではないのである。

勿論、これらはあくまで推測であり、書類や現物が乏しい状況を説明するための仮説の一つとして筆者が提示するものに過ぎない。

今後、当時の広告、各地ボトリング会社の資料、王冠や250ml缶の実物などの発掘によって検証する必要がある。

1.3 「ゴールデン・グレープ」との混同説の弱点

「なかった派」が否定する論拠に「ゴールデン・グレープ」と「混同してしまった説」がある。

これこそ牽強付会であって、我田引水の主張である。

自説に都合よく事実を結びつける恣意的な論証といわざるを得ない。

先ほども少し触れたが、まず最初に消費者団体などから「ファンタ・グレープ」の合成着色料に対して、発がん性への懸念が指摘された。

それに対応する形で、日本コカ・コーラ社は、天然由来の着色料を使用した商品として、「新グレープ味」を発売した。

ところが、「新グレープ味」は技術的に失敗し、沈殿物が発生した。 このさらなる対策として、登場したのが「ゴールデン・グレープ」なのだ。

対策の一つとして登場したのが、なんと、色素をまったく使わないことだった。

カラメルのみで着色した「ゴールデン・グレープ」だ。

ここで重要なのは、この一連の経緯が各地のボトラーに同じ日程で起きたと決めつけないことである。

全国的な商品史の概略は参考になるが、個々の地域でいつ導入し、いつ切り替えたのかは、各ボトラーの資料を調べなければ分からない。 *7

まず前提として、アップル、ゴールデン・グレープ、ゴールデン・アップルそれぞれの商品発売時期を確認する。

・昭和49年7月:富士コカ・コーラボトリングが「ファンタ・アップル」を最初に発売(昭和49年に発売したのは11ボトラー、50年にゴールデン・グレープと同時発売らしきは東京。近畿は昭和50年だがアップルが3月でゴールデン・グレープが7月とアップルが先行といえる)

なお、清涼飲料水研究家で著名な久須美雅士は、「月末はファンタの日!「ファンタの歴史」をドリンク缶約2万本を所蔵する清涼飲料史研究家が振り返ってみた」*8において、「ファンタ・アップル」は昭和49年発売、と記述している。

ファンタ商品は各地ボトラーで発売年月が異なり、一概にいえず、アップルとゴールデン・グレープがどちらが先行発売なのかが重要な局面ではボトラーごとの確認が欲しいところだ。

例えば東京コカ・コーラボトリングが「ファンタ・アップル」を発売したのは昭和49年12月発売の「HI-C」アップルが好調だったからという動機が社史にある。

ゆえに東京では時系列的にファンタ・アップルは昭和49年には発売ができないと考えられ、「昭和49年発売」には首を傾げざるを得ない人も出る。

日本各地に「ボトリング会社」があるが、たいていは商品を一斉に同時発売することは少なく時間差が生まれている。

ただ、ファンタ・アップルを昭和49年に発売した地方ボトラーは調査で確実なだけで11ボトラーの及び、かなり多い。今回は久須美が記述する様に昭和49年としてもおおむね論考に影響はないだろう。

とにかく3者のなかでは一番先行している商品である。

・昭和50年7月:着色料をカラメルのみに改良した、薄い色の「ファンタ・ゴールデン・グレープ200ml/500mlびんや250ml缶」が発売されだす

・昭和50年7月頃:「ファンタ・ゴールデン・アップル200mlびんや250ml缶」が発売されだす(各ボトラーで異なる) の順である。

通常版のアップルが先行発売し、次にゴールデン・グレープとゴールデン・アップルがほぼ同月くらいに発売されている地域が多い傾向があるとみられる。

各地ボトラー別ゴールデン・グレープとアップルの発売一覧は掲出のExcel画像を参照されたい。ついでに各地ボトリング会社の創業年と当初の出資者も記してある。

1.3.1 「見た目」が似ているという説明を検討する

例えばココログ「くろねこさんの昼さがり」サイトの「ファンタ・ゴールデン・アップルの都市伝説」(2021年12月12日 (日)http://kuronekosannchi.cocolog-nifty.com/blog/2021/12/post-82f196.html)では次のように記している。

「ゴールデン・アップル」と「ゴールデン・グレープ」、名前からしてよく似ている。 そしてゴールデングレープは、まるでシャンパンのような色合いの黄金色のグレープジュースだった。 これは見た目の印象だけで判断するなら、グレープというよりもアップルジュースである(略) 黄金色のまるでアップルジュースのようなゴールデングレープが、「ゴールデンアップル」という幻想を生んだとしても、決しておかしくはないだろう・・・・・・。」

と、「見た目」の近さと、「ゴールデン」という語による誤解だと説明している。

(なお、このブログでも「ゴールデン・グレープ」が誕生した経緯を、「ファンタグレープの合成着色料が問題化して、代替品として着色をカラメルだけにしたゴールデングレープ」を発売したと説明している。途中の「新ファンタ・グレープ」での着色料失敗問題は閑却されているため論考全体の信頼性が揺らいでいる)

「見た目」の点だが、個人的な経験によると「ファンタ・ゴールデン・グレープ」の発売時、筆者の私は小学五年生であるが、見た目で「りんご」を想起する知識はなかった。

明治「スカット」など炭酸のフレーバー飲料の濃い色に慣れていた目には、ゴールデン・グレープは単に「色が薄い」という印象であり、強いて「見た目」を何かに例えれば「おしっこ」っぽい、くらいである(赤緑色盲というせいもあるか……)。

後述するが官能として「見た目」を論じるのであれば、むしろ、「見た目は薄い色で全く『グレープ』を連想しないのに関わらず、グレープの味がする」という、ズレた「味覚」にも着目しなければ不自然であろう。

そもそも、たとえ小学生であっても「ゴールデン・グレープ」を「購入」しているのに、「アップル」を連想するであろうか、いやありえない。反語だ。逆も真なり。

当時の体験者として記述するが、「ファンタ・ゴールデン・グレープ」は、色が非常に薄く、既存の「ファンタ・グレープ」とは全く異なる外観であったため、逆に非常に印象に残る商品であったのだ。

この「変化の印象」こそが、「ゴールデン・グレープ」を飲んでいる最中にも、飲んだ後でも、「アップル味」として認識されることは無いという筆者の主張を支えるものである。

1.3.2 アップル味の炭酸飲料には馴染みがなかったのだ

地域や家の貧富で差があるだろうが、昭和50年頃は未だ「りんごジュース」を普段から飲むことは「一般的な現象」ではない時代だった(くどいが富裕層は飲んでいたかもね)。

《これは「りんご」果汁は酸化しやすいので、メーカーが製造しにくいという理由もあるだろう》

もちろん市場には「りんご」味の飲料は存在した。

それでも、実際に商品を選択するときに「オレンジ」「グレープ」を差し置いて「りんご」を優先的に飲む子どもは少数派だったろう*9。

ここで多くの地域では「ファンタ・アップル」が「ゴールデン・グレープ」より先行して発売されたことが効いてくる。 たいていの地域では、昭和49年10月頃にアップル、翌50年7月頃にゴールデン・グレープ発売と、両者には9か月間のインターバルが生じている。

そもそも炭酸の「アップル」味に「馴染み」をまったく抱いていない児童たちは、「ファンタ・アップル」で初めて「アップル」味の炭酸飲料を知ったはず。

「ゴールデン・グレープ」をみたり、飲んだりして、「アップル」と混同する記憶が形成されるのは、非常に不可解ではないか。

ゆえに「ゴールデン・グレープ」から「アップル」を想起するという事態による混同が生じるという説は無効なのである。

1.3.3 「アップル」味があっても選択しない子ども

話は少しズレるが、「アップル」味の飲料を購入する際の内心にも関与するため、市場には商品が存在しても選択しない点、つまり「アップル」味があっても選ばないことについて、もう少し説明を加えたい。

例えば希釈飲料「カルピス」にはプレーンのほか、オレンジやグレープも市場(商店)に存在したが、果たしてバリエーションのフレーバーを購入するかどうか。

存在と、オレンジ・カルピスの飲用体験を子ども時代に持つか、は全く別問題ということである。

プレーンの白であれば過去の経験から「美味しい」ことの保証がある。

だが「グレープ」を買ってもらっても、途中で飽きるかも知れない。 あるいは過去に途中離脱した別の商品事例があり、それに懲りた親は「どうせ最後まで飲まないではないか」と感情的に叱咤して買ってくれない。

この時代の多くの家庭にとっては未だ「使い捨て」時代ではなく、必要なもののみを買う時代であった。

嗜好品など生活必需ではないものを買ったとき「美味しくないから捨てる」などの行為はしない《ついでにいえば、自宅の冷蔵庫にある食品は、「製造年月日」(賞味期限表示は昭和51年以降からだ)を見て「古いな」と思ってもカビが無いかを見たり、においを嗅いだりし、簡単に捨てることはない》。 当時の価値観は現代とはちがうのである。

よくスーパーではマネキンさんが雇われて新製品の「試食」をしていたが、これは消費者にとって、新製品を購入するときの後悔の予測や躊躇いで、買い控えるという障壁を下げるために考えた施策であろう。

この「同時代に物理的に存在していても購入・喫食体験は伴わない」という点は、児童のあらゆる飲食の主体的な行動としても重要である。 当時の「大金持ち」以外の子どもは小遣いが乏しいため、消費行動は保守的傾向になりがちだ。

例えば「遠足のおやつ」の購入時には、300円の予算制限があった。

食べたことがない新製品に関心があっても「失敗したら……」と考えてしまい「冒険的」な購入・選択はできかねる。 もし、新製品を買ってみて、不味くて50円分なり、100円分がパーになってしまうのは大きな痛手であるからだ。

結局、安全策となり、いつも食べなれた菓子を選択せざるを得ない、保守傾向となる。

我々中産以下、貧困層の子どもが新製品に出会うとしたら、まさに「遠足」の最中に同級生から頒けてもらった菓子である。

それが旨いと、納得の体験をしたら次にリピート買いをするのである(同級生は多様であるから、新製品に冒険するやつも、大金持ちで適当に買ってくるやつもいる)。

炭酸飲料のアップル味は、「ファンタ・アップル」が初めてだったと確実に断定することはできない。

原稿中にも昭和40年発売の「マリンカ」など先行例を挙げている(ただマリンカは武田薬品工業の発売で、プラッシーと共に米穀店が配達した。プラッシーを飲んだ経験が少ないのに更にマリンカ体験者は少数だ)。

ここで言いたいのは、当時の大手ブランドでは、アップル味がオレンジやグレープのような定番フレーバーとして広く定着していたとは限らず、商品や販売地域によって接する機会に差があった、という点である。

1.3.4 「固定観念による勘違い説」を一笑に付す

赤木智弘は、ライブドア総合ニュースサイトで、「「ファンタ ゴールデン・アップル」は存在しなかった? 平成の都市伝説からみる、フェイク判定の難しさ」*10を執筆している。

「無果汁の飲み物は香料と着色料で元の果物をイメージさせることで味を作り上げている。故に、アップル味とグレープ味の違いも、そうしたイメージによるところが大きい。当時の「グレープ味と言えば紫色」という固定観念の強い子供たちにとって、黄金色のグレープが、アップルと記憶されていてもおかしくない。」

「当時の無果汁飲料の味はイメージによるところが大きく、勘違いしたまま飲んでいた」

と、赤木は当時の子どもたちは「色で左右されるため」、現実も記憶も、勘違いが生じるのだとしている。

そんなバカな……。

「ゴールデン・グレープ」をお店で購入した子どもは、最初に「私はグレープ味を飲もう」と選択している。

にも関わらず、飲んでいる途上や飲用後になって「これはアップル味だ~」と錯覚するというのは、ヒトの行動や心理として非常に納得しにくい説明なのである。

先述した「くろねこさん」も赤木さんも、「勘違い」した中にご自身が入っているのなら、まだ「個人の体験」として筆者は受容することができるかもしれない。

だが、文章には「自身の経験から言えるが……」という語句はないため、何ら実体験に基づいていない、後から解説を作り出したという「机上の空論」に映るのである。

お叱りを受けるかも知れないが、「ゴールデン・グレープとゴールデン・アップルとを間違える」ことを前提に、それに見合うように無理にひねり出した考えに見えてならない。

筆者は歴史的な調査には、なにごとも目先の事だけでなく、「全体構造」の把握、理解が必要だと感じている者である。

今回の場合には、日本で清涼飲料水が発売されてきた、商品の登場と定着の歴史の中で、「アップル」「グレープ」という定番の「果物フレーバー」をどう位置づけるか、人気の度合い、果実の商品化傾向の順番などを考慮する必要があると思うのだ。

清涼飲料水の歴史の全体に位置づけて見れば、この様な「アップル味とグレープ味の勘違いによる、記憶の混乱」というユニークな着想は起きないと考える。

1.3.5 昭和50年前後のアップル味の人気は?

昭和50年時点では未だ子どもにとって「アップル味は珍しい味」であった。

子ども用歯磨きでも「りんご」を選んだ子どもは少ないでしょう? チューインガムでりんご味のフレーバーのガムを噛んだ1960年代、1970年代生まれはおりますか?

りんごは家庭で親がむいてくれるものであり、ごくまれに病気のときにすりおろしりんごやしぼり汁があったくらい。

バーモントカレーは「リンゴとはちみつ」と宣伝していたけどりんごの味を感じていましたか?

もちろん「グアバ味」や「ザクロ味」よりは親しみがあっただろうが、ファンタが長年「オレンジとグレープ」の二大コア・フレーバーを販売してきた影響は大きく、他の果実を大きく引き離していたでしょう。

ここで、炭酸飲料と果実飲料において、使用される果実のランキングを考えると、おそらく下記の順番の構図となるだろう。

「オレンジ・グレープ>パイン>レモン>アップル>>ピーチ>プラム>>>ストロベリー≒マスカット≒メロン>>チェリー」

昭和50年まで炭酸飲料のフレーバーとして、「アップル味」はマイナーな商品だということを忘れて、論考を展開するのは無理がある。

「グレープ味」と「アップル味」とを混同して記憶するためには必要な前提条件がある。

「ゴールデン・グレープ」を体験するまでに「アップル味」の炭酸を飲んだという味覚の体験である。 そうでなければグレープ味を飲みながら上書きしてアップル味の記憶定着にならないだろう。

昭和50年まで、炭酸飲料のフレーバーとして「アップル味」はマイナーな商品だったことを忘れて論を展開するのは無理がある。

唯一「アップル」の炭酸飲料を体験するとすれば、それは昭和49年後半に通常版の「ファンタ・アップル」を先に飲用した経験があることである。

商品が市場に存在したかどうかと、個々の子どもが実際に買って飲んだ経験を持っていたかどうかは違う。

さらに、昭和51年以降であっても「アップル味」の炭酸飲料商品の発売は数少ない*11。 皆さん、アップル味の炭酸飲料をこれまで、どの程度飲んだ経験がありますか。

多分、「飲んだ記憶がないか、あまり親しみがない」方、あるいは「ファンタ・アップル」を挙げる方が多いのでは。

「アップル味」の飲料は炭酸ではなくても、「果実飲料」であってもあまりポピュラーではない。 りんごは酸化しやすく褐色に変化するためである。

そのため、下記の青森県りんごジュースが「リンゴ天然果汁」を缶入りで発売していることから分かるように、技術が進化するまで、「紫外線」避けとして「アップル」味は「瓶」では無理で「缶」入りで発売されていたのである。

つまり「アップル味」の果実飲料を飲んだ経験が昭和50年までにあったとしても、缶入りであれば躾が厳しい家庭において改めてコップに移し替えして飲まない限り、「アップル味の飲料の色は明確には記憶にない」はずと考えるのが自然である。

ここで、炭酸飲料のフレーバーを、各種果実の登場順に並べてみよう(これは決定ではなく、このほかローカルでラムネなどを製販していた飲料会社による先行発売例もあるかと思うが、ほぼナショナル・ブランドに拠っている)

果実 発売時期 商品例
オレンジ 昭和33年1月 東京飲料「ファンタ・オレンジ」瓶
グレープ 昭和33年1月 東京飲料「ファンタ・グレープ」瓶
プラム 昭和38年4月 雪印乳業「スノーソーダ・プラム」瓶
レモン 昭和39年8月 森永製菓「サンキスト・レモンソーダ」瓶
グレープフルーツ 昭和40年 サントリー「サントリー・グレープフルーツスカッシュ」
メロン 昭和40年10月 ナイスパンチ会「メロン」瓶(統一商標であり、実際は兵庫鉱泉所などが製造販売)
あんず 昭和40年10月 ナイスパンチ会「アプリコット」瓶
いちご 昭和41年4月 日本エイトトラック会「ストロベリー」瓶
ライム 昭和41年7月 日本ペプシコーラ「ミリンダ・レモンライム」
チェリー 昭和47年3月 不二家「不二家ソーダ・チェリー」缶
アップル 昭和49年12月 富士コカコーラボトリング「ファンタ・アップル」瓶・缶(昭和40年、武田薬品工業『マリンカ』もあるが、米穀店ルート限定と狭い)
パイン 昭和53年 アートコーヒー「クリームソーダーパイン」缶

さらに戦後、炭酸が入っていない「果実飲料」でも比較は可能だ。昭和27年夏に発売された、日本ミッションジュースの「ミッションジュース・オレンジ」以来、バヤリースオレンジをはじめ主流はオレンジであった。 以下は果実飲料で、オレンジ以外の果実が採用された時期である(濃縮飲料・粉末飲料・乳酸菌飲料は除く)

果実 発売時期 商品例
グレープ 昭和27年11月 朝日麦酒「バヤリース・グレープ」
パイン 昭和27年夏 日本ミッションジュース・ボトリング「ミッションジュース・パインアップル」
アップル 昭和32年 青森県りんごジュース「リンゴ天然果汁」缶
ピーチ 昭和36年10月 明治製菓「ピーチネクター」
レモン 昭和39年 森永東京ルートセールス「レモンドリンク」発売
マンダリン 昭和41年6月 森永乳業「マンダリンジュース」
グレープフルーツ 昭和41年7月 森永東京ルートセールス「サンキスト・グレープフルーツジュース」
プラム 昭和42年4月 ユーミー会「プラムジュース」瓶
グァバ 昭和47年 愛媛県青果連「ポン・グァバドリンク」
マンゴー 昭和47年 東海パスカル「マンゴ」
プルーン 昭和48年 ポッカレモン「ポッカプルーン果汁100%」缶・瓶
ライム 昭和48年 サントリーフーズ「ライム」
パッション 昭和49年2月 三井農林「日東トロピコドリンク・パッション」缶
パパイヤ 昭和49年2月 三井農林「日東トロピコドリンク・パパイヤ」缶
クランベリー 昭和51年 キッコーマン「クランベリー」缶
カボス 昭和51年 竹田市農協「カボスドリンク」缶
いちご 昭和53年 UCC上島珈琲「ストロベリードリンク」缶
あんず 昭和60年4月 サッポロビール「あんず20」

1.3.7 「固定観念」を打ち破った「薄い色」のグレープだ

赤木論を敷衍すれば、「グレープ味と言えば紫色」という固定観念があるからこそ、かえって「ファンタ・ゴールデン・グレープ」は「紫とは見えない薄い色なのにグレープの味がする」ことによって、「良い意味で裏切られた・意表を突かれた」という強い衝撃をもたらすではないですか?

これが記憶されないというのはおかしい。

実際に「これはすごい、変わっているな」と感嘆しながら子ども時分に飲んだ体験は、文脈や感情と結びついた「エピソード記憶」として、ヒトの脳裏に一段と鮮明に刻み込まれると思うのだ。

この点は、筆者自身の「ゴールデン・アップル」と「ゴールデン・グレープ」の記憶がなぜ鮮明なのかを説明する材料にもなる。

ただし、印象的な経験であれば必ず正確に記憶され、混同が起こらないとまでは断言できない。記憶の鮮明さと記憶内容の正確さは分けて考える必要がある。

筆者としては、「ゴールデン・グレープとの混同」という説明だけで、ゴールデン・アップルが異なる地域・時期に登場する証言を、一括して片づけることには非常に疑問がある。

1.3.8 子ども時代の買い物の真剣さ

赤木が、昭和50年当時に「ファンタ・アップル」や「ファンタ・ゴールデン・グレープ」を飲んだか飲まないか不詳であるが、赤木は「記憶混同」説を案出したためにピットホールに陥っているのだ。

一般論として、幼少の頃の菓子・飲料へのこだわり、買い物行動の点を閑却しているのだ。

先述したが、50歳、60歳という成人になった現代のわれわれと、昭和50年当時の子どもは、買ったものに対する「興味・関心」と「執着度」はかなり違うのではないだろうか。

昭和50年頃の小学生は、駄菓子屋にて、

「うーん、どうしよう。オレンジ味にするかグレープにするか?」 「きなこ飴が食べたいけど、ガムでできるだけ長持ちさせる方がよいかもなぁ」

と、数分以上店頭で商品を凝視し、惑いながら本日の遊びと、お菓子・飲み物の消費計画を立てたものである。

ようやく選択が決まってから、菓子や飲料、小物玩具を買っていたはずではないか。

店頭に現れて、いきなり何も考えずにその場にある商品をなんでも良いから手に取って、会計に向かう子はほぼゼロである。

沢山のお菓子や飲料が欲しくても、小遣いは限られていた。

一つ一つの商品が大切である子どもが、色が薄いからといって惑乱し、

「おれはグレープ味を買ったけど、いま飲んでいるのはアップル味なのだ~」

と、現実に味わっている味覚、そして後の記憶がすり替わってしまう事は到底、納得できない。 そんな思考回路があったとは承服できない。

できるだけ沢山食べたい、買いたいのだよ、子どもというのは。

その場合に子どもは頭を働かせる。

駄菓子屋に入る前に、道端でコーラやファンタの瓶を探して拾って1本10円で交換するとかさ。

たとえば複数人で店にいったとき、「おまえはオレンジ、おれはゴールデン・グレープにするから、あとで半分っこにしよう」 とかさ。

共有や互恵の考え方で複数種の商品を体験しようとしたでしょう。

「パピコアイス」のように、半分に分けられる棒アイスもあったでしょう?

年長者がより多くだまして取って、年下が泣いて抗議したこともあったでしょう。

涙ぐましい努力をする小学生たち。

決してそこらにある清涼飲料を適当につかんで、「喉の渇きが止まれば何でもいいぜー」と、飲んでいたのではなく、明確に「特定した何か」を予算内で買い・味わう、という消費行動をしているのである。

だから、味覚の記憶を単純に混同したと説明するには、納得できる論理構成が必要である。

1.3.9 「見た目」を重視し「味覚」を忘れる記憶混同説

「記憶混同説」いや、「ガキの勘違い」論者は、「見た目」を指してアップルとグレープを混同したと主張するが、どうして「飲み味」という、味覚面は見落としてしまうのですか?。

「見た目」で腹は膨れません。 普通の子どもは「見た目」より「味」ではないですか? 「勘違い」論者は、幼少のみぎり、味よりも見た目を優先し大事にしてきたのですか?

百歩譲って「見た目」が優先としてもいいですよ。

そうしたら、逆に「『見た目』が薄くて、全くグレープには見えない飲料なのに、飲んだら何と味がグレープ!」という、「衝撃的体験」を忘れてしまうのですか?  と反論ができますよ。

先述したけど、この「固定観念に寄る勘違い説」は、千葉・仙台・福岡など11ボトラーの地域で、既に「ファンタ・アップル」が、「ゴールデン・グレープ」よりも先に発売されていた子どもにとっては、まったく、全然、少しも、意味をなさないです。

なぜならば。 昭和49年の後半から昭和50年6月までに「ファンタ・アップル」を買って、「アップルフレーバー」の炭酸飲料の摂取経験がある場合だと、昭和50年の7月以降に買った「ファンタ・ゴールデン・グレープ」を、「アップル」と混同することなんて、普通の子どもなら、まずありえないからだ。

通常版のアップル体験がなくていきなり「ゴールデン・グレープ」を飲んだ場合は、「ゴールデン・アップル」との勘違いだ説でも良い、と譲歩できますが、その場合はどこから混同する「アップル」味体験を持ってくるのですかね。

多くの子は通常版のアップルを先に飲んで、これまでの「オレンジ・グレープ」時代に代わって、第三の味として知った体験をしました。

ファンタの第三の味は「レモン」か「アップル」なのだが、「ファンタ・レモン」か「ファンタ・アップル」を飲んだ子どもは余計に、「第三の味」の記憶が鮮明のはず。

ずっとずっと、日本ではファンタは「グレープ・オレンジ」の二つのフレーバーしか発売されておらず、地域や体験の差によるが「初めてファンタのグレープ・オレンジ以外、第三番目のファンタ体験」が、「アップル味」(または「レモン」味)であれば、強い思い出となるはずだからだ。

少年漫画雑誌でもおんなじです。

長年、少年マガジン・サンデー・キング・ジャンプ・チャンピオンの五大誌時代があり、そこに双葉社が『少年アクション』で割り込んできたのは衝撃でした。なかなか記憶として忘れません。

各ブログの「記憶混同説」論者は、「ファンタ・ゴールデン・グレープ」の特別な存在感を見落としている。 当時の子ども(8歳~12歳程度)は、主婦連が「着色料に反対した」事情については全く知らない。

だから、これまでの色が「ブドウ」色で濃い「ファンタ・グレープ」が、ある日突然になくなってしまったことになんとなく戸惑った。

そして、なぜか「ゴールデン・グレープ」という名前で、とても薄い色に関わらず「グレープ」の味を感じる飲料が出たという受け止め方だった。

この「薄いグレープという奇妙な飲み物」は、かなり「子ども心」を揺さぶる存在、経験であったのだ。

「いや、私は色は薄いけど、これもグレープだよねと冷静に受容しました」 という子がいたら、ここに連れてきて。

極端な例示かも知れないが、例えば「透明なコーラ」を初めて飲んだ子どもは、 「すげー! これサイダーなのにコーラの味がする!」 と驚くでしょう。このことに反対される人はまずいないと思います。

「ファンタ・ゴールデン・グレープ」は、それに匹敵する、まるで「手品」的な体験といえば、理解してもらえるだろうか。

子どもの記憶ってあなどれない。

例えば「あった派」に分類されるであろうブログに「仙台・幸町から写真日記」のエントリー「ファンタ・ゴールデン・アップル味」(2005年11月07日)(https://saiwai.exblog.jp/2519758/)があり、ここには次の記述がある。

「ゴールデン・グレープじゃないよ、味がリンゴだったし、ゴールデン・アップルなんて面倒くさい名前インパクトがあったんで30年たった今でも覚えていたんだもの。」

と、ブログ主宰者は、「味覚」と「名称」の2点において、強烈な印象を伴った「エピソード記憶」で定着しているのだ!

しかも、現代のコンビニはたくさんの炭酸飲料、果実飲料が並んでおり、商品の新発売と廃番も目まぐるしい。

それに比べて、コンビニもなく昭和50年頃の子どもが行く駄菓子屋や食料品店では、炭酸飲料の取り扱い種類はかなり少なかったのだ。 だからこそ、新製品への関心や記憶の濃厚さは現代とは比べ物にならなかった頃なのだ。

記憶の取違えなんて容易には起こらない時代だったのだ。

これまでの事を整理すると、かなり多くの体験は次のようになるはずです。

  1. 昭和49年後半に「ファンタ・アップル」を飲んで、初めて「第三のファンタ体験」をし、初めてのアップルの炭酸飲料を飲む味の経験をし、かなり「記憶としては重要」な経験をする
  2. 次に昭和50年7月頃に「ファンタ・ゴールデン・グレープ」を買って、なんとファンタ・グレープが薄い色になってしまった! さらに飲んだら「味はグレープだった!」という、これも衝撃的な体験をする

どちらもエピソード記憶としては十分なインパクトがある体験でありませんか。 どこに「固定観念」が入る隙間があるのでしょうか。

ウルトマランとウルトラセブン、どっちもどっちで区別できないという、大人はいたでしょうが、そんな子供はいないでしょう? それと同じ構造です。

皆無とはいいません。たまにはいたかも知れません。 だけどそんな特殊な子どもが何人も、日本中あちこちにいるのですか? 

特に「缶飲料」で「ファンタ・アップル」を体験した場合は、中が見えなかったので、「見た目の色」では左右されにくいし、「見た目」問題はツッコミどころか多くて満身創痍です。

1.3.10 「ファンタ・ゴールデン・グレープ」の販売地域との整合性

ネットでの調査には限界があるのだと筆者はいいながら、ネットに掲出された証言を本稿で援用するのは少し忸怩たるものがあるが、インターネットで「ゴールデン・アップル」の飲用体験をコメントなどで記述した方の中には、

「ゴールデン・グレープと、ゴールデン・アップルを取り違えてはいない。何故なら、むしろ私はゴールデン・グレープという商品を当時知らず、後で知ったから」

と、なぜ自分がそれを記憶しているのか、という点にも触れて証言の確度にまで踏み込みをされている場合もある。

「YUME-NO-MAKADE」サイト主宰のくりまんじゅうさんも、「ファンタ・ゴールデン・アップル」(2007-10-11)というエントリーで、

「そもそも「ゴールデングレープ」なんて知らないです。」(http://yume-no-nakade.blogspot.com/2007/10/blog-post_11.html)

という。

証言者の居住地域によっては「ゴールデン・グレープという商品を知らなかった(=当地域のボトラーがゴールデン・グレープ未発売、または証言者の購買体験にゴールデン・グレープが含まれない)」という点が、各地の記憶を検討するうえで重要な手がかりとなることを示している。

「混同説」における最大の欠点は、「そもそもゴールデン・グレープの発売がその地域で無かった」場合、あるいは「発売はあっても、先行発売の通常版アップルとの時間差がかなり乖離している場合」である。 記憶の混同は通常版「アップル」と「ゴールデン・グレープ」の両方を飲んだ経験がないと瓦解する論理展開なのだ。

現地ボトリング会社主義である日本コカ・コーラ。 居住地のボトラーが「ファンタ・ゴールデン・グレープ」を発売していなかったら、上記の「ゴールデン・グレープは知らなかった」証言の信ぴょう性は増す。

着色料事件の経緯から考えると、「オレンジ」と二大フレーバーであった「グレープ」味を欠いたままという事につながるため、「(ゴールデン)グレープ」を発売しないというのは考えにくく、これまでの調査では北海道・コカ・コーラボトラーズの事例があるのみだ。

通常版ファンタ・アップルと、ゴールデン・グレープを確実に販売していたボトラーを調べる主旨もあって、両商品の発売状況を地域ごとに調査、結果をまとめると、掲出したエクセル表となった。

確実に販売されていた期間を通常版アップルは赤系、ゴールデン・グレープはぶどう系色で塗った。始期や終期がはっきりしない年には黄色を付けてある。

図表を再度、掲出する。

この表を見ると様々なことが判る。

北海道はなんと通常版アップルとゴールデン・グレープの両者の発売開始時期に3年もズレがありそうだ、しかもゴールデン・グレープの発売は52年~53年という短期間である。

さらに「北海道コカ・コーラ」の社史には「ゴールデン・グレープ」という苦肉の策は発売せず、一足飛びに「ニュー・グレープ」を発売したいう記述がある(「当社では52年6月に他のボトラーに先がけて、本社第2ラインにパストライザーという加熱殺菌装置を設置し、製造工程を新しくすることによってニュータイプのファンタ グレープの製造に成功した」とある*12これは現実を反映していると思うが、昭和52年にゴールデン・グレープも発売した期間があってもおかしくはない。53年に併売を続けたかどうかは判断できないが)。

どちらにしても北海道の方で「ファンタ・ゴールデン・アップル」を飲んだという証言があれば、「ゴールデン・グレープ」は体験していない上での経験という蓋然性が高く、記憶の「混同」など起きようもない。

北海道在住者の「ゴールデン・アップル」体験は、他地域に対してポイントで20倍の価値があるのだ。

そして(表が完全ではないが)全体としては、通常版「アップル」が昭和49年、50年に先行したことで、「アップル」の経験が行われ、その後に「ゴールデン・グレープ」を、昭和50年7月以降に経験している者が多い傾向だ、という結果がみえた。

利根・北陸・三笠・四国の各ボトラーは、1年前後のタイムラグである。

(通常版アップルとゴールデン・グレープが同年に発売されたかも知れないのは東京のみだ《ただ発売月までが不詳なだけで、近畿のように、東京も両者の発売月が昭和50年のなかでずれている可能性はある》)。

この表は、地域のボトラー別の商品発売時期を無視したまま、「記憶混同説」を全国一律に当てはめることには問題があることを示しているといえよう。

通常版アップル味のファンタに先に接していたのに関わらず、「ゴールデン・グレープ」を後から飲んで《しかも、色が薄いという、子どもには小さくない衝撃付で》、「おれはグレープを買ったけど、アップルを飲んでいた」という混同は起きることはありえない。

先に飲んでいた通常版の「アップル」が「第三のファンタ」としてのエピソード記憶で保持されており、そこに、「色が薄くてびっくりなゴールデン・グレープ」のエピソード記憶が後からやってくるが、両者は混同されず独立した挿話として併存できるのだ。

さらに「ファンタ・アップル」が先行発売していても、個々の子供で通常版アップルを飲んでいない事例も当然あろう。つまりファンタの第三の味が「ゴールデン・グレープ」だった場合である。 これも論破は簡単である。

これは生後から「ゴールデン・グレープ」の飲用時まで、アップル味がする炭酸飲料の飲用経験がないケースとなる。 よって「ゴールデン・グレープ」だけを飲んでいる子どもであるのに、どうして未知の「アップル」味と混同して記憶が起きるのか? が説明できないではないか。

先に説明したように、炭酸飲料の世界でアップルフレーバーは99%、通常版「ファンタ・アップル」で最初に経験するはずなのだ。

炭酸のアップル味を飲んだことがある子供はほぼいないのであるから、「ゴールデン・グレープ」を飲んだときに、「薄くてもグレープ」の味がするという経験だけは記憶するが、「これはアップルかも、アップルに違いない」などと考えもつかない事になる。

混同する記憶が形成される可能性は、個人の体験ごとに検討しなければならないのだが、今回ばかりは、「アップル味の炭酸飲料がレア」という特殊事情があるため、ファンタの通常版アップル味を先に飲用していても、いなくても、どっちにせよ同じ結果(記憶の混同は起きない)ということになるのだ。

1.3.11 「ファンタ」第三の味は強烈な記憶となるはず

文献調査(国会図書館デジタルコレクション)では、北海道・仙台・東京・山陽・近畿・北九州のボトラーズに於ける「ファンタ・レモン」の発売は昭和54年であった。

ほかに、富士・中京では昭和51年にレモンが発売されていた(『食品マーケティング便覧1980 中巻』はこの昭和54年時点でファンタ・レモンを発売しているのは「全国8ボトラー」*13と記述しているため、上記の8ボトラー以外では未だファンタ・レモンが発売されていない事になる。

ファンタ・レモンの一番早い発売は昭和51年であるから、第三の味は全国的に「ファンタ・アップル」で決定するといっても良いことになる。

ファンタのオレンジ・グレープに次ぐ第三の味は「アップル」だったのだ。

オレンジ・グレープしか存在しなかったファンタに新しく通常版「アップル」が加わったことは、非常に記憶に残ることになると、筆者は断言できる。 賛成してくれる方も多いのではないでしょうか。

ファンタ・アップルとファンタ・ゴールデン・グレープがあったために、「ファンタ・ゴールデン・アップル」という記憶が生まれたのだという「記憶混同説」は、挿話として強烈な印象を残すファンタの第三の味の面からも納得しがたい。

子供の玩具に置き換えて考えてみよう。

例えば、3歳頃に自分の手元には、親が買い与えたパトカーと、乗用車(セドリック)のミニカーがあったとする。当初はこの二台を持って遊んでいた。

そして、4歳の誕生日プレゼントということで、玩具店に連れて行かれ、そこで赤い消防車のミニカーを選択して購買したとする。 子供にとっては、それまで持っていなかった新しい種類のミニカーを入手した、印象深い出来事となる。しかも消防車を入手すると、あたらしくパトカーとセットで「緊急ごっこ遊び」も展開できるようになったのだ。

その後、5歳のクリスマスプレゼントで、また近所の玩具店に親と一緒に行って、その時は黄色い道路作業車のミニカーを見つけ、これを買って貰った。

何年もたってからミニカーのことを回顧した際、 「最初に買ってもらったのは救急車ではなく、道路作業車だった」 と、記憶が入れ替わるだろうか。

もちろん、人間の記憶違いが絶対に起こらないとはいえない。

しかし、乗用車とパトカーという限られたラインアップに、新しい「消防車」が加わったという経験は、パトカーと消防車とのセットとなったこと自体が記憶に残る契機となる。

まして、ファンタ・アップルとファンタ・ゴールデン・グレープという、「味覚的」に異なる商品を実際に飲んだ経験があれば、その二つの商品の記憶が作用した結果、別の商品名「ファンタ・ゴールデン・アップル」が生まれたとする説明には、相応の根拠が必要であろう。

子供が商品を取り違えるはずがないという話を、もう少し続けたい。

子供時代を思い出してほしい。 好きなお菓子を買うとき、味の違いを気にしなかっただろうか。

例えば、ポテトチップスに「うすしお味」と「コンソメ味」があり、そこへ新しく「のりしお味」が加わったとする。

子供は、見た目が似た袋に入っていても、味の違いを意識して選ぶものだ。

新しい味を初めて食べた経験も、それまでの味との違いがあればこそ、印象に残るものになるでしょう。

それなのに、何年も経ってから「自分が初めて食べたのは、のりしお味ではなく、コンソメ味だった」と記憶が入れ替わる事があるだろうか。

もちろん、記憶違いが絶対に起こらないと完全に否定はしない。

だが、似た商品があったというだけで、本人が覚えている体験を簡単に勘違いと決めつけるのは乱暴ではないだろうか。

「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」、あるいは歴代の「仮面ライダー」のように、同じシリーズに属し、見た目や設定に似たところがあっても、子供たちはそれぞれの微細な違いをよく覚えていた。

好きなものだからこそ、種類や順番、新しく登場したものに敏感だったのである*14。

ファンタも同じではないだろうか。長年親しんできたオレンジとグレープに、新しく通常版アップルが加わる。さらに、グレープ味なのに従来の紫色とは違う、黄金色のゴールデン・グレープが登場する。

子供にとって、これらは単に名前の似た飲み物が増えたというだけの話ではない。味や色、商品名の違いを実際に体験する出来事だったのである。

子ども時代に新知識を覚えるとか、新しい商品に遭遇する、初めて使う・飲む・食べる・吸うという五感を刺激する体験は人生上、非常に印象に残ることである。

大人になると子どもの時の感性を忘れがちではあるが、生まれて20年くらいまでは、人生で遭遇するほとんどの出来事は新たな経験である。

そこには喜怒哀楽や驚き、悲しみ、快感、満足、陶酔など様々な感情を伴っていたはずである。

大人になると、余りそのような新奇な経験は少なくなる一方なので、未経験の目新しさが減って面白くないともいえる。

「ゴールデン・グレープを飲んだ記憶が、ゴールデン・アップルという記憶にすり変わってしまった」

という説明をするのであれば、そうした体験の違いが、なぜ混同されてしまったのかを説明する必要があるだろう。

商品名に「ゴールデン」が共通していることや、色が薄いから黄金色で共通だったとかだけで、別の商品を飲んだ記憶まで生まれたとするのは、説明として十分ではない。

色は薄くても味はブドウ、名前には「グレープ」と付いている。それを「アップル」と取り違えて記憶するというのは、自分が子供の頃、味も名前も区別できなかった、と自ら認めるようなものではないか。

自分で買ったものだから、何を飲んだかくらいは覚えている。

話を戻して整理する。

「ゴールデン・アップルはゴールデン・グレープとの混同」という説は、次の点で説明不足である。

第一に、色が似ていても「アップル」と「グレープ」を混同しない。

リンゴ味とブドウ味は香り・味が明確に異なる。

児童ら消費者がずっと「アップルだと思ってゴールデン・グレープを飲んでいた」とは、非常に考えにくい。

第二に、昭和50年当時の子供は商品にこだわりがあった。

大事な小遣いで選び、購入した清涼飲料の記憶はむしろ鮮明である。これまで単に「グレープ」だったのに、ある日いきなり「ゴールデン・グレープ」と「ゴールデン」の修飾を冠したことは印象的だった。

第三に、「薄くてグレープの印象は打消されてしまったのに、グレープの味がする」ことが衝撃的であり、記憶の混同は起こりにくい事だ。

特に飲用中に「アップル」を飲んでいると勘違いするのは考えにくい。

仮に百歩譲って「無果汁飲料の味はイメージ」で、子供が勘違いをするとしても、それは中身の見える「瓶飲料」の話であって、「缶飲料」の場合だと説明にはならない。

昭和50年には、すでに缶飲料は自販機などで当たり前に買える時代だった。


第2章:企業公式見解には限界がある

2.1 ネット上で紹介される「公式見解」

ネット上では、日本コカ・コーラ社が「過去に日本国内でそのような製品を販売したことはありません」と回答した、と紹介されている。

紹介元の一つは、くりまんじゅう「ファンタ・ゴールデンアップル」(2007年10月11日)である。*15

ただし、筆者は日本コカ・コーラ社が発した回答の原文や公式文書を確認できていない。

このため、上記の文言を、確認済みの公式声明として引用することは避けたい。

まずは「そのような回答があったとネット上で紹介されてきた」という程度で位置づけるのが妥当であろう。

仮にこの公式回答自体は正確であったとしても、回答時点で会社側がどの資料を調べ、どの範囲の商品を対象としていたのかが分からなければ、そこから導ける結論には限界がある。

日本コカ・コーラと各地のボトラーはフランチャイズ方式で、製造・販売役割を分担してきた。

ボトラーズ各社の独自判断による販売があれば、地域限定商品は本社の記録に残らない場合がある。

特定地域でのテストマーケティングや限定販売も、正式な商品として記録されないことがある。

短期間で終了すれば、「なかったこと」にされる可能性もある。

地域ごとの販売実態を調べるには、本社資料だけでなく各ボトラーの社史、製品便覧、広告、容器や王冠なども照合する必要がある。

そして地方のボトリング会社による地域限定販売やテスト販売だった可能性を挙げるだけで、実際に発売されたと証明できるわけでもない。

販売の有無は、その地域・時期を示す具体的な資料によって検討する必要がある。

2.2 2002年の「ゴールデン・アップル」発売の意味は?

2002年10月、なぜかコカ・コーラ社は「新フレーバー」としてゴールデンアップルを発売した。*16

これは、次のように解釈できる。

一つは「都市伝説」の商品化である。

ネット論争を逆手に取り、「伝説を現実にした」という話題性で販売した、という読み方だ。

二つ目は「かつて存在した商品」の復刻である。

1970年代に実際に販売されていた商品を、「新フレーバー」という建前で、実質的には再発売した、という読み方だ。

三つ目は、企業としての「公式化」戦略である。

「なかった」と否定しながら、実際の需要に応えて販売企画を行い、矛盾を「伝説の商品化」という物語で解消しようとした、という読み方だ。

しかも、そこから二度もゴールデン・アップルは販売されている。

公式に過去の発売を否定しただけではなく、なぜ商品として発売したのか。

単に「噂を商品化したら面白かろう」という話題への便乗というノリだったのだろうか。さらに考えを進めると、二つの説明が導ける。

第一は、歴史的事実の切り離し説――「新発売」とすることで過去の問題を封じた、という説である。

コカ・コーラ社が過去の発売を否定していても、消費者の間で商品名が知られ、発売を求める声があれば、同じ名前の商品を新たに販売することはできる。

だが「昔の商品を復刻する」と発表すれば、過去の発売を認めたことになる。

「新フレーバーとして発売する」という形なら、過去の発売を公式に認める必要はない。

商品を販売して商業的利益を得ながら、過去の発売に関する公式見解を変えずに済む。

過去の歴史的主張の否定と、消費者の需要に応える商品販売とを、意識的に切り離した、という説明は成り立つ。

第二は、社内政治説――「おまえらは失敗した」といったメッセージ性を含む、という説である。

陰謀論といわれそうだが、第一の説への対抗仮説として挙げたい。

昭和50年のゴールデン・アップルには何らかの社内問題があり、その商品に関わった部署や関係者が、後年も社内で責任を負っていたと仮定しよう。

2002年に別の事情で同名商品を発売することで、過去の問題に関係した人々に対し、暗黙の牽制や責任の再確認を行った――という筋書きがあるのではないかという読みである。

この背景には、過去のゴールデン・アップルの発売をめぐり、社内で記録や説明に関する諸問題が生じており、その問題に関与した部署と、後年の商品企画を担当する部署との間に、何らかの対立があるなどのいわば社内派閥的な確執がなければならない。

故意にゴールデン・アップルを発売することで、過去の経緯を知る人々へ、何かしらの象徴的なメッセージが届くという可能性がある、という解き方なのである。

2002年10月に「ファンタ・ゴールデンアップル」が実際に商品として発売された際、久須美雅士は当時の記事で、発売と、1990年代から続いていた「ある・ない」論争の経緯を紹介している。*17

ただし、2002年に同名商品が発売されたことだけでは、1970年代に先行するゴールデン・アップルが販売されていたことの証明にはならない。

2002年の商品は、当時のネット上の論争や消費者の要望を背景に新たに企画された可能性がある。

反対に、過去の商品を参考にした可能性も考えられるが、企画書や社内資料などが見つかっていないため、どちらかに決めることはできない。

2.3 2025年の公式発表は「ちゃぶ台返し」か?

2025年10月31日、日本コカ・コーラは同年11月10日から「ファンタ ゴールデンアップル」を期間限定で発売すると発表した。公式発表は、商品を「復刻」と呼び、さらに「他のフレーバーと比較して発売当時の販売期間が短かった」と説明している。*18

これは、本稿執筆時点で確認できる重要な公式資料である。

ネット上では、日本コカ・コーラ社が、 「『過去に日本国内でそのような製品を販売したことはありません』と回答した、との見解」が出され、「ゴールデン・アップル」の存在を否定していたという。 だが、2025年10月31日の「ファンタ ゴールデンアップルを期間限定で発売」という発表では、

「「ファンタ ゴールデンアップル」は、他のフレーバーと比較して発売当時の販売期間が短かったことから、“幻の味”として記憶されている消費者の方も多い製品です。」

と、記述しているのである! 一応、その画面もキャプチャしてここに掲出しておく。 公式が2025年に「否定」を否定。つまりゴールデン・アップルを肯定

「発売当時の販売期間が短かった」というのは、公式が過去の「販売を認めた」ことに他ならない。しかも「幻の味」ともいっている。

過去に否定した公式見解と異なり、上書き更新された現在の公式発表では、「ゴールデン・アップル」を単なる誤記憶として扱うのではなく、過去には発売され、当時の販売期間が短かった商品としてその味の記憶はレアだと紹介しているのだ。

当然、この発表だけでは、1970年代の発売年、発売したボトラー、地域、容器別の販売時期までは分からない。

この見解は衝撃的であり「エポック・メーキング」となる声明だ。

かつてネット上で伝えられた「公式が言ったとされる『ファンタ・ゴールデン・アップル』の発売を否定する回答」を、現在も継承し公式見解として引用するのは、適切ではなくなったのである。

筆者は肝心な「公式が否定回答」した原文を確認できていないと先述したが、もしかしたら「公式の発売否定回答」自体が誰かが捻出した空想のお話であり、実は存在しない可能性さえあり得るのではないか。

この2025年の公式発表は、少なくとも過去に同名商品が発売されたことを前提とした説明を、何の注釈もなく行っているからだ。

本当に公式が過去のゴールデン・アップル発売を否定したのであれば、公式見解の件を変更・修正することについて、多少なりとも触れても良いではないか。

第3章:記憶の集合的な証拠について

3.1 柴門ふみさんらの証言

「飲んだ」という証言は、単なる「思い出話」ではない。以下の具体的な証言をどうするのか。

漫画家の柴門ふみは、書籍で「ゴールデンアップル」に言及している。

創作ではなく、実体験としての言及である。

ネット上にも「昭和50年代に飲んだ」「地元の駄菓子屋で売っていた」という証言が複数あり、地域・時期がある程度一致する。

「金色の缶」「リンゴの香り」「グレープより色が薄い」といった具体的な記憶の共通点は、集団的な錯誤にしては具体的すぎる。

柴門ふみの、『青春とはなんだかんだ』(小学館、1994年)では、次のような記述がある。

「以前テレビで流れていたコカ・コーラのCMフィルムの中に、小学五、六年らしき男の子が若者数名に取り囲まれて映画館の座席に座っているやつがあった。 若者が小学生に言う。 「なんだ、おまえ、コーラ飲んだことないのか?」 「うん」と、小学生は答える。 「飲んでみろよ」 そして、小学生が紙コップに入ったコーラを口にして、「わーっ、おいしい」というオチなのだ。 それで思い出した。私が子供時分、コカ・コーラが飲める小学生は確かに尊敬されていた。 コカ・コーラ、イコール、進駐軍のイメージが強かった。 昭和四十年代は、まだ戦後二十年しかたっていない時期なのだ。小学生は、せいぜいラムネ、であった。ラムネから三ッ矢サイダーに移り、ファンタオレンジ、プラッシーを経て、ファンタグレープ。同じファンタでも、オレンジよりグレープの方が格が高かった。 そして、ファンタグレープをクリアできた者だけがコカコーラにたどりつけたのだ。 三ッ矢サイダーも無理で、渡辺のジュースの素から、キリンオレンジどまりの子供もいた。炭酸入りをこなせるかどうかが大きな岐路であったようなのだ。 私が小学一年の時、訪ねた本家の台所で当時中学二年だった従兄が瓶に入った黒い液体を飲んでいた。 ラベルの真ん中についていたべルマークがはがしにくかった。 オレンジ好きはすぐにアップルやゴールデンアップルに浮気した。グレープ派はあくまでもグレープだった。ライバル商品として、ペプシ・コーラ系のミリンダ、セブンアップ系のチェリオなど。」

と、柴門ふみさんは、ファンタの「アップルやゴールデン・アップル」として、「アップル」の二者併存状態であったからこそ、その点は区別して記述しているのだ。

ここで「アップル」の一語にしてもよい文章を、あえて「ゴールデン・アップル」も並列していることには注目するべきだろう。

グレープ好き派はグレープ一途であり、オレンジ好き派だと、アップルかゴールデン・アップルのフレーバーに浮気するという。

そしてグレープ好き派はオレンジ派と異なり、グレープだけを飲むということからも、先述した「アップルとグレープの混同」までも否定されるのだ(柴門さんの文章を借りればオレンジ派がオレンジとアップルを混同する可能性はあるという事になる)。

ただし、柴門ふみさんは、昭和32年(1957年)9月6日生まれであるから、「オレンジ好きはすぐに~」以降の記述は、「小学一年(昭和39年(1964年)4月1日〜高校2年(昭和49年(1965年)3月31日)」の体験ではなく、18歳の高校3年頃の体験だろう。

森博嗣の『すべてがEになる』(幻冬舎、2000年)では、

「今度は、ファンタのゴールデンアップルのメールをいただきました。はい、森は覚えております。あれ、今はないのでしょうか(望遠)。ジャフィというビスケットも近見かけないのです」

とある。

3.2 マンデラ効果の逆説

「マンデラ効果(集団的記憶の錯誤)」説は、次の点で逆説的である。

第一に、「じゃあ、ゴールデングレープはなぜ記憶されたのか」という問いに答えられない。

「ゴールデングレープが販売されていたのは、1975(昭和50)年7月から1977(昭和52)年7月の、わずか2年間だけだったことになる。」*19 と、同ブログは述べている。

エクセルの表をみればわかるが、そう簡単な問題ではない。仙台や三国コカ・コーラボトリングでは昭和50年から54年まで4年も販売されている。

まあ、そこまで調査できないのはプロのライターでないだろうから仕方ないが、 「ゴールデン・グレープ」の薄い色を見て、これは「ゴールデン・アップル」だとほとんどの人が混同するほどなら、逆に「ゴールデン・グレープ」という商品があったという記憶が残らないだろうに? という矛盾は解決しないのだ。

「ゴールデン・グレープ」と正しく記憶した人と、「ゴールデン・アップル」と記憶した人が併存する理由についても、個別の証言を照らし合わせた説明が必要である。

第二に、通常版「アップル」と「ゴールデンアップル」の区別がある。

ファンタアップル(昭和49、50年発売)は明確に記憶されている。「ゴールデン」が付くことで、付かない先行の通常版「アップル」と区別されていた可能性はないのか。柴門ふみさんのように、明確に二者を覚えていた方もいる。

第三に、地域差・世代差の存在がある。

「飲んだ」という証言は、特定の地域・世代に偏っている。全国的な同時展開ではなかった可能性を示唆している。

「マンデラ効果」と雑にまとめて、何か分かったフリにする風潮自体に、筆者は不平がある。

私は「フット・イン・ザ・ドア効果」とか「ハロー効果」といった、現象や言動への名詞化の命名は、研究論文には貢献するかも知れないが、市民がブログや日常生活に使用することには違和感を覚える。*20

日本心理学会自身も、心理学を「人の心を読むテクニック」や「マインド・コントロール」ではなく、人間の心を客観的に把握しようとする科学だと説明している。

人間の日常的な行動そのものを研究対象とするため、誰もが「自分は人間を知っている」という経験知を持っている。

そのため、専門的な実験・調査・統計によって得られた知見と、個人的な経験や俗説との境界が曖昧になりやすい。*21


第4章:ゴールデン・アップル販売の可能性

4.1 着色料問題との関係

1970年代、ファンタグレープの合成着色料に発がん性への懸念が指摘された。

この件はネット上では単に「合成着色料の問題」として記述されていることが多いが、事は単純ではなく、複数の問題があるのである。

これを、部外者で情報に接する限界がある筆者が、コカ・コーラの社史などによって、わかる範囲を時系列でまとめると下記になると考える。

まず、前提として昭和44年頃から消費者団体(主婦連や生協連合会など)がファンタの色素を問題視して、攻撃・報道されていた(当時、禁止されていない安全な色素を使用しているとコカ・コーラ側は主張していたのに)

↓

おかげでファンタの売れ行きは半減(東京コカ・コーラの場合) 消費者団体は「合成ではなく、天然のものにしろ」と求めた

↓

昭和48年5月に、「ファンタ・グレープ」に500mlびんが追加発売された*22

↓

だが、「ファンタ・グレープ」に500mlびんに、日本消費者連盟・生協などが、「使用しているタール系色素はガンを誘発する」と、安全性の懸念や批判が高まり、販売は「ノー」だと反論された。

↓         昭和49年7月、「ファンタ・アップル」200ml瓶レギュラーサイズ、10月に500ml瓶と缶の250mlが発売(年月は一番早かった、富士コカ・コーラボトリングの場合)

↓

        昭和49年年末に「HI-C」ブランドの「アップル」(255cc缶)発売

↓

昭和50年4月、日本コカ・コーラ社は、消費者団体に対応し、ファンタは「天然着色料」に転換

  • オレンジ……ベータ―カロチン
  • グレープ……ぶどう果皮色素(アントシアニン)とカラメル

↓

だが50年5月下旬に、日本コカ・コーラ社傘下の各地のボトラーで、「ファンタ・グレープ」の瓶などに天然のアントシアニン成分が「白色沈殿」する現象が多数発生

理由は「ぶどうの果皮から抽出した色素の中でイースト菌が生きていたから」だ 市場から、自主的に全面回収し、「ファンタ・グレープ」の製造は停止 ↓

7月末頃になって利根コカ・コーラら地方ボトラーは、「カラメル」だけで着色した、「ファンタ・ゴールデン・グレープ」の瓶・缶を発売

↓

天然カラメルで着色していたが、色のイメージからグレープを訴求しないため、売れ行きが振るわなかったとされる コカ・コーラ社はなんとか濃い色の「ファンタ・グレープ」を作りたかっただろう

↓

製造工程に温熱殺菌(パストライザー)を加えることで沈殿物の問題が解決された。 アントシアニンを用い、もとの紫色の「ニュー・ファンタ・グレープ」が再登場。

時期については、公開資料間で年・月の記述に違いがある。全国的な概略年表をそのまま個々のボトラーの発売・終売年に当てはめず、各社の社史や当時の製品資料で確認する必要がある。

4.2 ゴールデン・アップルは地域・期間限定商品だった?

ゴールデン・アップルの発売時期や販売地域を考える際には、最初から全国一斉発売だったと仮定せず、ボトラーごとの発売記録を確認する必要がある。

日本コカ・コーラが製品の企画開発やマーケティングを担い、ボトラー各社が製造・販売を担う仕組みでは、地域ごとに導入時期や取り扱い品目が異なることがあった。*23

そのため、特定地域での試験販売や、販売期間が短かった可能性も仮説として検討できる。ただし、ゴールデン・アップルが実際にテスト販売品だったと示す一次資料は、現段階では確認できていない。

たとえば、東京・静岡など特定地域で先行販売され、販売実績を見たうえで各地域のボトラーが導入の可否を判断したという仮説も考えられる。

また、ゴールデン・グレープに続く「ゴールデン」シリーズの一商品として、複数のフレーバーを順次展開する構想が存在した可能性も考えられる。

ただし、現時点では、ゴールデン・アップルが実際に地域限定のテスト販売商品だったことや、シリーズ展開が計画されていたことを示す一次資料は確認できておらず、いずれも仮説の域を出ない。

販売期間についても、短期間で終了した可能性がある。

ゴールデン・グレープの場合、着色料の問題が解消された後、通常のグレープが復活するまでの期間は、地域や発売時期によって異なっていた。

仮に、先行して発売された地域では3~4年間も販売されたが、一方、発売が遅れた地域では1~2年程度で新しいグレープ品に切り替わっている。

そうであれば、ゴールデン・アップルも1~4年程度の短期間だけ販売された可能性は考えられる。

ただし、これはゴールデン・グレープの販売経過を参考にした推測であり、ゴールデン・アップルの実際の販売期間を裏付けるものではない。

地域によってはゴールデン・グレープとゴールデン・アップルが併売されていた可能性もある。

「色が薄い」ため、ゴールデン・グレープの販売が振るわなかった事実はある。

そのために、売り上げのテコ入れ商品として「第4のフレーバー」が期待されたかも知れない。

あるいは「ゴールデン・グレープ」という思わぬ商品の誕生を奇禍として、セカンド・ブランドラインとしてゴールデン・シリーズを立ち上げるという思惑があって、「ゴールデン・アップル」が投入されたという筋書きも想定できる。

だが、商品テコ入れやゴールデン・シリーズ化の試みの事実を示す具体的な資料がない以上、これらは推論であり断定はできない。

第5章:なぜ「ゴールデン」を冠するのか

5.1 「ゴールデン」を冠するマーケティング手法

当時を知っている元小学生には自明だが、ファンタの通常版「アップル」と、「ゴールデン・アップル」は別商品である。

ボトラーごとに発売年月は前後するが、通常版ファンタアップルは昭和49年から発売済みだった。

ファンタ・ゴールデン・グレープは昭和50年に発売された。

おそらく「ゴールデン・グレープ」の発売によって、日本コカ・コーラ社でも商品名に「ゴールデン」を冠する前例ができたため、昭和49年に発売した通常版の「アップル」と区別して、「ゴールデン・アップル」を発売した可能性が考えられる(当時はまだ、マーケティング戦略で商品名に「プレミア」とか「極」を接頭する時代ではなかった)。

昭和40年代後半〜50年代前半にかけて、消費者向けの名詞に「豪華さ」や「高級感」「特別感」「稀少性」「通常品よりも上級や高品質」を付加するため、それまでの単純な「ニュー」「ハイ」「ネオ」「ウルトラ」「スーパー」「デラックス」「ビッグ」「スペシャル」に代わって「ゴールデン」を冠する風習が非常に盛んであったことも影響しているのだろう(ゴールデンという表現自体は1960年代からある)。

ただし「ニュー」「ハイ」「ネオ」「新」は、高級化などの差別化というよりも、先行した旧商品に続く改良型・第二世代を連想させるものだ。

昭和20年代、30年代に発売された従来品の内容や仕様、成分を改めた商品であることを訴えるのである。よって旧商品との時間的なつながりや変更が意識される。

「ゴールド」「ゴールデン」は、金色の外観や特別に製造した、高級感などを連想させるが、必ずしも原材料の品質向上は意味しない。

当時の日本は、高度経済成長のピークから石油ショックのインフレを受け、安定成長期へと移行する過渡期にあった。

昭和30年代の「とにかく生活を豊かに(家電など三種の神器の様に)」という段階を終え、昭和40年代後半になると、「他のみんなより、少しだけ良いもの、少しだけ豪華なもの(≒プチ贅沢)」を求めるような傾向が強まっていたと考えられる。

当時はまだ、英語の「Premium(プレミアム)」や「Luxury(ラグジュアリー)」「Gorgeous(ゴージャス)」という言葉が一般的ではなく、誰にでも一目で「最高級」「豪華」と伝わる最強のマジックワードが「ゴールデン(またはゴールド)」だったのである。

大衆の消費欲望を刺激するため、様々な分野で「ゴールデン」や「ゴールド」が多用されており、「ゴールデン・グレープ」と、コカ・コーラ商品に冠句されても不思議ではない。

だが中身50円の清涼飲料水であることを考慮すれば、特別や高級にも限度があり、本来の「ゴールデン」の意味を商品の修飾として借用する意図を有していても、実際は「液体の色の連想」だったともいえる。

5.2 「ゴールデン」「ゴールド」が付く商品例(昭和46~52年)

日常の消費財において、「普及品(通常版)」よりも少し高価でリッチな「上位互換・高級版」であることを一目で伝えるために接頭されたと思われる。

●食品

  • 昭和46年 ミスタードーナツ「ゴールデンチョコレート」
  • 昭和46年 メタル食品工業「メタルインドカレーゴールド」
  • 昭和48年 ヱスビー食品「ゴールデン・ディナーカレー」
  • 昭和48年 シスコ「ゴールデンポテト」
  • 昭和49年 豊年リーバ「ラーマゴールデンソフト」発売
  • 昭和50年 スギヨ「ゴールデンかにあし」
  • 昭和51年 大久保製麺「ニュータッチゴールド醤油・塩」

    ●文具

  • 昭和47年 コーリン鉛筆「ゴールド芯」
  • 昭和47年 セメダイン通商「セメダイン3000ゴールド」
  • 昭和49年 三菱鉛筆「GOLD uni(ゴールドユニ)」鉛筆
  • 昭和50年 ヒノデワシ「プラ字消しゴールドメダル」
  • 昭和50年 キクイチ「ゴールド書道セット」

●化粧品

  • 昭和47年 資生堂「ゴールデンメローローション/ゴールデンメロークリーム」

●くすり

  • 昭和48年 大正製薬「パブロンゴールド顆粒」
  • 昭和48年 三共「新ルルゴールドSカプセル」
  • 昭和49年 佐藤製薬「ユンケルゾンネゴールド」
  • 昭和50年 オットセイ製薬「オットセイゴールド」
  • 昭和52年 佐藤製薬「ユンケル黄帝ゴールド」

●テレビ番組

テレビが完全に家庭の主役だった時代、「豪華なエンターテインメント」を意味する枕詞として定着。昭和50年頃には一般にも、19時〜22時の高視聴率時間帯を指す言葉である「ゴールデンタイム・ゴールデン枠」が認知された。そして番組のタイトル自体に「ゴールデン」と入れて特別感を出す番組もあった。 - 昭和46年 『ゴールデン洋画劇場』フジテレビ系列

5.3 「ゴールデン・アップル」の基本的な意味

「ゴールデン・アップル」という名前は、単なる思いつきではないだろう。

西洋では、古くから「黄金の林檎」というイメージがある。ギリシア神話では、ヘスペリデスの園の黄金の林檎は不老不死を与えるとされ、ヘラクレスがその入手を命じられた*24。

北欧神話でも、スキルニルが美しいゲルを説得するために贈られた11個の「金色のリンゴ」の例を挙げている*25。

西洋では「黄金の林檎」=特別な力・美・不死・欲望の対象、という強いイメージがある。日本でも、翻訳文学や児童書を通じて「黄金の林檎」は知られていなくもない。

「ファンタ・ゴールデン・アップル」という名前は、先述した日本における商品の特別さを示す装飾語、「黄金色のりんご味」という、色と味を同時に訴求する接頭語だった可能性がある(昭和53年にはエバラが「焼き肉のたれ 黄金の味」を発売したように特別感を醸し出す機能が付与されていた)。

同じく「ゴールデン・グレープ」も、「黄金色のぶどう味」という命名であり、アップル、グレープでシリーズ化を開始する企図があったのではなかったかとも筆者は推測している。

第6章:発見されたゴールデン・アップルの文献

6.1 国会図書館デジコレの『秋田魁年鑑』

まず、『秋田魁年鑑』昭和51年版(秋田魁新報社、1975年)を見てほしい。 みちのくコカ・コーラボトリングの広告には、次の記述がある。

「厳重な検査のもとに、コカ・コーラ、ファンタオレンジグレープ、ゴールデングレープ・アップル、クラブソーダ、スプライトを生産しております」

とある。

『秋田魁年鑑』昭和55年版(秋田魁新報社、1979年10月)の広告には、次のようにある。

「厳重な検査のもとにコカ・コーラ、ファンタオレンジ・グレープ・レモン・アップル・クラブソーダ、スプライトを生産しております」 とある。

異なる商品のあいだは「、」でつなぎ、同じ分野のファンタシリーズは「・」でつないでいる。このとき「クラブソーダ」は「ファンタ」ファミリーである。

ゆえに昭和53年版の「ゴールデングレープ・アップル」の「・(中黒)」は、「ファンタ」ファミリーの中で、さらに「ゴールデン」系統として「・」でつないだことになり、「ゴールデングレープ・ゴールデンアップル」の意味と解せる。

そうでなければ、「ファンタオレンジグレープ、ゴールデングレープ・アップル・クラブソーダ、スプライト」と、「・」で「クラブソーダ」を含めるはずだ。

だが実際には「、クラブソーダ」と、ゴールデン系と明確に区別している。

二つの広告を比べると、昭和55年版では「アップル」がファンタの品目として列挙されていることが分かる。

一方、昭和53年版の「ゴールデングレープ・アップル」という表記については、中黒と読点の使い分けから二つの商品名を読み取れる可能性があるものの、広告の句読点が商品名の区切りを厳密に示しているとは限らない。

筆者は、昭和53年版の記載を「ゴールデン・グレープ」と「ゴールデン・アップル」の二商品を指すものと解釈している。 ただし、当時の担当者の気分で記号を使ったとか、写植担当者が適当に打ったという反論を受けると弱い。

担当者が商品名をどのように区切る意図で中黒を用いたのかを示す説明資料は、現時点では確認できていない。

したがって、この広告は補助的な資料として位置づけ、商品名と容量・価格を明記した次の『飲料商品便覧1979年』の記載とは、証拠の強さを分けて扱う。

6.2 国会図書館デジコレにあった手書きの資料

次に、明確に「ファンタ・ゴールデン・グレープ」と書かれた資料を示す。

ゴールデン・アップルに関する資料が存在することで証拠としたい。

工業市場研究所食品マーケティング部発行の『飲料商品便覧1979年』である。

以下の画像は、筆者が国立国会図書館デジタルコレクションで確認した記載の転記である。*26

この本の「1978年発売中止商品一覧」の中に記載があることを画像でお示ししたい。

111頁最下段の北九州コカ・コーラボトリング欄には、「ファンタ・ゴールデン・グレープ」の下に、 ファンタ アップル 500ml瓶 卸価格66.70円 小売価格 80円 ファンタ アップル 200ml瓶 卸価格39.17円 小売価格 50円 と書いてあるのは見えますね。

111頁では、「ファンタ・ゴールデン・グレープ」の下の行に「〃」が用いられている。 同じ商品名を何度も書くのは疲れるからだ。ただ、この「〃」が示すのが「ファンタ」だけなのか、「ファンタゴールデン」まで含むのかは、範囲が判然としない。

この文献は手書きであることが重要だ。

リストの向こうには、版元で版下を書く事務担当者(仮に山田よし子とする)がいたんですね。

パソコンのない時代、手書きでリストを書くのは大変だ。 よし子(仮名)はきっと、「毎日毎日、アパートと会社の往復だ。しかも商品と数字ばかり書いていて、つらい」と感じていただろう。 面倒くさい。疲れたと思っただろう。 だがパソコンのない時代、よし子はパソコンの存在さえ知らない。 手書きでやるしかない。

そこで疲労を軽減する対策として、よし子は商品名が共通するときは、あちこちで「〃」で済ます方法を編み出したのである。 もちろん課長の許可は得た。 この書式全体も手書きで、ノンブルはゴム印だ。 よし子は不器用だったので、竹の物差しで線を引くのも曲がってしまい大変だった。

この表を作るのは、現代ならすぐできるが、当時は大変な作業だった。 1日8時間労働で、5ページから8ページしか書けないのではないか。

さて表に戻る。 上記の2品のほかにもう一つ、ファンタの缶製品がある。

書く行が足りなかったため、よし子はページを替えて、ノンブル「112」ページに書いた。 「あと1行あったらちょうどよかったのに。もう。」 と、よし子は地団駄を踏んだかもしれない。 (一行だけの近畿と順番を逆にすれば良かったと、臍を噛んだかもしれない)

さすがに次のページの一番上で、前のページの最後の行の「ファンタ」と同じですからと、 「〃」から書き始めるのは、「横着だ」と、 真面目なよし子は考えたのだろう(よし子、えらいぞ!)。

きちんと、よし子は北九州コカ・コーラボトリングの1行だけ残った、長ったらしい商品名をファンタから書くのだった。それが、

「ファンタ・ゴールデン・アップル」 250ml缶 卸価格56.67円 小売価格70円 だったのだ。

この記載は、前頁の省略記号の解釈とは別に、商品名を省略せずに記したものとして重要である。

便覧の該当欄が「1978年発売中止商品一覧」であることから、本稿では、これをもって北九州コカ・コーラボトリングでは「ファンタ・ゴールデン・アップル」250ml缶が昭和53年に発売中止となった商品として記録されていた、と判断する。

「ファンタゴールデンアップル」 250ml缶が北九州コカ・コーラボトラーズには存在していたことがおわかりいただけただろうか。

おそらく、この資料に対して「手書きだから、単なる『ファンタ・アップル』を書くのにミスした可能性があるかも」と突っつく人物が出現する可能性がある。

その点は手書きならではの、反論が可能だ。

何度も説明してきたように、よし子は「面倒くさがり屋さん」で合理主義の現代っ子だったのだ。

なんで、せっかく「ファンタアップル」で済むのに、あえて、「ファンタゴールデンアップル」と疲れることをするだろうか? 朝から延々と文字を書いているのだ。できれば省略できるところは書きたくないという気持ちが、心の中に満載である。

しかし、それは、「ファンタゴールデンアップル」という商品だったのだ。

この時代にファンタゴールデンアップルと書いたことをどう評価するのよ? とも反論できる。よし子はファンタゴールデンオレンジという間違いはしていないし。

このころのよし子は、まさか何十年後に「ファンタゴールデンアップル」が「ある」とか「無い」とかの対立を生むとは知らない。

ただただ、「なげーよ」とうんざりしながら、残した1行を書いていたんだろうなあと、心中を慮るだけである。

もちろん、手書きの資料である以上、転記ミスの可能性が論理的にゼロになるわけではない。

だからこそ、商品名だけではなく、前後の項目、容器容量、卸価格、小売価格、掲載欄の見出しを一体として確認して欲しい。

単に名前が書かれているというだけでなく、商品便覧の発売中止商品リストに具体的な容量と価格を伴って掲載されている事実。この点を、本稿では重要視している。

第7章:資料からどこまで言えるか

7.1 同時代資料が示すこと

本稿で最も重視する資料は、工業市場研究所食品マーケティング部『飲料商品便覧1979年』の「1978年発売中止商品一覧」である。

筆者が国立国会図書館デジタルコレクションで確認した112頁には、北九州コカ・コーラボトリングの商品として「ファンタ・ゴールデン・アップル」250ml缶が、卸価格56.67円・小売価格70円とともに記載されている。*27

この資料の見出しを正しく読み取れているなら、少なくとも北九州地域において、昭和53年(1978年)に販売中止となった商品として「ファンタ・ゴールデン・アップル」250ml缶が記録されていた、と判断できる。

発売年そのものや、販売開始月、他地域での販売の有無までを直接示す資料ではないが、商品名・容量・価格を伴う同時代の記載として重要である。

『秋田魁年鑑』昭和53年版には「ゴールデングレープ・アップル」という記載があり、昭和55年版にはファンタの商品として「アップル」が記載されている。

これらもボトラーの製品記録を考えるうえで参考になるが、昭和53年版の中黒の意味は一義的ではないため、単独では「ゴールデン・アップル」と読める決定的な根拠とはしない。

柴門ふみや森博嗣の著書、ブログの投稿には、「ゴールデン・アップル」という名称についての記述や記憶が残されている。

こうした証言は、名称が後年の人々の記憶や記述に現れたことを示す。 ただし、それだけで発売したボトラー、発売年、商品容量を確定できるわけではない。

筆者自身の記憶も同様に、研究の出発点として大切にしつつ、文献資料とは区別して扱う。

7.2 証拠と仮説を分けておく

本稿で示した資料から、ゴールデン・アップルの販売時期や商品形態を全国一律に確定することはできない。

ボトラー別に販売時期・容器構成が異なったという前提に立ち、今後は各地の製品便覧、広告、社史、現物容器や王冠を照合する必要がある。

また、「ゴールデン・グレープとの混同」説は、証言の一部を説明する可能性がある一方、地域差や証言者ごとの経験を無視して全員に当てはめることもできない。

記憶が鮮明であることは正確さを保証しないが、資料に記載がないことも、それだけで存在しなかった証明にはならない。

異なる種類の証拠を比べ、何を支持するかを個別に評価することが大切である。

本稿では、商品の発売状況を調査した結果、北海道在住者が昭和50年代の記憶として「ファンタ・ゴールデン・アップルを飲んだ、見た」という証言(オーラル・ヒストリー)には、他の地域よりも、一層、信が措けるという根拠を明らかにした。

2002年には「ゴールデン・アップル」商品が復刻発売された。

2025年の日本コカ・コーラの公式発表は同商品を「復刻」と呼び、発売当時の販売期間が短かったと説明した。

この事実は、「公式がゴールデン・アップルの発売を否定した」という旧告知を初期化して、現在の公式説明を理解するうえで重要となった。 だが、1970年代の地域別発売年を特定する資料の代わりにはならない。

第8章:仮説としての「黒歴史」説

これまでの論旨によって、ゴールデン・アップルは「決して存在していないもの」ではないことを主張してきた。

以下はかなり穿った見方であり蛇足だが、企業行動の「面子」「黒歴史」「糊塗策」という視点から、「ファンタ・ゴールデン・アップル」の存在について再考する。

 《この章は、確認できた事実ではなく、筆者が考えた仮説を整理する章である》

8.1 品質問題が資料保存に影響した可能性

合成着色料が消費者団体や大学生協に問題視され、「天然」の着色料で製造したものの、「ファンタ・グレープ」に関しては、「技術的理由」で「白濁」が発生し、一時的に製造・販売が中止になり、同社が自信があった天然着色料さえ不使用とする「代替商品」(ゴールデン・グレープ)の開発が必要となる事態となってしまった。

この一連の流れをみると、清涼飲料業界の有力企業になりつつあった日本コカ・コーラ社にとって、製品の品質問題は望ましい事態ではなかっただろう。 ただし、会社がどのように受け止めたかを示す社内資料は、ここでは確認できていない。

こうした経緯から、「会社にとって好ましくない商品史として扱われたのではないか」と想像することはできる。

ただし、隠蔽の動機が実際にあったと示す資料はなく、この考えは検証を要する仮説である。

企業の社内政治や責任回避が歴史に影響する可能性は検討できるが、「陰謀論」で一笑に付されないためには、個別の事例で記録や証言による裏付けが必要だ。

8.2 昭和40年代のコカ・コーラ社は事件・事故・噂だらけ

昭和30年代から50年代にかけて、日本の清涼飲料市場は大きく変化した。コカ・コーラの日本市場参入に際しては、国内の清涼飲料業者から反対の声が上がり、全国清涼飲料工業会なども関わる業界上の対立が生じたことが、研究論文でも論じられている。*28

当時のコカ・コーラ社をめぐっては、着色料への消費者の懸念だけでなく、容器の安全性や販売促進の方法など、さまざまな問題が議論された。

これらを「会社が事件・事故を隠した証拠」と一括りにするのは適切ではないが、当時の企業活動と消費者の関係を理解する背景として確認しておきたい。

1970年代、日本コカ・コーラは、販売権利金という多額の寄付金(百万単位)でボウリング場や遊園地と取引し、他社製品の販売を排除する「排他的取引」を行っていた。公正取引委員会は、これが独占禁止法違反に該当するとして調査した。

コカ・コーラホームサイズの瓶が割れて失明事故(昭和46年7月17日)が起き、一時製造中止となった。

さらに昭和47年1月7日から、「割れないホームサイズのコカ・コーラびん」として安全性を謳って再発売されたが、5月に福岡で開栓時にまた割れて破片が飛び散った。

消費生活センターがコカ・コーラへ連絡し、調査すると、開栓前の瓶に衝撃が加わったものとされた。

当時の技術の限界もあり、流通段階で瓶を愛護的に輸送するしかない事態だった。ただCMで「割れない」と放送すると、消費者が「絶対に割れない」という印象を持つので、誤認を生む宣伝はしないように、と申し入れられた。

レギュラーサイズ瓶の爆発で神経を損傷したのに、東京コカ・コーラの対応に誠意がない、という事件も発生した。

昭和47年7月8日、パン店の経営主女性がコカ・コーラ瓶を拭いていたところ大爆発し、右手を4cm裂傷、神経が知覚麻痺となった。

後遺障害でパン店経営に支障が出たが、事故後の対応に被害者は憤慨した。

日本消費者連盟は通産省、農林省へ、瓶の修正やガス圧低下を要望し、不可能なら発売中止を求めた。

報道後、東京コカ・コーラは態度を改め、お詫びと補償(治療費全額・損害賠償・慰謝料)を行い、破瓶対策を継続した。

通産省は瓶のリサイクル回数の減数や検査強化を行政指導し、早期に安全な瓶のJIS規格設定を表明、農林省はコカ・コーラと清涼飲料業界へ事故防止強化を通達した。

炭酸飲料の瓶の破損は国会でも取り上げられている。

昭和48年4月4日の衆議院商工委員会では、政府側の説明として、昭和46年のコカ・コーラ関係のホームサイズ瓶の破裂事故が213件あったこと(眼球傷害2件、縫合手術43件、その他168件)、昭和47年には対策後に件数が減ったことが述べられた。*29

なお、この頃はサッポロビールのビール瓶も破裂するなど、当時の技術と流通では防止できなかった様子で、瓶の破裂事故は起きていた。

コカ・コーラの瓶が特に脆かったわけではないが、「割れない瓶」とテレビなどでCMするのは勇み足だったろう(その後、缶やPETボトル化が進んで良かった事の一つだ(これはこれでゴミ問題を誘発したが))。

また、昭和44年には発がん性のおそれを理由として、人工甘味料チクロの食品添加物指定が取り消された。*30。

当時は食品添加物や製品の安全性をめぐる議論があり、消費者団体が商品や表示に関心を寄せるようになっていた。

本稿で問題にしている着色料の変更も、こうした時代背景の中で考える必要がある。

ここで留意したいのは、当時の規制や報道で問題とされたことと、個別の商品に実際にその成分が含まれていたこととは別の話だという点である。 「コカ・コーラにチクロが入っていた」という噂があったとしても、同社の製品には使用がなかったと反論されている。

仙台コカ・コーラ郡山工場製のコーラ、ファンタには水銀が含有していたので郡山工場は製造中止なった(昭和47年8月16日、18日、22日、23日等に報道)。 ヘアピンや沈殿物、カビの混入といった「ファンタ事件」(昭和47年8月22日、26日等)も相次いでいた。

巷ではコーラに含まれる燐酸の過剰摂取がカルシウムの吸収を阻害するといわれ、消費者の印象として「コカ・コーラを飲むと骨が溶ける・成長を阻害する・骨折しやすくなる」という噂になった*31。

コーラに含まれるカフェインの過剰摂取による健康懸念が国会で論じられ、特に青少年のカフェイン中毒が問題視された。

「空き缶公害」問題も発生した。

缶飲料の増加に伴い、空き缶の不法投棄が社会問題となった。特に道路や河川への投棄が問題視された。自販機を日本各地に設置し、販売量も多いコカ・コーラ社は空き缶も多く出すため、ごみ箱の設置や寄付など社会への対応を迫られた。

「懸賞の不当表示事件(昭和49年8月)」も発生した。

コカ・コーラの懸賞(BIGSKY&BIGSOUNDプレゼント)に、ある客が12缶飲んで応募したが、「さわやか賞」の40円割引券が送付された。

これは店でコカ・コーラ商品を4本(1本90円)買えば40円割引になる券で、3本以下では使用できなかった。

「インチキだ」「不当表示で詐欺的だ」と、消費者が神戸市に相談した(さらに一つの広告枠にオープン懸賞と景品供与を併載する手口も、誤認問題と認定された)。

公取委扱いとなり、結果、新聞にお詫び広告が掲載され、「さわやか賞」はもれなく試飲券に変更され、30万名に郵送された。

以上のような事件や事故が頻発し、消費者の不信を払拭し、企業・商品イメージを向上させる施策が必要な時期だった。

その影響かもしれないが、売り上げも低迷していた。

コカ・コーラの年間販売量は、昭和48年が約1億6,500万ケース、昭和49年が約1億5,000万ケース、昭和50年が約1億3,000万ケース、昭和51年が約1億4,400万ケースと低迷傾向にあった。

ようやく昭和52年に約1億8,500万ケースとなり、増加に転じた。

こうした複合的な企業危機の中で、顧客の指摘に応えた「着色料の変更・失敗」による新ファンタグレープの製造中止は、相次ぐ不祥事や企業責任への問いかけの「最後の一滴」になったのではないか。

ただし企業の評判や商品への信頼が課題になったことは想像できるが、それが「ゴールデン・アップル」の企画や記録保存に直接影響したと示す資料は、まだ確認できていない。

これは、当時の企業環境を踏まえた筆者の推察に過ぎないのである。

8.3 コカ・コーラ社の問題山積のタイミング

企業の社会問題はコカ・コーラに限らない。

昭和30年代~50年代の日本は高度経済成長期で、商品が急激にあふれた。

工場の廃液や煤煙による公害問題をはじめ、副作用が多く、それらへの対策が講じられていないか、企業が回避する時代だった。

品質や表示が正しくない(うそつきジュースなど)、添加物の健康被害、量目不足、すぐ壊れるなど、消費者の問責は様々だった。

「主婦連」などの消費者保護運動の団体が活動し、企業広告を載せない『暮らしの手帳』が「商品テスト」で監視するなど、発売側の会社が注意を払うのではなく、消費者側が厳しく監視する時代だった。

では、「着色料の失敗」や一連の不祥事を隠したいのは、誰に対してか。

国内の同業である清涼飲料水会社に対してもそうだが、米国本社にも顔向けできない事態だったのではないか。

たとえば同業の勉強会・研修会で、「次世代の天然着色料」として講演や発表をしていたとしたら。

新製品のお披露目会で「わが社が開発した凄い技術」と広報したのに、大失敗したのなら、肩身が狭いだろう。

もともと日本コカ・コーラは、日本で諸手を挙げて歓迎された会社ではない(むしろ、「来るな」と反対されていた)。

コーラが日本市場へ参入する際には幕末の「黒船上陸」と比喩され、清涼飲料水業界とも摩擦があった。

長い時間をかけた話し合いや、麒麟麦酒を出資者として取り込む、高額の協力金を出捐する、などによって、企業活動が円滑になるようになってきた。

時期的にも、昭和47年には日本コカ・コーラボトラーズ協会の「全国清涼飲料工業会」への加盟が承認された。

さらに外資系として初めて、日本コカ・コーラが昭和47年9月に「経団連」へ加盟し、昭和48年12月には日経連にも加盟できた。ちょうど、日本の企業社会に溶け込み、「怪しい外国企業ではない」という企業イメージを高めようとしていた矢先の出来事だった。

しかも代替商品の「ゴールデン・グレープ」は「色が薄く」、消費者も離れ、売り上げが低迷した。

これはどう評価しても失態だろう。

これを糊塗する目的で、対応として発売した突然の薄い色の「ゴールデン・グレープ」発売だけでは体裁が悪く、他の「ゴールデンなになに」商品を続けて出すことにしたのではないか?

これで「実は、当社は最初からゴールデンシリーズを発売する予定だったんですよ」という建前が生まれ、取り敢えずの体面を繕おうとしたのではないか?

先述のように、当時の清涼飲料業界では「りんご味」にあまり力が入っていなかったが、「HI-Cアップル」の成功があり、「ゴールデンなになに」の第二弾は「アップル」を採用したのだろう(この年、他社も追随したため、りんご果汁の需要が高騰し逼迫しているほどだ)。

昭和53年4月には、ようやく着色料問題を解決した「ニュー・ファンタ・グレープ」が完成した。

商品的には、「ゴールデン・グレープ」も「ゴールデン・アップル」も一応お役御免となった。

コカ・コーラ社は販促活動についても、昭和50年以降、怒涛のごとく様々なキャンペーンをはっている。

昭和51年10月から11月に「ヨーヨープロモーション」が実施され、全国的なブームにつながったことが社史等に記録されている。

全国的な第一次ヨーヨーブームを起こした、昭和51年10月からの「アメリカンヨーヨー(ラッセルヨーヨー)・キャンペーン」が全国的にヒットし、企業イメージも上昇局面に入ったと推察する。(さらに昭和52年には王冠裏のスーパーカー・キャンペーン(ピンク・レディーを起用)、昭和53年にスター・ウォーズ・プレゼントと、広告戦略でイメージはさらに上昇した)。

昭和51年には日本コカ・コーラは「コカ・コーラ発売90周年」を控え、昭和52年には日本飲料工業株式会社設立以来20周年の記念行事を迎えるという大事な時期なのであった。

こうした積極的な販促活動と、ファンタの着色料変更・沈殿問題が同じ時代に起きていたことは確認できる。

ただし、販促活動の成功が企業イメージを回復させたことや、90周年をつつがなく迎えたかったことや、ゴールデン・アップルの記録保存に直接影響したことまでは、資料からは証明できない。

8.4 「負担」となったか、ゴールデン・アップル

仮に急遽、「ゴールデン・アップル」がゴールデン・シリーズ商品として企画されたのだとすれば、後年、その企画が社内でどのように評価されたのかという疑問が生じる。

場当たり的な「糊塗策」だったが、年を経るごとに逆に裏目に出たと考えられないか。

世間の考え方も、幹部や経営者の志向も時代とともに変わる。

「実はゴールデン・シリーズだった」として「ゴールデン・アップル」を発売せずに、真摯に「グレープ」の着色技術の失敗と向き合うだけでよかった、という後付けの反省が生まれたのではないか?

大企業として小手先の策を弄したために、後年「ゴールデン・アップル」は苦渋の存在へ変わってしまったのではないか?

一時しのぎの弥縫策を重ねた結果、「あれは悪手だったね」と社内で評価され、ゴールデン化の面々は人事的に冷や飯食いの路線となったのではないか?

経営環境や消費者の関心は時代とともに変わるため、当時は合理的と考えられた判断が、後から見れば最善ではなかったと評価されることもある。 ただし、ゴールデン・アップルが「糊塗策」だったことや、社内で失策と評価されたことを示す資料は確認できていない。

8.4.1 黒歴史説を仮説としたときの合理度

この「コカ・コーラ社の黒歴史説」を援用すれば、次の疑問にも説明がつく。

「なぜ資料が残っていないのか」《→恥ずかしいから保存しなかった》

「どうして実物の王冠や缶どころか写真も残っていないのか」《→事業の歴史上、「存在しない」ことにするため、すべて焼却・破棄した》

「なぜ公式に否定見解を出したのか」《→「ないものとして運用」が方針だったので、できれば昭和50年に体験した子供たちがいなくなればと考えていた。当時の体験者は高齢化なので「記憶違い」でごまかせるかも……。何度も「それは幻だ」といえば、人は自信が揺らぐものだ》 ただし、これらの問いに対する答えを、資料なしに確定することはできない。

資料が見つからない理由としては、意図的な廃棄だけでなく、当時保存されなかった、社内で共有されなかった、移転や組織改編の際に散逸した、個人所蔵のまま所在不明になったなど、複数の可能性がある。

公式の否定回答についても、原文や照会内容、回答者が参照した資料が不明なうちは、隠蔽の意図があったとは判断できない。

黒歴史説は、こうした可能性の一つとして提示するにとどめたい。

8.4.2 「隠しようがない」ゴールデン・グレープの記録

だが。ここで問題になる事が二つある。

  1. なぜ、ゴールデン化が失策ならば「ゴールデン・グレープ」については記録が残っているのか、矛盾ではないか。
  2. 黒歴史なら、2002年以降に「ゴールデン・アップル」が復刻されたことに説明が付かない

ゴールデン・グレープは、もともとは合成着色料問題への「公式対応策」として発売された「新グレープ」の流れにあり、着色料について消費者団体・マスコミへの説明責任を果たすために、「代替商品を開発した」という事実は必要だった。

このため、ゴールデン・グレープについては、その登場理由を説明する資料が社史などに残る場合がある。

2002年以降に「ゴールデン・アップル」が復刻されたことは説明が付かなかったが、なんと2025年にコカ・コーラ社が公式の否定見解など無かったように、ゴールデン・アップルが存在したていに転向しているのである。

これらの矛盾とか、整理がつかないこと自体が、社内政治や派閥の違いで方針が変わることや、ゴールデン・アップルを持て余している証左ではないだろうか。

8.4.3 ゴールデン・アップルは「自主的なシリーズ商品」だったのか

筆者は、ゴールデン・グレープだけでなく、別のフレーバーにも「ゴールデン」の名を付けることで、商品群として展開しようとした可能性を考えたといった。

そうであれば、ゴールデン・アップルは着色料問題への直接の代替品ではなく、同じ時期の命名・販売戦略の一環だったことになる。

もっとも、これを「社内の糊塗策」だったと示す企画書、会議録、担当者証言は確認できていない。

商品名や発売時期の近さだけから、会社が失敗を隠すために企画したと断定することはできない。

8.4.4 2002年・2025年の商品化をどう読むか

2002年の商品化について、当時の論争そのものを話題づくりに利用した可能性はある。

一方、過去の商品への関心や消費者の要望に応えて新商品を発売した、と考えることもできる。

どうして「ゴールデン・アップル」の「復刻版」を2002年以降、複数回発売しているのか。については、以下の見解である。

2000年代初頭、ネット上で「ゴールデンアップル論争」が加熱した。

企業として「あれはなかった」と否定しながらも、「都市伝説を逆手に、商品化を狙う」という対応の社内意見が出た、と考えられる。

これにより、「黒歴史」を「都市伝説」というエンタメ要素へ変換する施策で過去を払拭し、消費者の記憶を「懐かしい都市伝説」として再定義して、「あった派」と「なかった派」を調整し、軟着陸させようとした、という読みである。

ただ、企画書や社内記録が確認できない以上、どの説明が正しいかは決められない。

そして更に、理解不能なひねりが加えられた。

2025年の日本コカ・コーラの発表は、「復刻」と表現し、発売当時の販売期間が短かったことにも言及している。

これは、以前ネット上で紹介されていた否定回答だけを根拠に、会社の現在の立場を説明することができないことを示している。

ただし、2025年の転向によって、2002年・2025年の商品化に、過去の発売記録を曖昧にする意図や社内政治上の狙いがあったとする根拠が逆に見いだせなくなった。

全く方針が固定せず、簡単な取り消しによって矛盾が発生、一貫性もないという、無茶苦茶な施策ではないか。

もしかしたら理由は非常に単純で、昔「ゴールデン・アップルは発売したことがない」と声明を出したこと自体を忘れているのだろうか? 実は何にも考えていない?

ただ今回(2025年のゴールデン・アップルを公式が認容へ転向)のおかげで、「ゴールデン・アップル」が「無かった」と主張する派にとっては、ハシゴを外された格好だが、日本コカ・コーラ社の良くいえば「柔軟さ」を理解して貰えたことと思う。

今後、「やはり、資料がありました!」というコペルニクス的転換の報告がある可能性さえ出てきたではないか。

8.4.5 黒歴史説の位置づけ

本章では、商品が短期間で販売を終えた可能性、当時の着色料問題、企業が不都合な過去をどう記録するかという問題を結び付け、黒歴史説を仮説として提示した。

しかし、企業が意図的に記録を隠したこと、2002年の商品化が社内政治上のメッセージだったこと、2025年の復刻が過去の事実を意図的に曖昧にする戦略だったことは、いずれも本稿の資料からは証明できない。

この仮説を今後検証するには、発売当時の商品企画書、社内報、会議録、当時の広報資料、担当者の証言などが必要になる。

当然、黒歴史説を結論とするのではなく、今後の資料発掘に向けた問いとして残しておきたい。

8.4.5 黒歴史説の位置づけ

他に企業の政治問題に帰結するような説を唱えている方はいないのだろうか。

くりまんじゅう「ファンタ・ゴールデンアップル」サイトにはコメント欄に、次の書き込みが匿名によってなされている。タイムスタンプは「2025年12月2日 15:48」である。

「ファンタゴールデンアップルとゴールデングレープは要するに同じ物だと思う。ファンタグレープの代打として開発した新商品にどんな名前をつけるか偉い人の間で揉めたんじゃないかな。テレビCMではゴールデンアップルと呼んでいたのに。缶や王冠にはゴールデングレープと印刷されてしまった。CMを中止することは出来るが、缶や王冠を回収するのは難しいのでゴールデンアップルは無かった事にされたと言うのが私の推理。ただし真相を隠滅しようとしている勢力が居るみたいなんですね、関連スレッドが書き込めなくなっているのもサイバー攻撃ではないかと思うのでご注意を」

*32

匿名氏の主張はおそらく、 「色が薄い「ゴールデン・グレープ」が誕生したが、日本コカ・コーラ社内では、『これはグレープとは言えないのではないか。むしろ「ゴールデン・アップル」と呼称すべきだ』という勢力が現れていた」

ということだろう。そしてもめごとがあり真相を隠蔽しないと社内的な立場に影響がある派閥に属している場合は、代打的な存在であった「ゴールデン・アップル」は、いっそ無かったことにされたと。

社内政治により一つの商品の記録が葬られる、だが消費者の「味の記憶」という強い思いがその隠蔽と衝突して、矛盾が解決できなくなっていた――という発想は、非常に興味深く、他の「記憶混同説」などよりも説得力があり、発想面では賛意を表したい。

ただ総論賛成・各論反対である。

・北海道コカ・コーラボトリングの社史に掲載された「ゴールデングレープを発売せず、技術で新グレープを発売した(製造工程に温熱殺菌を加えて沈殿物問題を解決したのか?)とあり、社史を信頼すれば、「ゴールデン・グレープ」を「ゴールデン・アップル」と呼称しようとする点には疑問がある。

・代打商品としてであっても、「味覚」の問題がどうしても解決できずに残る。「ファンタ・ゴールデン・アップル」と称しても味は「グレープ」というのは、致命的だ (もしかして一旦、グレープは製造停止として、ゴールデン・アップルのみを製造したのなら納得だが、エクセルの発売一覧ではそうなっていない)。

・上記の問題を百歩譲って認めたとしても、どう考えても「新グレープ」の研究開発を日本コカ・コーラ社は進めているので(匿名氏も「代打」と認めている)、欠点を克服したグレープ商品ができたあかつきには、元の商品体系に復帰するための整理が混乱する。

つまり、どういうことか。 「人工着色料の旧グレープ」→「色が薄いのは変なので『ゴールデン・グレープ』の名称で販売」→沈殿克服→「沈殿しない天然着色料使用の『新グレープ』」 という道筋は道理に叶うが、 「人工着色料の旧グレープ」→「色が薄いのは変なのでブドウから離れて『ゴールデン・アップル』と名付けて販売」→沈殿克服→「沈殿しない天然着色料使用の『新グレープ』」

という流れになると、前述した様に、

  1. 一旦「『グレープ』フレーバー商品の空白期間」を作らざるを得ない
  2. 『ゴールデン・アップル』をひっこめる」という事が必要になり、このような変則手をあえて使用する利点が少ない。

単に、色が薄いため名称の問題だからこそ「ゴールデン・アップル」という改称策で弥縫したのではないのか?

第9章:結論

9.1 現時点で言えること

本稿では、「ファンタ・ゴールデン・アップル」が1970年代に実在したと判断するに足る、同時代の記載資料を提示できたと考える。

特に重要なのは、昭和53年に発売中止となった商品を掲載する『飲料商品便覧1979年』に、北九州コカ・コーラボトリングの商品として「ファンタ・ゴールデン・アップル」250ml缶が記載されている点である。 商品名だけでなく、容量、卸価格、小売価格が記されていることから、後年の記憶談とは異なる種類の根拠となる。

『秋田魁年鑑』の広告にも、ファンタの品目として「アップル」などの記載がある。ただし、昭和53年版にある「ゴールデングレープ・アップル」という表記は、句読点の使い方の法則だけからは商品名を完全に確定できないため、主たる根拠である『飲料商品便覧1979年』とは証拠の強さを分けて扱った。

柴門ふみの著書、複数のブログ投稿、筆者自身の記憶も、この商品名をめぐる論争を理解するうえで重要である。

ただし、個々の証言は、それだけでは発売したボトラー、正確な発売年月、商品容量を決める資料にはならない。証言と同時代の記載資料を区別しながら、照合することが大切である。

2025年の日本コカ・コーラ公式発表は、商品を「復刻」と呼び、「発売当時の販売期間が短かった」と説明している。これは、現在の公式説明を理解するうえで重要な情報である。

9.2 今後の課題

本稿の中心的な主張を、さらに強固なものにするために必要なのは、企業の意図を推測することよりも、地域別の記録を積み上げることである。

各ボトラーについて発売開始年・終売年、瓶・缶の容量、発売月を個別に確認し、確実な記録と傍証を区別した表にしていく必要がある。

特に資料がない「長野コカ・コーラボトラーズ」「南九州コカ・コーラボトラーズ」は重要かも知れない。

商品が短期間しか販売されなかったなら、その短さ自体が資料の少なさを説明する一因になり得るが、それも地域別の記録に基づいて判断するのが筋である。

「都市伝説」という呼び方だけでは、この商品の歴史は説明しきれない。

少なくとも、本稿で示した同時代の記載を手がかりに、商品名が単なる後年の記憶だけから生まれたという説明を再検討する余地はある。

一方で、資料が残っていない理由を企業による隠蔽とみる説は、今のところ仮説にとどまる。

記録の有無だけを根拠に、個々の記憶を一律に「勘違い」と片づけることも、反対にすべての記憶を正確とみなすこともせず、資料に即して検討を続けるべきだろう。

資料の扱いについて

本稿で示した証拠の強さは一様ではない。

『飲料商品便覧1979年』の発売中止商品一覧や『秋田魁年鑑』の広告は、商品名が実際に記された文献資料である。

柴門ふみや森博嗣の著書、ブログの投稿は、当時または後年に「ゴールデン・アップル」という名称が記憶・記述されていたことを示すが、それだけで発売地域や容量を確定できるものではない。

筆者自身の記憶も、調査を始めるきっかけとして重要ではあったものの、独立した文献資料とは区別しておきたい。

さらに、企業が意図的に記録を隠したという説明や、2002年の商品化に社内政治上の意図があったという説明は、本稿で提示した資料から直接証明できていない。これらは筆者の仮説であり、現時点で確認できる事実とは分けて読んでいただきたい。

参考文献

参照した文献・資料

  • 工業市場研究所食品マーケティング部『飲料商品便覧1979年』「1978年発売中止商品一覧」、111~112頁。国会図書館デジタルコレクション
  • 『秋田魁年鑑』昭和53年版、秋田魁新報社、1977年10月。みちのくコカ・コーラボトリングの広告。国会図書館デジタルコレクション
  • 『秋田魁年鑑』昭和55年版、秋田魁新報社、1979年10月。みちのくコカ・コーラボトリングの広告。国会図書館デジタルコレクション

  • 日本コカ・コーラ「企業情報/コカ・コーラシステム」https://www.coca-cola.com/jp/ja/media-center/company-information

  • 日本コカ・コーラ「待望の声にお応えして“幻の味”が期間限定で復刻!『ファンタ ゴールデンアップル』11月10日(月)全国発売」2025年10月31日。https://www.coca-cola.com/jp/ja/media-center/news-20251031-11
  • 久須美雅士「現実か幻か? 都市伝説にもなったあの飲料が登場! ファンタ・ゴールデンアップル」『All About』2002年10月27日。https://allabout.co.jp/gm/gc/217940/
  • 「現代飲料考―飲料情報、津々浦々―5」https://www.stij.org/drink/d-info5.html
  • 国会会議録検索システム「第71回国会 衆議院 商工委員会 第14号」昭和48年4月4日。https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=107104461X01419730404
  • 竹内竜介「外資系企業の日本市場参入とビジネス・システム―コカ・コーラ社の事例―」『横浜経営研究』第39巻第3・4号、2019年。https://www.cba.ynu.ac.jp/gakkai/kaisi/pdf/39-3-2.pdf

関連する論考・回想

なお、参考文献に挙げたサイトには、本稿中で直接言及していないものもある。サイトを読んで、ファンタ・ゴールデン・アップルへの「マンデラ効果」の充当例を確認したり、反対者の論考や体験者の証言を確認したりするうえで参考にしたため、ここに挙げた。

書籍

  • 柴門ふみ『青春とはなんだかんだ』小学館、1994年
  • 森博嗣『すべてがEになる』幻冬舎、2000年
  • 日本コカ・コーラ株式会社社史編纂委員会編『愛されて30年』日本コカ・コーラ、1987年。

*1:久須美雅士「現実か幻か? 都市伝説にもなったあの飲料が登場! ファンタ・ゴールデンアップル」『All About』2002年10月27日、https://allabout.co.jp/gm/gc/217940/

*2:日本コカ・コーラ「企業情報/コカ・コーラシステム」https://www.coca-cola.com/jp/ja/media-center/company-information

*3:日本コカ・コーラ株式会社社史編纂委員会編『愛されて30年』、日本コカ・コーラ、1987

*4:資本主義社会のもとで、自社情報の取捨選択をする対応は当たり前で、特に、日本コカ・コーラ社がこのような行動をとったとしても否定や非難されるべき筋合いはない

*5:例えば自分では、未だ誰も研究していない主題だと自負していたが、未発表なだけで相当深い研究調査をされていた人が他にいたなど

*6:Jonathan McElwain「Drink Coca-Cola Star Wars: The Japanese Coca-Cola Campaign of 1978」、2024、https://blog.theswca.com/2024/04/drink-coca-cola-star-wars-japanese-coca.html

*7:「現代飲料考―飲料情報、津々浦々―5」には、天然着色料への移行、白色沈殿問題、ゴールデングレープ登場の経緯が要領よくまとめられている。ただし、この記事では全国的な時系列で解説しているが、各地ボトリング会社の個別発売年月と同一視することはできない。同サイトでは「「ニューファンタグレープ」の登場から2ヶ月後の1977年5月、「ファンタゴールデングレープ」は発売を中止しています。 」と全国同一現象的に書くが、そう単純ではない。エクセルの一覧表のとおり、1977年5月以降も発売するボトリング会社は複数あるのだ。また「ファンタ・アップル」も昭和49年12月発売で昭和54年4月発売中止と一般化しているあるが、これも各ボトラーごとに異なっているのだ。 現代風俗研究会サイト https://www.stij.org/drink/d-info5.html#55

*8:『All About』、2022年10月28日、https://allabout.co.jp/gm/gc/493513/

*9:「りんご汁」のイメージとしては病気の時にすりおろしを絞って飲む」程度であった。筆者の家は父が明治乳業関係だったので明治の角瓶「りんご」は飲んでいたが、これは黄金色というよりもっと濃い「琥珀色」である

*10:https://news.livedoor.com/article/detail/22257886/

*11:昭和50年の段階で、『ロッテアップルソーダ缶・森永ツイストソーダりんご瓶・明治乳業スカットりんご瓶・日本セブンアップチェリオアップル瓶・武田マリンカ瓶と缶・協同乳業名糖ライティアップル缶・カナダドライアップルソーダ瓶と缶』がある。ただしそれらはマイナーか販売チャネルが限定的であり、『リボン・サントリーフルーツソーダ・ミリンダ・明治製菓・サンキスト・雪印ドリンカ』というナショナル・ブランドのメジャーな炭酸飲料ブランドシリーズのフレーバーにはアップルはない

*12:北海道コカ・コーラボトリング株式会社25周年史編纂委員会編纂『北の大地とともに25年』北海道コカ・コーラボトリング,1989」

*13:『食品マーケティング便覧1980 中巻』富士経済,1979

*14:似た物同士でも、「区別」は子どもにとって重要だった。新しいウルトマランは「帰マン」「新マン」として区別した。ライダーは「1号」と「2号」の仮面や服装、ベルトが違うと認識していた。 他には怪獣のジラースとゴジラを区別するとか、共通の着ぐるみを使うが、「バラゴン→パゴス→マグラー→ガボラ」は転用されたのであって怪獣としては別の物であるなど。 特撮はマニアックかも知れない。例えばスポーツドリンクを買った経験に於いて、意匠や味の点で「ポカリスエット」と「アクエリアス」を混同してしまうかどうか、ということに近いのである

*15:くりまんじゅう「ファンタ・ゴールデンアップル」『YUME-NO-MAKADE』2007年10月11日、http://yume-no-nakade.blogspot.com/2007/10/blog-post_11.html

*16:ピクシブ百科事典「ファンタゴールデンアップル」、https://dic.pixiv.net/a/ファンタゴールデンアップル

*17:久須美雅士「現実か幻か? 都市伝説にもなったあの飲料が登場! ファンタ・ゴールデンアップル」『All About』2002年10月27日、https://allabout.co.jp/gm/gc/217940/ なお、この記事中で久須美は「1980年代までは地域限定製品がたくさんありました。」として、ファンタのフレーバーの発売を年表式で記述している。だが、「ファンタ・レモン」は「1979」のところに位置づけている。確かに1979年に6ボトラーがレモンを発売している。しかし富士・中京のボトラーでは、昭和51年に既にレモンが発売されている。ボトリング会社方式であるから、ボトリング会社名を併記するか(「地域限定製品がたくさんありました」と記述しているので、該当フレーバーを発売した、地域のボトリング会社名をむしろ書くべきでは?)、一番先に発売を手掛けたボトリング会社の発売年に合わせるなどの工夫が欲しい

*18:日本コカ・コーラ「待望の声にお応えして“幻の味”が期間限定で復刻!『ファンタ ゴールデンアップル』11月10日(月)全国発売」 2025年10月31日、https://www.coca-cola.com/jp/ja/media-center/news-20251031-11

*19:くろねこ「ファンタゴールデンアップルの都市伝説」、『くろねこさんの昼さがり』、2021年12月12日、http://kuronekosannchi.cocolog-nifty.com/blog/2021/12/post-82f196.html

*20:これを鵜呑みにする人々がいるが、なぜ、吟味せず簡単に信じてしまえるのか、わからない。 多分、「なんだか体調がよくなかったが、医師の診察で病名が診断されたことで安心した」というのと同様、人は「何か名前が付くとホッとする」という機序があるのではないか。 それこそ「心理学的現象の名詞化で惹起する安心効果」とか名前を付ければよいか。 「吊り橋効果」などに違和感があるのは、名称を与えることによって複雑で個別的な人間の言動を一括りにし、まるでその行動を説明したかのような錯覚が生じるからである。 恋愛テクニック? 気になる異性を危険にさらす前に、教養やマナーなど自己を成長させましょうよ。 名称は本来、事例を検討するための道具にすぎない。 それが独立した実体や原因であるかのように扱われ始めたとき、分類のための概念が説明そのものにすり替わり、さらにその名称自体が学術的権威を帯びて独り歩きする危険もでる。 命名された概念を、個々の事例を検討するための仮説・分析道具ではなく、個々の事例を説明したことにする万能語として使用することには反対する。 名前を付けることによって、分からないものを分かったこととして、本質を見えなくしてしまう危険があると思う。 現象の命名自体に反対なのではない。 専門家は使えばよい。 薬物と同様、素人がカジュアルに使うものではないと思う((話はズレるが心理学ほど、その専門知識が一般社会に広く流通しているにもかかわらず、学問的には素人や学生に軽視されている学問はないのではないか。大学の一般教養でも人気科目である。物理学について「私はニュートン力学について独自の理論を持っている」と言う人はそう多くない(まずいない)。しかし心理学になると、 「それは○○効果のせいなんですよ」 「人間には○○バイアスがありますから」 「心理学ではこういう人は○○なんです」 と、心理学は一般人にとって身近すぎるために上記の発言を簡単にすることがみられる。

*21:心理学が他の学問に比べて素人から軽く扱われやすいことの一つの傍証として、精神的に悩んだ方が、心理学を「自分自身の悩みや生きづらさを理解するための学問」と捉え、そこから「心理職」「カウンセリング職」を志望動機とする人が少なくないことも挙げられるだろう。 もちろん、自己の経験を心理学への関心の契機とすること自体は何ら問題ではない。しかし、心理学を自らの体験の延長として理解し、その専門性を「人の気持ちが分かること」や「悩みを聞くこと」と同一視してしまう風潮は、実験や調査、統計および測定などによって人間の心理を検証する学問としての側面が見えなくなる。 これも心理学が「誰もが自分の経験から語れる学問」であるかのように受け取られ、その専門性が軽視される一因と考えられる

*22:確かにこの頃、小学生であった筆者は放課後の道草で商店に寄り、口渇が強いとき、あるいは体調的に「大量でも飲めそう」な時は、500ml瓶を購入して飲んでいた。 しかし大量の炭酸を飲むのはつらく、最後の100ml程度になると余り美味しいと思わず、もったいないからという義務的に飲んでいた記憶がある

*23:日本コカ・コーラ「企業情報/コカ・コーラシステム」https://www.coca-cola.com/jp/ja/media-center/company-information

*24:The World History Encyclopedia 「Hesperides」 https://www.worldhistory.org/Hesperides/

*25:「Apples in mythology」 https://en.wikipedia.org/wiki/Apples_in_mythology

*26:工業市場研究所食品マーケティング部『飲料商品便覧1979年』「1978年発売中止商品一覧」、111~112頁。

*27:工業市場研究所食品マーケティング部『飲料商品便覧1979年』「1978年発売中止商品一覧」、112頁。

*28:竹内竜介「外資系企業の日本市場参入とビジネス・システム―コカ・コーラ社の事例―」『横浜経営研究』第39巻第3・4号、2019年、https://www.cba.ynu.ac.jp/gakkai/kaisi/pdf/39-3-2.pdf

*29:国会会議録検索システム「第71回国会 衆議院 商工委員会 第14号」昭和48年4月4日、https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=107104461X01419730404

*30:食品安全委員会「Q&A詳細:食品添加物について」2012年11月1日、https://www.fsc.go.jp/fsciis/questionAndAnswer/show/mob20111100014

*31:この噂は根強かった。筆者は中学2年のときに腕を骨折した。授業中に数学教師から「いつもコーラを飲んでいるか?」と誘導尋問のように質問され、「はい放課後に飲むことも」と応答すると、「やっぱりな」とニヤリと笑り、その後は延々とコーラで骨が溶けるという話を数学の時間に演説していた。コーラがどうのということではなく、ひとの怪我という痛みを非科学的にバカにした態度に納得がいかなかった。授業中に笑いをとれるスピーチの話題を見つけ、生徒のウケを狙っていたようだった。これは異常にいやな気分だった。その後、友人の姉の見合い相手がこの数学教師であったので「あいつはやめた方がいい」と、あること無い事の出鱈目な風評を流してご破算に追い込み、溜飲を下げた。人間、どこで思わぬ恨みを買うかわからないので、他人を揶揄することなく、親切にしておくべきである。

*32:くりまんじゅう「ファンタ・ゴールデンアップル」『YUME-NO-MAKADE』2007年10月11日、http://yume-no-nakade.blogspot.com/2007/10/blog-post_11.html

寸葉品(紙もの)の英文サイトを立上げ、蒐集趣味の研究とエフェメラの定義の再考を促そう


Sun'yōhin: Japanese Paper Ephemera and Collecting Culture サイトの設立構想

要旨 — 欧米で確立しつつある Printed Ephemera Studies に、日本の「寸葉品(すんようひん)/紙もの」を解説・接続する英文サイトを開設したい。

ただし単なる紹介ではない。

欧米の "ephemera" の定義は、「一時的な使用のあとに偶然残った紙片」を対象としている。日本にはそれに加えて、最初から蒐集用に制作された紙片(納札の交換札、私製燐票、木版年賀状交換会、蔵書票交換会など)と、その蒐集を支える趣味誌・交換会・蒐集団体の結社・趣味家月旦という重層的な文化がある。

この二つを持ち出して、海外の既存の定義の側に修正を迫るのが、本サイトの狙いである。

以下、

(一)問題意識

(二)欧米側の研究基盤の確認

(三)サイトの題名

(四)年表に見る二つの流れの交差

(五)サイト構成

(六)「物の一生」の枠

(七)3段階入口

(八)接続候補研究者

(九)日本語資料へのブリッジ

(十)サイト全体像

(十一)結び

の順で述べる。


一、問題意識——「エフェメラ」の輸入ではなく、「寸葉品」の輸出へ

英語話者でも知らないことが多い「エフェメラ」を格好の良い外来語として無批判に受け入れることには、留保がある。日本にはもともと寸葉品という語があり、自然発生的な紙ものや趣味品という総称もある。まず日本語の言葉で括ってから、英語圏の枠組みと対話する順序でよいはずである。

そもそも英語圏の ephemera は、19世紀の博物学に由来する語を印刷物に転用したもので、Maurice Rickards(『Encyclopedia of Ephemera』2000)の定義に代表されるように「the minor transient documents of everyday life(日常生活の中で短命に終わる小型の文書)」を指す*1)。

Michael Twyman は "The Long-Term Significance of Printed Ephemera"(RBM 9:1, 2008)で、こうした「短命な資料」を長期的な社会史・印刷史の一次資料として位置づけ直した*2。Martin J. Andrews の "The stuff of everyday life: a brief introduction to the history and definition of printed ephemera"(Art Libraries Journal 31:4, 2006)は、副題を「Rubbish for the waste-paper basket or valuable social documents?」とし、まさに「紙屑か社会史資料か」を問うている*3。

しかしどちらも、暗黙のうちに 「短命な使用物として作られ、それが偶然残った」 ものを主対象としている。日本の紙ものには、その前提を外れる資料群がある——主に趣友との交換目的で私製された趣味的な紙――最初から交換・蒐集を目的に、限定部数の木版・多色摺で制作された紙片である。

「偶然残った紙屑」対「最初から保存用に作られた紙片」

この対比を図にすると次のようになる。

         欧米の "printed ephemera" が主に想定する範囲
        ┌─────────────────────────────────────────┐
        │  日常の使用物(切符・広告・包装・チラシ)  │
        │  → 使い捨てられるが偶然残ったもの         │
        └───────────────┬─────────────────────────┘
                        │
                        │ 交差領域(両方の性格を持つ)
                        │   例:trade card, cigarette card, 
                        │   valentine
                        │
        ┌───────────────┴─────────────────────────┐
        │  「寸葉品」——最初から蒐集用に制作された紙片 │
        │  例:納札の交換札/木版年賀状交換会        │
        │      蔵書票交換会/私製燐票/私製ピース箱   │
        │      スタンプ など                     │
        └─────────────────────────────────────────┘
                日本の紙ものが独自に押し出せる領域

Fig. 1 — 欧米の ephemera と日本の 寸葉品 の集合関係。中央の交差領域は、trade card や cigarette card のように海外でも「販促広告品(プレミアム)として配布→蒐集品化」した資料群。

下段こそ、日本側から欧米の定義に修正を迫ることが出来る領域である。

なお欧米側でも、この交差領域は蒐集研究の中心テーマになっている。Jennifer M. Black の "Exchange Cards: Advertising, Album Making, and the Commodification of Sentiment in the Gilded Age"(Winterthur Portfolio 51:1, 2017)は、3,000枚以上のトレードカードとスクラップブックを分析し、「広告として作られた紙片が、消費者の手元でアルバムに貼られ、感情と記憶の対象へと変容する」過程を追った*4。

Phillippa Hubbard "Trade Cards in 18th-Century Consumer Culture: Circulation, and Exchange in Commercial and Collecting Spaces"(Material Culture Review, 2012)も、trade card が 「miniature artworks」「valued tokens」として価値を持つ過程 を論じている*5。

つまり欧米の研究は、「短命な使用物」から「蒐集品化」へ、という下向きの矢印を対象とはしている。日本の寸葉品は、その逆——最初から蒐集品として立ち上がった紙片、すなわち上向きの矢印を提供できるものだ。


二、欧米にはすでに「紙屑を研究する」学問的インフラがあった

海外の状況を、確認できた範囲で整理しておく。

2-1. 英国レディング大学 Centre for Ephemera Studies (CES)

University of Reading の CES は、単にエフェメラを所蔵する場所ではなく、タイポグラフィ/印刷生産史/文書の物質的・社会的な生命を研究する研究センターである。約10万点の印刷エフェメラを所蔵し、19世紀の トレードカード、ホテル票・ワイン・マッチ・果物・糸などの各種ラベルまで揃える。2013年には 『Thesaurus of ephemera terms』 を編纂し、これが米国議会図書館・大英図書館などにも採用されている*6。

現在の共同ディレクターは Rob Banham と Emma Minns。Michael Twyman(2025年逝去)が創設した研究の系譜を継いでいる(同上)。Alice Crossley「Feeling Things: Ephemera and Emotion」(19世紀のグリーティングカード・喪章カードから感情とアイデンティティを読む)や、Catherine Moore「Book-related ephemera」(ブックトークン、栞、タグ、ブッククラブの通知)といった研究フェローが現在も稼働している(同上)。

食品ラベルについては、Bodil Mostad Olsen の博士論文「A diachronic study of food labels with a particular focus on verbal and pictorial narratives that are relevant to health」(レディング大学、221頁)が、1850–1970年の食品ラベルにおける健康メッセージの言語表現と図像表現を分析している*7。日本のマッチラベル・菓子袋・酒類ラベル・薬袋に、そのまま応用できる方法論とみることもできる。

2-2. Bodleian Libraries と John Johnson Collection

Oxford の Bodleian Libraries が擁する John Johnson Collection of Printed Ephemera は、約150万点、約千項目に分類される、世界最大級の印刷エフェメラ・コレクションである。デジタル版(ProQuest)では67,754件の文書と174,196点の画像が公開されている*8。

John Johnson 本人はこのコレクションを "a little museum of common printed things, to illustrate at one and the same time the historical development of our social life and the development of printing" と定義した*9。社会生活の歴史と印刷の発達を同時に示す——これは、寸葉品を横断的に扱おうとする本サイトの方針とほぼ同一である。

Bodleian は同コレクションを軸に、展覧会 The Art of Advertising を開催しており、そのキャプション集(大活字版)は、Johnson の意図と欧米の広告エフェメラ研究の到達点をよくまとめている*10。

2-3. Ephemera Society of America(ESA)と英国 Ephemera Society

ESA は "advertisements / airsickness bags (ゲロ袋) / baseball cards / billheads / cigar box labels / cigarette cards / clipper ship cards / luggage labels / menus / tickets / trade cards / wrappers ..." までを "ephemera" の範疇に入れている*11。日本の紙ものの多くと重なる範疇である。同学会は Philip Jones Fellowship など研究助成、Clements Library との共同フェローシップ、機関誌 The Ephemera Journal の刊行を行う*12。

英国 The Ephemera Society(1975年設立)も同様の対象範囲を持ち、機関誌 The Ephemerist を刊行している。編集・デザインは2003–2017年に Rob Banham が担当した*13。

2-4. 「蒐集家=研究者」の系譜

日本の戦前では「我樂他宗」の三田平凡寺が「研究」は蒐集趣味に不要的な態度を取った。学問的な正当性や研究対象としての価値を無視して、役に立たぬが自分が心惹かれるから集めるのだという、主観による愛好に価値を置いた。つまり平凡寺は単なる「蒐めるのが好きなオジサン」でしかない。 だが、欧米では、蒐集家自身が研究者化する流れがあることが判った。

  • John Johnson(Bodleian):印刷業者にして蒐集家、150万点のコレクションを大学に譲渡。
  • John Lewis(Royal College of Art):Printed Ephemera (1962) を著し、エフェメラを学的対象に押し上げた本人が、tradesmen's bills、public notices、trade cards、greetings cards、food labels、lithography、fine-art printing の蒐集家だった*14。
  • Bella C. Landauer(New-York Historical Society):trade cards、posters、cigar labels、sheet music など約80万点、150 linear feet のコレクションを寄贈。自ら分類し、後続の蒐集家を刺激した*15。
  • Marilynn Gelfman Karp:In Flagrante Collecto (2006) の著者。cigarette silks、hairnet packages、bubblegum cards、soda bottle tops など生活の中の紙片を体系化した*16。
  • Pat Jacobsen:30年以上 fruit crate labels を集め、専門サイト fruitcratelabels.com を運営*17。

Fig. 2 — 欧米の "collector-researcher" 系譜と、日本の「趣味家月旦」の対応関係。

欧米側の型 内容 日本側の対応
John Johnson 型 横断的蒐集 → 研究機関へ寄贈 → 印刷史 + 社会史のインフラ 個人立の資料館、大コレクターの遺品を保存する博物館
Bella Landauer 型 特定媒体(trade card / label 等)の大量蒐集 → 分類 → 出版で次世代を触発 蒐集家の私家版目録、趣味誌への寄稿
John Lewis 型 蒐集家がそのまま研究者化し、印刷史書を書く 趣味誌の編集者・寄稿者による通史・人物月旦
Marilynn Karp 型 幼少期からの生活蒐集を回想録+論として書く 「なぜ乗車券を集め始めたか」を自己言及的に語る趣味家
Pat Jacobsen 型 独立研究者・専門サイト運営、印刷所・生産者まで追跡 私設HP・趣味誌で燐票・切符・納札を体系化する蒐集家

日本の「趣味家月旦」(誰がなぜ何を集めたか)は、この系譜に接続すれば、そのまま国際的な collecting history の一部として読まれ得る。Surya Bowyer ほか "State of the (Future) Field: The History of Collecting and Its Institutions"(History, 2024/25)は、蒐集史研究が 帝国/ジェンダー/蒐集機関/デジタルコレクション/商業としての蒐集 を軸に再編されていると整理する*18。日本の趣味誌・蒐集家の家庭観・交換広告は、まさにこの再編にも材料を提供できる。

2-5. 決定的な接点——Winterthur の Thomas Beckman Collection of Japanesque Trade Cards

Winterthur Museum, Garden & Library には 19世紀アメリカで印刷された "Japanesque trade cards" 160枚 のコレクションがある。大半がクロモリトグラフ(多色刷石版)で、Prang や Bufford といった主要印刷所も含まれる。中には実際の日本製木版をアメリカでオーバープリントしたものまである*19のでアメリカにおけるデザインが日本の影響をどのように受けたかを示している。

同種の学術的分析としては、松川祐子「"Vain Imaginings about Place and Power": Mikado Trade Cards, Gender, Race, and Leisure」がある*20。

松川は喜歌劇『ミカド』と、当時の最新カラー印刷技術である「クロモリトグラフ(多色刷り石版画)」による広告カード(トレードカード)の関係性を、ジェンダーや人種の観点から分析した。

これらが意味するのは、日本の紙ものは海外研究者にとって完全な未知ではない、しかし「日本人が自ら発信した資料」に接続する回路が細い、ということである。本サイトはその回路を拡張し日本の寸葉蒐集趣味品研究へのサービスポータルサイトを目指すことになる。


三、サイトの題名

いくつかの案を比較したうえで、次を採る。

Sun'yōhin: Japanese Paper Ephemera and Collecting Culture

  • 「Sun'yōhin」を先頭に置くことで、未知の日本語を主語として立てる。
  • サブタイトル "Japanese Paper Ephemera and Collecting Culture" によって、欧米の研究者が既存のキーワード(paper ephemera / collecting culture)から検索して到達できる。
  • コロン以下の "Collecting Culture" は、単なる資料紹介ではなく 蒐集文化そのものを対象にする、という姿勢の表明でもある。

四、二つの流れは、いつ交差したか——年表で見る

「寸葉品を欧米の枠に接続する」と言葉で言うのは容易い。しかし両者が実際にどこで出会い、どこですれ違ってきたのかを見ないと、説得力は出ない。そこで、1800年から現在までの二つの流れを一枚の年表にした。

Fig. 8 — 左レーンが欧米の Printed Ephemera Studies、右レーンが日本の紙もの蒐集文化。中央の年代軸を挟み、日欧を跨ぐ交差イベントだけを赤い帯で示した。点の色は、青が機関・学会・制度、茶が出版・研究、緑が実物・蒐集活動である。日本側データの主典拠は日本燐寸工業会の『マッチ年表』と「蘭渓文庫」の各ページ、および千社札交換会史(宮武外骨『奇態流行史』大正11年の引用を含む)。

この年表から読み取れることは、大きく三つある。

4-1. 蒐集のインフラは、日本が早かった

まず目に入るのは、右レーンの「1903(明治36)日本燐枝錦集会 設立」が、左レーンの「1975 英国 The Ephemera Society 設立」のはるか上にあることである。日本の燐票(マッチラベル)蒐集同好会は、欧米のエフェメラ学会に70年以上先行していた。 なおマッチカバーとしてはアメリカには1941年に Rathkamp Matchcover Society があり、イギリスでは1945年に British Matchbox Label and Bookmatch Society(旧名:British Matchbox Label & Booklet Society)が設立された。

なお英語でマッチラベル蒐集を「phillumeny(フィラメニー)」というが、この言葉自体は1943年にイギリスの女性蒐集家マージョリー・S・エヴァンズ(Marjorie S. Evans)によって作られた造語が広まったものである。

日本燐枝錦集会は明治36年、燐票蒐集家の福山碧翠をはじめ柳川一蝶斎・桂文楽・早川中唐らが発起人となって発足した「最初の同好会」である*21。大正7年には創立15周年記念の全国燐票陳列大会を上野公園で開き、大正9年には機関誌『錦』を創刊、大阪・神戸に支部を置いた*22。

これに対し欧米側で蒐集家が協会を作るのは、1975年の英国 The Ephemera Society(Maurice Rickards 創設*23 )と、1980年の Ephemera Society of America(コネチカット州 Southbury で開催された Ephemera USA 1 で発足*24)を待たねばならない。約70年から75年の差である。

しかもこの先行は、同好会の数だけの話ではなく蒐集大家の輩出にも関与する。福山碧翠は大正元年に燐票6万3000種を数え、昭和2年には20万種に達した。古屋蘭渓は大正6年に3万種、昭和12年頃には40万種を集めている*25。これだけの量と分類を支えるには、交換会と趣味誌(日本燐枝錦集会の『錦』)という制度がなければならない。 日本はそれを、欧米の協会より70年早く持っていたのである。

4-2. 「最初から蒐集用に作られた紙片」は、江戸にあった

年表でいま一つ目を引くのは、右レーン最上段の「c.1830 千社札・納札の流行」である。納札(千社札)は、この年表のどの欧米イベントよりも早く、「蒐集・交換を目的とした紙片」として立ち上がっていた。

千社札は、曲亭馬琴『曲亭雑記』に文化年間の奇人・天愚孔平が始めたと記され、天保・嘉永・安政期に最も流行した*26。そして宮武外骨『奇態流行史』(大正11)は、その性格をこう記録している。

納札大会とて同好者の集会を盛んに開き、毎回その席上で相互に誇って交換せるを目的とし、……納札はただ名のみで、新意匠の競技会というようなものになってしまった

つまり、社寺に貼るための「使用物」だった札が、交換と蒐集を目的とした「作品」へと転じた。これは、欧米の ephemera が前提とする「一時的使用物が偶然残った」という筋とは、成り立ちが根本的に異なる紙片である。日本側が持ち出せる最大の反例である。

なお明治40年前後にはこの千社札が復興し(同)、大正10年には大會が開かれた。納札の交換会自体は戦後も開催されているが、その大會(納札の各団体の総合大会)は、じつに104年後の2025年11月30日、増上寺で「昭和百年記念納札大會(おおがい)」として承継されている*27。

4-3. 交差は、まだ三度しかない

赤い帯で示した日欧の交差は、年表全体で三点しかない。

第一の波(19世紀後半)。1867年パリ、1873年ウィーン、1876年フィラデルフィアの各万博を経て、日本の紙・意匠が欧米へ流出した。その結果が、1880〜90年代の米国製 "Japanesque Trade Cards" である。Winterthur の Thomas Beckman コレクション160枚——大半がクロモリトグラフで、Prang・Bufford らが名を連ね、ごく一部は日本製の木版を米国でオーバープリントしたもの——は、その物証である*28。

第二の波(20世紀後半)。欧米では1962年の John Lewis『Printed Ephemera』、1975年の英国学会、1980年の ESA、1993年の Reading 大学 Centre for Ephemera Studies(Lord Briggs が開所、Michael Twyman が主導*29と、エフェメラ研究が制度化されていった。

しかし日本側のレーンは、この第二の波と接続していない。日本の趣味誌・交換会の膨大な蓄積は、この制度化の外側に置かれたままである。

第三の波(2026)。ほかでもない本サイトである。年表の最下段、赤い帯で二つのレーンを初めて研究者同士で結びたい。

4-4. 年表の使い方

この年表は、サイトの各章の導入に再利用する。サイト第3章(蒐集文化史)には右レーンを、サイト第6章(印刷)には引札・燐票の技術史を、サイト第9章(碑と館)には「1934年 福山碧翠記念碑 建立」「燐寸塚」といった物理的痕跡を、それぞれ年表から引く*30。「◯◯年に、日本ではすでにこれが行われていた」という一文を各章に一つずつ置くだけで、欧米研究者らの前提が崩れる。


五、サイト構成(11章)

設計思想 — 一つのページを開いたときに、海外の研究者が 自分の研究方法をそのまま適用できる ように、以下の10項目テンプレートを共通形式とする(Duke 大学の W. Duke, Sons & Co. cigarette cards のデジタル化実践などを参考にした。*31)。ここは研究が先行している欧米に合わせてあげよう。

① Object   ② Date   ③ Material   ④ Printing method
⑤ Size     ⑥ Function   ⑦ Design/Text   ⑧ Place/Producer
⑨ Evidence of circulation & collecting
⑩ Related hobby magazines / collectors / bibliography

Fig. 3 — 資料記述テンプレート(納札を例に)

項目 記述例
Object Nō-satsu (納札) — a votive slip pasted on temples, but also produced for peer-to-peer exchange within collectors' guilds
Date Meiji–Shōwa(明治~昭和)
Material Japanese paper (washi)
Printing Woodblock printing, often multi-block colour
Size 各個体で採寸
Function 奉納/交換用の "kōkan-satsu"/記念
Design/Text 屋号・所属連・干支・意匠
Producer 彫師・摺師・注文主(判明分)
Circulation & collecting 交換会(納札會 nōsatsu-kai)/連・睦の記録
Related 趣味誌名、収載目録、参考文献

以下、サイトを構成する11章の狙いと欧米側の対応関係を示す。

1. What is Sun'yōhin?

「寸葉品」の語源、範囲、「紙もの」との異同を整理。欧米の ephemera 定義(Rickards / Twyman / Andrews)と並置して差異を明示する。定義比較の一次資料として本調査で発見した Twyman 論文および Andrews 論文(前出)を典拠にする。

2. Beyond Ephemera: Paper Made to Be Collected

本サイトの核。「短命な使用物→偶然残った」ではなく、「最初から蒐集用に制作された紙片」というカテゴリーを提示する(Fig. 1 の下段)。納札の交換札、木版年賀状交換会、蔵書票交換会、私製燐票、私製ピース箱、スタンプ巡礼などを具体的に列挙。ESA の "What is ephemera?" 定義*32に対して、"paper made to be collected" を第三のカテゴリーとして加えるよう働きかけたい、あるいは「閑却していた」と気づきを与えたい。

Fig. 4 — 4象限による日本の寸葉品分類(縦軸:使用済/未使用、横軸:無価/有価)

              未使用
                │
   使用済み前提の │ 未使用で商品性のある
   コレクター品   │ コレクター品
   (包装紙・     │ (記念タバコ・
    ラベル・     │  未使用切手・
    上掛紙)     │  記念絵葉書)
   ─────────────┼──────────── →
   無価          │           有価
                 │
   販促・無料頒布 │ 交換・分譲を前提とした
   (ポケット暦・ │ 私製・限定制作品
   ティッシュ・   │ (納札交換札・
   しおり)       │  蔵書票交換会・
                 │  私製燐票)
                 │
              使用済

右下——「有価×使用済(≒交換を前提とした私製品)」——が、まさに欧米の ephemera が視野に入れ切れていない領域なのである。

3. A History of Japanese Collecting Culture

明治以降の日本の蒐集文化を、紙もの別(燐票・切符・納札・絵葉書・引札・ポチ袋・宝船)に略述する。Bella Landauer や John Johnson が印刷史と社会生活史を同時に描こうとしたのと同じ目的として、日本の事例を置く(前掲 Bodleian / NYHS 資料)。

4. Collectors and Their Collections(趣味家月旦)

一人の蒐集家を、Landauer 型の分類記述で紹介する。「何を集めたか」だけでなく「なぜ、どう分類したか」まで書く。Marilynn Karp の自己言及型ナラティブは参照モデルとなる。

5. Hobby Magazines(蒐集趣味誌)

蒐集趣味誌(機関雑誌)の書誌、会則、交換広告、支部制度、を英語で解説する。日本語の一次資料そのものへの英文ガイドを提供することが、海外研究者への最大の贈物になる。英国 The Ephemerist や ESA The Ephemera Journal と対照させる*33。

6. Printing of Small ART: Woodblock and Commercial Printing

「自画・自刻・自摺」の木版趣味と商業ラベル印刷。欧米側では、Michael Twyman A History of Chromolithography(British Library, 2013、*34 )と、Rob Banham "Colour for commerce: letterpress-printed ephemera in Britain, 1740–1830"(CentAUR 収録、*35 )が対応する。日本側の木版・多色摺・石版・活版を、その延長線上に置いて記述する。

7. Exchange, Free AD, and Collectors' Societies

交換会・盆回し・納札會・連/睦・燐票の会合、そして趣味誌の無料三号広告枠などを扱う。Jennifer M. Black "Exchange Cards..." が示した「広告→アルバム→感情の対象」の変容過程(前掲)と、日本の交換会の実態を比較する。

8. Collecting for Value or for Free

有価的(郵趣・紙幣・商品券・印紙・未使用カード)と無料入手(使用済・包装紙・上掛紙・フタ・商標ラベル・販促品)の区別を英語で説明する(タタキ台の英文をそのまま採る)。この分割は、上記 Fig. 4 の横軸そのものである。

9. Monuments and Museums

納札塚・顕彰碑・個人立の資料館・故人コレクターの蒐集品を遺贈保存する博物館を紹介する。マッチラベルについては、日本燐枝錦集会(明治36年設立、燐票蒐集家・福山碧翠らが発起)、燐票蒐集家・古屋蘭渓の蘭渓文庫(神戸・日本燐寸工業会に現存)などが好例。「蒐集の物理的痕跡としての碑と館」という視点は、Bodleian が John Johnson を語る枠と接続する*36。

10. Japanese Collectors: Types and Collecting Practices

紙もの専門別(トピカリスト)/干支・宗教・動物などの主題別/全般(ゼネラリスト)/天災・行事別/未使用・使用済み——蒐集の基準そのものを類型化する。Karp の生活蒐集型と対照できる。

時代ごとの蒐集対象の変遷。Surya Bowyer らの「蒐集史のフィールドはいま何を問うか」(前掲)と対照させ、日本の趣味誌史料が国際的な議論に何を足せるかを示す。


六、「物の一生」を追う——欧米研究の骨格を借りて

Bruce Roberts Clipper Ship Sailing Cards (2007) は、クリッパー・カードを 「快速船の絵」ではなく「海運産業と商業印刷産業が出会った場所」として、印刷業者・彫刻師・印刷技術・図像・海運史・流通まで追求している*37。同種のアプローチは、New-York Historical Society の Wendy Shadwell 「American Clipper-ship cards / Commercial Printing and the Maritime Industries」にも継承されている*38。

このアプローチを日本の紙ものにあてはめると、「物の一生」の環は次のようになる。 Fig. 5 — 「物の一生」の流れ図。①印刷 → ②商品・広告 → ③配布・流通 → ④使用 → ⑤保存 → ⑥蒐集 → ⑦研究対象化。

欧米側の trade card / clipper card / cigarette card 研究の骨格を、日本の寸葉品にそのまま移植できる。日本側で特に強く出るのは、赤破線で示した「③配布・流通」から「⑥蒐集」へ短絡する ケース(=最初から蒐集用に制作された紙片、Fig.1 下段のカテゴリー)。納札交換札や木版年賀状交換会では、「使用」も「保存」も経ずに、印刷された時点で蒐集品として交換の場に投入される。

Mike Esbester のシガレット・カード研究(Science Museum Group Annual Review 2014–15、SMG_AnnualReview2014-15.pdf / *39や、A. Blum "Cigarette cards - irony in propaganda"(Tobacco Control, 1995、Blum_Cigarette-Cards-Irony-in-Propaganda_TobaccoControl.pdf /*40は、小さな紙片を 「社会にどのようなメッセージを媒介したか」 から読む方法を提示している。同じ視角を、牛乳キャップ・マッチラベル・納札・鉄道切符に適用できる。

Ann-Marie Einhaus らの AHRC プロジェクト Ephemera and Writing about War in Britain, 1914 to the present は、単行本 Wartime Ephemera and the Transmission of Diverse Family and Community Histories にまとまり、家族・共同体の記憶伝達装置としてのエフェメラを扱っている*41。この枠は、日本の戦中・戦後の紙もの(配給切符・回覧板・慰問絵葉書・戦時マッチラベル)にそのまま応用できる。


七、3段階の入口——欧米研究者が「自分の対象と同じ」と気づく設計

日本の資料を、いきなり「エキゾチックな別世界」として提示しないこと。欧米研究者が すでに研究している対象と同じ棚に並ぶ、と気づく順序で提示する。

Fig. 6 — 欧米側の対象 → 日本側の対応資料

段階 欧米側で研究が確立している対象 日本側で並べる寸葉品
① 資料の型 Trade cards / Labels / Cigarette cards / Clipper ship cards / Postcards / Tickets / Advertising cards 引札 / マッチラベル(燐票)/ 商業カード / 納札 / 絵葉書 / 乗車券
② 印刷技術 Letterpress / Wood engraving / Lithography / Chromolithography / Engraving 木版(多色摺)/ 石版 / 活版 / 銅版
③ 蒐集文化 Collectors / Clubs / Albums / Trade / Exchange / Fairs / Catalogues / Collecting societies 趣味家 / 趣味誌 / 蒐集会 / 交換 / 交換広告/ 番付/ 会則 / 熱集品目録 / 趣味家月旦

3段階目まで並べたとき、これは comparative history of printed ephemera になる。海外の研究者にとって、日本の資料は 「未知の対象」ではなく「比較対象」 になる——ここが本サイトの戦略上の要である。なお「比較蒐集趣味論」という比較文化学も提案することを近日お知らせする。


八、接続候補となる海外の研究者・キュレーター

本サイトの読者として、まず接触を試みたい上位を挙げる。順序は日本の資料との接続の強さ順。

# 人物 所属 接続する日本資料 一次資料へのリンク
1 Rob Banham Reading大学、CES 共同ディレクター 木版・多色摺・小型印刷物のデザインと生産 https://www.reading.ac.uk/en/typography/staff/dr-rob-banham / https://centaur.reading.ac.uk/82746/
2 Emma Minns Reading大学、CES 共同ディレクター(キュレーター) 実物ハンドリング、コレクション記述 https://www.reading.ac.uk/en/typography/collections-and-archives
3 Rosie Dyson Leeds大学、Collections Officer trade card / カタログ化・デジタル化(Leeds → Osaka を含む) https://storymaps.arcgis.com/stories/5272528219ea44c6ac37aa0e0ce02d90 / https://leedsunilibrary.wordpress.com/2020/04/29/cataloguing-the-john-evan-bedford-library-of-furniture-history/
4 Jennifer M. Black Misericordia University trade card × album × 感情・記憶 https://jennifermblack.org/publications-research/ / https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/693448
5 Catharine Dann Roeber Winterthur / University of Delaware 蒐集 + 物質文化 + エフェメラ教育 https://www.udel.edu/academics/colleges/cas/units/centers-and-programs/winterthur-program/our-people/catharine-dann-roeber/
6 Rebecca Parmer Winterthur Library Director エフェメラからのデザイン史記録 https://www.winterthur.org/calendar/off-the-shelf-series-the-arts-and-crafts-movement/
7 David H. Mihaly Huntington Library, Jay T. Last Curator 100万点の prints/posters/ephemera、色刷り史 https://researchguides.huntington.org/prints/additional
8 Bruce Roberts / Greg Gibson 独立研究者・古書業界 clipper card / 印刷史 / 蒐集家=研究者の型 https://www.americanantiquarian.org/clipper-ship-cards / https://www.ephemerasociety.org/2023-speakers/
9 Ellen Ambrosone / Adhitya Dhanapal Princeton / Duke 非西洋エフェメラのデジタル・アーカイブ化モデル https://dpul.princeton.edu/sae/about/south-asian-ephemera-collection / https://library.princeton.edu/about/library-news/2023/princeton-phd-turns-fellowship-library-residency-duke-university
10 Martin J. Andrews Reading大学 「紙屑か社会史資料か」という理論的入口 https://www.cambridge.org/core/journals/art-libraries-journal/article/stuff-of-everyday-life-a-brief-introduction-to-the-history-and-definition-of-printed-ephemera/9DB2C34164B19D4C862818709AA79780

Winterthur には既に Thomas Beckman Collection of Japanesque Trade Cards(160枚)が存在する(前掲)。ここを起点にすれば、Roeber・Parmer・Alvis(2026年 ESA 発表「Stars, Stripes, and Sales: Shaping American Identity Through Advertising」、*42との対話が、「アメリカ人が日本をどう紙の上に描いたか」対「日本人がその時期に何を紙で作り交換していたか」、という双方向のテーマになる。


九、日本語資料へのブリッジこそが最大の資産である

海外研究者が日本の紙ものを研究する際の最大の障害は、日本語の一次資料が読めないことである。旧漢字・歴史的仮名遣い・独特の趣味用語(寸葉・略語《官白・私白・燐票・記葉など》・盆回し・連・睦)、会員名簿、番付・交換規則、交換広告、蒐集品分類、蒐集対象の時代ごとのブーム、趣味家の人物月旦。

ここを解説でき得る人材が、日本国内にも実は極めて少ない。

本サイトは、次を提供する:

  • 一次資料の画像(趣味誌・蒐集品・広告・会則)とその書誌情報(発行年月日・発行者・発行所・所蔵先)。
  • 略語の解説と蒐集趣味世界での用語の英語解説。
  • 趣味家の人物情報(趣味家月旦・略歴・活動記録)。
  • 研究上の問題提起(例:「趣味誌における入札欄の成立時期」「マッチラベル蒐集の成立と発展過程」「好意による蒐集援助と分譲価格の違い」「納札蒐集の歴史」「蒐集における趣味派と研究派との対立」「周縁文化との連接―「方言や偉人顕彰の蒐集」「絵葉書蒐集史のピットホール」)。

これらは、Princeton University Library の South Asian Ephemera Collection(2,300点以上のデジタル化・メタデータ化、*43や、Yakima Valley Libraries の Fruit Crate Label Collection(Label History / Lithographers and Printers / Growers and Packers / Origins に分節、*44の記述構造を参照する。「マッチラベル → 印刷所 → マッチ製造業者 → 商店 → 商品 → 蒐集家」という日本版の系譜図 を、ラベル一枚ごとに埋めていく。


十、サイトの全体像——インプットとアウトプット

ここまでの一節から九節までを一枚に畳むと、次の図になる。 Fig. 7 — サイトの全体設計。中央が11章のサイト本体。左の青系ブロックが欧米側からのインプット(方法・理論・比較対象)——Reading CES、Bodleian JJC、ESA/英Ephemera Society、Winterthur・Huntington・NYHS、collector-researcher系譜、現行研究の理論(Black/Hubbard/Bowyer/Einhaus)、Princetonの非西洋アーカイブ。右の茶系ブロックが日本側からのインプット(一次資料・実物・読み下し)——引札・燐票・納札、木版技術、交換会・支部・連・睦、蒐集趣味誌、趣味家月旦、納札塚と個人立資料館、戦時・災害エフェメラ。両者を11章で編み直し、下段の三つのアウトプットとして国際学界に返す

(一)既存定義への修正提案(ESA・CESの ephemera 定義に「最初から蒐集用に作られた紙片」を加える)

(二)比較エフェメラ史の材料(日欧の trade card / label / card 研究に日本の対応資料を並置する)

(三)共同研究のハブ(10-20人の海外研究者との接続を、展示・論文・アーカイブへ展開する)。

(図版ファイルは同フォルダに .svg と .png で保存済み。はてなブログでは PNG をアップロードして参照する。)


十一、結び——「新しい学問への入口」として

Reading 大学 CES 自身が、エフェメラ研究について "academic subject としては非常に新しい" と述べている*45。既に完成した学問を輸入するのではない。まだ形成途上の Ephemera Studies に、日本の印刷文化・蒐集文化という未知の大きな資料群を接続し、その定義に修正を迫る。それが本サイトの狙いである。

百万人に見せる必要はない。海外に十人、二十人の「この資料を研究したい」という人が現れれば十分である。そこから、Winterthur の Beckman コレクションと日本の引札を並べる比較展、Reading CES と共同での「日本の趣味誌における交換広告」研究、Princeton の南アジア・エフェメラの隣に置く「東アジアの独自なエフェメラ」アーカイブ——といった具体的な次の一歩が始まるかも知れない。何もしないよりはましである。

「Sun'yōhin」——日本語のこの一語から出発したいと思う。

参考図版 蒐集物入手方法の一覧

参考図版 蒐集家の深化図

参考図版 蒐集趣味の主題別分類

*1:Newberry Library "Printed Ephemera" リサーチガイド、Newberry_Printed-Ephemera_research-guide.pdf / 出典 https://www.newberry.org/uploads/files/Printed%20Ephemera.pdf

*2:Twyman_The-Long-Term-Significance-of-Printed-Ephemera_RBM2008.pdf / 出典 https://rbm.acrl.org/index.php/rbm/article/view/294

*3:出典 https://www.cambridge.org/core/journals/art-libraries-journal/article/stuff-of-everyday-life-a-brief-introduction-to-the-history-and-definition-of-printed-ephemera/9DB2C34164B19D4C862818709AA79780

*4:出典 https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/693448

*5:出典 https://journals.lib.unb.ca/index.php/MCR/article/view/20447

*6:出典 https://collections.reading.ac.uk/letter-printing-graphicdesign-collections/centre-for-ephemera-studies/

*7:食物ラベル博士論文_Olsen_1850-1970_Reading.pdf / 出典 https://centaur.reading.ac.uk/113323/

*8:出典 https://www.bodleian.ox.ac.uk/collections-and-resources/special-collections/catalogues/johnson / https://www.bodleian.ox.ac.uk/collections-and-resources/special-collections/catalogues/johnson/finding-aids/images

*9:出典 https://www.bodleian.ox.ac.uk/collections-and-resources/special-collections/catalogues/johnson/about/history

*10:Bodleian_The-Art-of-Advertising_large-print.pdf / 出典 https://visit.bodleian.ox.ac.uk/art-advertising-large-print.pdf

*11:出典 https://www.ephemerasociety.org/definition/

*12:phemeraJournal_Vol23-Issue2.pdf / 出典 https://www.ephemerasociety.org/the-jones-fellowship/

*13:出典 https://ephemera-society.org.uk/

*14:出典 https://en.wikipedia.org/wiki/John_Lewis_(typographer) / https://archive.org/details/trent_0116404139556

*15:出典 https://findingaids.library.nyu.edu/nyhs/pr031_bella_landauer_business_advertising/

*16:出典 https://findingaids.library.nyu.edu/nyhs/pr279_marilynn_karp_ephemera/

*17:出典 https://fruitcratelabels.com/

*18:出典 https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/1468-229X.13434

*19:出典 https://winterthur.libraryhost.com/repositories/2/resources/83

*20:Matsukawa_Mikado-Trade-Cards_Japonisme_JACulture.pdf / 出典 https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/208/208-04.pdf

*21:出典: 日本燐寸工業会「国産第一号の燐票いろいろ」 https://match.or.jp/museum/column/4217/

*22:出典: 同『マッチ年表』大正年間 https://match.or.jp/museum/chronological-table2/

*23:出典 https://ephemera-society.org.uk/about-us/

*24:出典 https://www.ephemerasociety.org/early-history-of-the-ephemera-society-of-america/

*25:出典: https://match.or.jp/museum/chronological-table2/ / https://match.or.jp/museum/rankei/

*26:出典: 千社札交換会史 https://blog.studiofruitjam.com/2023/04/17/senjafuda/

*27:出典: 「千社札の『大會』、104年ぶりに開催」 https://artexhibition.jp/topics/news/20251202-AEJ2793792/

*28:出典: Winterthur Library https://winterthur.libraryhost.com/repositories/2/resources/83

*29:出典 https://collections.reading.ac.uk/letter-printing-graphicdesign-collections/centre-for-ephemera-studies/

*30:出典: https://match.or.jp/museum/chronological-table3/

*31:出典 https://archives.lib.duke.edu/catalog/mitchelltobacco

*32:出典 https://www.ephemerasociety.org/definition/

*33:出典 https://ephemera-society.org.uk/ / EphemeraJournal_Vol23-Issue2.pdf

*34:出典 https://www.si.edu/object/history-chromolithography-printed-colour-all-michael-twyman:siris_sil_1025470

*35:出典 https://centaur.reading.ac.uk/82746/

*36:前掲 https://www.bodleian.ox.ac.uk/collections-and-resources/special-collections/catalogues/johnson/about/history

*37:出典 https://www.americanantiquarian.org/clipper-ship-cards

*38:出典 https://findingaids.library.nyu.edu/nyhs/pr116_clipper_ship_cards/

*39:出典 https://www.sciencemuseumgroup.org.uk/sites/default/files/2023-11/smg-annual-review-2014-15.pdf

*40: 出典 https://csts.ua.edu/files/2016/09/1995-Cigarette-cards-Irony-in-propaganda.pdf

*41:WartimeEphemera_Transmission-of-Family-and-Community-Histories_MDPI.pdf / 出典 https://www.mdpi.com/2313-5778/8/3/114

*42:出典 https://www.ephemerasociety.org/2026-speakers/

*43:出典 https://dpul.princeton.edu/sae/about/south-asian-ephemera-collection

*44:出典 https://yvl.omeka.net/exhibits/show/labels

*45:前掲 https://collections.reading.ac.uk/letter-printing-graphicdesign-collections/centre-for-ephemera-studies/

通知表公開と古本屋の倫理――古書流通とプライバシーの境界線

問題の所在と結論

ツイッターに於いて、古書店アカウントから、仕入れた紙ものの一部として、「通知表」が「成績欄」をメインに画像で公開された。 添えられた文章はオール5に驚きつつ好意的にもみえ、決して成績表の当事者を笑うような意図はないと理解できる。 だが筆者は違和感を感じてしまう。

古書店が個人情報や私人の機微に触れるような資料(日記・家計簿・手紙類)を、「特定少数」の顧客に販売する事は、問題はない。ただその私文書などの情報を画像にて「不特定多数」が見られる状態のインターネットに晒すことは、古書店の職業倫理としておかしくはないのだろうか(買取先の元・持ち主が何をしてもよいとされている場合は除く)。

筆者はあと20年も生きるかわからないが(いや独居であるから、明日にでもけがや病気で孤独死する可能性はある)、このように死後に古書店によってネットへさらされた場合、廉恥の感情をいだく文書を多数所持しているため、それなりのシュレッダーを購入して全て棄却しないといけないという不安に襲われた。

ただ、この様な事例(初期は公開を意図していなかった文書のXで画像公開)はこれまでもあるので、世の中のメジャーな社会的感情としては受容的か「特に気に掛けない」可能性も高い。 むしろ遺族でもない筆者が、他者の文書にまで敬愛追慕の情への配慮を感じるのは、性格的におかしいのかも知れないとも考える。

――そこで中立的に考えるためには「法」だ――

法的に直ちに違法と断じられるかという問題と、古書販売の倫理および信用の問題が重なっているとは予測がつく。 中立的にいえば、当該ツイートが故人の通知表を「名誉教授になった人物の逸話」として紹介し、侮辱も虚偽もなく、個人名・学校名・住所等を伏せているなら、直ちに違法となる可能性は高くない。

しかし、だからといって公開が無条件で望ましいわけにはならない。 通知表は成績、出欠、行動評価、教師の所見等を含みうる、きわめて私的な教育記録である。特に、他の情報から人物が特定可能であり、死後の期間も短い場合には、遺族の心情、故人の合理的な秘匿の期待、古書店の信頼を損ねるリスクは残るだろう。

違法ではないが、「古書として売買できる」ことと、「中身をSNSで世界に公開してよい」ことは別である。前者の所有権・流通の問題と、後者の人格的利益・プライバシー配慮・営業倫理の問題を混同してはならないのではないか。

第一章 通知表は「私文書」か「公文書」か

第一節 作成者と所持者を分けて考える必要

公立学校が業務として作成・保管する成績原簿、指導要録、通知表の基礎データは、学校・教育委員会の保有する行政文書・保有個人情報として扱われうるものだ。

本人による開示の場面でも、通知表は「学校だより」のような一般公開を前提とする文書ではなく、本人に関する保有個人情報として考えるべきものだ。

学校が児童・生徒の家庭へ交付し、長年にわたり家庭が保管してきた通知表の現物は、通常、学校の公文書管理の対象として現に保管されている文書ではない。

ゆえに古書市場に出た一枚の通知表を、単純に「公文書だから公開自由」と扱うのは正確ではない。 作成主体は公的でも、交付済みの現物は家庭の私的領域に属する記録として考えるほうが実態に近いといえよう。*1

私立学校の場合は、そもそも作成主体が行政機関ではないため、「公文書」という整理はさらに当てはまりにくい。

通知表の価値は学校制度史や教育史の資料性だけでは尽きず、特定個人の幼少期の評価を、家族内で受け渡されてきた記録として含む点が重要である。 資料性があることは公開の必要性を自動的に意味しないのである。

古書店の棚や蒐集家の机上に置かれた古い「紙もの」を前にするとき、人はそこに宿る時間と人生の痕跡にふと引き込まれる。家族の誇りとして引き出しの奥に大事に仕舞われていたものが、どのような経緯で古書市場へと流れてきたのか。

その来歴を静かに想像することは、紙屑として棄てられる紙片を教育文化の資料と変化させるのかも知れない。

第二節 「五段階評価」は個人評価の情報

「オール5、体育は4」という情報は、病歴・信条・犯罪歴など、法定の「要配慮個人情報」には通常当たらないと考える。

しかし、本人を識別できる状態であれば、学業成績・学校生活の評価として、通常の意味で強い私的性を持つ個人情報である。

しかも通知表には、点数だけでなく、教師による所見、家庭環境を想起させる記載、身体・生活面に関する評価、出欠などが含まれうるため、画像全体を公開する場合の問題は「成績が良いと褒めているだけ」という一点では終わらない。

今回のように、「名古屋から東大に進学し、東京都立大学名誉教授になった人物」という、追加属性が添えられると、専門分野や世代、出身地等を知る者にとっては、ご本人の特定可能性は高まるだろう。 氏名などが画像上で塗りつぶされていても、投稿文との組合せによって誰の資料かが分かる場合、匿名化は完全であったとは主張できないのではないか。

第二章 個人情報保護法との関係

第一節 故人の情報には個人情報保護法は適用されぬ

日本の個人情報保護法がいう「個人情報」は、「生存する個人に関する情報」である。 通知表の本人が既に亡くなっている場合、故人単独に関する成績や所見は、原則として同法の保護対象ではないのである。

個人情報保護委員会も、死者情報は原則として保護対象ではない、と明示している。*2

ただし死者情報が、生存している遺族その他の人の情報でもある場合は別である。

たとえば、通知表の画像に保護者氏名・住所・連絡先・家族構成、兄弟姉妹に関する記載などが含まれれば、それは生存者の個人情報として保護法上の問題になりうると解釈できる。

個人情報保護委員会は、死者の家族関係に関する情報のように、生存する遺族等に関する情報でもある場合には、遺族等の個人情報として保護法が適用されると説明している。*3

第二節 個人情報保護法が及ばない=「自由公開」を意味しない

故人の情報を扱う上で注意すべきは、個人情報保護法の直接適用がないことと、民事上も倫理上も問題がないことは別だ、という点である。 個人情報保護法は、主として事業者による体系的な個人データの取扱いを規律する法律であり、故人の人格的利益、遺族の心情、公開の相当性をすべて解決する法律とはなっていないのだ。

総務省の研究資料でも、死者の情報について、死者の人格的利益、遺族の利益、社会における利用の利益・表現の自由との均衡を検討すべきことが論じられている。 そこでは、死後間もない時期ほど遺族の「敬愛追慕の情」への配慮が重く、年月が経過するほど歴史的事実の探究や表現の自由に重心が移りうる、という整理となっている。*4

よって、「戦後の通知表だから古いものだ」「故人だから保護法の対象外」というだけでは、公開の相当性は判断できない。死亡からの年数、遺族の存否、特定可能性、公開範囲、資料としての公益性、成績以外の記載内容、本人や遺族の意思を推測できる事情を総合して見る必要があるだろう。

第三章 プライバシー侵害・名誉毀損となる可能性

第一節 名誉毀損の問題は小さい

ツイートが事実に沿い、成績の良さを紹介する内容で、侮辱・中傷・虚偽の摘示がないなら、名誉毀損の対象となる事例とは言いにくい。 「オール5、体育は4」という表現に多少の軽い調子が含意されていると解釈されたとて、それだけで社会的評価を低下させるものとは通常考えにくいからである。

死者に対する名誉毀損罪は、虚偽の事実を摘示した場合に限って成立するという限定がある。

今回のように、真実の成績を示したとされる事案では、刑事上の名誉毀損が論点になる可能性は低い。

第二節 中心は「故人・遺族の人格的利益」と公開方法の相当性

民事上は、故人自身のプライバシー権をそのまま誰が行使できるか、という点に理論上の難しさがある。

他方で、公開が故人の人格的利益を不当に害し、遺族の敬愛追慕の情や平穏を具体的に侵害する場合、遺族が何らかの救済を求める余地は完全にゼロではない。

裁判所が問題にしうるのは、単なる不快感ではなく、公開の内容・態様・必要性・悪質性・遺族への影響といった個別事情である。*5

この通知表の場合、添えられている文章が「オール5」への賞賛的であることは、公開の侵襲性をある程度下げている。

しかし、評価が良いか悪いかはことの本質ではない。 成績とは、学生時代を思い起こせばわかるように、同級生には見られないようにしていた経験があるものだ。これは本人が他者に見せることを予定しない内面的な、家庭的領域の情報である。たとえ善意の称賛でも、無断公開を快く思わない人は合理的に存在すると考えられる。

投稿者が「褒めたつもり」であったかは一事情にすぎず、公開される側の自己決定や、遺族の受け止め方を決定するものではない。

法や倫理の境界線は、時には澄んだ一本の線ではなく、曖昧な濃淡のなかに揺れている。 故人を偲ぶ気持ちや優れた才覚への素朴な敬意が、思いがけず遺族の静穏を乱す引き金にもなりうるように、人の尊厳をめぐる問いは白黒の二者択一では割り切れない奥行きを抱えているものだろう。

第四章 古書店の職業倫理と信用の問題

第一節 所有権は「公開の同意」を含まない

古書店が適法に現物を取得し、販売する権限を持つとしても、それは原則として現物を所持・譲渡する権限である。 通知表の画像を撮影し、SNS「X」で不特定多数に公開することについて、本人・遺族の同意まで、自動的に取得したことにはならない。

資料の来歴や人物像を解説することは古書店の重要な仕事である。 しかし、学術的な記述に必要な情報と、通知表の表面を判読可能な状態で全世界にさらすことは同義ではない。

商品販売上、資料紹介の必要があるなら、氏名、学校名、住所、保護者名、出欠、所見、成績欄をマスキングし、全体像ではなく一部を示す、または画像を出さず「戦後初期の通知表を含む旧蔵資料」と文章で説明する、といった段階的な方法がある。

世に埋もれ、ともすれば廃棄されていたはずの紙屑や私的な記録に価値を付けて買い取り、次なる読み手へと橋渡ししてきた古書店の存在は、近代以降の文化・歴史の散逸を水際で防ぐ重要な防波堤でもあった。 商売としての目利きと、記憶の継承者としての自負があるからこそ、時にその取扱いに悩む場面も生じるのであろう。

第五章 古書業界に「私文書を晒さない」不文律や教育はあるか

第一節 全国一律の明文化されたルールは確認できない

全国古書籍商組合連合会や地域の古書組合は、古書市場の運営、共同施設、情報提供、教育、業界振興などを担う組織である。東京都古書籍商業協同組合も、組合事業として「組合員のためにする教育および情報の提供」を掲げている。*6

ただし、公開されている組織紹介・規約類からは、以下のような具体的な統一基準は確認できない。

  • 遺品中の通知表・日記・私信・写真帳をSNSに載せてはならない。
  • 学業成績や家族関係が読める資料は、販売前にマスキングしなければならない。
  • 旧蔵者・遺族の同意なく、資料内容を宣伝目的で公開してはならない。
  • 会員に対して、私文書の公開倫理を必修研修として教える。
  • 違反した会員に対する統一的な懲戒・除名手続がある。

つまり、「古書店なら当然に教わる古典的な守秘の不文律があり、今回の投稿は業界の常識に反する」とまでは、根拠をもって言えない。

現在の古書業界では書誌、真贋、保存、相場、古物市場取引の経験知が厚い一方、SNS時代の個人情報・遺品・画像公開の倫理については、全店での共通基準が、まだ十分に成分化されていないように見える。

古書店の棚に並ぶものは、書物だけではない。 旧蔵者の蔵書票、書込み、献呈署名、葉書、挟み込まれた切符やメモまで、誰かの生活の爪痕を知れる物が混ざる。 そこでは、資料価値の判断と、他人の生活をどこまで見せるかという判断が店主の手に委ねられる。

第二節 古物商向け講習の主眼は、防犯と盗品対策

古書店が中古品売買を業として行う場合、基本的には古物商許可を要する。古物営業法の目的は、盗品等の売買防止、盗品の速やかな発見、犯罪被害の迅速な回復である。したがって、古物商に求められる中心的な実務は、取引相手の確認、不正品の申告、取引記録の整備などである。*7

警視庁も、新規許可取得者および既存の古物商・古物市場主を対象に、毎年、古物営業に関する法令講習会を開催している。*8。

ただし、公開されている案内からは、この講習が通知表、日記、手紙、家計簿・写真アルバムなどの資料といった私文書をどうSNSで扱うべきかまでを扱っているとは読み取れない。

そのため管見の限りでは、「古物商許可」を持つことは、盗品・不正品に関する法令遵守の資格・管理枠組みは意味するが、私文書の画像公開に関する高度な倫理教育を修了したことまでは意味しない。

第三節 組合のプライバシーポリシーも顧客データが対象

「日本の古本屋」を運営する東京都古書籍商業協同組合のプライバシーポリシーは、利用者、会員、問い合わせ、購入手続等で取得する個人情報の取扱いを規律するものである。

購入者・問い合わせ者・加盟店関係者の氏名、住所、連絡先、取引情報といった顧客データの保護が中心であり、店が仕入れた古い通知表や日記・私信の表面をSNSで公開する可否を直接定めたものではない。*9

おそらく、古書業界の制度がまだ時代に追いついていない部分がある。 顧客名簿を漏らしてはならないことは比較的わかりやすい。 だが何十年も前の一枚の通知表やラブレターを「商品資料」と見るのか、「故人と家族の私的記録」と見るのかで、扱いが大きく変わる。 その境目は、法律だけではきれいに線引きできない。

第六章 今回の投稿は「撒き餌」として必要か

第一節 商業的には関心を引く投稿であることは確か

今回の投稿は、単なる仕入れ報告ではなく、明らかに読者の興味を喚起する構成を持つと考えられる。

  • 「名古屋から東大へ進学」
  • 「東京都立大学名誉教授」
  • 「オール5、体育は4」
  • 「両親がきちんと取っておかれた」
  • 「東大時代の同学生からの結婚式案内も数通」

この組合せは、人物の成功譚、戦後教育史、家族保存の物語、大学人脈、旧い紙ものの魅力を短文で圧縮している名文である。

Xでは、単に「通知表を含む資料を仕入れた」と書くより、閲覧・反応・フォローを得やすいだろう。 商売上の意味でいえば、将来の販売に先立って、興味深い人物資料が入ったと印象付ける予告広告・関心喚起としては機能しうる。

店主が意識的に販売促進を狙ったのか、整理中の驚きを共有したいだけなのかは、投稿だけからは判断ができない。両方であることも珍しくない。SNSの商用発信では、「面白い発見の報告」と「店の存在を覚えてもらう宣伝」が同じ一投稿に同居することもあるからである。

第二節 販売促進策で通知表を読める画像で出す必要性

商業的必要性と公開方法の相当性は別問題である。 仮に将来の販売に向けた予告として投稿したとしても、次のような方法で十分に関心を惹ける。

  • 「戦後の小学校通知表、大学時代の招待状を含む研究者旧蔵資料を整理中」と文章だけで告知する。
  • 通知表の外形、用紙デザイン、学校印、評価欄の一部だけを接写し、個人の所見・出欠・氏名欄は読めないようにする。
  • 人物が特定できる略歴を付加して出さない。
  • 通知表ではなく、より公開侵襲性の低い蔵書票、印刷物、大学関係の一般配布資料を紹介する。
  • 「販売予定」「目録作成中」と明示し、資料の性質と公開範囲について店側の方針を添える。

今回の画像では、氏名・一部記載が白く伏せられているように見える。 店側は無配慮に全情報を出したのではなく、少なくとも識別情報を隠そうとした形跡として評価できることである。

他方、成績、教師の所見、出欠、進学歴と職歴を結びつける投稿文は残っており、知人・研究者・大学関係者などにとっては人物を推知する手掛かりになりうると考えられる。

マスキングを施したことは配慮の一歩だが、特定可能性を全て消すような決定打とはなっていない。

第三節 売れることと、信頼されること

この種のツイートは短期的には反応を生むかもしれない。

しかし、旧蔵資料を売却する・委託したいと考える人にとっては、「この店に渡した家族の紙ものは、内容までSNSに出されるのだろうか」という不安を生む可能性がある。

特に日記、手紙、成績表、家計簿、アルバム、住所録、履歴書、雑記帳のようなものを抱えた遺族にとって、この心配は小さくない。

古書店が珍しい資料を紹介すること自体は、文化的にも商業的にも正当な営みである。 散逸しがちな資料に光を当て、買い手・研究者・保存先を見つける働きもある。

問題は「紹介するか、沈黙するか」の二択ではなく、何を、どこまで、誰が読める形で出すかにある。商売の巧拙は、見せる量ではなく、見せるべき部分を選ぶ編集力にも現れると考える。

第七章 今回の二つの投稿の評価

第一節 通知表の画像公開

通知表の画像は、表面に成績、所見、出欠、健康・行動面に関わる欄を含む。投稿文が「オール5(体育は4)」と成績に焦点を当てている以上、通知表は単なる時代資料としてではなく、特定人物の能力評価を示す証拠として、明らかに提示されている。

これは、「戦後の通知表の様式」や「五段階評価の実例」を紹介する場合の理解促進目的の画像よりも、私的情報の公開としての性格が強い。

教育制度史の説明が目的なら、人物の進学歴・名誉教授という情報は必ずしも必要ではない。 反対に、その略歴を添えることで読者は「後に成功した人物の優等生時代」を読むことになる。つまり投稿の主旨は、教育制度史よりも人物逸話にあると解されても仕方がない。

前述した様に法的には、本人が故人である限り、個人情報保護法は原則として直接の保護を与えない。

ただし情報が生存する遺族の情報と重なる場合は別であり、また故人の人格的利益と遺族の敬愛追慕の情は、民事上の考慮要素となりうる。*10 *11

第二節 結婚式案内状への言及

二つ目の投稿は、東大時代の同学生から届いた結婚式案内が複数あり、そのうち一通には特定の人物への「お教えないで下さい」という追記がある、としている。

画像そのものを同時に掲載していないなら、通知表画像より侵襲性は低い。しかし、これは私信・交友関係・結婚という、本来は更に私的な領域に踏み込んでいる。

確かに「誰が誰の結婚式に招かれたか」 「特定人物を招待したくないという事情があったか」は、 文学者・研究者・著名人の伝記研究では交友関係の考察上、意味を持ちうるだろう。 それでも、販売前のSNSで逸話として切り出す必然性は、通知表以上に慎重に問われるとも思われる。

とくに招待状の差出人や対象人物が現在も生存している場合、その情報は故人だけの話では済まない。

ここで重要なのは、投稿が悪意に満ちているか、相手を軽侮や笑いの対象にしているか、どうかだけではない。買い取った品物の面白さは、ときに他人の内輪の事情に近づくほど増すのはわかる。

しかし、面白いことを共有しようとするいわば「善意」の情報提供と、根本的にネットに個人のことを公表してよいこととは同義ではない。

第八章 実務上の評価

第一節 店主個人の倫理感に依存

現状では、古書業界における私文書のSNS公開は、主として個店の判断に委ねられている。組合は教育や情報提供を担う機能も負託されうるが、公開資料からは、私文書・遺品・旧蔵資料のオンライン公開に関する詳細な統一規範までは確認できない。*12 (今のインターネット時代を鑑みたら、店主任せってちょっとおかしくないのかな? 私が邸宅内で明日転倒して孤独死したら、事と次第によっては、家の中にある紙類が古物商に渡る可能性は高いので困るのだが)

慎重な店は、氏名・住所・学校名・成績・家族名・私信内容を出さず、画像公開を最小限にとどめるだろう。

反対に、SNSでの反応を重視する店は、「資料の魅力を伝える」範囲を広く取り、人物の逸話まで出すだろう。

この差は、現在のところ、法令違反か否かというより、店主・担当者の資料観・顧客観・危機管理観の多様性、差として現れてしまう。

第二節 より望ましい業界実務の提言

私文書を扱う点で、ネットに画像をアップすることを筆者は無制限に野放しにして欲しくはない。 古書店・業界が採るべき実務としては、次のような策の共有化が考えられる。

  • 仕入れ・委託時に、SNS掲載や画像利用の可否を確認する。
  • 家族・生活・評価に関わる資料は、販売前の公開を原則として抑制する方向とする。
  • 公開する場合は、氏名だけでなく、学校名、住所、日付、所見、成績、家族情報、交友関係が推知できる記載をも編集することを義務付け。
  • 資料の存在・分野・年代・点数は示しても、内容の判読可能な画像は避ける。
  • 歴史的・研究的意義を理由にする場合は、なぜその情報を示す必要があるのかを説明できるようにする。
  • 削除・非公開の申し出があった場合の窓口と対応方針を策定

これは法令上の画一的義務というより、インターネットのある時代に於いて古書店が長い目で信用を積むための実務である。 資料を扱う商売では、売り手・遺族・買い手・研究者のいずれにも「この店なら任せられる」と思わせることが信用資産になる。

第三節 今回のような画像投稿を評価する実務的基準

第一項 リスクを高める事情

次の事情が多いほど、公開は慎重であるべきである。

  • 氏名、学校名、居住地、卒業年、職歴などから本人を容易に特定できる。
  • 故人の死亡から間がなく、配偶者・子・孫・兄弟姉妹等が存命である可能性が高い。
  • 成績のほか、所見、身体・健康、家庭、問題行動、欠席などの記載が読める。
  • 投稿の目的が学術的紹介よりも、話題性・驚き・集客に傾いている。
  • 画像が高解像度で、引用・保存・再拡散を容易にしている。
  • 遺族・旧蔵者・委託者の同意や、少なくとも公開に反対しない意思が確認されていない。

第二項 公開を相対的に正当化しうる事情

反対に、次の事情があれば公開の合理的な相当性は高まる。

  • 遺族、相続人、著名人の財団、資料寄贈者等から明確な公開同意がある。
  • 十分な年数が経過し、人物が歴史上の存在として位置づけられている。
  • 氏名・学校名・住所・保護者名・成績・所見などを実効的に伏せ、人物特定が困難である。
  • 教育史・地域史・出版史等の研究目的が明確で、必要最小限の範囲に限って示される。
  • 画像ではなく、目録記載や要約によって資料の存在を伝えている。
  • 問題を指摘された場合、削除・マスキング・説明の追加に速やかに応じる運用がある。

第九章 総合判断

今回の投稿を中立に評価する。

**違法性は直ちには高いとは言えない**
故人に関する成績情報は、原則として個人情報保護法の直接の保護対象ではない。投稿も侮辱や誹謗中傷ではなく、称賛的な文脈である。((個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/ ))

**公開方法は慎重さを欠くと評価しうる**
通知表は、特定個人の評価・所見・出欠を含みうる私的記録である。「名古屋から東大、東京都立大学名誉教授」という情報まで重ねると、人物の特定可能性と人物逸話としての同定性が高まる。

**販売予告・集客としての機能はあるが、必要不可欠ではない**
ツイートは店への注目を集め、将来の販売機会を作る働きを持つ。だが成績や私信の細部を公開しなくても、資料の存在や魅力を伝えることはできる。

端的に言えば、次のようになる。

**故人の通知表を古書として扱うこと自体は、直ちに不当とはいえない。だが、特定可能な人物の成績・評価を、同意確認も編集もなくSNSへ画像公開することは、法的にグレーであっても、蒐集資料の取扱いとしては慎重さを欠きうる。** 投稿が賞賛的であり、悪意がないことは重要である。しかし、人格的な記録は「悪意がなければ公開してよい」ものではない。特に高齢化社会となり「終活」が行われる現代において、古書店は家庭から離れた私文書を市場へ媒介する立場にある。その職業的信用は、インターネットで珍品を見せる技量だけでなく、見せない判断をできるかにもかかっているといえよう。

※以上の法的な検討部分は一般的な法的な検討と整理であり、事例によっては実際の投稿画像、故人の没年、遺族の状況、氏名・学校名等の判読可能性、取得経緯によって結論は変わることもある。

*1:「情報公開請求と保有個人情報開示請求の違い|『学校だより』と『通知表』で考える」:https://hanawa-office.jp/oshiete/blogs/529-%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AB%8B%E6%B1%82%E3%81%A8%E4%BF%9D%E6%9C%89%E5%80%8B%E4%BA%BA%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%96%8B%E7%A4%BA%E8%AB%8B%E6%B1%82%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84-%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A-%E3%81%A8-%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E9%80%9A%E7%9F%A5%E8%A1%A8-%E3%81%A7%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B/

*2:個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/

*3:個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/

*4:総務省「死後の個人情報の保護―名誉・著作者人格権との比較を通じて」:https://www.soumu.go.jp/main_content/000973595.pdf

*5:総務省「死後の個人情報の保護―名誉・著作者人格権との比較を通じて」:https://www.soumu.go.jp/main_content/000973595.pdf

*6:東京都古書籍商業協同組合「組合の歴史・活動内容」:https://www.kosho.ne.jp/association/history/

*7:e-Gov法令検索「古物営業法」:https://laws.e-gov.go.jp/law/324AC0000000108

*8:警視庁「古物営業許可関係の法令講習会について」:https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/tetsuzuki/kobutsu/horei_kousyukai/koshu.html

*9:日本の古本屋「プライバシーポリシー」:https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=84

*10:個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/

*11:総務省「死後の個人情報の保護―名誉・著作者人格権との比較を通じて」:https://www.soumu.go.jp/main_content/000973595.pdf

*12:東京都古書籍商業協同組合「組合の歴史・活動内容」:https://www.kosho.ne.jp/association/history/

欧米におけるアマチュア出版の印刷の歴史

—— Zine / Indie Comic 向け印刷サービスの現状とその歴史的背景 ——

第1章 欧米におけるアマチュア出版向け印刷サービスの現状

本来、街の印刷屋は素人を相手にしなかった。それは活版時代でもオフセット時代でも同様であった。その理由は知識のないことや、業界に精通していないためだ。

当時はDTPがなく紙の「版下」はインクで線を引いたり、写植を貼り込んだり、指定したりと職人ワザでつくる。印刷に関する知識がない学生が作った版下には不備が往々にして存在し、これを修正するためには多大な労力(トンボや四色分版を一から解説するのは実質的に「印刷の職業訓練」を無償で行うようなものであり、商業ベースでは完全に大赤字です)がかかる。

また、当時の商業印刷は「B to B(企業間取引)」の商習慣で動いていたため、校正(チェック)の責任は発注側にある。しかし、印刷業界の慣習・作法を知らないアマチュアは「思っていた色と違う」「仕上がりが汚い(原因は本人の版下の汚れ)」「白いふちがある(断裁時のズレ、塗り足しを知らない為)」といった事があると厄介な消費者になって、文句を言ったり刷り直しを要求したりなどのトラブルがあるので、敬遠された。

更に当時は金属の刷版を作る「オフセット印刷」や、文字を鉛で組む「活版印刷」が主流だった。これらは「版を作るコスト(初期費用)」が非常に重く、数千〜数万部を刷ることで1冊あたりの単価を下げるビジネスモデルである。学生が注文する「100部」「200部」といった超小部数は、印刷所にとっては手間ばかりかかって全く利益が出ない「採算割れ」の仕事であった(高い料金なら引き受けるかも)。

一部のコミケ向け同人誌では過激な表現があり、これは安寧に暮らしている街の印刷所にとっては、「わいせつ図画(刑法175条)」の印刷に問われかねない、法的なリスクを孕む危険な注文と映る。企業や役所からの堅い仕事をメインにしていた街の印刷所が、リスクを嫌って門前払いにするのは当然の防衛策だった。

当時は、不備のある版下を印刷するために、印刷所の職人や店主が実作業の際に「ゴミ取り(スポッティング)」をしたり、職人技でトンボを合わせ直したり、面付ができるように版下を切ったり、ノンブルがない版下を確認したりという「見えないカバーワーク(修正作業)」が発生した。学生側は「お金を払っている」と思っていても、実際には印刷所の職人の厚意(あるいは泣き寝入り的な同意)によって成立していた側面もある。

ところが昭和50年代以降、日本には「コミケ」など漫画同人誌の即売会市場が発達したため、大量のアマチュア出版物印刷への需要が生じてきた。そのため廉価で素人の相手をする「同人誌専門印刷所」が存在するようになり、1993年には協業の組合、日本同人誌印刷業組合まで設立された。

では、欧米(アメリカ・ヨーロッパ)においても、「Zine(ジン)やIndie Comic(インディーズ・コミック)を専門に印刷サービス(Short-run printing / Zine printing services)」する会社は存在するのだろうか?

一般の法人・役所を取引先とする商業的な印刷所ではなく、学生などの若者が発注できるようなアマチュア出版向けの印刷に応需する店はあるのかを中心に、欧米のアマチュア出版の印刷について調査してみた。

第1節 概観:二層構造としての「同人誌印刷所」

欧米(米国・英国を中心)には、一般商業印刷所とは別に、アマチュア作家・セルフパブリッシャーを主たる顧客とする印刷サービスが確かに存在する。ただし日本の「同人誌専門印刷所」(即売会イベントに連動した締切・搬入システムを持つ専業者)とは業態が異なり、以下の二層に分かれることが分かった。

  1. デジタル小ロット/POD(print-on-demand)系:コミックや冊子の小ロット印刷をウェブ注文で受けるオンライン印刷所。最低部数なし(1冊から)が売り。
  2. Risograph(理想科学のデジタル孔版印刷機)系スタジオ:アーティスト自身が運営する小規模工房で、Zine や art book の制作を請け負う。ワークショップやコミュニティ機能を併設する例が多い。

第2節 デジタル小ロット・POD系コミック印刷所

(1)Ka-Blam Digital Printing(米・フロリダ)

2005年にフリーランスのコミック関係者であった Thomas Florimonte Jr. と Barry Gregory が設立し、2006年に正式開業した。

「独立系コミック・コミュニティのための高品質・低価格印刷」という明確なコンセプトを掲げ、部数の閾値ではなく必要量に応じた印刷(POD)、セットアップ料金の撤廃、フルカラー小部数印刷の低価格化を業界初として打ち出した(Ka-Blamは、誰でも簡単に手頃な価格でフルカラーのコミック印刷を行えるように価格を算出した最初のコミック印刷所。Ka-Blam以前には、フルカラーの少部数印刷コミックなどはほとんど存在しなかった。)。

2007年にはPOD型オンライン・コミック書店 IndyPlanet.com を開設し、現在11,000点以上の indie comic (及びノンフィクション系の活字同人誌も)が登録・販売され、印刷・発送・販売代行までを一括して担っている。

これは日本の同人誌印刷所と委託書店(とらのあな等)を足したような垂直統合モデルである。累計300万冊以上を印刷・出荷している Ka-Blam公式 / IndyPlanet

(2)Comix Wellspring / Greko Printingが創業(米・ミシガン州 Roseville)

「the comic book printer」を自称する、コミック専門の印刷ブランドである。元々は一般商業印刷所 Greko Printing(Plymouth, MI)のインディーズ・クリエイター向け部門として発展し、1冊からの注文(大口は部数割引)を謳い、コミック・グラフィックノベル・ポスター等を専門に扱った。

北米の indie comic 界隈では Ka-Blam と双璧をなす存在として頻繁に比較・言及されてきたが、近年、操業を一時停止し未履行注文を返金したことが報じられ、イベント(コミコン)シーズン前のクリエイターに混乱を生じさせた(HPでも受付がストップしている) ComicsBeat / Comix Wellspring / r/ComicBookCollabs

(3)その他の小ロット冊子・セルフパブリッシュ向けサービス

  • Mixam(米・英):ウェブUIで「Zine printing」を独立カテゴリとして提供する大手オンライン印刷所 Mixam

UIでは、次の項目を入力・選択することで直ちに見積金額が表示されるシステムである。

部数1~数千部、頁数(8頁から800頁)、カラー、縦長か横長か、サイズ(A4判~A6判はあるが、他は日本ではなじみのない十数種のインチの寸法の種から選択)、紙質(コートか光沢か。重さは70ポンド、80ポンド、100ポンドから選択)、製本(ホチキス・無線・リング製本)を選択して版下ファイルをアップロードする*1

  • Ex Why Zed(英):「Zine Printing, Art Books and Self-Publishing」を専門に掲げ、初心者のセルフパブリッシャー支援を売りにする印刷所 Ex Why Zed
  • Greenerprinter(米・カリフォルニア):再生紙使用、ミニマムなし・製版不要の short-run book printing Greenerprinter
  • 48 Hour Books(米)、Lulu(米・POD大手):セルフパブリッシャー全般向け 48 Hour Books / Lulu

第3節 リソグラフ系Zine印刷スタジオ

2010年代以降の欧米Zine文化の印刷を象徴するのが、日本の「理想リソグラフ」を用いた ステンシル印刷のRisograph スタジオである。以下は代表例である。

スタジオ名 拠点 特徴
Ditto Press London(Dalston) Ben Freeman と Lynsey Atkin が2009年11月創業。英国初の Risograph 専門プリント・パブリッシング会社 People of Print / Hackney Citizen
Issue Press Grand Rapids, MI George Wietor が2011年から運営する出版社兼Riso印刷所。出版活動を印刷受注で支えるモデル Issue Press
Secret Riso Club Brooklyn, NY アーティストランの独立出版・デザインスタジオ兼印刷工房。書店・学習スペースを併設 Secret Riso Club
lucky risograph DUMBO, NY 国内外のクリエイターと協働するRiso印刷所 lucky risograph
Risolve Studio 米 2017年創業のRiso印刷・デザインスタジオ Risolve
Footprint Workers Co-op Leeds, 英 労働者協同組合(workers co-op)組織。再生紙のみ使用。zine・チラシ・レコードスリーブ等を印刷 Footprint
RISOTTO Glasgow,英 2012年創業の文具・プリントクラブ併設のRisoスタジオ RISOTTO

第4節 日本との比較に関する一考察

日本の同人誌印刷所が「即売会イベント締切・会場直接搬入」に応需するのに対し、欧米では (a)convention(コミコン)や zine fair 向けの個人発注をウェブ経由で全国から受けるPOD業者と、(b)地域コミュニティに根ざしたRiso工房が分化して存在する。日本のような「同人誌専門」を積極的に謳う看板こそ少ないものの、機能的には同等のインフラが成立していると評価できるのではないか。


第2章 欧米のアマチュア出版の展開

第1節 印刷手段の民主化

アマチュア出版の隆盛は、印刷という「生産手段」が個人(素人)の手に渡った技術的革新と不可分である。

ホビー・プレスの発明: 1867年にベンジャミン・O・ウッズが発明した「ノベルティ・プレス(Novelty Press)」がウッズ&カンパニーから発売された。アマチュア向けの印刷機の製造販売である。さらに1872年には「ケルシー印刷機」という低価格な卓上印刷機が発売され、それまでプロの領域だった印刷が一般家庭のダイニングや居室でできるようになった。

これは卓上ではないので15~50ドルだが、数千台売れた

手組み(Hand-set type)の時代: 初期のアマチュアたちは、小さな活字を一字ずつ手作業で拾う「手選文」に情熱を注いだ About - AAPA。

なお筆者はケルシ―等の実物を手に取った訳ではないため、実際の活字の高さがどの程度か不明である。玩具的な活版印刷機の場合、高さが一センチに満たないこともあるため、日本人より手が大きい外国人がピンセットを使って植字をするのは相当大変ではないかと予想する(この操作という点ではタイプライターや手書きで製版できるミメオグラフやスピリット複写機のほうがむしろ楽であろう)。

この伝統的な技法は、20世紀にプロの世界で自動鋳植機が主流となっても、アマチュアの間では「趣味の王道」として維持されたという。 The Next Hundred

米国で1870年代の終わりまでには、全州でアマチュア新聞が発行されており、 数百紙 に上る州もあった。 アメリカ古文書協会 (American Antiquarian Society)が所蔵している新聞は 55,000紙以上 だというThe Emancipation of Boyhood。

新聞の多くは 4~8ページ (1~2枚の紙を折り畳んだ形)であったが、中には32ページに及ぶものもあったし、 はがきの裏面 に印刷された新聞もあったThe Emancipation of Boyhood。

少年アマチュア出版者の 約半数 が、自ら家庭で新聞を印刷。 4分の1から3分の1 は他のアマチュアの印刷業者に発注、残りはプロの印刷業者で刷っていたThe Emancipation of Boyhood。

20世紀に入ると、アマチュア・ジャーナリズムの対象は青少年だけでなく成人にも拡大した。

「その初期の数十年において、10代の若者たちによる独自の印刷サブカルチャーを構成しており、おそらく史上初の事例であったと言えるだろう」 The Emancipation of Boyhoodと、Lara Langer Cohenはいうだが、これは日本の明治青年たちの地方文芸雑誌がアメリカに知られていないためであろう。

本稿はあくまでも 「印刷」 の観点から青少年のアマチュア出版を論考するものであるため、ここでは詳述しないが、日本の地方文芸雑誌や校友会雑誌も含め、ユース・カルチャーに於ける「アマチュア出版」の日米欧の横断的比較研究が必要だと考える。米国の「アマチュア新聞主宰者」界隈は閉鎖的だったようだが、日本の地方文芸雑誌界や趣味誌界も似たようなものである。

非常に興味深いのは米国のアマチュア新聞でもお互いの発行物の 「交換紙」 を相互に依頼していたことだ。そして中にはこの「交換」システムを利用して無料で新聞を入手するため 「詐欺的交換紙」 を発行する少年もいたというThe Emancipation of Boyhood。また新聞の発行者同士で 連絡・交友 をするのが目的になった子もいたようだ。 これは日本の趣味誌の世界でも見られる現象であり、 どこの世界でも人間が考えることはほぼ一緒 である。

「交換誌」は相手と自分の発行媒体が「釣り合う」かどうかも問題になる(自誌がB5判48ページで相手がB6判8ページでは、交換しがいがないというか、率直に言えば 「何だか損をした」 気分になるのだが、趣味誌界では 「互恵」 の文化が根付いているため、体裁の貧弱さで交換誌を断ることは少年にとっては中々難しい。相手が年下であれば寛容さを示したり、今後の成長を期待して交換に応じることが多い。

趣味誌界を構成する人々は、 無料贈呈品の提供 に応じたり、 入札を低額で実施 したり、 寄付金を送ったり と「自分の利益」を考えるだけではない者が多かった。

蒐集趣味の世界でも 居住地で入手できる趣味品を頒布 したり、 蒐集に協力 したり、 大阪の趣味家が東京を訪問すればどっさりとお土産を渡したり (逆も同じ)と、やはり「情けは人の為ならず」があった《※趣味家以外の方には分かり難いかも知れないが、大家の方は相当沢山の趣味品を蔵している上に、毎日のように更に追加されている。例えば例会で7,8名にレジ袋一杯の寸葉品をお土産として差し上げることは平気で行えるのである》。そうした趣味家たちの 互恵精神 が背景にあったからこそ、 板祐生は鳥取の地を動かずとも全国から趣味品が集まった のだということを忘れてはならない)

ケルシ―印刷機
出典はDo Your Own Printing , Public Domain。

第2節 ケルシ―印刷機

(1)印刷のやり方

本機は手動のハンドプレス印刷機で 「ケルシー印刷機(Kelsey Excelsior Press)」 と呼ばれる、主に少年・家庭向けに製造された卓上型の簡易活版印刷機である。日本では 「手フート」 と呼ぶ印刷機である。 構造は、金属枠(チェイス)に組んだ活字面(刷版と同様)にインクを塗布し、紙を強く押し当てて転写する凸版印刷方式であり、一回のレバー(ハンドル)操作を行うことでインク塗布と紙への圧着が連動して行われる。

【準備工程】 用意した活字をケースから拾って組付け枠(チェイス)に並べ(植字)、木片(ファニチャー)を詰めたり枠をネジでしっかり締めて固定する。この枠を本体中央の垂直な版面にセットする。また、上部にある円盤(インク・ディスク)の上に適量の印刷インクを塗布しておく。

【印刷・操作工程】 印刷用紙は一枚ずつ手作業でプラテン(圧着板)のガイドに合わせてセットする。 手前のレバーを力強く倒すと、以下の動作が連動して行われる。 1. 下部に静止していたインクローラーが上方へ移動し、前面の活字面(刷版同様のチェイス)にインクを均一に塗りつける。

2. インクローラーは刷版面を通過し、更に上部へ移動すると同時に、手前の圧盤(予め印刷用紙を乗せた板)が起き上がり、垂直な活字面(刷版同様のチェイス)に向かって強く押し付けられ、紙に圧着、活字が転写される。

3. インクローラーが上方へ移動し前面のインク円盤へ接触する。このとき円盤はわずかに自転(回転)し、インクローラーに新しいインク面を補充しながら均一に練り広げることになる。

4. レバーを元に戻すと、圧盤が倒れて開き、印刷された紙を取り出せる状態になる。

5. 同時に、インクローラーが下方へ移動しながら再び活字面にインクを塗り、下部まで戻る。

この一連の往復運動により、 手動でありながらスムーズで連続的 な印刷が可能となっている。ただ給紙と印刷、排紙を手動で行う為、多くを刷るのは大変だっただろう。

広告の機械のサイズは幅が5 1/4インチ(=5.25インチ)なので13.335 センチ、長さが7 1/2インチ(=7.5インチ)であるから19.05センチとなる。底面積だとだいたい A5判程度 の寸法であろう。 「Chase, 2 x 3 1/4 inches」と、チェイス(版面)のサイズが書いてあるが、5.1×8.3cmは、 名刺(5.5×9.1cm) がちょうど印刷できるサイズの最も小さなジュニア機なのだろう。 広告をみると 3 × 5 インチと、5 ×8 インチの機種もあり、5×8インチは12.7 × 20.3cmであるから、 A5判 (14.8×21.0cm) より一回り小さく、 B6判 (12.8×18.2cm) に近い大きさだ。 3×5インチの方は A7判 (7.4×10.5cm) より少し大きいが、小さな 「ハガキ未満(名刺〜情報カード)程度」 のサイズに対応するのだろう。

(2)ケルシ―印刷機の販売と値段

ケルシ―印刷機は1872年にコネチカット州Meridenで、William・A・Kelseyが創業した。 1830年頃から印刷機は小型化し、ビジネスマン向けに販売され街の印刷屋に依頼せずに家庭でも印刷できるようになっていた。

1850年代後半に英国ではパーラープレスという小型印刷機が販売された(当時の英国では屋敷にパーラーがあり、そこは趣味や社交の場であった。訪問客はパーラーで名刺を出すので、パーラー・カードを印刷する需要があったのだ)国際印刷博物館のYouTube動画より。 この印刷機は単純な圧着式で版画を作る要領の印刷機で、凸版にインクを塗布して、紙を挟んでフタをしてレバーで締めて紙に圧着するものである。

そして、1870年代は玩具的なアマチュア向け卓上印刷機が多く発売されていた。印刷業界に革命をもたらした「エクセルシオール」モデルをはじめケルシーの信頼性の高い印刷機は、愛好家や小規模な印刷業者にとって歓迎され、1990年まで生産された国際印刷博物館のYouTube動画より。

印刷機のサイズは 3 × 5 インチから 9 × 13 インチ(A4判程度)まで複数取り揃えていた。カタログを見ると、インクやカードなどの消耗品のほか、活字ケース・活字・記号や模様・様々なフォント・カットに使う凸版・題字の金属版なども掲載されており、追加で揃えることが可能であった。因みに 3 × 5 インチ機は27.36ドル、9 × 13 インチ機は198.75ドルであるが、これは1946年当時の価格であるKelsey Printers' Supply Book ,1946 Public Domain。

ケルシーは、単なる印刷機の設計者・製造者にとどまらず、広告とマーケティングの達人だった。キャッチーなスローガンや巧妙なプロモーションの才に長けていた彼は、『The Youth’s Companion』といった少年向け雑誌の巻末広告を通じて、夢を抱く少年たちを購買の対象にすることで、「エクセルシオール」を著名な商標へと育て上げた。 広告には彼が描いた印刷機のイラストが掲載されている。惹句には「BOYS!(少年たちよ!)」、そして「Print cards with this press and Make Money(名刺やカードを印刷してお金を稼ごう)」と書かれている。広告画像のものは印刷機単体が12.95ドル、活字・活字ケース・インクなど備品一式がセットになったものが15.95ドルであるKelsey Printers' Supply Book ,1946 Public Domain。

これはどのくらい高価なものであったのか?

消費者物価指数(CPI)基準で換算すると、1870年の1ドルは、現在の約25〜26米ドルに相当するから、本体は約330〜340ドル(現在の日本円で約5万円前後)、総合セットは約400〜410ドル(現在の日本円で約6万〜6万5000円前後)となる。

なお、消費者物価指数よりも実感が高いといわれる、当時の「労働価値・所得基準」で換算すると、1870年代のアメリカでは、未熟練労働者の日給が約1.25〜1.50ドル、熟練職人(大工など)でも日給2.50〜3.00ドル程度だった。

また、平均的な年間所得は350〜400ドル程度である。つまり13〜16ドルは「労働者の半月分〜一ヶ月分近い手取り給与」に匹敵するので、現代日本の感覚(月収25万〜30万円程度)に引き直すと、15万〜20万円相当の高価な趣味・実用機器という感覚になる。

現代に於いて、ノートパソコンとプリンターを購入する程度には高価であったのだろう。 よって、初期投資としては子どもの小遣い(数セント〜数十セント)で気軽に買えるおもちゃではなく、「親にお金を出してもらうか、あるいは自分で印刷請負の小ビジネス(名刺・チラシ作成など)を始めて元を取るための本格的な投資教材・小型生産設備」という位置づけの価格設定と考えられるだろう。

ケルシ―の天才性は、機械を売るのではなく、「創造性と自立」というビジョンを売り込み、冒険と利益の約束で、志ある印刷業者たちを魅了した点にあったという。B.O.ウッズ、ジョセフ・ワトソン、J.クック・アンド・カンパニー、カーティス・アンド・ミッチェルといった競合の印刷機メーカーを買収することで、営業手腕を原動力とする印刷機の帝国を築き上げ、エクセルシオールを市場で最も長く愛され続けた印刷機として定着させた国際印刷博物館のYouTube動画より。

第3節 米のアマチュア出版と英のプライベート・プレス運動

(1)アマチュア出版(アマチュア・ジャーナリズム)

1870年代から1900年代初頭にかけてアメリカで爆発的に興隆した「アマチュア・ジャーナリズム運動」(自称 Amateurdom ないし 'dom=『ドム』)の参加者は12~20歳で中産階級の白人少年が中心だった。

アマチュア新聞を制作する動機は金銭的なものではなく、「自己啓発、楽しい気晴らし、そして独自の組織の発展」のためだった(ruman,1947) 。 通常は10代の若者によって発行されていたが、時には7歳の子供までもがアマチュア出版物に寄稿していたAmateur Newspapers。

アマチュア新聞には一般的に、社説、短編小説、詩、言葉遊び、ジョーク、地元のニュース、そして他のアマチュアジャーナリストに関する多くの論評などが掲載されていたAmateur Newspapers。

アマチュア・ジャーナリズムに於いて、米国で最初の少年のアマチュア新聞は、1805年から1806年にかけてニューヨーク市で14歳のジョン・ハワード・ペインが発行した『テスピアン・ミラー』であるというAmateur Newspapers。

また、別の説ではトマス・G・ ジュニアによる『ジュブナイル・ポートフォリオ・アンド・リテラリー・ミスカレニー』だとHarrisonはいう。アマチュアジャーナリストたちが「不朽のカンディ」と呼ぶこの14歳の少年は、肺結核に苦しんでいたが、1812年10月17日から5年間にわたり、定期的に新聞を発行し続けた(Harrison,1883)。

どちらにしても1890年代(明治23年以降)以降になってから日本では明治青少年の雑誌が発行されるため、かなりアメリカのほうが先行している。 日本は漢詩文が中心であったから、漢字を印刷することが必要である。英数字と記号のみで済む欧米とは、版面作りの点で非常にハンディが大きかったのである。 また、アメリカで近代的郵便制度が確立したのは1792年であるが、そのころの日本はまだ江戸時代中期(寛政の改革期)であるので「飛脚」が配達している時代でアマチュア出版物を移動させる時代ではない。

初期の新聞は、手書き、プロの印刷業者が印刷、あるいは自家製の印刷機による印刷という、3つの方法のいずれかで作成されていたと考えられるAmateur Newspapers。

アマチュア新聞の流行期にはKelsey 社などの卓上活版機("Novelty press")が発売されたので、これに依って自宅で発行する小新聞を印刷し、郵便で全国の同輩と交換をしていた。

1869年の9月18日に、ニューヨークの出版社チャールズ・スクリブナー氏の邸宅で、全国のアマチュア新聞の発行者会議が招集された。 J・B・スクリブナー氏が議長に、Wm・L・ターフーン氏が書記に選出され「アマチュア印刷業者協会(AMATEUR PRINTERS' ASSOCIATION)」として組織化され、アマチュアジャーナリストによる最初の組織が誕生した(Harrison,1883)。

(2)プライベート・プレス運動

同時期の英国では、ウィリアム・モリスらが「ケルムスコット・プレス」を設立し、機械化への反動として、手漉き紙や手作業による製本を重視する「プライベート・プレス運動」を展開した。これは情報の普及よりも、本そのものを芸術作品として捉えるアプローチであったA brief history of the Private Press Movement。

米英のプライベート・プレス運動と若者のアマチュア出版(アマチュア・ジャーナリズム)は、どちらも19世紀後半に隆盛を極め、「営利を目的としない個人による出版」という点では共通しているが、その目的、主体、技術的アプローチにおいて明確な違いがある。

1. 目的と理念:芸術性の追求か、コミュニティの形成か

プライベート・プレス運動: ウィリアム・モリスらに代表されるこの運動は、安価な機械製本への反発から生まれたThe Private Press Movement in Britain and America。

本を単なる情報伝達の媒体ではなく「芸術作品」と見なし、中世の伝統的な手仕事(手漉き紙、独自の活字、手作業による製本)を復興させることで「美しい本(Book Beautiful)」を作ることを目的としていたA brief history of the Private Press Movement。

若者のアマチュア出版: こちらは10代の少年たちによる**「最初のティーンエイジャー・サブカルチャー」として発展したA product of the "amateur press"。

やはりこれは日本の青少年が行った文芸結社や趣味の団体作りと、その機関雑誌の発行と相似な文化であると筆者は考える。

主な目的は、創作を通じた「自己研鑽」や「仲間との交流」にあるAmateur Newspapers。

出版物そのものの美しさや、発行の趣旨・意見の表明よりも、交換や文通によって形成される「擬似的な共同世界(アマチュア・ドム)」に参加すること自体の方が重要視されていたというThe Emancipation of Boyhood。

2. 主体となる層の違い:芸術家・名士か、10代の少年か

プライベート・プレス運動: 主に英国の芸術家、熟練の職人、あるいは裕福な有閑階級(カントリー・ハウスに住む紳士など)によって担われていたThe Private Press Movement in Britain and America。

彼らは多大な時間と費用をかけて一冊の本を仕上げる余裕があるのだったThe Private Press Movement in Britain and America。

若者のアマチュア出版: 主役は11歳から21歳までの「少年編集者・記者」であるThe Emancipation of Boyhood 。

彼らは中産階級の家庭の子供たちで、自分の寝室や食堂の片隅に小さな印刷機を置いて、出版活動をしていたのであるThe Emancipation of Boyhood。

3. 技術と品質:最高級の素材か、手頃なホビー機か

プライベート・プレス運動: 最高品質の素材(手漉き紙、伝統的なインク、特注の活字)を使用し、採算を度外視して発行物は制作されたThe Private Press Movement in Britain and America。

例えば、モリスのケルムスコット・プレスでは、巨大で重厚な手動印刷機が使われていたというA brief history of the Private Press Movement。

若者のアマチュア出版: ベンジャミン・O・ウッズが発明した「ノベルティ・プレス」のような、安価で小型の「ホビー印刷機」の普及が活動を支えていたA product of the "amateur press"。

紙質も、保存性よりも手軽さが優先されることが多く、製造された雑誌は多くは短命なエフェメラ(=目的は一時的だったが後世に残った印刷物の事)となったA product of the "amateur press"。

4. 成果物の形態:豪華な本か、ミニ新聞か

プライベート・プレス運動: 古典の復刻や自作の詩集など、豪華な装丁や製本が施された「本」が主な成果物だったA brief history of the Private Press Movement。

若者のアマチュア出版: 簡単に印刷できる「アマチュア新聞」や「マガジンレット(小さな雑誌)」と呼ばれる、数ページの薄い冊子や新聞形式が一般的だったA product of the "amateur press"。

内容は社説、短編小説、詩、パズルに加え、他のアマチュア仲間への批評が誌面の多くを占めていた。

5. まとめ:

プライベート・プレス運動は「産業革命への抵抗としての芸術運動」であり、若者のアマチュア出版は「安価な技術によって可能になった初期のソーシャル・メディア的ネットワーク」であったと言えるThe Private Press Movement in Britain and America。

第4節 複写技術の三種の神器:hectograph / mimeograph / spirit duplicator

19世紀末から20世紀初頭にかけ、家庭・小規模組織でも扱える複写技術が相次いで実用化された。これらは後のアマチュア出版の物質的基盤となる。

(1)Hectograph(ヘクトグラフ・ゼラチン版/ゲル版)

アニリン染料で書いた原稿をゼラチン板に転写し、そこから数十部を刷る最も安価な方法(日本でいう「蒟蒻版」)。Marion Zimmer Bradley のファンジン Astra's Tower のような実例が残る UMBC Special Collections

(2)Mimeograph(ミメオグラフ・謄写版・ガリ版)

トーマス・エジソンの特許(1876年頃)を A. B. Dick 社が製品化。タイプライターや鉄筆で孔版(stencil)の刷版を整版して、インクを充填したドラムに巻いて印刷する。数百部規模の複写が可能となり、オフィス・学校・教会に普及した。

(3)スピリット複写(Spirit Duplicator(Ditto machine))

Wilhelm Ritzerfeld が1923年に発明。カーボン紙状のマスターから特徴的な紫色のコピーを40〜50部程度刷る方式で、「ditto」は機器のブランド名が普通名詞化したもの。安価だが耐刷部数が少なく、極小部数のファンジンに愛用された Northeast News / University of Iowa Libraries

整版(=同時に刷版ができる)方法だが、原紙(マスター)は三枚で構成されている。一枚目はマスター。二枚目はアニリン染料(着色ワックス)を含んだ専用のシート(カーボン紙のようなもの)。それが保存時にくっつかないためのセパレートシートだ。

例えば二枚を重ねてタイプライターで文字を打てば、圧力でインクが一枚目の裏の転写される。見出しは型を抜いたテンプレート定規があるので《英数字は36個で済む》、定規を使用して上からなぞればよい。

マスターに文字や絵を書いたら、それを印刷機(ハンドルが付いている)の金属ドラムに巻きつける。印刷機にはタンクがありそこに専用のスピリッツ液を入れて置く。

印刷される紙は機械に入ると、スピリッツで湿らせられる(タンクにはフタがあり、フタを下にしてセットしておく。フタには日本の「手水鉢」方式の栓があるので,止水栓が上がった時だけフタが開放されてスピリッツが出る仕組みである)。その湿った紙に文字にインクが付いたマスター原紙のドラムをローラーで巻いて押し当てることで、インクが転写されて出てくる。100〜数百部を印刷する最も安価な簡易印刷法である。

「スピリッツ」の名前の由来は、「インク」として使用される溶剤の主成分であったアルコールを指している。イリノイ州のデットー社が製品を作ったが、英国ではブロック&アンダーソン社が「バンダ」ブランドで製造した。

1970年代以降に大量の複写・印刷が可能なゼロックスが登場し、この印刷法は衰微した(刺青技術者や電気がない場所等で生き残ったが)。

海外では学校の印刷物(連絡・テスト)に使用されたので、藍色のインキとアルコールの匂いに思い出を持つ人が多いというが、日本では何故か「謄写版」のみ普及して「スプリット・デュプリケーター」は一般化しなかったのである(オフィス機器として販売はされていた。未見なだけで家庭用もあった可能性はある)。


第3章 1930年代:SFファンジン文化と謄写版

第1節 mimeo文化の定着

1930年代のSFファンジンの多くは mimeograph("mimeo")で印刷され、部数は数十部から数百部、ほとんどが販売ではなく交換・配布であった Vice。Hellekson (2023) が指摘するように、「最初の本格的ファンジンが登場した1930年時点で、ファンジン複写の様式(hectograph・ditto・mimeo)はほぼ出揃っていた」 Univ. of Akron。1935年の Fantasy Magazine(D. R. Welch / William Crawford 系)のような例を含め、1930年代のファンジン実物コレクションが現在もアーカイブされている First Fandom Experience

第2節 謄写版印刷のZine

1940年代にファンジンを作るやり方としては、自分の愛読している作品に対して、オリジナルのファンコンテンツを手書きで執筆し、謄写版印刷機を購入して、郵便やクラブ、あるいはコンベンションを通じて配布する計画を立てるほど情熱が必要だった。

次に、タイプライターを使用して、ワックスでコーティングされた原紙(繊維質の用紙)にステンシルの要領で文字を打ち込む(タイプのキーはステンシルのコーティングを切断し、繊維のベースを露出させるため、インクが透過するのを可能にする)。

イラストを入れる場合はスタイラス(鉄筆)を使ってフリーハンドでステンシルの技法で原紙に絵を刻む必要もあった。ミスをした場合は、専用修正液で上から打ち直す。印刷することでZineのページが完成する。


第4章 1960年代:ゼログラフィの登場とアンダーグラウンド・コミックス

第1節 Xerox 914(1959年)の衝撃

1944年に初の複写機ゼロックス機が作られたが、実用的なものとしては、1959年、Haloid/Xerox 社が普通紙自動コピー機 Xerox 914 を発売した。月産10万枚の能力を持つこの機械は複写・簡易印刷の文化を一変させたが、価格が数千ドルと高額だったため、個人は職場や大学に設置されたコピー機に依存した——これが「会社のコピー機でこっそり刷る」というDIY出版の倫理的な曖昧さと美学を生んだという Smithsonian / UMBC Special Collections

第2節 小ロット・オフセットと underground comix

1960年代後半、オフセット印刷技術の小口化により、小規模出版社や個人の漫画家でも少部数で採算の取れるコミック出版が可能になった。これを技術的背景として1968年頃から underground comix が勃興する(Robert Crumb の Zap Comix 第1号、1968年) The Comics Journal

注目すべきは、この運動が自前の印刷インフラを伴っていた点である。

(1)The Print Mint

サンフランシスコのポスター印刷所兼出版社。Jay Lynch の Bijou Funnies を出版するなど、初期 comix の印刷・出版を担った。しかし収益配分と制作主導権を巡る対立から、Denis Kitchen らが離脱して自主出版に転じた。

(2)Rip Off Press

1969年1月、Gilbert Shelton、Jack Jackson、Dave Moriarty、Fred Todd の4人が資金を出し合い、中古の Davidson 印刷機を購入して Don Donahue のロフトに据え、Print Mint に対抗する出版・印刷拠点とした。創刊出版物は The New Adventures of Jesus。作家自らが印刷機を所有するという形態は、日本の同人作家が専門印刷所に外注するモデルとの興味深い対照をなす The Comics Journal

第3節 流通の脆弱性と衰退

Comix の主流通路は head shop(ドラッグ関連グッズ店)であったが、1973年の連邦最高裁 Miller v. California 判決(わいせつ基準の地域化)により店側が取扱いを恐れて撤退し、流通を失った comix は1970年代半ばに衰退した。印刷技術が可能にした出版革命が、流通という別のボトルネックに左右された好例である The Comics Journal


第5章 1970〜80年代:パンク・Zine とコピーショップ文化

第1節 Kinko's とコピーショップの民主化

1970年、Paul Orfalea がカリフォルニア大学サンタバーバラ校近くの Isla Vista に小さなコピー店 Kinko's を開店した(開業資金5,000ドル)。1985年には24時間営業店を開始し、誰でも低価格でコピー機を利用できる環境が整った。「copy shop が公衆に安価な複写手段を開放した」ことが、その後のZine量産の条件となった Company-Histories.com / Punktuation

第2節 パンク・ファンジンの爆発

安価なDIY性は punk rock の精神と直結し、1980年代までに Zine 文化はパンクと強く結びついた University of Maryland LibGuides

(1)Sniffin' Glue(1976年、英国)

Mark Perry が1976年7月に創刊した英国パンクの代名詞的ファンジン。マジックペン、タイプライター、ガム(糊)による切り貼りレイアウトで制作され、約1年間に12号が刊行された NOAH / Wikipedia

(2)Maximumrocknroll(1982年、米・サンフランシスコ)

1977年のKPFAラジオ番組を前身とし、Tim Yohannan らが1982年に紙版を創刊。ハードコア・パンクの国際的機関誌となり、2019年まで紙版が続いた SFGate

(3)Flipside(1977年〜、米・カリフォルニア)

コピー機刷りのファンジンから出発し、後にウェブオフセット印刷・光沢表紙の雑誌へと発展した——Zine の「商業化の境界線」を示す代表例である Wikipedia: Flipside)

第3節 Factsheet Five とZineの「メタ・インフラ」

1982年、Mike Gunderloy が自室の spirit duplicator で50部刷ったレビュー誌 Factsheet Five を創刊した。全国のZine・セルフパブリッシュ物を批評・紹介するこの誌は1991年までに44号を刊行し(後に R. Seth Friedman が1998年まで継承)、孤立したZine制作者同士を結ぶ相互交換コミュニティの基盤となった。ガリ版・ditto(スピリッツ複写機) の時代の技術が、コピー機全盛期にも極小部数メディアの手段として併存していた点は興味深い Wikipedia: Factsheet Five 及び Half Letter Press


第6章 1990年代〜2000年代:Riot Grrrl、DTP、そしてデジタル印刷

第1節 Riot Grrrl とフェミニストZine

1980年代末〜90年代初頭、Bikini Kill や Bratmobile ら女性主導バンドを核とする Riot Grrrl 運動が起こり、Queenie、Heck、Yummi Hussi、Mad Planet など多数のZineが運動の主要メディアとなった。コピー機+切り貼りの美学はそのままに、テーマはフェミニズム・身体・性暴力被害の告白などへと拡張された JSTOR Daily / Duke University LibGuides

第2節 デスクトップ・パブリッシング(DTP)

1980年代後半の Macintosh と PageMaker による DTP の普及は、製版・組版を家庭に持ち込み、Zine の「プロっぽさ」の基準を引き上げた。コピー機切り貼り美学(cut-and-paste)との意識的対比も生まれた。

第3節 デジタル印刷とPODの到来(Ka-Blam の意義)

2000年代に入るとデジタル印刷機の品質向上により、製版なし・1部からのオフセット同等品質印刷が実現した。第1章で見た Ka-Blam(2005年設立)が「フルカラーの small press comic は事実上存在しなかった」状況を打破したことは、印刷所がコミュニティの要請から生まれ、コミュニティの経済構造(在庫リスクの解消)を変えた事例として、日本の同人誌印刷所の発生と平行的な意義を持つだろう Ka-Blam公式


第4節 作り方のTips

本節は直接、印刷とは関係がない項目もあるが「HOW TO MAKE A ZINE」(https://www.zinebook.com/resource/zinetips.html#technical)をみると、米国のZine発行者が置かれた状況や注意すべき点が、日本とはかなり異なるので、ここに紹介したい。

(1)版面

・文字を小さくし過ぎると読みにくくなる。テキストを白い背景に配置する

・一般的にセリフ体(明朝)の方が読みやすいとされている

・強調するためには、文字サイズやフォントを変化させる

・段落やページの上部または下部に単独で残る1行のテキストは避ける

・本文全体をすべて大文字で書かない。非常に読みにくくなる

・ページ全体に広がるテキストよりも、段組みのテキストの方が読みやすい

・まず最初に目に入るのは人物の顔。顔の中でも最初に目が行くのは目

・顔はページの外ではなく、ページの中央を向いているべき。車、馬、犬なども同様。動いている場合は前方に余白を確保する

・視線は線に沿って移動するから、線がどこに向かっていることを確認する。フレームに対して斜めに走る線は刺激的。曲線は動き、下向きに曲がる線は悲しみを、上向きに曲がる線は喜びを表す

・コピー機で複写する場合は、網掛けのない広い黒の領域(ベタ)を避ける。中心部に向かって白く写ってしまうことがある

・印刷する場合は、線が非常に細いイラストは避ける

・印刷用のカラーイラストは白黒に変換する。青色は消えてしまうことがよくあり、赤色は黒く変色する場合がある

・バナーは上部に配置するか、左側に寄せる

・可能であれば、常にテキストと画像を組み合わせて使用する

(2)印刷

・印刷会社は、余分な枚数を印刷するが余分な部数に対しては最大10%の追加料金を請求する会社もある

・500部を超える印刷の場合、コピー機で複写するよりも印刷した方が安くなる

・複数社から印刷の見積りを取ること。設備の種類によって大きく異なる。大型印刷機によるタブロイド判の印刷は、枚葉印刷による普通紙の印刷に比べて約半分の価格で短時間。

・新聞用紙は最も安価な紙。この紙には、厚さや白さの違いがいくつかある。印刷部数が増えるほど、1,000部あたりの単価は安くなる

・少部数の場合は、カラーコピーではなく、手彩色や色紙の使用を検討する

(3) 郵送

・封入費用と手間を削減できるよう、裏表紙を郵送用封筒に活用することを検討する

・受刑者やその他のグループへの配布が無料であるかどうかを明記する

・重量と郵送料に応じてZineのサイズを計画すること。12ページのハーフサイズZineの郵送費は0.32、24ページは0.55、36ページは0.78です。これらのサイズが郵送料を最も有効に活用できる何も考慮せず100ページものZineを作成しない

・米では大量発送(Bulk Mail)を利用すると、郵便料金の約3分の1を割引できる(一括料金で送るには、郵便物を仕分け・束ねておく必要がある、1回の郵送につき200通以上であること)

(4)販売

・お金そのものではなく、送料を請求するようにする

・海外からの現金や小切手は、送金処理が容易ではないことに注意、この方法で支払いを受け入れる前に、銀行手数料を確認しておく。海外の読者にはIRC(国際返信切手)の送付を依頼する

・新聞販売スタンドでの視認性を高めるため、フルサイズの縦長フォーマットを活用する。不定期に発行する場合は、表紙に日付を記載しない。たとえ最新号であっても、日付が古いとZineは棚から外される

・返品については、表紙のみを受け入れる準備をしておく

・請求書を送らないと支払いはない

・他のZineで見かけたすべてのディストリビューターをリストアップする。すでにZineの発行を受け入れているので設置可能。通常、個人からの仕入れはしないため大手チェーン店は避ける

・米国議会図書館から正式なISSNを取得すると、図書館が積極的に購入してくれるようになる

(5)発行にあたっての注意

・ZINEが発行されない場合は、投稿作品を返送するか、説明のハガキを送ること。寄稿者は、ZINEと引き換えに作品を送っている

・すべての寄稿者の氏名と住所を掲載すること

・特に表紙には、手彩色、ステッカー、ゴム印、番号や日付、署名、あるいは個人的なメッセージなど、手作りの温かみを感じさせる工夫を取り入れてみる

・作品に著作権を主張しない、「自由に複製可」、「アンチ著作権」といった表記を使用する*2。迷う場合は、「出版後、著作権は寄稿者に帰属する」と明記する*3。複製を許可することで、文章やアートは他のZineに取り上げられ、流通範囲が広がる。また、「この素材が掲載された出版物のコピーを送ってください」*4や「出典を明記してください」*5という文言も記載する

・著作権で保護された素材は使用しない

・定期発行の計画を立て守ること。最初は不定期発行や、「単発号」も良いアイデア。様々な形式や出版スタイルを試す

・誌面で他人を攻撃しない。書評の内容や口調には注意を払うこと。決して人間関係を壊さないようにしましょう

・性別、人種、国籍、その他の境界線に対して配慮を示す。地球の反対側で誰が封筒を開けているか、あなたにはわからない

・読者の反応を引き出したい場合は、文章やイラストを募集したり、書評、アンケート、コンテストを実施したり、広告交換を行うことを検討する。読者にあなたへ手紙を書くきっかけとなる

・購読料の収入を前提とした計画を立ててはいけない

・女性の場合、性差別やハラスメントを防止するため可能であれば、性別が判別できないハンドルネームを選ぶ。特にメールにおいて重要。私書箱の利用も検討する

・ZINEに電話番号を掲載すると、あなたの番号に課金しようとしたり、嫌がらせをしようとする者によって悪用される可能性がある。代わりにボイスメールや電子メールの利用を検討する

・他者は、あなたの意図とは大きく異なる方法であなたの記事を解釈する可能性がある。様々な人のリストを公開することは素晴らしいアイデアだが、悪意のある者の手に渡れば嫌がらせにつながる恐れがある。皮肉を込めた記事も誤解される可能性があるので注意する。

・受刑者の中にもネットワーク活動者は存在している。彼らは何らかの理由で服役しているから、情報を公開する際はその量や種類に注意を払うことをお勧めする

(6)ZINEと遵法

・他国に送る際、郵便物はほぼ確実に検査されることを念頭におく。郵便に関する規制について事前に確認しておく

・掲載内容に疑わしい場合があるときは、21歳以上であることを確認する声明を投稿者から求める。さらに安全を期すために、写真付き身分証明書の提示を求める

・掲載物には、「本コンテンツは編集部の見解を表すものではなく、教育または娯楽目的でのみ提供されています」といった、免責事項を予め記載しておく*6

・在住州で定められている「コミュニティ基準」*7を理解し尊重する。郵便検査官(Postal Inspector)は権限の強い役人であり、疑わしい郵便物はすべて独自の権限で隔離・検査・開封する

・性的な内容は郵送物の表紙に載せないか封筒に入れて送る。封筒を使用しない場合は、端をホチキスで留める。さらに安全を期すために、不必要に検査されないアメリカ郵便公社の「ファーストクラス」で送る。安い郵送料の種類だと開封される可能性がある*8

・法律違反の疑いをかけられた場合、あなたのZineや文章が違法行為の証拠となる可能性がある

・違法行為の手順や助言は与えないこと。情報は、教育目的、場合によっては娯楽目的でのみ提示してください

・CIAやその他の機関は、特定の出版物を精査し、追跡ている可能性が高い。ネットワーク参加者の氏名や住所、およびその活動を公開する際は、この点に留意する

・おとり捜査に注意。もし誰かから「小児性愛」関連の資料のカタログが送られてきた場合、それはおとり捜査である可能性が非常に高い。好奇心から疑わしい資料を注文してはいけない。そのような資料を所持したり、郵便で受け取ったりすることは違法である

本節は全て『Zinebook』のHOW TO MAKE A ZINEを参照した。

『Zinebook』というサイト(https://www.zinebook.com/resource/zinetips.html#technical )に掲載されたテキストであるが、元資料の出典について「かつてアシュリー・パーカー・オーエンズ(Ashley Parker Owens)が運営していた『Global Mail』に掲載されたもの(1995年執筆)」と記されており、号数はGlobal Mail (Sept.-Dec. '95)と表記されている。 孫引きになるため、原典を確認した。インターネット上で『Global Mail』12(1995年9月–12月)を確認したところ、Zineに関する断片的な情報は散見されるものの、『Zinebook』に転載されている「Layout」「WARNINGS」「Text」といった項目の記載は見当たらなかった。しかしながら、同サイトには「Anti-copyright 1995.」との表記があることから、本稿では同サイトの記述に従い、原出典として、

Ashley Parker Owensおよび『Global Mail』1995年

と明記する。 なお、この第4節はアメリカにおけるアマチュア出版の留意点(免責事項)などを伝える資料として日本と異なる点が興味深く、引用の範囲を超えて翻案(翻訳紹介)している。 著作権法上の主従関係を欠くため、将来的に単行本化する際には削除する予定である。


第7章 2010年代〜現在:Risograph リバイバルとZineフェア文化

第1節 リソグラフ の技術史(日本からの輸出)

Risograph は理想科学工業(Riso Kagaku)の製品である。同社は1958年にロータリー謄写版機「RISO-GRAPH」を完成させ、1980年に初のプリンター・デュプリケータ AP7200(デジタル孔版印刷機)を市場投入した。スクリーン印刷とコピー機の中間のような特性を持つ RISO公式 / Goldtop。

第2節 欧米におけるRisoリバイバル

本来はオフィス向け高速複写機だったこの機械を、アーティストが表現メディアとして再発見したのが2000年代末〜2010年代の動きである。2009年にロンドンの Ditto Press が英国初のRiso専門会社として創業したのが象徴的で、続いて Issue Press(2011年〜)、Secret Riso Club、Footprint Workers Co-op など、スタジオ兼コミュニティ拠点が米英各地に開かれた(第1章第3節の表参照)。「stencil.wiki」に世界的なRisoスタジオ目録が整備されるほどのネットワークを形成している stencil.wiki

第3節 Zineフェア/アートブックフェアとの共生

LA Zine Fest、NY Art Book Fair(Printed Matter 主催)、各地の comicon を始めとする即売・交換イベントが常設化し、RisoスタジオやPOD業者はそこへ出品する制作者の「締切に合わせた印刷」に応需している。

つまりイベント応需という構造は日本のコミケと同型であり、違いは印刷所がイベント運営と直接提携するか(日本型)、汎用ウェブ発注で吸収するか(欧米型)にあると整理できる。


第8章 総括:欧米アマチュア出版印刷史の系譜

時代 主要技術 代表的運動・媒体 印刷インフラ
1870s–1920s 小型活版・hectograph amateur journalism(NAPA/UAPA) 個人所有の卓上活版機
1930s–50s mimeograph / spirit duplicator SF fanzines(The Comet、The Planet、FAPA) 中古謄写版機の個人所有
1960s 小ロット offset・Xerox 914 underground comix、CAPA-alpha Print Mint、Rip Off Press(自前印刷機)
1970s–80s photocopier・copy shop punk zines(Sniffin' Glue、Maximumrocknroll) Kinko's 等のコピーショップ
1990s DTP・コピー機 Riot Grrrl zines、Factsheet Five 系ネットワーク copy shop+家庭PC
2000s デジタル印刷・POD indie comics Ka-Blam、Comix Wellspring、Lulu
2010s–現在 Risograph・デジタル併用 zine fair 文化、アートブック Ditto Press、Issue Press、各種Risoスタジオ

欧米の特徴は、「印刷所」よりも先に「技術の民主化」(複写機・コピーショップ・家庭PC)が文化を駆動してきた点、そして専門印刷サービスは比較的後発(2000年代以降)で、コミュニティ需要から自生的に立ち上がった点にある。日本の同人誌印刷所が「イベント即売会経済」に最適化された専業サービスとして早期に発達したのとは対照的な経路であるが、21世紀に入り両者は機能的に収斂しつつある——というのが本調査の結論である。


参考文献・参照URL

*1:ちなみに2026/8/4現在で、A4判100部80頁・本文4Cカラー・紙は80ポンド・無線綴じ・表紙カバーは4C印刷のコート80ポンドとした場合、481.5ドルの見積(一ドル150円で約7万2千円)と積算されたが比較的廉価である(印刷機は4C機の「HP Indigo 7600」でなのでフルカラーです)。 対して日本の激安通販印刷のグラフィックは、本文上質紙70k、表紙はコート110k、総てフルカラー、A4判80ページ100部で49,440円であるが、これはかなりの激安である

*2:アメリカのZine文化では「コピーライト(著作権)」による縛りを、大企業や資本主義のシステムだと捉え、それに反発して「コピーレフト(Copyleft)」や「アンチ著作権(Anti-copyright)」を掲げた。情報やアートはみんなで共有し、自由に拡散されるという思想が根底にある。

*3:Zineでは「作った個人の権利」を最優先「出版後、著作権は寄稿者に帰属する」にすれば、寄稿したライターやイラストレーターは、後から自分の作品を別の場所で自由に再利用できる

*4:Zineの作者たちは、お金の代わりに「Zineの物々交換(Zine Trade)」で繋がる関係性を持っている。「自由にコピーしていいよ」と言う代わりに、「それを使った君の作品も見せてね」と呼びかけることで、遠く離れた別のZine作者と友達になり、コミュニティを広げていくための定番の挨拶文。

*5:「コピーして使うのは大歓迎だけど、誰が作ったものか(作者名や、このZineのタイトル)はちゃんと書いて紹介してね」というルール。作った人への敬意(リスペクト)として、「〇〇というZineから引用しました」とクレジットを載せることだけはマナーとして求めている

*6:免責事項(Disclaimer)を記載すべき理由は、アメリカの非常に厳しい「名誉毀損(Libel)」や「著作権侵害」の訴訟リスクから、発行者や編集部を法律的に守るためである。 アメリカは個人間の訴訟が非常に多い社会であり、ZineのようなDIY精神に基づく自由なメディアであっても、法的な責任を問われるリスクが常にある。 免責事項を書く主な理由は以下の3点に集約される。 1. 「事実の記述」ではなく「個人の意見」だと明確にするため(名誉毀損対策) アメリカの名誉毀損法(Libel Law)において、「虚偽の事実」を掲載して他人の名誉や利益を傷つけると、高額な賠償金を請求される判決に繋がる。しかし、「個人の意見(Opinion)」であれば、憲法修正第1条(表現の自由)によって強く保護される。「編集部の見解ではない」と書く理由は、掲載された過激な表現や批判が、あくまで執筆者個人の主観的な「意見」であることを強調し、事実の報道ではないと示すためである。「娯楽目的(Entertainment purposes)」と書く理由は、記事を真に受けて被害を被ったと主張されるのを防ぐため(例:「この記事を読んで試したら怪我をした」「騙された」というクレームを「これはただの娯楽(パロディ・ユーモア)です」として退ける盾になる)。 2. 発行者・編集部への飛び火(連帯責任)を防ぐため アメリカの法律では、「ライターが書いた偽りの内容であっても、それを掲載したメディア(発行者・編集部)は同等の法的責任を負う」という原則がある(Republisher Rule)。 Zineの編集部が「これは執筆者個人の見解です」と予め宣言しておくことで、万が一記事が裁判沙汰になった際に、「編集部全体への訴訟や、Zine全体の活動停止」へと飛び火するリスクを軽減しようとする防衛策となる。 3. 他の著作物を引用する際の「フェアユース」を主張するため Zineの文化では、既存の雑誌の切り抜き、写真、歌詞などを無断でコラージュしたり引用したりすることがある。アメリカの著作権法には、一定の条件を満たせば無断引用を認める「フェアユース(Fair Use)」という制度がある。このフェアユースが認められる重要な基準の一つが、「商業目的ではなく、教育(Educational)や、非営利の批評・パロディ目的であること」だ。免責事項に「教育目的(Educational purposes)」と明記しておくことは、万が一著作権者からクレーム(警告状)が来た際に、「これはフェアユースの範囲内である」と主張するための法的な伏線になる。 日本の感覚からすると「Zineなんだからお堅い表現はいらないのでは?」と感じるが、訴訟社会のアメリカでは、個人が身を守りながら自由な表現を続けるための「必須の知恵」となる。

*7:アメリカの法律、特に各州の「わいせつ物規制法」などで定義されている「コミュニティ基準(Contemporary Community Standards)」とは、「ある表現物が法的・社会的に許容されるかどうかを判断するための、その地域社会(州や街)の平均的な人々の現代における良識・倫理観」のこと。アメリカの憲法や裁判において、表現の自由の限界を決めるための極めて重要な法的概念である。「全米一律」の基準ではないのは、アメリカは広大であり、リベラルな大都市(ニューヨークなど)と、宗教的・保守的な田舎の町(南部や中西部の地方都市など)では、「何が不適切(わいせつ)か」の感覚が全く異なる。1973年の米国連邦最高裁判所の判決(ミラー対カリフォルニア州事件)で違法(わいせつ)かどうかを裁判で決める際は、「全米一律の基準」ではなく、裁判が行われている「地元のコミュニティ基準」を適用しなければならないと定められた。 あるZineや本、アート作品が「表現の自由(憲法修正第1条)」で保護されるか、あるいは「違法な不適切物」として処罰されるかは、地元の市民から選ばれた陪審員(Jury)が以下の問いにノーを突きつけるかどうかで決まる。 「その地域の平均的な人が、現代のコミュニティ基準に照らし合わせて見たとき、この作品はあまりにも露骨で、単に性的な興味を刺激する(または著しく不快な)だけのものか?」 「地元の人たちの平均的なモラル(=コミュニティ基準)に反している」と陪審員が判断すれば、その州では違法になる。 個人のZineであっても、全米(あるいはネットを通じて世界)に流通させる場合、どこか遠くの厳しいコミュニティ基準に引っかかってトラブルになるリスクが常にある。 そこで、免責事項(Disclaimer)で「この本は教育または娯楽目的でのみ提供されています」という表記があれば、コミュニティ基準で「わいせつ・有害」とみなされても、作品に「真面目な文学的、芸術的、政治的、または科学的な価値(SLAPS価値)」があれば、憲法で保護されるという例外ルールがある。免責事項を宣言しておくで地域の厳しいモラルによる一方的な検閲から身を守るための重要な防御壁になる。

*8:下位の広告郵便(Marketing Mail)などが後回しにされるのに対し、ファーストクラスは優先的に処理されるので到着日数が早い。そしてみだりに開封されない強力な法的プライバシー保護が受けられる。また、受取人が引っ越していた場合、追加料金なしで新しい住所へ無料転送(12ヶ月間)する。更に住所不明などで届けられなかった場合は、無料で差出人に返送される。割引料金の下位のバルクメール等では、転送や返送を希望すると追加料金が発生するか、そのまま破棄されてしまう。

【番外】「未知の問いを作る」、「日本十進分類法」によるアイデア発想法とは

 

なぜこの日本十進分類法によるアイデア・発想法を公開するのか

もう年も年なので、あと二十年も生きるかどうか分からない。

ならば、自分の中だけにしまっておくよりも、もしも利用できる方がおられるなら、その方が本望である。

そこで今回は、私が長く使ってきたアイデアの出し方の一つ、その名も「日本十進分類法(NDC)発想法」を公開します。

 

その方法とは、図書館で本の分類に用いられている「日本十進分類法」(NDC)を、企画・アイデア・発想の際の道具として転用するものである。

 

日本十進分類法は、本来は知識を整理するための分類表である。

しかし見方を変えれば、これは「森羅万象をどう分け、どう俯瞰するか」という思想のかたまりでもある。

図書館では世の中で作られた膨大な書籍を数桁の数字(例えば日本のノンフィクションなら916)で分類して配架する(本の背表紙の下部に数字のラベルが貼ってある)。

その背後には、NDCという社会科学・自然科学など世の中の「知識」全体を見渡すための構造があるのだ。

アイデア出しの発想法として有名なものにはKJ法、ブレーンストーミング、マインドマップなどがある。

しかし多くの発想法は、最後のところで結局は自分の頭の中に頼ることになる。

ところが人間は、自分自身が蓄積してきた「既知の智識」という枠・制限の中でしか考えられないことが多い。

「他人が発想」して「あっ」と驚くことはあるが、自分自身から思いも寄らぬ視点というものは、なかなか出てこないのである。

そこを突破し、自分の発想で自身が驚くために、私は日本十進分類法を使ってきた。

「NDC発想法」とは何か?

この方法の要点は単純である。

読書が好きな程度に知的な方であれば、誰でも使うことができる。

考えたい対象(=論点・概念・主題などのキーワード、これを対象Xとする)に対して、日本十進分類法の各分類を機械的にぶつけていくだけである。

対象Xに対して、NDCの区分表をみて、1から順番でもいいし、適当な分野からでもいいので、哲学、歴史、法学、経済、医学、宗教、文学、建築、交通、情報、教育、労働、福祉といった各領域を、半ば強制的に対象Xに組み合わせて、考える。

この「半ば強制的」というところが肝である。

人間の発想は、普通は自分の専門や関心の近傍しか動かない。

だがNDC発想法を使うと、本来なら結びつけなかった領域が無理やり接続される。

その結果、自力ではなかなか出てこない「未知の問題設定」や「考えもしなかった主題」が生まれるのである。

これは、単なる連想ゲームではない。

整理のための分類表を、未知の項目への接続を発見する装置として使う方法である。

言い換えれば、対象Xを社会全体の構造へ再配置する技法である。

とくに、論文の「問い」を考えるときや、一つの主題について複数の論点を洗い出したいとき、書籍の全体構造(章・節・項目)を作るとき、あるいは新しい学問領域の見取り図を作りたいときに、非常に役に立つのである。

「NDC発想法」を『患者学』で試したら

以前、私は医療系雑誌を作っていた関係で、医療政策などを勉強していた。そのとき、

医師には「医学」の学問があり、看護師には「看護学」の学問があるのならば、患者に関する学問があってもよいのではないか? いやむしろ在るべきでは

と考えた。

そこで誰に頼まれたわけでもないのに、どこかの大学へ「患者学部」を設置することを提案する、ということを考えて企画書を勝手に作った。

しかも企画案だけでなく、患者学部で学ぶべき科目とその解説、つまりシラバスの見本まで作ったので、いっけんすると新しい学問の体系をゼロから案出したことになる。

(なお、この企画書をもとに各大学に電話営業をしたが、そもそも大学に学部を作る際に重要な視点が抜けていた、これは関係がないのでここでは記述しない。一番後ろに後述する)

しかし当然ながら、「患者学」という既成の学問体系は存在しない。

そこで私はNDC発想法を使ったわけである。

日本十進分類法の各項目に対して、「患者」という語を順番に与えていった。

たとえば「法律」と組み合わせれば、「患者と法律」という論点が立ち上がる。

そこから、「患者の権利擁護、自己決定権、インフォームド・コンセント、生命倫理、医師の職業倫理」といった問題群が見えてくる。

さらに「患者の権利と責務」の周辺には、患者の権利に関する国際宣言や、諸外国の制度、権利擁護関係(アドボカシー、エンパワメント、セルフエフェカシー)の概念や歴史などが連なっているため、医療関係で使用される人権意識や自己決定(服薬コンプライアンスからアドヒアランスへ)の考え方の学問を、「哲学史」的に取り込む必要があることも分かる。

 

またNDCの「9」にある「文芸」と患者を組み合わせると、結核療養所や入院先で文学サークルが作られ、同人誌が発行されてきた歴史が思い出される。

すると「患者と療養文芸」という切り口が立つ。

さらに、学問としては単に「療養所で同人誌を作った」とか「新聞の俳句欄に投稿した」などでは展開が開けない。

そこで、一ひねりすることが必要である。「病者・やまい・文学」の「三題噺」で、論文になりそうな主題を考えるのである。

「”病者の語り”とは何か―ナラティブ・アプローチの小児科での課題」

「日本文学における私小説と病いの関係性の深化-結核に於ける作家の表象」

「サナトリウムを舞台にした作品の系譜と変遷」

「完治しない病と折り合いをつけて生きる軌跡とそのあり方」

「隔絶された空間-病の社会性からみた『いのちの理論』への批判」

「クラインマンの「説明モデル」にケアマネジャーが介入することの是非」

(および各論点を諸外国と比較するなど)《以上は全く適当です》

様々な論点へ展開していくうちに、「病いの語り」をめぐっては、A・フランクの「病いの語りの三類型」、アーサー・クラインマンの説明モデル、グッドの議論なども参照可能であり、有用だと分かってくれば、それもシラバスへ採り入れる。

つまりNDC発想法は、「その対象に関する既存の学問がない」場合には非常に有効である。

ゼロから体系を立ち上げ、構成をする際の、骨組みの発見法として機能するのである。

今回添付したExcelファイルの「患者学」シラバス案も、そのような発想の産物である。

「NDC発想法」が開く視野と、その限界

この方法の効用は、学際的な視野を、思いつきではなく構造的に生み出せるところにある。たとえば「患者」という対象一つをとっても、患者+経済、患者+法学、患者+文学、患者+宗教、患者+建築、患者+交通、患者+情報、患者+労働、といった論点が一気に現れる。これは対象を全社会的に照射し直す方法であり、研究の入口として非常に強い。

別の例を挙げれば、私は以前、「おたく」が戦後に生まれた背景には、徴兵制度の消滅があるのではないか、と考えたことがある。普通、おたく論はメディア論、消費文化論、サブカル論、青年論の範囲で閉じがちである。ところがNDC発想法で「軍事」「国家」「徴兵」という語と接続してみると、戦前の日本では国家が男性の身体を統制していたこと、男らしさが制度化されていたこと、戦後にはその身体規律が崩れ、国家優先から個人優先へ移ったこと、そして個人趣味への没入が許容される社会が成立したこと、という連鎖が見えてくる。これは単なる思いつきではなく、制度史と趣味の文化をつなぐ視点である。

また、この方法は「専門家病」を避けるうえでも有効である。専門研究者ほど、既存研究の枠組みに閉じ込められやすい。だがNDC発想法は、分類上は隣接していない領域をあえて衝突させるので、既存学問の盲点を見つけやすい。

もちろん限界もある。NDCは近代図書館学に基づく分類である以上、インターネット文化、感情、サブカルチャーの細部、現代的な生活実感などを十分には整理しきれない。また、「分類にあるものだけを考える」という罠もある。分類されていない問題は、まるで存在しないかのように見えてしまう危険がある。

それでもなお、研究でも執筆でも最も難しいのは、しばしば「何を問うか」である。問いが立たなければ、調査も構成も始まらない。その意味でNDC発想法は、答えを出す技法というより、問いを作る技法としてきわめて有用である。整理の道具として知られている日本十進分類法を、発想のための装置として使う。私はこの方法に、まだ十分に活用されていない可能性があると考えている。

 

※大学に新規学部を設立する時に、重要なことは何か?

なぜ大学に、「新学問」として提案しようと考えたのか。

それは少子化を考えると、大学側も「学生の集客」のためにアイデアを受け容れてくれるのではないかと思ったからだ。

そして営業をしてわかったことは、重要なのはシラバスとか、教員・研究者の候補とかではなく、「その学部学科を卒業したあと、どうなる?」の提案が大事だったのである。

つまり「患者学部患者学科」を卒業した学生は、いったい何になり生活し、社会に役立つのか? を説明できるかということだ。

一つには「資格取得で就労ができる」という考え方がある。

そうした場合は、既存の資格(精神保健福祉士や介護士)は既に教育経路があるので、新しい資格の設立という大変なことも併せて考えないといけない。

「患者の権利を擁護し、社会での治療環境の向上を援助する職種」という主旨で「患者権利擁護士」などを考案し、この学部で学べばその資格が取得できるなどの特典が必要なのである。

そうでなければ、応募学生が集まらない。高校三年生が将来に対して明確なビジョンを未だ描けないとしても、単にその学科で学んでも就職時に役に立たない、潰しがきかないようでは受験者も生まれない。

その為にはまずは資格を国家資格にするために動かなければならないのだが、何より医療・福祉・介護の資格であれば、「資本主義」の原理によってその資格を持っていることで、資格者が就労し易いというシステムも必要となる(逆にいえば労働市場で資格者への需要が生じる必要がある)。

 

具体的に考えてみよう。

就労先を「病院」と仮定すれば、病院側が「患者権利擁護士」を「チーム医療」として雇用するメリットが必要だ。雇用しても特に何にも役立たないのでは採用しない。

そうなると、病院の収入の主力は「診療報酬」であるから、様々な「医療行為」に対して、「値付け」が必要となる。

つまり「健康保険」の「診療報酬点数表」に於いて、

「患者の権利と責務に関する『施設方針』を、患者権利擁護士の監修のもとで定め、恒常的に掲出し、同擁護士が1人以上常勤している場合は、月に1回のみ『権利擁護』算定料50点を算定する」

「2000点以上の手術を受けるの際に、常勤の患者権利擁護士が、医師の説明時に同席して患者に援助活動をした場合150点を算定できる」

などが、新規に収載されないと、病院が一生懸命に「患者の権利擁護」に取り組んでも、利益が生まれない訳である。

※「患者学体系」の例

 

 

 

 

おたく文化は突然発生したのではなく、戦前の趣味家・蒐集家文化の延長線上にある

第10項          趣味家が体現した観察・研究と創作・発信の両面性

近代における「趣味家」の多くは、同時に「蒐集家」でもあった。

彼らは単に蒐集を行うのみならず、木版画や和綴じ、孔版といった描画・製版・印刷に関する知識および技術を有していた。

そして彼らの関心は、浮世絵や江戸風俗に代表される「江戸趣味」、土器の採集を起点とする「考古学」的関心、さらには「土俗」の記録や土地の伝承の採集といった「郷土史」的な営為へと多岐にわたっていた。

また、郷土玩具や郷土史研究、寺社仏閣に対する関心も深く、具体的には、蒐印(御朱印蒐集)、絵馬や土鈴の蒐集、祭礼への参加、縁起物の蒐集、さらには故人の墓蹟探索などもが挙げられる。

さらに、彼らの興味関心は性科学やいわゆる「軟派物」(猥褻文書、春画、性神探訪、変態性欲に関する事例採集・記録や創作)にも及び(戦前〜昭和中期の通俗性科学では、同性愛・SM・フェティシズム等の性的嗜好は『変態性欲』『性的倒錯』として包括されることが多かった)、更には「変態性欲」的あるいはグロテスクな世界、すなわち「猟奇趣味」的な領域[*]にまで広がっていた。

こうした領域に対しても、単なる蒐集を超えて、調査・研究を行う姿勢を見せていたのである。

また、歌舞伎や川柳・俳諧といった文芸・芸能の方面にも造詣が深く、広範な関心と高い教養を有した文化的な多能者であったことが確認される。

加えて、こうした趣味家・蒐集家たちは、蒐集や研究を発表する機関雑誌の発行のみならず、自作の凝った年賀状、さらには千社札・蔵書票・土鈴・燐票・手拭などに至るまで、主に木版印刷によって自ら製作(自刻・自摺)し、交換する文化を形成していた。

このような創作活動は、単なる蒐集対象としての蒐集物を超え、自己表現の手段としても機能していたといえよう。

これらの創作的な寸葉品については、非専門家によって私製されたものであるがゆえに、蒐集の対象物として正当とみなすか否かについては古くから「賛否両論」があった。

しかしながら、趣味家とは単なる「集め屋」や「消費者」の段階にとどまらない。

ゼロから創作物を生み出す能力を備えた「創作者」としての側面をも有していた。

蒐集家として対象を観察・蒐集・研究し、寸葉品のみならず知識や感性を自己に蓄積する志向性(入力)に加え、それらを自らの表現として他者へ発信・提示する能力(出力)することをも併せ持つ存在であった。

こうした点から、趣味家は蒐集と創作の両面を兼ね備えた、極めて多芸多才な文化的主体として位置づけることができる。

第11項          戦前趣味家の行動性と人的交流

さらに、筆者が現代の「おたく」に擬している、戦前の趣味家たちは外向的で、対人的な人的交流にも積極的であった。

現代においておたくと称される人々には、閉じこもって書物や蒐集物に耽溺する内向的な印象が付きまとうが、「おたく」を戦前の趣味家に敷衍する際には、この点を勘案することが大切である。

当時の趣味家の実像は、蒐めている物の情報蒐集および、更なる蒐集活動の必要性から、むしろ積極的に戸外に出る志向性を有していたのである。

特に江戸期から戦前にかけては、現在のように交通・通信インフラが発達しておらず、蒐集や研究を進めるには自らの足で現地へ赴き、人との接触を通じて情報を獲得する必要があった。

情報に後れを取れば、望む蒐集品の獲得は困難となるため、室内に籠もるのみの消費的態度では満足し得なかったのである。

例えば、路上や公園で「燐票」や「商品」等の包装紙・商票を探索し、寺社へと足を運んで納札を貼る、あるいは名墓を訪ねて碑文の拓本を採取するなど、いわゆる「野外活動」を伴う趣味活動は、当時の趣味家にとって不可欠であった。

また、鉄道趣味においても、駅へ赴き列車を観察・記録する実地的行為がその中核を成しているだろう。

対人関係においても、彼らは情報蒐集を目的とした小集団や研究団体を形成し、蒐集家同士の茶話会や、寺社見学会等の行事を通じて交流を深めていた。

こうした場では、「機関雑誌」を通じて研究成果や最新情報の共有が行われ、極めて実践的な知的交友関係が築かれていた。

ただし当時の通信手段の制約から、交友活動は主に都市部に居住する者同士に限定される傾向はあったのは仕方がない。

学校・親戚・町内などの、生年を契機とする集団や、同じ関心・興味で集った団体では無い場合は、そこから逃避して自分の「私的空間」で趣味に耽溺するけれど、同好者による団体には親和性を感じる居場所があるということだ。

第12項          教養的趣味とマニア的趣味の併存

現代のおたくたちが「コミックマーケット」(コミケ)に参加し、自作の出版物を販売している姿は広く知られているが、戦前の趣味家においても、私家版雑誌の刊行や、百貨店における自らの蒐集品の展示会開催といった活動が見られた。

巨大なコンテンツとしての「漫画」は当時存在しなかったものの、仮に当時「コミケ」的な催事があったならば、趣味家たちは間違いなく、様々な「趣味」の媒体を分野別に区分けして同じように成立させ得たであろう。

では、戦前に趣味誌の「コミケ」的な催事を開催した場合、戦前の趣味の中でも、特にマニアックかつ深い趣味とはいかなるものであろうか。

例えば、赤の他人の墓を訪ねて礼を捧げ、業績を偲ぶ「掃苔」は、一般には理解の及びにくい実践であろう。

あるいは、年賀状や絵葉書、千社札、燐票といった紙片を木版で自作し、同好の士と交換する美術的な趣向の面白さは伝わり難く、面白さは共有されないかも知れない。

足袋や駅弁の「ラベル」や「掛け紙」を蒐めて分類し、美麗な意匠を持つ寸葉品をスクラップブックに貼付・整理する行為も、一般人からは「なぜ」と、奇異に映った可能性が高い。

一方で、趣味家たちはこうした極めて深化した趣味の愉しみに加え、映画や音楽鑑賞、読書、相撲観戦、囲碁将棋といった、いわゆる一般的な「教養的趣味」も並行して嗜んでいた。

また、知的好奇心の強さから、「マニアック」とされる領域には至らぬまでも、蓄音機による音楽の室内再生、ラジオや科学模型の製作、鉄道車両の研究や写真撮影(現代の分類でいうとことの「撮り鐵」)といった趣味も、当時から併せて楽しんでいたことが確認される。

趣味家は特定の関心空間に閉じこもるのではなく、極めて多様な興味・関心を持ち、広範な分野に柔軟な姿勢で接していた。

そうした多元的な趣味観のもと、教養的趣味への理解と、専門的な対象への深い探究心とを兼ね備えていたのである

(この「雑食性」は趣味家の「特徴」ともいえる。酒ラベルを集め乍ら切手・古銭も蒐める理由は、貴重な酒ラベルが登場した際への「交換要品」という、「政治的」な策略の使い道でもある。個人的には乗車券しか集めないとか、駅弁の掛け紙のみにまっしぐらという姿勢は好きではない。ゆえに切手蒐集家には親和性を感じにくい)。

第13項          蒐集家の価値観と、世間の無理解

趣味家や蒐集家の特質を一般人が理解することは、困難である。

こうした蒐集にかける情熱や、微細な差異への執着は、外部の視点からは奇異に映ることもある。

たとえば、市道和豊は、歴史研究の一環として趣味家および燐票家に関する調査結果の論考を私家版にて精力的に発表されている方である。

その業績の一つとして、戦前に満洲玩具を蒐集し、戦後には煙草関係の蒐集大家として名を馳せた煙趣家・須知善一に関する評伝、『満洲の曠野に非ず──戦後の須知善一』が挙げられる。

同書において市道は、蒐集家の典型的な行動として、

「印刷漏れや色合いの違い、通し番号などまで持ち出して『かんぞろ』範囲を広げ、希少価値を競う。そんなことにいったい何の意味があるのだろうか」

と「コンプリート」を目指す蒐集家の姿勢に首をひねっている。

そして、「揃うこと自体に意味はない(と、私は思う)」[1]と述べ、その価値観に懐疑的な姿勢を示している。確かに「(と、私は思う)」とあくまでも「個人の感想」としているのだが、「いったい何の意味があるのだろうか」という記述するので私は言及する。

この「かんぞろ」とは、蒐集界では聞いたことがない言葉であるが、推測すれば蒐集対象を漏れなく網羅し、完全なセットとして蒐集の目的を完結させる行為であり、現代の蒐集文化における「コンプリート」に相当するのであろう。

しかし、こうした「揃うこと自体に意味はない」という懐疑は、蒐集家の世界や趣味誌の文化に対する理解が乏しいことに起因していると言えよう。

蒐集家にとっては、ごくわずかな印刷のずれや配色の違い、製造時期が異なることや、製造した工場の差異といった微細な点が、他との差異を示す重要な情報であり、それ自体が蒐集の目的となるものだ。

「似たものと違う箇所を見つけ、希少なものを発見してコンプリートの価値」を創造するのが蒐集家ともいえよう。

例えば戦前に郵便局が「記念印」を設置した際は、単に同じ図案のスタンプであり、「郵便局名」が異なるだけであるのに対し、そこに「局名違い」を完蒐したい希望者がいた。

また、記念印を使用している期間すべてにおいて、「日附違い」を完蒐したいという希望者もあった。

一般の視点からは「どこが違うのか」「なぜ同じものを複数所持したがるのか」と疑問を抱かれるが、同じ図案でも「局名」「日附」「工場」などが異なれば「別のもの」として数えるのである。

これ以上は哲学的な話になってしまうが、「別のもの」と特定した人と、「同じもの」としか視えない人とのあいだでは、もはや理解可能な会話は成立しない。

そして戦前に発行された「記念煙草」をすべて完全に揃えることは難しいため、到達した方は、同好の士から大いに評価され、畏敬の対象となる。

それは斯界における常識であり、多くの蒐集家が目標とする到達点であるが、明確な「到達点」へ到着したことの喜びなら、理解をして貰えるだろうか。

 

市道氏は燐票や趣味家の事を調査されていたので、「完全蒐集」などには意味が無いという低評価には、意外な感を抱いた。

ところが、このような蒐集行動に対し首肯する者もいる。

作家の出久根達郎は、『かわうその祭り』(角川文庫、平成二十一年)の巻末あとがきにおいて、

「もの集めの熱狂を愛嬌と捉えず、何かおぞましと見る。そして、オタクという気さくなようで蔑んだ言葉が用いられた」

と記し、世間における蒐集家への社会的先入観や誤解に異議を唱えている。

この指摘は「蒐集文化」に対する深い洞察を示すものであり、趣味や蒐集を通じて表現される個人の関心の多様性と情熱に対する理解の必要性を認識させるものだ。

出久根の述懐は単なる共感以上に、蒐集家という存在に内在する価値観への尊重を促すものであり、蒐集家特有の思考や行動様式に対して、外部が安易な価値判断を下すことの危うさを示唆している。

なお当時よりも令和の現代では、世間の理解も進み「おたく」という言葉に蔑みの意味を込めることは薄れている。

第14項          戦前趣味家と神田・秋葉原文化圏の連続性

深い趣味嗜好を持つ人々が集う場としての地理的特性は、戦前と戦後で大きく変化していない。

典型的な例が、東京・秋葉原である。

現在では「電気街」あるいは「おたく文化の聖地」として広く知られる秋葉原は、戦前においてもすでに、鉄道趣味や電気模型、ラジオといった分野に関心を寄せる愛好者たちが集まる拠点であった。

特に「萬世橋駅」周辺には、省線の鉄道や東京市電が交差する交通の要衝として機能し、都内各所から人々の往来を可能にしていた。

また、駅前には「萬世橋郵便局」が設置されていた。

おそらく集合場所としての利便性か、神田松枝町の貸席や神田和泉橋倶楽部、外神田の青柳亭等、神田にある貸席では納札・燐票・集古會などの会合がしばしば開催されている。

加えて、「萬世橋駅」跡地は後に交通博物館となり(現在は埼玉県さいたま市の鉄道博物館へ移設)、その趣味の地理的・歴史的継続性が示唆される。

そして、周辺の神田区地域には、戦前から趣味家・蒐集家を対象とする専門店舗が集中していた。

たとえば、切手商の和田商店(神田猿楽町)、科学教材社(神田錦町)、鉄道日本社(西神田)、浮世絵や版本を扱う書店「酒井好古堂」(神田淡路町)などが挙げられる。

また、謄写版印刷の技術を開発した「堀井謄写堂」も鍛冶町に本拠を構えており、印刷・出版が集まる地で、アマチュア出版の印刷機製作場としての側面も併せ持っていた。

さらに、青果市場のあった神田須田町地域では、千社札の制作や納札文化も根付いており、元・神田宮本町の神田明神の境内には「納札塚」が建立されている。

戦前に、伊藤喜久男周辺の趣味家たちが寄稿していた旅行雑誌『旅』の編集部も、神田駅ガード下に所在していた。

秋葉原から靖国神社に至る経路には、古書店街や露店が市場的に展開しており、露店では趣味品の切手・古銭・錦絵・絵葉書などが販売されていた(「古書センター」の安部のスタンプコインよりも前にである)。

蒐集家として著名な池田文痴菴も、こうした、神田の露店で資料を蒐集していたという。

燐票蒐集の大家の古屋蘭傒も神田松永町に在住、同じく小川沙久も神田に在住しており、福山碧翠が主宰する「日本燐票協會」が神田松富町に事務所を置いたように、古屋らも燐票の趣味団体の本拠を自宅に置いて会合をしていた。

このように、秋葉原周辺には、鉄道、切手、模型、納札、古書・燐票といった多様な趣味領域を包含する空間が自然発生的に形成されていた。

現代において「アキバ系」という単語に代表されるおたく文化の萌芽は、決してパソコンやアニメの登場以降に出現したような近代的現象ではない。

すでに戦前のおたくたちの聖地、「カンダ系」とも呼べるような、地域的・文化的土壌が神田・秋葉原(萬世橋)周辺に存在していたことを見逃すことはできない。

戦前においても、趣味に深い愛着と資源(時間・金銭)を注ぐ人々が秋葉原に集い、自己表現と情報交流の場を求めていたのである。

第15項          戦争に負けた日本は、おたくを認容する「多様化社会」へ

明治中期以降、幾度も戦争を経験してきた日本は徴兵制を採用しており、国家は健康で逞しい体格を備えた青少年の育成を要請していた。

当時の青少年は「男性らしさ」の体現を期待され、身体的にその規範に適合しない者、「結核」などの病身で貧弱な男性は、しばしば軽視され、非国民と見なされることすらあった。

ところが、戦後において日本は、「国家」よりも「個人」が大事であると、平和国家との進路を選択した。

徴兵制度は廃止され、民主主義と、個人の尊厳が「権利」とされ(憲法13条)、男性に対して過度に「男性性」を強制する社会的圧力は、戦後は経時的に次第に希薄化していった。

この、日本の敗戦(による徴兵制度の廃止)という変化は、非常に大きいと筆者は考えている。

戦前には漫画は幼少年期特有の関心領域と見なされていた。

ところが、高度成長期には、だんだんと雑誌(週刊漫画誌)・テレビ・特撮・アイドルといった視聴文化に中学生・高校生が熱中したとしても、それを咎める声は次第に聞かれなくなった。

「多様性」として受容される社会的土壌が形成されていったのである。

青年期に至っても、年齢に応じた「大人らしさ」「男らしさ」や、伝統的な趣味の枠に収斂することを要請される機会は減少し、個人の内面的関心に根差した「趣味」のなりわいが尊重されるようになった。

かくして、ここでようやく、かなり前に書いた「室内で活動する趣味」に戻るのだが、室内趣味を好む男性が、幼少期から一貫して自らの興味を深めていくことが可能な環境が整ったのである。

このことによって、結果として「おたく」と称される層が数多く登場、活躍までできる「趣味の多様性」を受容する社会的背景が生まれたと考えられる[2]。

無論、徴兵制下においても、趣味に傾倒する者や学業を顧みずに雑誌制作に熱中する若者は存在していた。

だが、戦前と戦後を対比した場合、趣味そのものや趣味に充てられる時間の重要性に対する評価、ならびに「趣味家」と呼ばれる人々の数および彼らに向けられる社会的視線のあり方には、明確な差異が認められるという点に異論はないと信じるのである。

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戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題

[*]近代日本における梅原北明(『文藝市塲』等)の出版活動や、戦後の「カストリ雑誌」が扱った領域は、単なる「性愛(エロティシズム)」にとどまらず、犯罪・猟奇・怪異・病理・社会の裏面といった「人間の暗部や異常性への知的好奇心」が複雑に絡み合った精神空間を形成していた。
これらの一群を総括する概念をめぐっては、法的な規制枠組みを示す「発禁本」では文化的な動向としての評価軸から外れてしまう。
また、流通の秘匿性を示す「地下本」では出版形態(流通機構)の側面に偏りすぎるきらいがあり、その精神性や文化風俗的な側面を捉えきれないという難点があると筆者は考える。
さらに、「艶本」「好色本」「軟派本」「珍本」といった従来の書誌学的な表現では、性愛的側面(エロティシズム)のみが強調される結果を導いてしまい、「犯罪・猟奇・変態心理」というアングラ・悪趣味的な毒々しい側面(グロテスク)が捨象されてしまうのである。


したがって、本稿ではこれら「エロ(変態・性愛)」と、「グロ(猟奇・犯罪・怪奇)」の両者を包括する広義の概念として、仮に「特殊文献」という、上位概念を措定し、その下位区分として、当時の歴史的言説における「猟奇」および「変態」を主題とした文献群が、位置づけられるものと定義したい。

ここでいう「猟奇趣味」とは、「異常・怪奇・残酷・病的・退廃・禁忌・異様・不気味・禁断」の項目に対する興味・関心である。

それは残虐性を帯びた性愛(サディズムやマゾヒズム等)や、変態的な趣味のみならず、より広く、「異常・禁忌・怪奇・退廃」の諸相への嗜好性を含んでいる。

具体的には「血・死・犯罪・性・狂気・畸形・異常心理・怪談・グロテスク・倒錯」等への関心という形で表出するものである。

この構造をさらに深化させるため、本稿では当時(戦前期から昭和二十年代)の「猟奇雑誌」(実話雑誌、探偵雑誌、犯罪雑誌等を含む)に掲載された記事を対象に、その主題別の分類を試みた。
その結果が、下記の「戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題一覧」(表1)である。

表1:戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題一覧

本表が示す主題の数々を、1980年代から90年代の日本サブカルチャー界において勃興した、「悪趣味系」「鬼畜系」の精神性と照らし合わせてみたい。
そこには、戦後直後期の「カストリ雑誌」が提示した犯罪・性愛系の紙面構成が、時空を超えて地続きである様相が見て取れる。
つまり、戦前の猟奇・変態文献という存在が、近現代の日本出版史において常に流れ続ける通奏低音であったと言える。
【注記】
本稿の図表および引用文献には、現代の倫理基準において不適切とされる用語や表現が含まれるが、これらは対象期の出版文化および社会通念の実態を正確に検証するための歴史的資料(一次史料)であり、当時の社会通念や世相をそのまま記述することが学術研究上不可欠であると判断したため、改変を加えず原文のまま掲載している。
研究の客観性を担保するための措置であり、いかなる差別や非人道的行為をも容認・助長する意図はない。

 

[1] 市道和豊は研究のためには燐票のスクラップブックも古書店で購買している方であるが、やはり「観察者」の視点と、蒐集の「当事者」との間には温度差があるようで、「コンプリート」への共感は得られないようである。なお、筆者の主旨は完全蒐集を「理解できない」ことを批判する意図ではなく、当事者性の有無で物事の見方が変わることを示している程度である。趣味家の拘りを理解できない方が多いとは認識している。

[2]無論、これらに加えて他にも多様な要因が存在する。

戦前期においては、子どもは「多産多死」の状況下にあり、出生数は多くとも早世する例が少なくなかった。

しかし、医療技術の進歩および経済的基盤の安定により、児童の生命に対するリスクは大幅に低減された。

同時に、家族形態は次第に核家族化し、「家族計画」の概念も変容を遂げ、いわゆる「一人っ子」を丁重に育てるという社会的傾向が顕著となった。

高度経済成長期には、子どもたちの希望や欲求の多くが、物質的には実現可能となりつつあった。

テレビの普及を軸とするメディア環境の変化に伴い、児童・青少年を対象とする文化や趣味の領域は急速に多様化した。

その結果、単に鑑賞を通じて知見を深める「教養的な趣味」(映画・音楽)にとどまらず、「鑑賞」段階以上に深化する消費形態である、室内での没入型趣味(特撮・アニメ・ゲーム)を好む青少年が増加した。それらを「面白い」と認識・支持することで経済的な市場も確立、やがて「サブカルチャー」として社会的に定着し、発展していくに至ったと考える。

知性が高い「おたく」は親切だ。不良が先輩に「君付け」する事を”ポライトネス理論”で解明

第7項          「高等遊民」と「趣味家」と「おたく」

昭和三十年代以前、いわゆる「国民病」と称された結核に罹患し、長期療養を余儀なくされた若者でさえも、「いい若い者が……」と周囲から後ろ指をさされるような風潮が存在していた。

身体的事情による就労不能という状況であっても、社会はその個別事情に寛容ではなかったのである。

また、明治期以降、自らの趣味に傾倒し、その探究に専心する者は「趣味家」と呼ばれたが、しばしば、勘違いから「好事家」として家族や近隣から奇異の目を向けられた。「好事家」という語は文脈では揶揄的に括られることもあり、誉め言葉ではない印象も帯びている。

中には「高等遊民」と呼ばれる者もいたが、これは高等教育を受けたにもかかわらず、社会的・経済的な生産活動には関わらず、親族からの仕送りや私財をもって生活し、趣味や在野の学術研究に耽る人々を指す言葉であった。

近年では、制度の枠にとらわれず思想や表現を追求した戦前の「知識人層」として、肯定的な文脈で言及されることもあるが、「高学歴だが役に立たない」「社会に貢献せず、遊んでいる」という批判・皮肉の意味があった。

 

明治二十八年に古銭蒐集家の団体である「東京古泉會」では月の会費が十二銭であった。明治期との貨幣価値の換算は困難なのだが、当時の銭湯代は一銭五厘であるから、令和六年の都内料金五五〇円は三六、六六六倍となる。

十二銭は約四、四〇〇円程度に換算され、月の負担額としては結構高めの会費であろう。

こうした「趣味家」等への社会的評価や視線は、現代における「ニート」や「おたく」と呼ばれる若者に向けられるそれと共通する点が多い。

現代においても、無業状態にある若年層の中には、病気や怪我といった身体的要因により社会復帰が困難な者も存在する。

しかし実際には、パーソナルコンピュータの操作技能や各種資格の不保持といった制度的・技術的障壁が主因となっている場合も少なくない。

「ニート」とされる若者が、常に携帯端末やスマートフォンで遊興しているという通俗的なイメージは、実態を反映していない。

同様に、「おたく」という呼称もまた、過去には偏見と結びついて語られることがあった。

特異に見える言動や一部の犯罪事例が強調されることにより、「一日中ゲーム」「二次元の美少女に興味(生身の異性には興味がない)」「運動不足で肥満」といった、社会の固定観念も見られた。

服装への無頓着さも、趣味への資金集中や他者の視線を意に介さない傾向によるものであり、必ずしもファッション感覚の喪失や興味を放棄しているわけではない。

知識が特定の分野に極端に偏りがちで、会話も一方的になり易い点については、知的誠実さの発露であって、むしろ他者に正確な情報を全て伝えようとする善意に基づくものである。

さらに「おたく」たちは公共空間での身体的印象についても自覚的であり、たとえば「コミックマーケット(コミケ)」という所謂「同人誌」の即売会等の場では、服装への配慮や体臭対策を非常に意識的に行っている(この項はおたく的な言動についてなので、深くは触れないが、コミケに自身が制作した同人誌を展示し販売する人々は、頭脳的には知性が高いのである。知性があるということは併せて良識、常識の作法を弁えており、他者への親身な行動や謙譲の態度を取る者であるから、体臭や服装で他者へ迷惑を掛けない振る舞いをするのは当然であろう)。

対人の社交が苦手であるという一般的な印象に反し、実際には他者との関係性を重視する者も多く、温厚かつ親切な人物が少なくない。

もともと、博識で知的能力の高い者が多いため、対人的な共感力や状況判断能力にも長けている傾向が見られることは矛盾しないのに世間は表層的な評価を下し易い。

混雑するコミケ会場において、荷物の重さや転倒にて困っている他者に対しては、さりげなく援助の手を伸ばすといった場面もしばしば観察される。

このように見ていくと、戦前に「好事家」「高等遊民」などと当時の揶揄的な価値観の視線にさらされた「趣味家」と、現代において誤解や偏見の対象となった事もある「おたく」との間には、社会的視線や評価の構造において共通する要素が少なからず存在する。

それは個人の実像を捉えることなく、総体的かつ通俗的な印象形成によって一括りにされ、誤認・誤解されていたという点で、両者は同質の現象として捉えることが可能であろう。

第8項          「おたく」と「〇〇氏」呼び

「おたく」の語源について、岡田斗司夫氏は『現代用語の基礎知識九七年版』(自由国民社)にて、

「SFファン同士がイベントで集まる場などで使われる二人称として発生、SFのイベントでは、参加者は単なる個人ではなく、所属するサークルを代表する人間、というとらえられ方だった。そのため「オタクのサークルでは」という意味での「オタクは」という呼び方が好まれた。この言い回しは、SFファンの間で爆発的に流行し、一九八二年のTVアニメ『超時空要塞マクロス』で、登場人物達が使うことによって、アニメファンにも一気に広まった」

と、説明している。

確かに、筆者が十九歳であった昭和五十七年七月、長野県松本市においてアルバイト先で出会った、漫画・小説・鉄道などの室内趣味に親しむ同僚たちは、年齢差が二歳から五歳程度ある親しくない同世代の相手に声をかける際、「〇〇氏(し)」あるいは「おたくは〜」と呼びかける傾向があった。

「山田さん」と呼ぶにはやや他人行儀に過ぎ、「山田ぁ」「山ちゃん」などと呼ぶには親しみの距離が過ぎると感じられる場合、両者のあいだに適度な距離感を保ちつつ、相手の感情を損ねることなく、かつ上下関係を意識させない丁度よい程度の、対等な呼称として「おたく」呼びは便利に使われていた[1]。

なお、「おたく」は主として二人称として用いられるが、「〇〇氏(し)」という呼称は二人称に限らず、三人称としても使用される。

たとえば、二人で会話している際に、その場にいない人物について「〇〇氏は〜であった」と述べるときには「彼」「その人物」といった含意があったと考えられる。

このような呼称の発展形としては、「おたく」のほか、相手の名を呼ばずに特定する言い方として、

「アニキぃ」(軽妙な雰囲気を漂わせて)

「先輩」(ただし「後輩」は用いられない)

「兄【あに】」

「何々選手」

なども存在した。また、相手の感情をある程度無視しても許容されるような、一時的な上下関係にある場合、「おい、そこのバイト」などと雇用形態や職務上の呼称で声をかけることや、「そこのメガネ」など容姿的特徴を根拠に呼ぶケースも散見された。

筆者の管見によれば、手塚治虫が戦後間もない時期に年下の漫画家仲間に対して「〇〇氏」と呼びかけていた場面が、藤子不二雄Aの漫画『愛…しりそめし時に…』に描かれており[2]、この語の使用が当時の文化的文脈の中にすでに存在していたことを示唆している。

「おたく」や「〇〇氏」という呼称の語源については、複数の研究者・評論家により諸説が唱えられているが、いずれも決定的な証拠に欠け、自然発生的に生まれ、ある種のコミュニティ内部で伝播・定着したものと考えるのが妥当である。

その発生背景について、以下のように推測される。すなわち、日本語においては、話者が相手を呼び捨てにしたり、「君」「さん」などの敬称を付したりすることで、しばしば意図せず上下関係や心理的距離が明示されるという特徴がある。

もっとも、「君」という呼称は一義的に対等性を示すものではなく、用いられる文脈や集団規範によってその機能が変化する点に留意すべきである。

例えば、不良仲間や閉鎖的な集団(学校の部活動など)においては、先輩に対して「〇〇君」と呼ぶ用法が見られる。

一見すると目上に対する非敬称的な呼称であり、対等性の表明のようにも映るが、実際には単純な対等化ではない。

この現象は、ブラウン&レヴィンソンのポライトネス理論における「フェイス・ワーク」の観点から理解することができる。フェイスはメンツや体面だ。

人は相手の「ポジティブ・フェイス」(承認されたい欲求)と「ネガティブ・フェイス」(過度に干渉されたくない欲求)を侵害しないように言語行動を調整する。

この枠組みで見ると、年下が露骨な敬語を使用することは相手の上位性を過剰に強調し、自らの立場を低く固定する行為として、話者自身のポジティブ・フェイスを損なう可能性がある。

他方、呼び捨ては相手のポジティブ・フェイスを侵害しうる。

そこで「君」という呼称は、敬語体系を回避しつつも一定の配慮を示す、丁度良い位置の中間的なポライトネス戦略として機能するのではないか。

実は不良の後輩たちは、対等性を装いながらも実質的な序列を完全には否定せず(有形力を行使される可能性が高い為)、双方のフェイスを大きく損なわない折衷的表現を取り込んでいるのである。

したがって、不良の後輩における「君」呼びは、「矜持」や美学といった主観的要因だけで説明するよりも、不良の集団内で共有されたポライトネス戦略、すなわちフェイス維持のための実践として捉える方が妥当である。

それは上下関係を明示的に表現することを避けつつ、同時に秩序そのものは維持するという、社会的に調整された言語行動の一例といえる(不良はそんな事は考えていないだろうが)。

この不良の例からもわかるように、「上下関係の明示を回避したい」(=自分は下だという事の決定付けの回避)という欲求から、比較的真面目で繊細な気質をもつ人々が、より対等でフラットな印象を与える呼称として「〇〇氏」あるいは「おたく」を選択したのではないかと考えられる。
これらの呼称は、話者の呼び捨てにより相手の機嫌を損ねたり、あるいは敬称を使用することにより、話者に不必要な劣等感を誘発したりするリスクを軽減する、「安全」な手段として、一定の合理性を備えていたと考えている。

第9項          ドラマに既に表れていた、昭和四十年代の「おたく」

昭和四十年代半ばから、テレビドラマにおいて「おたく」的な役割をもつ登場人物が現れ始めた。

その萌芽は、子役が活躍する生活ドラマ「ケンちゃんシリーズ」の脇役に見出すことができる。

物語はケンちゃん一家が商売を営み、家庭や学校生活で起きる日常のエピソードを描いている。

同シリーズでは、俳優の山田慶造がインテリだがドジを踏む役を演じていた。役名は昭和四十年代までは「天才くん」「秀才くん」とされていたが、五十年代には「批評家さん」となり、揶揄的な印象から多少の敬意を含む名称に変化している。

出演俳優の年齢が上がったことも影響しているかも知れない。

また、俳優の進士晴久は各ドラマの従業員役として、真面目で愛嬌のある少年を演じていた。

たとえば「すし屋のケンちゃん」では、「マンガさん」という役名で、集団就職で上京し方言を話す住み込みの少年店員を演じた。

彼は「漫画は僕の全てだ」と語るほど漫画好きであった。

あるエピソードでは出前中に『少年ジャンプ』を読んでいると野良犬に寿司を食べられるという失敗をする。

店主でケンちゃんの父親役(牟田悌三)は、「ふん、全く良い歳してよ、こんなもの何が面白いんだよ」と、「漫画」に対する世代間ギャップを象徴する台詞を発している(ただし脚本家が本当にこのように漫画へ無理解だったり、思考を放棄したような価値観を持っていたとは考えにくいため、恐らく世間で共有される「だろう」、という印象作りの台詞ではないかと推測する)。

当時の劇中の「マンガさん」は進士と同年齢の十五、六歳の設定であったが、昭和四十六年当時は漫画がまだ子供の読物・娯楽とされており、中学卒業者が夢中になるのは「幼稚だ」とする年長者の価値観・規範があると考えられていた(統計を取った訳ではなく、幼稚の感性がどの程度受容されたかは不詳)。

同番組は、旧来の価値観を登場人物の台詞に取り入れるなど、一定の進歩性を持っていたが、ドラマ内での演技は、漫画に熱中し仕事で失敗する「ポンコツな店員」というステレオタイプにとどまっていた。

「漫画」が人物の軽率さや未熟さの造形を強調する道具として使われており、その限界あるいは、脚本家の故意も見て取れる。

なお、俳優の進士は五十五年の「ケンちゃんチャコちゃん」にも「マンガさん」として最終出演しており、当時は二十四歳であった。

「ケンちゃんシリーズ」では、進士と山田の両者が、慌てふためいたり、異性にドギマギして動作がぎこちなくなったりと、コミカルな演技で脇役を担っていた。

喫茶店で砂糖をこぼす、熱いコーヒーにむせて食器を倒す、写真撮影時に後ろへ下がって転倒するなど、明らかに挙動不審的な場面もある。

また、五十一年放映の「フルーツケンちゃん」では、「批評家さん」役の山田は「チェックのシャツ」を着て、シャツの裾をジーンズに入れるという、所謂「シャツイン」で太いベルト、黒縁メガネに長髪という、今日的な「おたく」的アイコンを体現していた。

勉強ばかりしている実直な「室内志向」の少年が、失敗やズッコケを演じることで生まれる落差の可笑しみや、流暢に話せない様子の演技を「コミカル」としているのは、現代の視点から見ると「マイナーをメジャーが笑う」という危うさも含んでいた[3]。

「愛嬌」「揶揄」「几帳面」「真面目」が複雑に交錯しており、表現の平衡感覚を誤れば差別的・偏見的な印象を与えかねない。

当時の番組制作者世代が「おたく」的な人物への理解を十分に持ち得ていなかった時代背景も、これらの演出となった一因であったと考えられるが、更に踏み込めば、担当した脚本家は、その危険性やアイコン的な消費を分かっており、敢えて描写した可能性もゼロではない。

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[1]対人距離感による呼称としては、主に不良少年たちの間では、少し年上の先輩に対して敬意と愛情も込めて「何何くん」と呼び掛けていた。普通、君付けは目下に対してだが、この場合は力量の差があり完全に服従すべき年下が腕力や権力が強い年上に対して使うため、許される空気感があったようだ。この点は後述する。

[2]昭和三十年の人気ドラマ『日真名氏飛び出す』は、「氏」呼びであるが「暇なし」の洒落の意味が強いと思われ、「〇〇氏」呼びのケースとは異なると考えられる。

[3]漫画に於いても「勉強・読書量が多いために視力が低下した少年」が掛けている「メガネ」を「牛乳瓶の底」的に描写することで「アイコン」化しており、脇役として「メガネくん」「博士くん」と呼び、「真面目さ」と「不器用さ」の落差を笑う作品があった。