syumishi-researcherの日記

『趣味誌』『地方誌』『同人雑誌』など出版史に於ける「自主出版雑誌」の歴史を調査・研究・記録しています

通知表公開と古本屋の倫理――古書流通とプライバシーの境界線

問題の所在と結論

ツイッターに於いて、古書店アカウントから、仕入れた紙ものの一部として、「通知表」が「成績欄」をメインに画像で公開された。 添えられた文章はオール5に驚きつつ好意的にもみえ、決して成績表の当事者を笑うような意図はないと理解できる。 だが筆者は違和感を感じてしまう。

古書店が個人情報や私人の機微に触れるような資料(日記・家計簿・手紙類)を、「特定少数」の顧客に販売する事は、問題はない。ただその私文書などの情報を画像にて「不特定多数」が見られる状態のインターネットに晒すことは、古書店の職業倫理としておかしくはないのだろうか(買取先の元・持ち主が何をしてもよいとされている場合は除く)。

筆者はあと20年も生きるかわからないが(いや独居であるから、明日にでもけがや病気で孤独死する可能性はある)、このように死後に古書店によってネットへさらされた場合、廉恥の感情をいだく文書を多数所持しているため、それなりのシュレッダーを購入して全て棄却しないといけないという不安に襲われた。

ただ、この様な事例(初期は公開を意図していなかった文書のXで画像公開)はこれまでもあるので、世の中のメジャーな社会的感情としては受容的か「特に気に掛けない」可能性も高い。 むしろ遺族でもない筆者が、他者の文書にまで敬愛追慕の情への配慮を感じるのは、性格的におかしいのかも知れないとも考える。

――そこで中立的に考えるためには「法」だ――

法的に直ちに違法と断じられるかという問題と、古書販売の倫理および信用の問題が重なっているとは予測がつく。 中立的にいえば、当該ツイートが故人の通知表を「名誉教授になった人物の逸話」として紹介し、侮辱も虚偽もなく、個人名・学校名・住所等を伏せているなら、直ちに違法となる可能性は高くない。

しかし、だからといって公開が無条件で望ましいわけにはならない。 通知表は成績、出欠、行動評価、教師の所見等を含みうる、きわめて私的な教育記録である。特に、他の情報から人物が特定可能であり、死後の期間も短い場合には、遺族の心情、故人の合理的な秘匿の期待、古書店の信頼を損ねるリスクは残るだろう。

違法ではないが、「古書として売買できる」ことと、「中身をSNSで世界に公開してよい」ことは別である。前者の所有権・流通の問題と、後者の人格的利益・プライバシー配慮・営業倫理の問題を混同してはならないのではないか。

第一章 通知表は「私文書」か「公文書」か

第一節 作成者と所持者を分けて考える必要

公立学校が業務として作成・保管する成績原簿、指導要録、通知表の基礎データは、学校・教育委員会の保有する行政文書・保有個人情報として扱われうるものだ。

本人による開示の場面でも、通知表は「学校だより」のような一般公開を前提とする文書ではなく、本人に関する保有個人情報として考えるべきものだ。

学校が児童・生徒の家庭へ交付し、長年にわたり家庭が保管してきた通知表の現物は、通常、学校の公文書管理の対象として現に保管されている文書ではない。

ゆえに古書市場に出た一枚の通知表を、単純に「公文書だから公開自由」と扱うのは正確ではない。 作成主体は公的でも、交付済みの現物は家庭の私的領域に属する記録として考えるほうが実態に近いといえよう。*1

私立学校の場合は、そもそも作成主体が行政機関ではないため、「公文書」という整理はさらに当てはまりにくい。

通知表の価値は学校制度史や教育史の資料性だけでは尽きず、特定個人の幼少期の評価を、家族内で受け渡されてきた記録として含む点が重要である。 資料性があることは公開の必要性を自動的に意味しないのである。

古書店の棚や蒐集家の机上に置かれた古い「紙もの」を前にするとき、人はそこに宿る時間と人生の痕跡にふと引き込まれる。家族の誇りとして引き出しの奥に大事に仕舞われていたものが、どのような経緯で古書市場へと流れてきたのか。

その来歴を静かに想像することは、紙屑として棄てられる紙片を教育文化の資料と変化させるのかも知れない。

第二節 「五段階評価」は個人評価の情報

「オール5、体育は4」という情報は、病歴・信条・犯罪歴など、法定の「要配慮個人情報」には通常当たらないと考える。

しかし、本人を識別できる状態であれば、学業成績・学校生活の評価として、通常の意味で強い私的性を持つ個人情報である。

しかも通知表には、点数だけでなく、教師による所見、家庭環境を想起させる記載、身体・生活面に関する評価、出欠などが含まれうるため、画像全体を公開する場合の問題は「成績が良いと褒めているだけ」という一点では終わらない。

今回のように、「名古屋から東大に進学し、東京都立大学名誉教授になった人物」という、追加属性が添えられると、専門分野や世代、出身地等を知る者にとっては、ご本人の特定可能性は高まるだろう。 氏名などが画像上で塗りつぶされていても、投稿文との組合せによって誰の資料かが分かる場合、匿名化は完全であったとは主張できないのではないか。

第二章 個人情報保護法との関係

第一節 故人の情報には個人情報保護法は適用されぬ

日本の個人情報保護法がいう「個人情報」は、「生存する個人に関する情報」である。 通知表の本人が既に亡くなっている場合、故人単独に関する成績や所見は、原則として同法の保護対象ではないのである。

個人情報保護委員会も、死者情報は原則として保護対象ではない、と明示している。*2

ただし死者情報が、生存している遺族その他の人の情報でもある場合は別である。

たとえば、通知表の画像に保護者氏名・住所・連絡先・家族構成、兄弟姉妹に関する記載などが含まれれば、それは生存者の個人情報として保護法上の問題になりうると解釈できる。

個人情報保護委員会は、死者の家族関係に関する情報のように、生存する遺族等に関する情報でもある場合には、遺族等の個人情報として保護法が適用されると説明している。*3

第二節 個人情報保護法が及ばない=「自由公開」を意味しない

故人の情報を扱う上で注意すべきは、個人情報保護法の直接適用がないことと、民事上も倫理上も問題がないことは別だ、という点である。 個人情報保護法は、主として事業者による体系的な個人データの取扱いを規律する法律であり、故人の人格的利益、遺族の心情、公開の相当性をすべて解決する法律とはなっていないのだ。

総務省の研究資料でも、死者の情報について、死者の人格的利益、遺族の利益、社会における利用の利益・表現の自由との均衡を検討すべきことが論じられている。 そこでは、死後間もない時期ほど遺族の「敬愛追慕の情」への配慮が重く、年月が経過するほど歴史的事実の探究や表現の自由に重心が移りうる、という整理となっている。*4

よって、「戦後の通知表だから古いものだ」「故人だから保護法の対象外」というだけでは、公開の相当性は判断できない。死亡からの年数、遺族の存否、特定可能性、公開範囲、資料としての公益性、成績以外の記載内容、本人や遺族の意思を推測できる事情を総合して見る必要があるだろう。

第三章 プライバシー侵害・名誉毀損となる可能性

第一節 名誉毀損の問題は小さい

ツイートが事実に沿い、成績の良さを紹介する内容で、侮辱・中傷・虚偽の摘示がないなら、名誉毀損の対象となる事例とは言いにくい。 「オール5、体育は4」という表現に多少の軽い調子が含意されていると解釈されたとて、それだけで社会的評価を低下させるものとは通常考えにくいからである。

死者に対する名誉毀損罪は、虚偽の事実を摘示した場合に限って成立するという限定がある。

今回のように、真実の成績を示したとされる事案では、刑事上の名誉毀損が論点になる可能性は低い。

第二節 中心は「故人・遺族の人格的利益」と公開方法の相当性

民事上は、故人自身のプライバシー権をそのまま誰が行使できるか、という点に理論上の難しさがある。

他方で、公開が故人の人格的利益を不当に害し、遺族の敬愛追慕の情や平穏を具体的に侵害する場合、遺族が何らかの救済を求める余地は完全にゼロではない。

裁判所が問題にしうるのは、単なる不快感ではなく、公開の内容・態様・必要性・悪質性・遺族への影響といった個別事情である。*5

この通知表の場合、添えられている文章が「オール5」への賞賛的であることは、公開の侵襲性をある程度下げている。

しかし、評価が良いか悪いかはことの本質ではない。 成績とは、学生時代を思い起こせばわかるように、同級生には見られないようにしていた経験があるものだ。これは本人が他者に見せることを予定しない内面的な、家庭的領域の情報である。たとえ善意の称賛でも、無断公開を快く思わない人は合理的に存在すると考えられる。

投稿者が「褒めたつもり」であったかは一事情にすぎず、公開される側の自己決定や、遺族の受け止め方を決定するものではない。

法や倫理の境界線は、時には澄んだ一本の線ではなく、曖昧な濃淡のなかに揺れている。 故人を偲ぶ気持ちや優れた才覚への素朴な敬意が、思いがけず遺族の静穏を乱す引き金にもなりうるように、人の尊厳をめぐる問いは白黒の二者択一では割り切れない奥行きを抱えているものだろう。

第四章 古書店の職業倫理と信用の問題

第一節 所有権は「公開の同意」を含まない

古書店が適法に現物を取得し、販売する権限を持つとしても、それは原則として現物を所持・譲渡する権限である。 通知表の画像を撮影し、SNS「X」で不特定多数に公開することについて、本人・遺族の同意まで、自動的に取得したことにはならない。

資料の来歴や人物像を解説することは古書店の重要な仕事である。 しかし、学術的な記述に必要な情報と、通知表の表面を判読可能な状態で全世界にさらすことは同義ではない。

商品販売上、資料紹介の必要があるなら、氏名、学校名、住所、保護者名、出欠、所見、成績欄をマスキングし、全体像ではなく一部を示す、または画像を出さず「戦後初期の通知表を含む旧蔵資料」と文章で説明する、といった段階的な方法がある。

世に埋もれ、ともすれば廃棄されていたはずの紙屑や私的な記録に価値を付けて買い取り、次なる読み手へと橋渡ししてきた古書店の存在は、近代以降の文化・歴史の散逸を水際で防ぐ重要な防波堤でもあった。 商売としての目利きと、記憶の継承者としての自負があるからこそ、時にその取扱いに悩む場面も生じるのであろう。

第五章 古書業界に「私文書を晒さない」不文律や教育はあるか

第一節 全国一律の明文化されたルールは確認できない

全国古書籍商組合連合会や地域の古書組合は、古書市場の運営、共同施設、情報提供、教育、業界振興などを担う組織である。東京都古書籍商業協同組合も、組合事業として「組合員のためにする教育および情報の提供」を掲げている。*6

ただし、公開されている組織紹介・規約類からは、以下のような具体的な統一基準は確認できない。

  • 遺品中の通知表・日記・私信・写真帳をSNSに載せてはならない。
  • 学業成績や家族関係が読める資料は、販売前にマスキングしなければならない。
  • 旧蔵者・遺族の同意なく、資料内容を宣伝目的で公開してはならない。
  • 会員に対して、私文書の公開倫理を必修研修として教える。
  • 違反した会員に対する統一的な懲戒・除名手続がある。

つまり、「古書店なら当然に教わる古典的な守秘の不文律があり、今回の投稿は業界の常識に反する」とまでは、根拠をもって言えない。

現在の古書業界では書誌、真贋、保存、相場、古物市場取引の経験知が厚い一方、SNS時代の個人情報・遺品・画像公開の倫理については、全店での共通基準が、まだ十分に成分化されていないように見える。

古書店の棚に並ぶものは、書物だけではない。 旧蔵者の蔵書票、書込み、献呈署名、葉書、挟み込まれた切符やメモまで、誰かの生活の爪痕を知れる物が混ざる。 そこでは、資料価値の判断と、他人の生活をどこまで見せるかという判断が店主の手に委ねられる。

第二節 古物商向け講習の主眼は、防犯と盗品対策

古書店が中古品売買を業として行う場合、基本的には古物商許可を要する。古物営業法の目的は、盗品等の売買防止、盗品の速やかな発見、犯罪被害の迅速な回復である。したがって、古物商に求められる中心的な実務は、取引相手の確認、不正品の申告、取引記録の整備などである。*7

警視庁も、新規許可取得者および既存の古物商・古物市場主を対象に、毎年、古物営業に関する法令講習会を開催している。*8。

ただし、公開されている案内からは、この講習が通知表、日記、手紙、家計簿・写真アルバムなどの資料といった私文書をどうSNSで扱うべきかまでを扱っているとは読み取れない。

そのため管見の限りでは、「古物商許可」を持つことは、盗品・不正品に関する法令遵守の資格・管理枠組みは意味するが、私文書の画像公開に関する高度な倫理教育を修了したことまでは意味しない。

第三節 組合のプライバシーポリシーも顧客データが対象

「日本の古本屋」を運営する東京都古書籍商業協同組合のプライバシーポリシーは、利用者、会員、問い合わせ、購入手続等で取得する個人情報の取扱いを規律するものである。

購入者・問い合わせ者・加盟店関係者の氏名、住所、連絡先、取引情報といった顧客データの保護が中心であり、店が仕入れた古い通知表や日記・私信の表面をSNSで公開する可否を直接定めたものではない。*9

おそらく、古書業界の制度がまだ時代に追いついていない部分がある。 顧客名簿を漏らしてはならないことは比較的わかりやすい。 だが何十年も前の一枚の通知表やラブレターを「商品資料」と見るのか、「故人と家族の私的記録」と見るのかで、扱いが大きく変わる。 その境目は、法律だけではきれいに線引きできない。

第六章 今回の投稿は「撒き餌」として必要か

第一節 商業的には関心を引く投稿であることは確か

今回の投稿は、単なる仕入れ報告ではなく、明らかに読者の興味を喚起する構成を持つと考えられる。

  • 「名古屋から東大へ進学」
  • 「東京都立大学名誉教授」
  • 「オール5、体育は4」
  • 「両親がきちんと取っておかれた」
  • 「東大時代の同学生からの結婚式案内も数通」

この組合せは、人物の成功譚、戦後教育史、家族保存の物語、大学人脈、旧い紙ものの魅力を短文で圧縮している名文である。

Xでは、単に「通知表を含む資料を仕入れた」と書くより、閲覧・反応・フォローを得やすいだろう。 商売上の意味でいえば、将来の販売に先立って、興味深い人物資料が入ったと印象付ける予告広告・関心喚起としては機能しうる。

店主が意識的に販売促進を狙ったのか、整理中の驚きを共有したいだけなのかは、投稿だけからは判断ができない。両方であることも珍しくない。SNSの商用発信では、「面白い発見の報告」と「店の存在を覚えてもらう宣伝」が同じ一投稿に同居することもあるからである。

第二節 販売促進策で通知表を読める画像で出す必要性

商業的必要性と公開方法の相当性は別問題である。 仮に将来の販売に向けた予告として投稿したとしても、次のような方法で十分に関心を惹ける。

  • 「戦後の小学校通知表、大学時代の招待状を含む研究者旧蔵資料を整理中」と文章だけで告知する。
  • 通知表の外形、用紙デザイン、学校印、評価欄の一部だけを接写し、個人の所見・出欠・氏名欄は読めないようにする。
  • 人物が特定できる略歴を付加して出さない。
  • 通知表ではなく、より公開侵襲性の低い蔵書票、印刷物、大学関係の一般配布資料を紹介する。
  • 「販売予定」「目録作成中」と明示し、資料の性質と公開範囲について店側の方針を添える。

今回の画像では、氏名・一部記載が白く伏せられているように見える。 店側は無配慮に全情報を出したのではなく、少なくとも識別情報を隠そうとした形跡として評価できることである。

他方、成績、教師の所見、出欠、進学歴と職歴を結びつける投稿文は残っており、知人・研究者・大学関係者などにとっては人物を推知する手掛かりになりうると考えられる。

マスキングを施したことは配慮の一歩だが、特定可能性を全て消すような決定打とはなっていない。

第三節 売れることと、信頼されること

この種のツイートは短期的には反応を生むかもしれない。

しかし、旧蔵資料を売却する・委託したいと考える人にとっては、「この店に渡した家族の紙ものは、内容までSNSに出されるのだろうか」という不安を生む可能性がある。

特に日記、手紙、成績表、家計簿、アルバム、住所録、履歴書、雑記帳のようなものを抱えた遺族にとって、この心配は小さくない。

古書店が珍しい資料を紹介すること自体は、文化的にも商業的にも正当な営みである。 散逸しがちな資料に光を当て、買い手・研究者・保存先を見つける働きもある。

問題は「紹介するか、沈黙するか」の二択ではなく、何を、どこまで、誰が読める形で出すかにある。商売の巧拙は、見せる量ではなく、見せるべき部分を選ぶ編集力にも現れると考える。

第七章 今回の二つの投稿の評価

第一節 通知表の画像公開

通知表の画像は、表面に成績、所見、出欠、健康・行動面に関わる欄を含む。投稿文が「オール5(体育は4)」と成績に焦点を当てている以上、通知表は単なる時代資料としてではなく、特定人物の能力評価を示す証拠として、明らかに提示されている。

これは、「戦後の通知表の様式」や「五段階評価の実例」を紹介する場合の理解促進目的の画像よりも、私的情報の公開としての性格が強い。

教育制度史の説明が目的なら、人物の進学歴・名誉教授という情報は必ずしも必要ではない。 反対に、その略歴を添えることで読者は「後に成功した人物の優等生時代」を読むことになる。つまり投稿の主旨は、教育制度史よりも人物逸話にあると解されても仕方がない。

前述した様に法的には、本人が故人である限り、個人情報保護法は原則として直接の保護を与えない。

ただし情報が生存する遺族の情報と重なる場合は別であり、また故人の人格的利益と遺族の敬愛追慕の情は、民事上の考慮要素となりうる。*10 *11

第二節 結婚式案内状への言及

二つ目の投稿は、東大時代の同学生から届いた結婚式案内が複数あり、そのうち一通には特定の人物への「お教えないで下さい」という追記がある、としている。

画像そのものを同時に掲載していないなら、通知表画像より侵襲性は低い。しかし、これは私信・交友関係・結婚という、本来は更に私的な領域に踏み込んでいる。

確かに「誰が誰の結婚式に招かれたか」 「特定人物を招待したくないという事情があったか」は、 文学者・研究者・著名人の伝記研究では交友関係の考察上、意味を持ちうるだろう。 それでも、販売前のSNSで逸話として切り出す必然性は、通知表以上に慎重に問われるとも思われる。

とくに招待状の差出人や対象人物が現在も生存している場合、その情報は故人だけの話では済まない。

ここで重要なのは、投稿が悪意に満ちているか、相手を軽侮や笑いの対象にしているか、どうかだけではない。買い取った品物の面白さは、ときに他人の内輪の事情に近づくほど増すのはわかる。

しかし、面白いことを共有しようとするいわば「善意」の情報提供と、根本的にネットに個人のことを公表してよいこととは同義ではない。

第八章 実務上の評価

第一節 店主個人の倫理感に依存

現状では、古書業界における私文書のSNS公開は、主として個店の判断に委ねられている。組合は教育や情報提供を担う機能も負託されうるが、公開資料からは、私文書・遺品・旧蔵資料のオンライン公開に関する詳細な統一規範までは確認できない。*12 (今のインターネット時代を鑑みたら、店主任せってちょっとおかしくないのかな? 私が邸宅内で明日転倒して孤独死したら、事と次第によっては、家の中にある紙類が古物商に渡る可能性は高いので困るのだが)

慎重な店は、氏名・住所・学校名・成績・家族名・私信内容を出さず、画像公開を最小限にとどめるだろう。

反対に、SNSでの反応を重視する店は、「資料の魅力を伝える」範囲を広く取り、人物の逸話まで出すだろう。

この差は、現在のところ、法令違反か否かというより、店主・担当者の資料観・顧客観・危機管理観の多様性、差として現れてしまう。

第二節 より望ましい業界実務の提言

私文書を扱う点で、ネットに画像をアップすることを筆者は無制限に野放しにして欲しくはない。 古書店・業界が採るべき実務としては、次のような策の共有化が考えられる。

  • 仕入れ・委託時に、SNS掲載や画像利用の可否を確認する。
  • 家族・生活・評価に関わる資料は、販売前の公開を原則として抑制する方向とする。
  • 公開する場合は、氏名だけでなく、学校名、住所、日付、所見、成績、家族情報、交友関係が推知できる記載をも編集することを義務付け。
  • 資料の存在・分野・年代・点数は示しても、内容の判読可能な画像は避ける。
  • 歴史的・研究的意義を理由にする場合は、なぜその情報を示す必要があるのかを説明できるようにする。
  • 削除・非公開の申し出があった場合の窓口と対応方針を策定

これは法令上の画一的義務というより、インターネットのある時代に於いて古書店が長い目で信用を積むための実務である。 資料を扱う商売では、売り手・遺族・買い手・研究者のいずれにも「この店なら任せられる」と思わせることが信用資産になる。

第三節 今回のような画像投稿を評価する実務的基準

第一項 リスクを高める事情

次の事情が多いほど、公開は慎重であるべきである。

  • 氏名、学校名、居住地、卒業年、職歴などから本人を容易に特定できる。
  • 故人の死亡から間がなく、配偶者・子・孫・兄弟姉妹等が存命である可能性が高い。
  • 成績のほか、所見、身体・健康、家庭、問題行動、欠席などの記載が読める。
  • 投稿の目的が学術的紹介よりも、話題性・驚き・集客に傾いている。
  • 画像が高解像度で、引用・保存・再拡散を容易にしている。
  • 遺族・旧蔵者・委託者の同意や、少なくとも公開に反対しない意思が確認されていない。

第二項 公開を相対的に正当化しうる事情

反対に、次の事情があれば公開の合理的な相当性は高まる。

  • 遺族、相続人、著名人の財団、資料寄贈者等から明確な公開同意がある。
  • 十分な年数が経過し、人物が歴史上の存在として位置づけられている。
  • 氏名・学校名・住所・保護者名・成績・所見などを実効的に伏せ、人物特定が困難である。
  • 教育史・地域史・出版史等の研究目的が明確で、必要最小限の範囲に限って示される。
  • 画像ではなく、目録記載や要約によって資料の存在を伝えている。
  • 問題を指摘された場合、削除・マスキング・説明の追加に速やかに応じる運用がある。

第九章 総合判断

今回の投稿を中立に評価する。

**違法性は直ちには高いとは言えない**
故人に関する成績情報は、原則として個人情報保護法の直接の保護対象ではない。投稿も侮辱や誹謗中傷ではなく、称賛的な文脈である。((個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/ ))

**公開方法は慎重さを欠くと評価しうる**
通知表は、特定個人の評価・所見・出欠を含みうる私的記録である。「名古屋から東大、東京都立大学名誉教授」という情報まで重ねると、人物の特定可能性と人物逸話としての同定性が高まる。

**販売予告・集客としての機能はあるが、必要不可欠ではない**
ツイートは店への注目を集め、将来の販売機会を作る働きを持つ。だが成績や私信の細部を公開しなくても、資料の存在や魅力を伝えることはできる。

端的に言えば、次のようになる。

**故人の通知表を古書として扱うこと自体は、直ちに不当とはいえない。だが、特定可能な人物の成績・評価を、同意確認も編集もなくSNSへ画像公開することは、法的にグレーであっても、蒐集資料の取扱いとしては慎重さを欠きうる。** 投稿が賞賛的であり、悪意がないことは重要である。しかし、人格的な記録は「悪意がなければ公開してよい」ものではない。特に高齢化社会となり「終活」が行われる現代において、古書店は家庭から離れた私文書を市場へ媒介する立場にある。その職業的信用は、インターネットで珍品を見せる技量だけでなく、見せない判断をできるかにもかかっているといえよう。

※以上の法的な検討部分は一般的な法的な検討と整理であり、事例によっては実際の投稿画像、故人の没年、遺族の状況、氏名・学校名等の判読可能性、取得経緯によって結論は変わることもある。

*1:「情報公開請求と保有個人情報開示請求の違い|『学校だより』と『通知表』で考える」:https://hanawa-office.jp/oshiete/blogs/529-%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AB%8B%E6%B1%82%E3%81%A8%E4%BF%9D%E6%9C%89%E5%80%8B%E4%BA%BA%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%96%8B%E7%A4%BA%E8%AB%8B%E6%B1%82%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84-%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A-%E3%81%A8-%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E9%80%9A%E7%9F%A5%E8%A1%A8-%E3%81%A7%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B/

*2:個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/

*3:個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/

*4:総務省「死後の個人情報の保護―名誉・著作者人格権との比較を通じて」:https://www.soumu.go.jp/main_content/000973595.pdf

*5:総務省「死後の個人情報の保護―名誉・著作者人格権との比較を通じて」:https://www.soumu.go.jp/main_content/000973595.pdf

*6:東京都古書籍商業協同組合「組合の歴史・活動内容」:https://www.kosho.ne.jp/association/history/

*7:e-Gov法令検索「古物営業法」:https://laws.e-gov.go.jp/law/324AC0000000108

*8:警視庁「古物営業許可関係の法令講習会について」:https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/tetsuzuki/kobutsu/horei_kousyukai/koshu.html

*9:日本の古本屋「プライバシーポリシー」:https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=84

*10:個人情報保護委員会「死者の情報は、個人情報保護法の保護の対象になりますか。」:https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q1-21/

*11:総務省「死後の個人情報の保護―名誉・著作者人格権との比較を通じて」:https://www.soumu.go.jp/main_content/000973595.pdf

*12:東京都古書籍商業協同組合「組合の歴史・活動内容」:https://www.kosho.ne.jp/association/history/

欧米におけるアマチュア出版の印刷の歴史

—— Zine / Indie Comic 向け印刷サービスの現状とその歴史的背景 ——

第1章 欧米におけるアマチュア出版向け印刷サービスの現状

本来、街の印刷屋は素人を相手にしなかった。それは活版時代でもオフセット時代でも同様であった。その理由は知識のないことや、業界に精通していないためだ。

当時はDTPがなく紙の「版下」はインクで線を引いたり、写植を貼り込んだり、指定したりと職人ワザでつくる。印刷に関する知識がない学生が作った版下には不備が往々にして存在し、これを修正するためには多大な労力(トンボや四色分版を一から解説するのは実質的に「印刷の職業訓練」を無償で行うようなものであり、商業ベースでは完全に大赤字です)がかかる。

また、当時の商業印刷は「B to B(企業間取引)」の商習慣で動いていたため、校正(チェック)の責任は発注側にある。しかし、印刷業界の慣習・作法を知らないアマチュアは「思っていた色と違う」「仕上がりが汚い(原因は本人の版下の汚れ)」「白いふちがある(断裁時のズレ、塗り足しを知らない為)」といった事があると厄介な消費者になって、文句を言ったり刷り直しを要求したりなどのトラブルがあるので、敬遠された。

更に当時は金属の刷版を作る「オフセット印刷」や、文字を鉛で組む「活版印刷」が主流だった。これらは「版を作るコスト(初期費用)」が非常に重く、数千〜数万部を刷ることで1冊あたりの単価を下げるビジネスモデルである。学生が注文する「100部」「200部」といった超小部数は、印刷所にとっては手間ばかりかかって全く利益が出ない「採算割れ」の仕事であった(高い料金なら引き受けるかも)。

一部のコミケ向け同人誌では過激な表現があり、これは安寧に暮らしている街の印刷所にとっては、「わいせつ図画(刑法175条)」の印刷に問われかねない、法的なリスクを孕む危険な注文と映る。企業や役所からの堅い仕事をメインにしていた街の印刷所が、リスクを嫌って門前払いにするのは当然の防衛策だった。

当時は、不備のある版下を印刷するために、印刷所の職人や店主が実作業の際に「ゴミ取り(スポッティング)」をしたり、職人技でトンボを合わせ直したり、面付ができるように版下を切ったり、ノンブルがない版下を確認したりという「見えないカバーワーク(修正作業)」が発生した。学生側は「お金を払っている」と思っていても、実際には印刷所の職人の厚意(あるいは泣き寝入り的な同意)によって成立していた側面もある。

ところが昭和50年代以降、日本には「コミケ」など漫画同人誌の即売会市場が発達したため、大量のアマチュア出版物印刷への需要が生じてきた。そのため廉価で素人の相手をする「同人誌専門印刷所」が存在するようになり、1993年には協業の組合、日本同人誌印刷業組合まで設立された。

では、欧米(アメリカ・ヨーロッパ)においても、「Zine(ジン)やIndie Comic(インディーズ・コミック)を専門に印刷サービス(Short-run printing / Zine printing services)」する会社は存在するのだろうか?

一般の法人・役所を取引先とする商業的な印刷所ではなく、学生などの若者が発注できるようなアマチュア出版向けの印刷に応需する店はあるのかを中心に、欧米のアマチュア出版の印刷について調査してみた。

第1節 概観:二層構造としての「同人誌印刷所」

欧米(米国・英国を中心)には、一般商業印刷所とは別に、アマチュア作家・セルフパブリッシャーを主たる顧客とする印刷サービスが確かに存在する。ただし日本の「同人誌専門印刷所」(即売会イベントに連動した締切・搬入システムを持つ専業者)とは業態が異なり、以下の二層に分かれることが分かった。

  1. デジタル小ロット/POD(print-on-demand)系:コミックや冊子の小ロット印刷をウェブ注文で受けるオンライン印刷所。最低部数なし(1冊から)が売り。
  2. Risograph(理想科学のデジタル孔版印刷機)系スタジオ:アーティスト自身が運営する小規模工房で、Zine や art book の制作を請け負う。ワークショップやコミュニティ機能を併設する例が多い。

第2節 デジタル小ロット・POD系コミック印刷所

(1)Ka-Blam Digital Printing(米・フロリダ)

2005年にフリーランスのコミック関係者であった Thomas Florimonte Jr. と Barry Gregory が設立し、2006年に正式開業した。

「独立系コミック・コミュニティのための高品質・低価格印刷」という明確なコンセプトを掲げ、部数の閾値ではなく必要量に応じた印刷(POD)、セットアップ料金の撤廃、フルカラー小部数印刷の低価格化を業界初として打ち出した(Ka-Blamは、誰でも簡単に手頃な価格でフルカラーのコミック印刷を行えるように価格を算出した最初のコミック印刷所。Ka-Blam以前には、フルカラーの少部数印刷コミックなどはほとんど存在しなかった。)。

2007年にはPOD型オンライン・コミック書店 IndyPlanet.com を開設し、現在11,000点以上の indie comic (及びノンフィクション系の活字同人誌も)が登録・販売され、印刷・発送・販売代行までを一括して担っている。

これは日本の同人誌印刷所と委託書店(とらのあな等)を足したような垂直統合モデルである。累計300万冊以上を印刷・出荷している Ka-Blam公式 / IndyPlanet

(2)Comix Wellspring / Greko Printingが創業(米・ミシガン州 Roseville)

「the comic book printer」を自称する、コミック専門の印刷ブランドである。元々は一般商業印刷所 Greko Printing(Plymouth, MI)のインディーズ・クリエイター向け部門として発展し、1冊からの注文(大口は部数割引)を謳い、コミック・グラフィックノベル・ポスター等を専門に扱った。

北米の indie comic 界隈では Ka-Blam と双璧をなす存在として頻繁に比較・言及されてきたが、近年、操業を一時停止し未履行注文を返金したことが報じられ、イベント(コミコン)シーズン前のクリエイターに混乱を生じさせた(HPでも受付がストップしている) ComicsBeat / Comix Wellspring / r/ComicBookCollabs

(3)その他の小ロット冊子・セルフパブリッシュ向けサービス

  • Mixam(米・英):ウェブUIで「Zine printing」を独立カテゴリとして提供する大手オンライン印刷所 Mixam

UIでは、次の項目を入力・選択することで直ちに見積金額が表示されるシステムである。

部数1~数千部、頁数(8頁から800頁)、カラー、縦長か横長か、サイズ(A4判~A6判はあるが、他は日本ではなじみのない十数種のインチの寸法の種から選択)、紙質(コートか光沢か。重さは70ポンド、80ポンド、100ポンドから選択)、製本(ホチキス・無線・リング製本)を選択して版下ファイルをアップロードする*1

  • Ex Why Zed(英):「Zine Printing, Art Books and Self-Publishing」を専門に掲げ、初心者のセルフパブリッシャー支援を売りにする印刷所 Ex Why Zed
  • Greenerprinter(米・カリフォルニア):再生紙使用、ミニマムなし・製版不要の short-run book printing Greenerprinter
  • 48 Hour Books(米)、Lulu(米・POD大手):セルフパブリッシャー全般向け 48 Hour Books / Lulu

第3節 リソグラフ系Zine印刷スタジオ

2010年代以降の欧米Zine文化の印刷を象徴するのが、日本の「理想リソグラフ」を用いた ステンシル印刷のRisograph スタジオである。以下は代表例である。

スタジオ名 拠点 特徴
Ditto Press London(Dalston) Ben Freeman と Lynsey Atkin が2009年11月創業。英国初の Risograph 専門プリント・パブリッシング会社 People of Print / Hackney Citizen
Issue Press Grand Rapids, MI George Wietor が2011年から運営する出版社兼Riso印刷所。出版活動を印刷受注で支えるモデル Issue Press
Secret Riso Club Brooklyn, NY アーティストランの独立出版・デザインスタジオ兼印刷工房。書店・学習スペースを併設 Secret Riso Club
lucky risograph DUMBO, NY 国内外のクリエイターと協働するRiso印刷所 lucky risograph
Risolve Studio 米 2017年創業のRiso印刷・デザインスタジオ Risolve
Footprint Workers Co-op Leeds, 英 労働者協同組合(workers co-op)組織。再生紙のみ使用。zine・チラシ・レコードスリーブ等を印刷 Footprint
RISOTTO Glasgow,英 2012年創業の文具・プリントクラブ併設のRisoスタジオ RISOTTO

第4節 日本との比較に関する一考察

日本の同人誌印刷所が「即売会イベント締切・会場直接搬入」に応需するのに対し、欧米では (a)convention(コミコン)や zine fair 向けの個人発注をウェブ経由で全国から受けるPOD業者と、(b)地域コミュニティに根ざしたRiso工房が分化して存在する。日本のような「同人誌専門」を積極的に謳う看板こそ少ないものの、機能的には同等のインフラが成立していると評価できるのではないか。


第2章 欧米のアマチュア出版の展開

第1節 印刷手段の民主化

アマチュア出版の隆盛は、印刷という「生産手段」が個人(素人)の手に渡った技術的革新と不可分である。

ホビー・プレスの発明: 1867年にベンジャミン・O・ウッズが発明した「ノベルティ・プレス(Novelty Press)」がウッズ&カンパニーから発売された。アマチュア向けの印刷機の製造販売である。さらに1872年には「ケルシー印刷機」という低価格な卓上印刷機が発売され、それまでプロの領域だった印刷が一般家庭のダイニングや居室でできるようになった。

これは卓上ではないので15~50ドルだが、数千台売れた

手組み(Hand-set type)の時代: 初期のアマチュアたちは、小さな活字を一字ずつ手作業で拾う「手選文」に情熱を注いだ About - AAPA。

なお筆者はケルシ―等の実物を手に取った訳ではないため、実際の活字の高さがどの程度か不明である。玩具的な活版印刷機の場合、高さが一センチに満たないこともあるため、日本人より手が大きい外国人がピンセットを使って植字をするのは相当大変ではないかと予想する(この操作という点ではタイプライターや手書きで製版できるミメオグラフやスピリット複写機のほうがむしろ楽であろう)。

この伝統的な技法は、20世紀にプロの世界で自動鋳植機が主流となっても、アマチュアの間では「趣味の王道」として維持されたという。 The Next Hundred

米国で1870年代の終わりまでには、全州でアマチュア新聞が発行されており、 数百紙 に上る州もあった。 アメリカ古文書協会 (American Antiquarian Society)が所蔵している新聞は 55,000紙以上 だというThe Emancipation of Boyhood。

新聞の多くは 4~8ページ (1~2枚の紙を折り畳んだ形)であったが、中には32ページに及ぶものもあったし、 はがきの裏面 に印刷された新聞もあったThe Emancipation of Boyhood。

少年アマチュア出版者の 約半数 が、自ら家庭で新聞を印刷。 4分の1から3分の1 は他のアマチュアの印刷業者に発注、残りはプロの印刷業者で刷っていたThe Emancipation of Boyhood。

20世紀に入ると、アマチュア・ジャーナリズムの対象は青少年だけでなく成人にも拡大した。

「その初期の数十年において、10代の若者たちによる独自の印刷サブカルチャーを構成しており、おそらく史上初の事例であったと言えるだろう」 The Emancipation of Boyhoodと、Lara Langer Cohenはいうだが、これは日本の明治青年たちの地方文芸雑誌がアメリカに知られていないためであろう。

本稿はあくまでも 「印刷」 の観点から青少年のアマチュア出版を論考するものであるため、ここでは詳述しないが、日本の地方文芸雑誌や校友会雑誌も含め、ユース・カルチャーに於ける「アマチュア出版」の日米欧の横断的比較研究が必要だと考える。米国の「アマチュア新聞主宰者」界隈は閉鎖的だったようだが、日本の地方文芸雑誌界や趣味誌界も似たようなものである。

非常に興味深いのは米国のアマチュア新聞でもお互いの発行物の 「交換紙」 を相互に依頼していたことだ。そして中にはこの「交換」システムを利用して無料で新聞を入手するため 「詐欺的交換紙」 を発行する少年もいたというThe Emancipation of Boyhood。また新聞の発行者同士で 連絡・交友 をするのが目的になった子もいたようだ。 これは日本の趣味誌の世界でも見られる現象であり、 どこの世界でも人間が考えることはほぼ一緒 である。

「交換誌」は相手と自分の発行媒体が「釣り合う」かどうかも問題になる(自誌がB5判48ページで相手がB6判8ページでは、交換しがいがないというか、率直に言えば 「何だか損をした」 気分になるのだが、趣味誌界では 「互恵」 の文化が根付いているため、体裁の貧弱さで交換誌を断ることは少年にとっては中々難しい。相手が年下であれば寛容さを示したり、今後の成長を期待して交換に応じることが多い。

趣味誌界を構成する人々は、 無料贈呈品の提供 に応じたり、 入札を低額で実施 したり、 寄付金を送ったり と「自分の利益」を考えるだけではない者が多かった。

蒐集趣味の世界でも 居住地で入手できる趣味品を頒布 したり、 蒐集に協力 したり、 大阪の趣味家が東京を訪問すればどっさりとお土産を渡したり (逆も同じ)と、やはり「情けは人の為ならず」があった《※趣味家以外の方には分かり難いかも知れないが、大家の方は相当沢山の趣味品を蔵している上に、毎日のように更に追加されている。例えば例会で7,8名にレジ袋一杯の寸葉品をお土産として差し上げることは平気で行えるのである》。そうした趣味家たちの 互恵精神 が背景にあったからこそ、 板祐生は鳥取の地を動かずとも全国から趣味品が集まった のだということを忘れてはならない)

ケルシ―印刷機
出典はDo Your Own Printing , Public Domain。

第2節 ケルシ―印刷機

(1)印刷のやり方

本機は手動のハンドプレス印刷機で 「ケルシー印刷機(Kelsey Excelsior Press)」 と呼ばれる、主に少年・家庭向けに製造された卓上型の簡易活版印刷機である。日本では 「手フート」 と呼ぶ印刷機である。 構造は、金属枠(チェイス)に組んだ活字面(刷版と同様)にインクを塗布し、紙を強く押し当てて転写する凸版印刷方式であり、一回のレバー(ハンドル)操作を行うことでインク塗布と紙への圧着が連動して行われる。

【準備工程】 用意した活字をケースから拾って組付け枠(チェイス)に並べ(植字)、木片(ファニチャー)を詰めたり枠をネジでしっかり締めて固定する。この枠を本体中央の垂直な版面にセットする。また、上部にある円盤(インク・ディスク)の上に適量の印刷インクを塗布しておく。

【印刷・操作工程】 印刷用紙は一枚ずつ手作業でプラテン(圧着板)のガイドに合わせてセットする。 手前のレバーを力強く倒すと、以下の動作が連動して行われる。 1. 下部に静止していたインクローラーが上方へ移動し、前面の活字面(刷版同様のチェイス)にインクを均一に塗りつける。

2. インクローラーは刷版面を通過し、更に上部へ移動すると同時に、手前の圧盤(予め印刷用紙を乗せた板)が起き上がり、垂直な活字面(刷版同様のチェイス)に向かって強く押し付けられ、紙に圧着、活字が転写される。

3. インクローラーが上方へ移動し前面のインク円盤へ接触する。このとき円盤はわずかに自転(回転)し、インクローラーに新しいインク面を補充しながら均一に練り広げることになる。

4. レバーを元に戻すと、圧盤が倒れて開き、印刷された紙を取り出せる状態になる。

5. 同時に、インクローラーが下方へ移動しながら再び活字面にインクを塗り、下部まで戻る。

この一連の往復運動により、 手動でありながらスムーズで連続的 な印刷が可能となっている。ただ給紙と印刷、排紙を手動で行う為、多くを刷るのは大変だっただろう。

広告の機械のサイズは幅が5 1/4インチ(=5.25インチ)なので13.335 センチ、長さが7 1/2インチ(=7.5インチ)であるから19.05センチとなる。底面積だとだいたい A5判程度 の寸法であろう。 「Chase, 2 x 3 1/4 inches」と、チェイス(版面)のサイズが書いてあるが、5.1×8.3cmは、 名刺(5.5×9.1cm) がちょうど印刷できるサイズの最も小さなジュニア機なのだろう。 広告をみると 3 × 5 インチと、5 ×8 インチの機種もあり、5×8インチは12.7 × 20.3cmであるから、 A5判 (14.8×21.0cm) より一回り小さく、 B6判 (12.8×18.2cm) に近い大きさだ。 3×5インチの方は A7判 (7.4×10.5cm) より少し大きいが、小さな 「ハガキ未満(名刺〜情報カード)程度」 のサイズに対応するのだろう。

(2)ケルシ―印刷機の販売と値段

ケルシ―印刷機は1872年にコネチカット州Meridenで、William・A・Kelseyが創業した。 1830年頃から印刷機は小型化し、ビジネスマン向けに販売され街の印刷屋に依頼せずに家庭でも印刷できるようになっていた。

1850年代後半に英国ではパーラープレスという小型印刷機が販売された(当時の英国では屋敷にパーラーがあり、そこは趣味や社交の場であった。訪問客はパーラーで名刺を出すので、パーラー・カードを印刷する需要があったのだ)国際印刷博物館のYouTube動画より。 この印刷機は単純な圧着式で版画を作る要領の印刷機で、凸版にインクを塗布して、紙を挟んでフタをしてレバーで締めて紙に圧着するものである。

そして、1870年代は玩具的なアマチュア向け卓上印刷機が多く発売されていた。印刷業界に革命をもたらした「エクセルシオール」モデルをはじめケルシーの信頼性の高い印刷機は、愛好家や小規模な印刷業者にとって歓迎され、1990年まで生産された国際印刷博物館のYouTube動画より。

印刷機のサイズは 3 × 5 インチから 9 × 13 インチ(A4判程度)まで複数取り揃えていた。カタログを見ると、インクやカードなどの消耗品のほか、活字ケース・活字・記号や模様・様々なフォント・カットに使う凸版・題字の金属版なども掲載されており、追加で揃えることが可能であった。因みに 3 × 5 インチ機は27.36ドル、9 × 13 インチ機は198.75ドルであるが、これは1946年当時の価格であるKelsey Printers' Supply Book ,1946 Public Domain。

ケルシーは、単なる印刷機の設計者・製造者にとどまらず、広告とマーケティングの達人だった。キャッチーなスローガンや巧妙なプロモーションの才に長けていた彼は、『The Youth’s Companion』といった少年向け雑誌の巻末広告を通じて、夢を抱く少年たちを購買の対象にすることで、「エクセルシオール」を著名な商標へと育て上げた。 広告には彼が描いた印刷機のイラストが掲載されている。惹句には「BOYS!(少年たちよ!)」、そして「Print cards with this press and Make Money(名刺やカードを印刷してお金を稼ごう)」と書かれている。広告画像のものは印刷機単体が12.95ドル、活字・活字ケース・インクなど備品一式がセットになったものが15.95ドルであるKelsey Printers' Supply Book ,1946 Public Domain。

これはどのくらい高価なものであったのか?

消費者物価指数(CPI)基準で換算すると、1870年の1ドルは、現在の約25〜26米ドルに相当するから、本体は約330〜340ドル(現在の日本円で約5万円前後)、総合セットは約400〜410ドル(現在の日本円で約6万〜6万5000円前後)となる。

なお、消費者物価指数よりも実感が高いといわれる、当時の「労働価値・所得基準」で換算すると、1870年代のアメリカでは、未熟練労働者の日給が約1.25〜1.50ドル、熟練職人(大工など)でも日給2.50〜3.00ドル程度だった。

また、平均的な年間所得は350〜400ドル程度である。つまり13〜16ドルは「労働者の半月分〜一ヶ月分近い手取り給与」に匹敵するので、現代日本の感覚(月収25万〜30万円程度)に引き直すと、15万〜20万円相当の高価な趣味・実用機器という感覚になる。

現代に於いて、ノートパソコンとプリンターを購入する程度には高価であったのだろう。 よって、初期投資としては子どもの小遣い(数セント〜数十セント)で気軽に買えるおもちゃではなく、「親にお金を出してもらうか、あるいは自分で印刷請負の小ビジネス(名刺・チラシ作成など)を始めて元を取るための本格的な投資教材・小型生産設備」という位置づけの価格設定と考えられるだろう。

ケルシ―の天才性は、機械を売るのではなく、「創造性と自立」というビジョンを売り込み、冒険と利益の約束で、志ある印刷業者たちを魅了した点にあったという。B.O.ウッズ、ジョセフ・ワトソン、J.クック・アンド・カンパニー、カーティス・アンド・ミッチェルといった競合の印刷機メーカーを買収することで、営業手腕を原動力とする印刷機の帝国を築き上げ、エクセルシオールを市場で最も長く愛され続けた印刷機として定着させた国際印刷博物館のYouTube動画より。

第3節 米のアマチュア出版と英のプライベート・プレス運動

(1)アマチュア出版(アマチュア・ジャーナリズム)

1870年代から1900年代初頭にかけてアメリカで爆発的に興隆した「アマチュア・ジャーナリズム運動」(自称 Amateurdom ないし 'dom=『ドム』)の参加者は12~20歳で中産階級の白人少年が中心だった。

アマチュア新聞を制作する動機は金銭的なものではなく、「自己啓発、楽しい気晴らし、そして独自の組織の発展」のためだった(ruman,1947) 。 通常は10代の若者によって発行されていたが、時には7歳の子供までもがアマチュア出版物に寄稿していたAmateur Newspapers。

アマチュア新聞には一般的に、社説、短編小説、詩、言葉遊び、ジョーク、地元のニュース、そして他のアマチュアジャーナリストに関する多くの論評などが掲載されていたAmateur Newspapers。

アマチュア・ジャーナリズムに於いて、米国で最初の少年のアマチュア新聞は、1805年から1806年にかけてニューヨーク市で14歳のジョン・ハワード・ペインが発行した『テスピアン・ミラー』であるというAmateur Newspapers。

また、別の説ではトマス・G・ ジュニアによる『ジュブナイル・ポートフォリオ・アンド・リテラリー・ミスカレニー』だとHarrisonはいう。アマチュアジャーナリストたちが「不朽のカンディ」と呼ぶこの14歳の少年は、肺結核に苦しんでいたが、1812年10月17日から5年間にわたり、定期的に新聞を発行し続けた(Harrison,1883)。

どちらにしても1890年代(明治23年以降)以降になってから日本では明治青少年の雑誌が発行されるため、かなりアメリカのほうが先行している。 日本は漢詩文が中心であったから、漢字を印刷することが必要である。英数字と記号のみで済む欧米とは、版面作りの点で非常にハンディが大きかったのである。 また、アメリカで近代的郵便制度が確立したのは1792年であるが、そのころの日本はまだ江戸時代中期(寛政の改革期)であるので「飛脚」が配達している時代でアマチュア出版物を移動させる時代ではない。

初期の新聞は、手書き、プロの印刷業者が印刷、あるいは自家製の印刷機による印刷という、3つの方法のいずれかで作成されていたと考えられるAmateur Newspapers。

アマチュア新聞の流行期にはKelsey 社などの卓上活版機("Novelty press")が発売されたので、これに依って自宅で発行する小新聞を印刷し、郵便で全国の同輩と交換をしていた。

1869年の9月18日に、ニューヨークの出版社チャールズ・スクリブナー氏の邸宅で、全国のアマチュア新聞の発行者会議が招集された。 J・B・スクリブナー氏が議長に、Wm・L・ターフーン氏が書記に選出され「アマチュア印刷業者協会(AMATEUR PRINTERS' ASSOCIATION)」として組織化され、アマチュアジャーナリストによる最初の組織が誕生した(Harrison,1883)。

(2)プライベート・プレス運動

同時期の英国では、ウィリアム・モリスらが「ケルムスコット・プレス」を設立し、機械化への反動として、手漉き紙や手作業による製本を重視する「プライベート・プレス運動」を展開した。これは情報の普及よりも、本そのものを芸術作品として捉えるアプローチであったA brief history of the Private Press Movement。

米英のプライベート・プレス運動と若者のアマチュア出版(アマチュア・ジャーナリズム)は、どちらも19世紀後半に隆盛を極め、「営利を目的としない個人による出版」という点では共通しているが、その目的、主体、技術的アプローチにおいて明確な違いがある。

1. 目的と理念:芸術性の追求か、コミュニティの形成か

プライベート・プレス運動: ウィリアム・モリスらに代表されるこの運動は、安価な機械製本への反発から生まれたThe Private Press Movement in Britain and America。

本を単なる情報伝達の媒体ではなく「芸術作品」と見なし、中世の伝統的な手仕事(手漉き紙、独自の活字、手作業による製本)を復興させることで「美しい本(Book Beautiful)」を作ることを目的としていたA brief history of the Private Press Movement。

若者のアマチュア出版: こちらは10代の少年たちによる**「最初のティーンエイジャー・サブカルチャー」として発展したA product of the "amateur press"。

やはりこれは日本の青少年が行った文芸結社や趣味の団体作りと、その機関雑誌の発行と相似な文化であると筆者は考える。

主な目的は、創作を通じた「自己研鑽」や「仲間との交流」にあるAmateur Newspapers。

出版物そのものの美しさや、発行の趣旨・意見の表明よりも、交換や文通によって形成される「擬似的な共同世界(アマチュア・ドム)」に参加すること自体の方が重要視されていたというThe Emancipation of Boyhood。

2. 主体となる層の違い:芸術家・名士か、10代の少年か

プライベート・プレス運動: 主に英国の芸術家、熟練の職人、あるいは裕福な有閑階級(カントリー・ハウスに住む紳士など)によって担われていたThe Private Press Movement in Britain and America。

彼らは多大な時間と費用をかけて一冊の本を仕上げる余裕があるのだったThe Private Press Movement in Britain and America。

若者のアマチュア出版: 主役は11歳から21歳までの「少年編集者・記者」であるThe Emancipation of Boyhood 。

彼らは中産階級の家庭の子供たちで、自分の寝室や食堂の片隅に小さな印刷機を置いて、出版活動をしていたのであるThe Emancipation of Boyhood。

3. 技術と品質:最高級の素材か、手頃なホビー機か

プライベート・プレス運動: 最高品質の素材(手漉き紙、伝統的なインク、特注の活字)を使用し、採算を度外視して発行物は制作されたThe Private Press Movement in Britain and America。

例えば、モリスのケルムスコット・プレスでは、巨大で重厚な手動印刷機が使われていたというA brief history of the Private Press Movement。

若者のアマチュア出版: ベンジャミン・O・ウッズが発明した「ノベルティ・プレス」のような、安価で小型の「ホビー印刷機」の普及が活動を支えていたA product of the "amateur press"。

紙質も、保存性よりも手軽さが優先されることが多く、製造された雑誌は多くは短命なエフェメラ(=目的は一時的だったが後世に残った印刷物の事)となったA product of the "amateur press"。

4. 成果物の形態:豪華な本か、ミニ新聞か

プライベート・プレス運動: 古典の復刻や自作の詩集など、豪華な装丁や製本が施された「本」が主な成果物だったA brief history of the Private Press Movement。

若者のアマチュア出版: 簡単に印刷できる「アマチュア新聞」や「マガジンレット(小さな雑誌)」と呼ばれる、数ページの薄い冊子や新聞形式が一般的だったA product of the "amateur press"。

内容は社説、短編小説、詩、パズルに加え、他のアマチュア仲間への批評が誌面の多くを占めていた。

5. まとめ:

プライベート・プレス運動は「産業革命への抵抗としての芸術運動」であり、若者のアマチュア出版は「安価な技術によって可能になった初期のソーシャル・メディア的ネットワーク」であったと言えるThe Private Press Movement in Britain and America。

第4節 複写技術の三種の神器:hectograph / mimeograph / spirit duplicator

19世紀末から20世紀初頭にかけ、家庭・小規模組織でも扱える複写技術が相次いで実用化された。これらは後のアマチュア出版の物質的基盤となる。

(1)Hectograph(ヘクトグラフ・ゼラチン版/ゲル版)

アニリン染料で書いた原稿をゼラチン板に転写し、そこから数十部を刷る最も安価な方法(日本でいう「蒟蒻版」)。Marion Zimmer Bradley のファンジン Astra's Tower のような実例が残る UMBC Special Collections

(2)Mimeograph(ミメオグラフ・謄写版・ガリ版)

トーマス・エジソンの特許(1876年頃)を A. B. Dick 社が製品化。タイプライターや鉄筆で孔版(stencil)の刷版を整版して、インクを充填したドラムに巻いて印刷する。数百部規模の複写が可能となり、オフィス・学校・教会に普及した。

(3)スピリット複写(Spirit Duplicator(Ditto machine))

Wilhelm Ritzerfeld が1923年に発明。カーボン紙状のマスターから特徴的な紫色のコピーを40〜50部程度刷る方式で、「ditto」は機器のブランド名が普通名詞化したもの。安価だが耐刷部数が少なく、極小部数のファンジンに愛用された Northeast News / University of Iowa Libraries

整版(=同時に刷版ができる)方法だが、原紙(マスター)は三枚で構成されている。一枚目はマスター。二枚目はアニリン染料(着色ワックス)を含んだ専用のシート(カーボン紙のようなもの)。それが保存時にくっつかないためのセパレートシートだ。

例えば二枚を重ねてタイプライターで文字を打てば、圧力でインクが一枚目の裏の転写される。見出しは型を抜いたテンプレート定規があるので《英数字は36個で済む》、定規を使用して上からなぞればよい。

マスターに文字や絵を書いたら、それを印刷機(ハンドルが付いている)の金属ドラムに巻きつける。印刷機にはタンクがありそこに専用のスピリッツ液を入れて置く。

印刷される紙は機械に入ると、スピリッツで湿らせられる(タンクにはフタがあり、フタを下にしてセットしておく。フタには日本の「手水鉢」方式の栓があるので,止水栓が上がった時だけフタが開放されてスピリッツが出る仕組みである)。その湿った紙に文字にインクが付いたマスター原紙のドラムをローラーで巻いて押し当てることで、インクが転写されて出てくる。100〜数百部を印刷する最も安価な簡易印刷法である。

「スピリッツ」の名前の由来は、「インク」として使用される溶剤の主成分であったアルコールを指している。イリノイ州のデットー社が製品を作ったが、英国ではブロック&アンダーソン社が「バンダ」ブランドで製造した。

1970年代以降に大量の複写・印刷が可能なゼロックスが登場し、この印刷法は衰微した(刺青技術者や電気がない場所等で生き残ったが)。

海外では学校の印刷物(連絡・テスト)に使用されたので、藍色のインキとアルコールの匂いに思い出を持つ人が多いというが、日本では何故か「謄写版」のみ普及して「スプリット・デュプリケーター」は一般化しなかったのである(オフィス機器として販売はされていた。未見なだけで家庭用もあった可能性はある)。


第3章 1930年代:SFファンジン文化と謄写版

第1節 mimeo文化の定着

1930年代のSFファンジンの多くは mimeograph("mimeo")で印刷され、部数は数十部から数百部、ほとんどが販売ではなく交換・配布であった Vice。Hellekson (2023) が指摘するように、「最初の本格的ファンジンが登場した1930年時点で、ファンジン複写の様式(hectograph・ditto・mimeo)はほぼ出揃っていた」 Univ. of Akron。1935年の Fantasy Magazine(D. R. Welch / William Crawford 系)のような例を含め、1930年代のファンジン実物コレクションが現在もアーカイブされている First Fandom Experience

第2節 謄写版印刷のZine

1940年代にファンジンを作るやり方としては、自分の愛読している作品に対して、オリジナルのファンコンテンツを手書きで執筆し、謄写版印刷機を購入して、郵便やクラブ、あるいはコンベンションを通じて配布する計画を立てるほど情熱が必要だった。

次に、タイプライターを使用して、ワックスでコーティングされた原紙(繊維質の用紙)にステンシルの要領で文字を打ち込む(タイプのキーはステンシルのコーティングを切断し、繊維のベースを露出させるため、インクが透過するのを可能にする)。

イラストを入れる場合はスタイラス(鉄筆)を使ってフリーハンドでステンシルの技法で原紙に絵を刻む必要もあった。ミスをした場合は、専用修正液で上から打ち直す。印刷することでZineのページが完成する。


第4章 1960年代:ゼログラフィの登場とアンダーグラウンド・コミックス

第1節 Xerox 914(1959年)の衝撃

1944年に初の複写機ゼロックス機が作られたが、実用的なものとしては、1959年、Haloid/Xerox 社が普通紙自動コピー機 Xerox 914 を発売した。月産10万枚の能力を持つこの機械は複写・簡易印刷の文化を一変させたが、価格が数千ドルと高額だったため、個人は職場や大学に設置されたコピー機に依存した——これが「会社のコピー機でこっそり刷る」というDIY出版の倫理的な曖昧さと美学を生んだという Smithsonian / UMBC Special Collections

第2節 小ロット・オフセットと underground comix

1960年代後半、オフセット印刷技術の小口化により、小規模出版社や個人の漫画家でも少部数で採算の取れるコミック出版が可能になった。これを技術的背景として1968年頃から underground comix が勃興する(Robert Crumb の Zap Comix 第1号、1968年) The Comics Journal

注目すべきは、この運動が自前の印刷インフラを伴っていた点である。

(1)The Print Mint

サンフランシスコのポスター印刷所兼出版社。Jay Lynch の Bijou Funnies を出版するなど、初期 comix の印刷・出版を担った。しかし収益配分と制作主導権を巡る対立から、Denis Kitchen らが離脱して自主出版に転じた。

(2)Rip Off Press

1969年1月、Gilbert Shelton、Jack Jackson、Dave Moriarty、Fred Todd の4人が資金を出し合い、中古の Davidson 印刷機を購入して Don Donahue のロフトに据え、Print Mint に対抗する出版・印刷拠点とした。創刊出版物は The New Adventures of Jesus。作家自らが印刷機を所有するという形態は、日本の同人作家が専門印刷所に外注するモデルとの興味深い対照をなす The Comics Journal

第3節 流通の脆弱性と衰退

Comix の主流通路は head shop(ドラッグ関連グッズ店)であったが、1973年の連邦最高裁 Miller v. California 判決(わいせつ基準の地域化)により店側が取扱いを恐れて撤退し、流通を失った comix は1970年代半ばに衰退した。印刷技術が可能にした出版革命が、流通という別のボトルネックに左右された好例である The Comics Journal


第5章 1970〜80年代:パンク・Zine とコピーショップ文化

第1節 Kinko's とコピーショップの民主化

1970年、Paul Orfalea がカリフォルニア大学サンタバーバラ校近くの Isla Vista に小さなコピー店 Kinko's を開店した(開業資金5,000ドル)。1985年には24時間営業店を開始し、誰でも低価格でコピー機を利用できる環境が整った。「copy shop が公衆に安価な複写手段を開放した」ことが、その後のZine量産の条件となった Company-Histories.com / Punktuation

第2節 パンク・ファンジンの爆発

安価なDIY性は punk rock の精神と直結し、1980年代までに Zine 文化はパンクと強く結びついた University of Maryland LibGuides

(1)Sniffin' Glue(1976年、英国)

Mark Perry が1976年7月に創刊した英国パンクの代名詞的ファンジン。マジックペン、タイプライター、ガム(糊)による切り貼りレイアウトで制作され、約1年間に12号が刊行された NOAH / Wikipedia

(2)Maximumrocknroll(1982年、米・サンフランシスコ)

1977年のKPFAラジオ番組を前身とし、Tim Yohannan らが1982年に紙版を創刊。ハードコア・パンクの国際的機関誌となり、2019年まで紙版が続いた SFGate

(3)Flipside(1977年〜、米・カリフォルニア)

コピー機刷りのファンジンから出発し、後にウェブオフセット印刷・光沢表紙の雑誌へと発展した——Zine の「商業化の境界線」を示す代表例である Wikipedia: Flipside)

第3節 Factsheet Five とZineの「メタ・インフラ」

1982年、Mike Gunderloy が自室の spirit duplicator で50部刷ったレビュー誌 Factsheet Five を創刊した。全国のZine・セルフパブリッシュ物を批評・紹介するこの誌は1991年までに44号を刊行し(後に R. Seth Friedman が1998年まで継承)、孤立したZine制作者同士を結ぶ相互交換コミュニティの基盤となった。ガリ版・ditto(スピリッツ複写機) の時代の技術が、コピー機全盛期にも極小部数メディアの手段として併存していた点は興味深い Wikipedia: Factsheet Five 及び Half Letter Press


第6章 1990年代〜2000年代:Riot Grrrl、DTP、そしてデジタル印刷

第1節 Riot Grrrl とフェミニストZine

1980年代末〜90年代初頭、Bikini Kill や Bratmobile ら女性主導バンドを核とする Riot Grrrl 運動が起こり、Queenie、Heck、Yummi Hussi、Mad Planet など多数のZineが運動の主要メディアとなった。コピー機+切り貼りの美学はそのままに、テーマはフェミニズム・身体・性暴力被害の告白などへと拡張された JSTOR Daily / Duke University LibGuides

第2節 デスクトップ・パブリッシング(DTP)

1980年代後半の Macintosh と PageMaker による DTP の普及は、製版・組版を家庭に持ち込み、Zine の「プロっぽさ」の基準を引き上げた。コピー機切り貼り美学(cut-and-paste)との意識的対比も生まれた。

第3節 デジタル印刷とPODの到来(Ka-Blam の意義)

2000年代に入るとデジタル印刷機の品質向上により、製版なし・1部からのオフセット同等品質印刷が実現した。第1章で見た Ka-Blam(2005年設立)が「フルカラーの small press comic は事実上存在しなかった」状況を打破したことは、印刷所がコミュニティの要請から生まれ、コミュニティの経済構造(在庫リスクの解消)を変えた事例として、日本の同人誌印刷所の発生と平行的な意義を持つだろう Ka-Blam公式


第4節 作り方のTips

本節は直接、印刷とは関係がない項目もあるが「HOW TO MAKE A ZINE」(https://www.zinebook.com/resource/zinetips.html#technical)をみると、米国のZine発行者が置かれた状況や注意すべき点が、日本とはかなり異なるので、ここに紹介したい。

(1)版面

・文字を小さくし過ぎると読みにくくなる。テキストを白い背景に配置する

・一般的にセリフ体(明朝)の方が読みやすいとされている

・強調するためには、文字サイズやフォントを変化させる

・段落やページの上部または下部に単独で残る1行のテキストは避ける

・本文全体をすべて大文字で書かない。非常に読みにくくなる

・ページ全体に広がるテキストよりも、段組みのテキストの方が読みやすい

・まず最初に目に入るのは人物の顔。顔の中でも最初に目が行くのは目

・顔はページの外ではなく、ページの中央を向いているべき。車、馬、犬なども同様。動いている場合は前方に余白を確保する

・視線は線に沿って移動するから、線がどこに向かっていることを確認する。フレームに対して斜めに走る線は刺激的。曲線は動き、下向きに曲がる線は悲しみを、上向きに曲がる線は喜びを表す

・コピー機で複写する場合は、網掛けのない広い黒の領域(ベタ)を避ける。中心部に向かって白く写ってしまうことがある

・印刷する場合は、線が非常に細いイラストは避ける

・印刷用のカラーイラストは白黒に変換する。青色は消えてしまうことがよくあり、赤色は黒く変色する場合がある

・バナーは上部に配置するか、左側に寄せる

・可能であれば、常にテキストと画像を組み合わせて使用する

(2)印刷

・印刷会社は、余分な枚数を印刷するが余分な部数に対しては最大10%の追加料金を請求する会社もある

・500部を超える印刷の場合、コピー機で複写するよりも印刷した方が安くなる

・複数社から印刷の見積りを取ること。設備の種類によって大きく異なる。大型印刷機によるタブロイド判の印刷は、枚葉印刷による普通紙の印刷に比べて約半分の価格で短時間。

・新聞用紙は最も安価な紙。この紙には、厚さや白さの違いがいくつかある。印刷部数が増えるほど、1,000部あたりの単価は安くなる

・少部数の場合は、カラーコピーではなく、手彩色や色紙の使用を検討する

(3) 郵送

・封入費用と手間を削減できるよう、裏表紙を郵送用封筒に活用することを検討する

・受刑者やその他のグループへの配布が無料であるかどうかを明記する

・重量と郵送料に応じてZineのサイズを計画すること。12ページのハーフサイズZineの郵送費は0.32、24ページは0.55、36ページは0.78です。これらのサイズが郵送料を最も有効に活用できる何も考慮せず100ページものZineを作成しない

・米では大量発送(Bulk Mail)を利用すると、郵便料金の約3分の1を割引できる(一括料金で送るには、郵便物を仕分け・束ねておく必要がある、1回の郵送につき200通以上であること)

(4)販売

・お金そのものではなく、送料を請求するようにする

・海外からの現金や小切手は、送金処理が容易ではないことに注意、この方法で支払いを受け入れる前に、銀行手数料を確認しておく。海外の読者にはIRC(国際返信切手)の送付を依頼する

・新聞販売スタンドでの視認性を高めるため、フルサイズの縦長フォーマットを活用する。不定期に発行する場合は、表紙に日付を記載しない。たとえ最新号であっても、日付が古いとZineは棚から外される

・返品については、表紙のみを受け入れる準備をしておく

・請求書を送らないと支払いはない

・他のZineで見かけたすべてのディストリビューターをリストアップする。すでにZineの発行を受け入れているので設置可能。通常、個人からの仕入れはしないため大手チェーン店は避ける

・米国議会図書館から正式なISSNを取得すると、図書館が積極的に購入してくれるようになる

(5)発行にあたっての注意

・ZINEが発行されない場合は、投稿作品を返送するか、説明のハガキを送ること。寄稿者は、ZINEと引き換えに作品を送っている

・すべての寄稿者の氏名と住所を掲載すること

・特に表紙には、手彩色、ステッカー、ゴム印、番号や日付、署名、あるいは個人的なメッセージなど、手作りの温かみを感じさせる工夫を取り入れてみる

・作品に著作権を主張しない、「自由に複製可」、「アンチ著作権」といった表記を使用する*2。迷う場合は、「出版後、著作権は寄稿者に帰属する」と明記する*3。複製を許可することで、文章やアートは他のZineに取り上げられ、流通範囲が広がる。また、「この素材が掲載された出版物のコピーを送ってください」*4や「出典を明記してください」*5という文言も記載する

・著作権で保護された素材は使用しない

・定期発行の計画を立て守ること。最初は不定期発行や、「単発号」も良いアイデア。様々な形式や出版スタイルを試す

・誌面で他人を攻撃しない。書評の内容や口調には注意を払うこと。決して人間関係を壊さないようにしましょう

・性別、人種、国籍、その他の境界線に対して配慮を示す。地球の反対側で誰が封筒を開けているか、あなたにはわからない

・読者の反応を引き出したい場合は、文章やイラストを募集したり、書評、アンケート、コンテストを実施したり、広告交換を行うことを検討する。読者にあなたへ手紙を書くきっかけとなる

・購読料の収入を前提とした計画を立ててはいけない

・女性の場合、性差別やハラスメントを防止するため可能であれば、性別が判別できないハンドルネームを選ぶ。特にメールにおいて重要。私書箱の利用も検討する

・ZINEに電話番号を掲載すると、あなたの番号に課金しようとしたり、嫌がらせをしようとする者によって悪用される可能性がある。代わりにボイスメールや電子メールの利用を検討する

・他者は、あなたの意図とは大きく異なる方法であなたの記事を解釈する可能性がある。様々な人のリストを公開することは素晴らしいアイデアだが、悪意のある者の手に渡れば嫌がらせにつながる恐れがある。皮肉を込めた記事も誤解される可能性があるので注意する。

・受刑者の中にもネットワーク活動者は存在している。彼らは何らかの理由で服役しているから、情報を公開する際はその量や種類に注意を払うことをお勧めする

(6)ZINEと遵法

・他国に送る際、郵便物はほぼ確実に検査されることを念頭におく。郵便に関する規制について事前に確認しておく

・掲載内容に疑わしい場合があるときは、21歳以上であることを確認する声明を投稿者から求める。さらに安全を期すために、写真付き身分証明書の提示を求める

・掲載物には、「本コンテンツは編集部の見解を表すものではなく、教育または娯楽目的でのみ提供されています」といった、免責事項を予め記載しておく*6

・在住州で定められている「コミュニティ基準」*7を理解し尊重する。郵便検査官(Postal Inspector)は権限の強い役人であり、疑わしい郵便物はすべて独自の権限で隔離・検査・開封する

・性的な内容は郵送物の表紙に載せないか封筒に入れて送る。封筒を使用しない場合は、端をホチキスで留める。さらに安全を期すために、不必要に検査されないアメリカ郵便公社の「ファーストクラス」で送る。安い郵送料の種類だと開封される可能性がある*8

・法律違反の疑いをかけられた場合、あなたのZineや文章が違法行為の証拠となる可能性がある

・違法行為の手順や助言は与えないこと。情報は、教育目的、場合によっては娯楽目的でのみ提示してください

・CIAやその他の機関は、特定の出版物を精査し、追跡ている可能性が高い。ネットワーク参加者の氏名や住所、およびその活動を公開する際は、この点に留意する

・おとり捜査に注意。もし誰かから「小児性愛」関連の資料のカタログが送られてきた場合、それはおとり捜査である可能性が非常に高い。好奇心から疑わしい資料を注文してはいけない。そのような資料を所持したり、郵便で受け取ったりすることは違法である

本節は全て『Zinebook』のHOW TO MAKE A ZINEを参照した。

『Zinebook』というサイト(https://www.zinebook.com/resource/zinetips.html#technical )に掲載されたテキストであるが、元資料の出典について「かつてアシュリー・パーカー・オーエンズ(Ashley Parker Owens)が運営していた『Global Mail』に掲載されたもの(1995年執筆)」と記されており、号数はGlobal Mail (Sept.-Dec. '95)と表記されている。 孫引きになるため、原典を確認した。インターネット上で『Global Mail』12(1995年9月–12月)を確認したところ、Zineに関する断片的な情報は散見されるものの、『Zinebook』に転載されている「Layout」「WARNINGS」「Text」といった項目の記載は見当たらなかった。しかしながら、同サイトには「Anti-copyright 1995.」との表記があることから、本稿では同サイトの記述に従い、原出典として、

Ashley Parker Owensおよび『Global Mail』1995年

と明記する。 なお、この第4節はアメリカにおけるアマチュア出版の留意点(免責事項)などを伝える資料として日本と異なる点が興味深く、引用の範囲を超えて翻案(翻訳紹介)している。 著作権法上の主従関係を欠くため、将来的に単行本化する際には削除する予定である。


第7章 2010年代〜現在:Risograph リバイバルとZineフェア文化

第1節 リソグラフ の技術史(日本からの輸出)

Risograph は理想科学工業(Riso Kagaku)の製品である。同社は1958年にロータリー謄写版機「RISO-GRAPH」を完成させ、1980年に初のプリンター・デュプリケータ AP7200(デジタル孔版印刷機)を市場投入した。スクリーン印刷とコピー機の中間のような特性を持つ RISO公式 / Goldtop。

第2節 欧米におけるRisoリバイバル

本来はオフィス向け高速複写機だったこの機械を、アーティストが表現メディアとして再発見したのが2000年代末〜2010年代の動きである。2009年にロンドンの Ditto Press が英国初のRiso専門会社として創業したのが象徴的で、続いて Issue Press(2011年〜)、Secret Riso Club、Footprint Workers Co-op など、スタジオ兼コミュニティ拠点が米英各地に開かれた(第1章第3節の表参照)。「stencil.wiki」に世界的なRisoスタジオ目録が整備されるほどのネットワークを形成している stencil.wiki

第3節 Zineフェア/アートブックフェアとの共生

LA Zine Fest、NY Art Book Fair(Printed Matter 主催)、各地の comicon を始めとする即売・交換イベントが常設化し、RisoスタジオやPOD業者はそこへ出品する制作者の「締切に合わせた印刷」に応需している。

つまりイベント応需という構造は日本のコミケと同型であり、違いは印刷所がイベント運営と直接提携するか(日本型)、汎用ウェブ発注で吸収するか(欧米型)にあると整理できる。


第8章 総括:欧米アマチュア出版印刷史の系譜

時代 主要技術 代表的運動・媒体 印刷インフラ
1870s–1920s 小型活版・hectograph amateur journalism(NAPA/UAPA) 個人所有の卓上活版機
1930s–50s mimeograph / spirit duplicator SF fanzines(The Comet、The Planet、FAPA) 中古謄写版機の個人所有
1960s 小ロット offset・Xerox 914 underground comix、CAPA-alpha Print Mint、Rip Off Press(自前印刷機)
1970s–80s photocopier・copy shop punk zines(Sniffin' Glue、Maximumrocknroll) Kinko's 等のコピーショップ
1990s DTP・コピー機 Riot Grrrl zines、Factsheet Five 系ネットワーク copy shop+家庭PC
2000s デジタル印刷・POD indie comics Ka-Blam、Comix Wellspring、Lulu
2010s–現在 Risograph・デジタル併用 zine fair 文化、アートブック Ditto Press、Issue Press、各種Risoスタジオ

欧米の特徴は、「印刷所」よりも先に「技術の民主化」(複写機・コピーショップ・家庭PC)が文化を駆動してきた点、そして専門印刷サービスは比較的後発(2000年代以降)で、コミュニティ需要から自生的に立ち上がった点にある。日本の同人誌印刷所が「イベント即売会経済」に最適化された専業サービスとして早期に発達したのとは対照的な経路であるが、21世紀に入り両者は機能的に収斂しつつある——というのが本調査の結論である。


参考文献・参照URL

*1:ちなみに2026/8/4現在で、A4判100部80頁・本文4Cカラー・紙は80ポンド・無線綴じ・表紙カバーは4C印刷のコート80ポンドとした場合、481.5ドルの見積(一ドル150円で約7万2千円)と積算されたが比較的廉価である(印刷機は4C機の「HP Indigo 7600」でなのでフルカラーです)。 対して日本の激安通販印刷のグラフィックは、本文上質紙70k、表紙はコート110k、総てフルカラー、A4判80ページ100部で49,440円であるが、これはかなりの激安である

*2:アメリカのZine文化では「コピーライト(著作権)」による縛りを、大企業や資本主義のシステムだと捉え、それに反発して「コピーレフト(Copyleft)」や「アンチ著作権(Anti-copyright)」を掲げた。情報やアートはみんなで共有し、自由に拡散されるという思想が根底にある。

*3:Zineでは「作った個人の権利」を最優先「出版後、著作権は寄稿者に帰属する」にすれば、寄稿したライターやイラストレーターは、後から自分の作品を別の場所で自由に再利用できる

*4:Zineの作者たちは、お金の代わりに「Zineの物々交換(Zine Trade)」で繋がる関係性を持っている。「自由にコピーしていいよ」と言う代わりに、「それを使った君の作品も見せてね」と呼びかけることで、遠く離れた別のZine作者と友達になり、コミュニティを広げていくための定番の挨拶文。

*5:「コピーして使うのは大歓迎だけど、誰が作ったものか(作者名や、このZineのタイトル)はちゃんと書いて紹介してね」というルール。作った人への敬意(リスペクト)として、「〇〇というZineから引用しました」とクレジットを載せることだけはマナーとして求めている

*6:免責事項(Disclaimer)を記載すべき理由は、アメリカの非常に厳しい「名誉毀損(Libel)」や「著作権侵害」の訴訟リスクから、発行者や編集部を法律的に守るためである。 アメリカは個人間の訴訟が非常に多い社会であり、ZineのようなDIY精神に基づく自由なメディアであっても、法的な責任を問われるリスクが常にある。 免責事項を書く主な理由は以下の3点に集約される。 1. 「事実の記述」ではなく「個人の意見」だと明確にするため(名誉毀損対策) アメリカの名誉毀損法(Libel Law)において、「虚偽の事実」を掲載して他人の名誉や利益を傷つけると、高額な賠償金を請求される判決に繋がる。しかし、「個人の意見(Opinion)」であれば、憲法修正第1条(表現の自由)によって強く保護される。「編集部の見解ではない」と書く理由は、掲載された過激な表現や批判が、あくまで執筆者個人の主観的な「意見」であることを強調し、事実の報道ではないと示すためである。「娯楽目的(Entertainment purposes)」と書く理由は、記事を真に受けて被害を被ったと主張されるのを防ぐため(例:「この記事を読んで試したら怪我をした」「騙された」というクレームを「これはただの娯楽(パロディ・ユーモア)です」として退ける盾になる)。 2. 発行者・編集部への飛び火(連帯責任)を防ぐため アメリカの法律では、「ライターが書いた偽りの内容であっても、それを掲載したメディア(発行者・編集部)は同等の法的責任を負う」という原則がある(Republisher Rule)。 Zineの編集部が「これは執筆者個人の見解です」と予め宣言しておくことで、万が一記事が裁判沙汰になった際に、「編集部全体への訴訟や、Zine全体の活動停止」へと飛び火するリスクを軽減しようとする防衛策となる。 3. 他の著作物を引用する際の「フェアユース」を主張するため Zineの文化では、既存の雑誌の切り抜き、写真、歌詞などを無断でコラージュしたり引用したりすることがある。アメリカの著作権法には、一定の条件を満たせば無断引用を認める「フェアユース(Fair Use)」という制度がある。このフェアユースが認められる重要な基準の一つが、「商業目的ではなく、教育(Educational)や、非営利の批評・パロディ目的であること」だ。免責事項に「教育目的(Educational purposes)」と明記しておくことは、万が一著作権者からクレーム(警告状)が来た際に、「これはフェアユースの範囲内である」と主張するための法的な伏線になる。 日本の感覚からすると「Zineなんだからお堅い表現はいらないのでは?」と感じるが、訴訟社会のアメリカでは、個人が身を守りながら自由な表現を続けるための「必須の知恵」となる。

*7:アメリカの法律、特に各州の「わいせつ物規制法」などで定義されている「コミュニティ基準(Contemporary Community Standards)」とは、「ある表現物が法的・社会的に許容されるかどうかを判断するための、その地域社会(州や街)の平均的な人々の現代における良識・倫理観」のこと。アメリカの憲法や裁判において、表現の自由の限界を決めるための極めて重要な法的概念である。「全米一律」の基準ではないのは、アメリカは広大であり、リベラルな大都市(ニューヨークなど)と、宗教的・保守的な田舎の町(南部や中西部の地方都市など)では、「何が不適切(わいせつ)か」の感覚が全く異なる。1973年の米国連邦最高裁判所の判決(ミラー対カリフォルニア州事件)で違法(わいせつ)かどうかを裁判で決める際は、「全米一律の基準」ではなく、裁判が行われている「地元のコミュニティ基準」を適用しなければならないと定められた。 あるZineや本、アート作品が「表現の自由(憲法修正第1条)」で保護されるか、あるいは「違法な不適切物」として処罰されるかは、地元の市民から選ばれた陪審員(Jury)が以下の問いにノーを突きつけるかどうかで決まる。 「その地域の平均的な人が、現代のコミュニティ基準に照らし合わせて見たとき、この作品はあまりにも露骨で、単に性的な興味を刺激する(または著しく不快な)だけのものか?」 「地元の人たちの平均的なモラル(=コミュニティ基準)に反している」と陪審員が判断すれば、その州では違法になる。 個人のZineであっても、全米(あるいはネットを通じて世界)に流通させる場合、どこか遠くの厳しいコミュニティ基準に引っかかってトラブルになるリスクが常にある。 そこで、免責事項(Disclaimer)で「この本は教育または娯楽目的でのみ提供されています」という表記があれば、コミュニティ基準で「わいせつ・有害」とみなされても、作品に「真面目な文学的、芸術的、政治的、または科学的な価値(SLAPS価値)」があれば、憲法で保護されるという例外ルールがある。免責事項を宣言しておくで地域の厳しいモラルによる一方的な検閲から身を守るための重要な防御壁になる。

*8:下位の広告郵便(Marketing Mail)などが後回しにされるのに対し、ファーストクラスは優先的に処理されるので到着日数が早い。そしてみだりに開封されない強力な法的プライバシー保護が受けられる。また、受取人が引っ越していた場合、追加料金なしで新しい住所へ無料転送(12ヶ月間)する。更に住所不明などで届けられなかった場合は、無料で差出人に返送される。割引料金の下位のバルクメール等では、転送や返送を希望すると追加料金が発生するか、そのまま破棄されてしまう。

【番外】「未知の問いを作る」、「日本十進分類法」によるアイデア発想法とは

 

なぜこの日本十進分類法によるアイデア・発想法を公開するのか

もう年も年なので、あと二十年も生きるかどうか分からない。

ならば、自分の中だけにしまっておくよりも、もしも利用できる方がおられるなら、その方が本望である。

そこで今回は、私が長く使ってきたアイデアの出し方の一つ、その名も「日本十進分類法(NDC)発想法」を公開します。

 

その方法とは、図書館で本の分類に用いられている「日本十進分類法」(NDC)を、企画・アイデア・発想の際の道具として転用するものである。

 

日本十進分類法は、本来は知識を整理するための分類表である。

しかし見方を変えれば、これは「森羅万象をどう分け、どう俯瞰するか」という思想のかたまりでもある。

図書館では世の中で作られた膨大な書籍を数桁の数字(例えば日本のノンフィクションなら916)で分類して配架する(本の背表紙の下部に数字のラベルが貼ってある)。

その背後には、NDCという社会科学・自然科学など世の中の「知識」全体を見渡すための構造があるのだ。

アイデア出しの発想法として有名なものにはKJ法、ブレーンストーミング、マインドマップなどがある。

しかし多くの発想法は、最後のところで結局は自分の頭の中に頼ることになる。

ところが人間は、自分自身が蓄積してきた「既知の智識」という枠・制限の中でしか考えられないことが多い。

「他人が発想」して「あっ」と驚くことはあるが、自分自身から思いも寄らぬ視点というものは、なかなか出てこないのである。

そこを突破し、自分の発想で自身が驚くために、私は日本十進分類法を使ってきた。

「NDC発想法」とは何か?

この方法の要点は単純である。

読書が好きな程度に知的な方であれば、誰でも使うことができる。

考えたい対象(=論点・概念・主題などのキーワード、これを対象Xとする)に対して、日本十進分類法の各分類を機械的にぶつけていくだけである。

対象Xに対して、NDCの区分表をみて、1から順番でもいいし、適当な分野からでもいいので、哲学、歴史、法学、経済、医学、宗教、文学、建築、交通、情報、教育、労働、福祉といった各領域を、半ば強制的に対象Xに組み合わせて、考える。

この「半ば強制的」というところが肝である。

人間の発想は、普通は自分の専門や関心の近傍しか動かない。

だがNDC発想法を使うと、本来なら結びつけなかった領域が無理やり接続される。

その結果、自力ではなかなか出てこない「未知の問題設定」や「考えもしなかった主題」が生まれるのである。

これは、単なる連想ゲームではない。

整理のための分類表を、未知の項目への接続を発見する装置として使う方法である。

言い換えれば、対象Xを社会全体の構造へ再配置する技法である。

とくに、論文の「問い」を考えるときや、一つの主題について複数の論点を洗い出したいとき、書籍の全体構造(章・節・項目)を作るとき、あるいは新しい学問領域の見取り図を作りたいときに、非常に役に立つのである。

「NDC発想法」を『患者学』で試したら

以前、私は医療系雑誌を作っていた関係で、医療政策などを勉強していた。そのとき、

医師には「医学」の学問があり、看護師には「看護学」の学問があるのならば、患者に関する学問があってもよいのではないか? いやむしろ在るべきでは

と考えた。

そこで誰に頼まれたわけでもないのに、どこかの大学へ「患者学部」を設置することを提案する、ということを考えて企画書を勝手に作った。

しかも企画案だけでなく、患者学部で学ぶべき科目とその解説、つまりシラバスの見本まで作ったので、いっけんすると新しい学問の体系をゼロから案出したことになる。

(なお、この企画書をもとに各大学に電話営業をしたが、そもそも大学に学部を作る際に重要な視点が抜けていた、これは関係がないのでここでは記述しない。一番後ろに後述する)

しかし当然ながら、「患者学」という既成の学問体系は存在しない。

そこで私はNDC発想法を使ったわけである。

日本十進分類法の各項目に対して、「患者」という語を順番に与えていった。

たとえば「法律」と組み合わせれば、「患者と法律」という論点が立ち上がる。

そこから、「患者の権利擁護、自己決定権、インフォームド・コンセント、生命倫理、医師の職業倫理」といった問題群が見えてくる。

さらに「患者の権利と責務」の周辺には、患者の権利に関する国際宣言や、諸外国の制度、権利擁護関係(アドボカシー、エンパワメント、セルフエフェカシー)の概念や歴史などが連なっているため、医療関係で使用される人権意識や自己決定(服薬コンプライアンスからアドヒアランスへ)の考え方の学問を、「哲学史」的に取り込む必要があることも分かる。

 

またNDCの「9」にある「文芸」と患者を組み合わせると、結核療養所や入院先で文学サークルが作られ、同人誌が発行されてきた歴史が思い出される。

すると「患者と療養文芸」という切り口が立つ。

さらに、学問としては単に「療養所で同人誌を作った」とか「新聞の俳句欄に投稿した」などでは展開が開けない。

そこで、一ひねりすることが必要である。「病者・やまい・文学」の「三題噺」で、論文になりそうな主題を考えるのである。

「”病者の語り”とは何か―ナラティブ・アプローチの小児科での課題」

「日本文学における私小説と病いの関係性の深化-結核に於ける作家の表象」

「サナトリウムを舞台にした作品の系譜と変遷」

「完治しない病と折り合いをつけて生きる軌跡とそのあり方」

「隔絶された空間-病の社会性からみた『いのちの理論』への批判」

「クラインマンの「説明モデル」にケアマネジャーが介入することの是非」

(および各論点を諸外国と比較するなど)《以上は全く適当です》

様々な論点へ展開していくうちに、「病いの語り」をめぐっては、A・フランクの「病いの語りの三類型」、アーサー・クラインマンの説明モデル、グッドの議論なども参照可能であり、有用だと分かってくれば、それもシラバスへ採り入れる。

つまりNDC発想法は、「その対象に関する既存の学問がない」場合には非常に有効である。

ゼロから体系を立ち上げ、構成をする際の、骨組みの発見法として機能するのである。

今回添付したExcelファイルの「患者学」シラバス案も、そのような発想の産物である。

「NDC発想法」が開く視野と、その限界

この方法の効用は、学際的な視野を、思いつきではなく構造的に生み出せるところにある。たとえば「患者」という対象一つをとっても、患者+経済、患者+法学、患者+文学、患者+宗教、患者+建築、患者+交通、患者+情報、患者+労働、といった論点が一気に現れる。これは対象を全社会的に照射し直す方法であり、研究の入口として非常に強い。

別の例を挙げれば、私は以前、「おたく」が戦後に生まれた背景には、徴兵制度の消滅があるのではないか、と考えたことがある。普通、おたく論はメディア論、消費文化論、サブカル論、青年論の範囲で閉じがちである。ところがNDC発想法で「軍事」「国家」「徴兵」という語と接続してみると、戦前の日本では国家が男性の身体を統制していたこと、男らしさが制度化されていたこと、戦後にはその身体規律が崩れ、国家優先から個人優先へ移ったこと、そして個人趣味への没入が許容される社会が成立したこと、という連鎖が見えてくる。これは単なる思いつきではなく、制度史と趣味の文化をつなぐ視点である。

また、この方法は「専門家病」を避けるうえでも有効である。専門研究者ほど、既存研究の枠組みに閉じ込められやすい。だがNDC発想法は、分類上は隣接していない領域をあえて衝突させるので、既存学問の盲点を見つけやすい。

もちろん限界もある。NDCは近代図書館学に基づく分類である以上、インターネット文化、感情、サブカルチャーの細部、現代的な生活実感などを十分には整理しきれない。また、「分類にあるものだけを考える」という罠もある。分類されていない問題は、まるで存在しないかのように見えてしまう危険がある。

それでもなお、研究でも執筆でも最も難しいのは、しばしば「何を問うか」である。問いが立たなければ、調査も構成も始まらない。その意味でNDC発想法は、答えを出す技法というより、問いを作る技法としてきわめて有用である。整理の道具として知られている日本十進分類法を、発想のための装置として使う。私はこの方法に、まだ十分に活用されていない可能性があると考えている。

 

※大学に新規学部を設立する時に、重要なことは何か?

なぜ大学に、「新学問」として提案しようと考えたのか。

それは少子化を考えると、大学側も「学生の集客」のためにアイデアを受け容れてくれるのではないかと思ったからだ。

そして営業をしてわかったことは、重要なのはシラバスとか、教員・研究者の候補とかではなく、「その学部学科を卒業したあと、どうなる?」の提案が大事だったのである。

つまり「患者学部患者学科」を卒業した学生は、いったい何になり生活し、社会に役立つのか? を説明できるかということだ。

一つには「資格取得で就労ができる」という考え方がある。

そうした場合は、既存の資格(精神保健福祉士や介護士)は既に教育経路があるので、新しい資格の設立という大変なことも併せて考えないといけない。

「患者の権利を擁護し、社会での治療環境の向上を援助する職種」という主旨で「患者権利擁護士」などを考案し、この学部で学べばその資格が取得できるなどの特典が必要なのである。

そうでなければ、応募学生が集まらない。高校三年生が将来に対して明確なビジョンを未だ描けないとしても、単にその学科で学んでも就職時に役に立たない、潰しがきかないようでは受験者も生まれない。

その為にはまずは資格を国家資格にするために動かなければならないのだが、何より医療・福祉・介護の資格であれば、「資本主義」の原理によってその資格を持っていることで、資格者が就労し易いというシステムも必要となる(逆にいえば労働市場で資格者への需要が生じる必要がある)。

 

具体的に考えてみよう。

就労先を「病院」と仮定すれば、病院側が「患者権利擁護士」を「チーム医療」として雇用するメリットが必要だ。雇用しても特に何にも役立たないのでは採用しない。

そうなると、病院の収入の主力は「診療報酬」であるから、様々な「医療行為」に対して、「値付け」が必要となる。

つまり「健康保険」の「診療報酬点数表」に於いて、

「患者の権利と責務に関する『施設方針』を、患者権利擁護士の監修のもとで定め、恒常的に掲出し、同擁護士が1人以上常勤している場合は、月に1回のみ『権利擁護』算定料50点を算定する」

「2000点以上の手術を受けるの際に、常勤の患者権利擁護士が、医師の説明時に同席して患者に援助活動をした場合150点を算定できる」

などが、新規に収載されないと、病院が一生懸命に「患者の権利擁護」に取り組んでも、利益が生まれない訳である。

※「患者学体系」の例

 

 

 

 

おたく文化は突然発生したのではなく、戦前の趣味家・蒐集家文化の延長線上にある

第10項          趣味家が体現した観察・研究と創作・発信の両面性

近代における「趣味家」の多くは、同時に「蒐集家」でもあった。

彼らは単に蒐集を行うのみならず、木版画や和綴じ、孔版といった描画・製版・印刷に関する知識および技術を有していた。

そして彼らの関心は、浮世絵や江戸風俗に代表される「江戸趣味」、土器の採集を起点とする「考古学」的関心、さらには「土俗」の記録や土地の伝承の採集といった「郷土史」的な営為へと多岐にわたっていた。

また、郷土玩具や郷土史研究、寺社仏閣に対する関心も深く、具体的には、蒐印(御朱印蒐集)、絵馬や土鈴の蒐集、祭礼への参加、縁起物の蒐集、さらには故人の墓蹟探索などもが挙げられる。

さらに、彼らの興味関心は性科学やいわゆる「軟派物」(猥褻文書、春画、性神探訪、変態性欲に関する事例採集・記録や創作)にも及び(戦前〜昭和中期の通俗性科学では、同性愛・SM・フェティシズム等の性的嗜好は『変態性欲』『性的倒錯』として包括されることが多かった)、更には「変態性欲」的あるいはグロテスクな世界、すなわち「猟奇趣味」的な領域[*]にまで広がっていた。

こうした領域に対しても、単なる蒐集を超えて、調査・研究を行う姿勢を見せていたのである。

また、歌舞伎や川柳・俳諧といった文芸・芸能の方面にも造詣が深く、広範な関心と高い教養を有した文化的な多能者であったことが確認される。

加えて、こうした趣味家・蒐集家たちは、蒐集や研究を発表する機関雑誌の発行のみならず、自作の凝った年賀状、さらには千社札・蔵書票・土鈴・燐票・手拭などに至るまで、主に木版印刷によって自ら製作(自刻・自摺)し、交換する文化を形成していた。

このような創作活動は、単なる蒐集対象としての蒐集物を超え、自己表現の手段としても機能していたといえよう。

これらの創作的な寸葉品については、非専門家によって私製されたものであるがゆえに、蒐集の対象物として正当とみなすか否かについては古くから「賛否両論」があった。

しかしながら、趣味家とは単なる「集め屋」や「消費者」の段階にとどまらない。

ゼロから創作物を生み出す能力を備えた「創作者」としての側面をも有していた。

蒐集家として対象を観察・蒐集・研究し、寸葉品のみならず知識や感性を自己に蓄積する志向性(入力)に加え、それらを自らの表現として他者へ発信・提示する能力(出力)することをも併せ持つ存在であった。

こうした点から、趣味家は蒐集と創作の両面を兼ね備えた、極めて多芸多才な文化的主体として位置づけることができる。

第11項          戦前趣味家の行動性と人的交流

さらに、筆者が現代の「おたく」に擬している、戦前の趣味家たちは外向的で、対人的な人的交流にも積極的であった。

現代においておたくと称される人々には、閉じこもって書物や蒐集物に耽溺する内向的な印象が付きまとうが、「おたく」を戦前の趣味家に敷衍する際には、この点を勘案することが大切である。

当時の趣味家の実像は、蒐めている物の情報蒐集および、更なる蒐集活動の必要性から、むしろ積極的に戸外に出る志向性を有していたのである。

特に江戸期から戦前にかけては、現在のように交通・通信インフラが発達しておらず、蒐集や研究を進めるには自らの足で現地へ赴き、人との接触を通じて情報を獲得する必要があった。

情報に後れを取れば、望む蒐集品の獲得は困難となるため、室内に籠もるのみの消費的態度では満足し得なかったのである。

例えば、路上や公園で「燐票」や「商品」等の包装紙・商票を探索し、寺社へと足を運んで納札を貼る、あるいは名墓を訪ねて碑文の拓本を採取するなど、いわゆる「野外活動」を伴う趣味活動は、当時の趣味家にとって不可欠であった。

また、鉄道趣味においても、駅へ赴き列車を観察・記録する実地的行為がその中核を成しているだろう。

対人関係においても、彼らは情報蒐集を目的とした小集団や研究団体を形成し、蒐集家同士の茶話会や、寺社見学会等の行事を通じて交流を深めていた。

こうした場では、「機関雑誌」を通じて研究成果や最新情報の共有が行われ、極めて実践的な知的交友関係が築かれていた。

ただし当時の通信手段の制約から、交友活動は主に都市部に居住する者同士に限定される傾向はあったのは仕方がない。

学校・親戚・町内などの、生年を契機とする集団や、同じ関心・興味で集った団体では無い場合は、そこから逃避して自分の「私的空間」で趣味に耽溺するけれど、同好者による団体には親和性を感じる居場所があるということだ。

第12項          教養的趣味とマニア的趣味の併存

現代のおたくたちが「コミックマーケット」(コミケ)に参加し、自作の出版物を販売している姿は広く知られているが、戦前の趣味家においても、私家版雑誌の刊行や、百貨店における自らの蒐集品の展示会開催といった活動が見られた。

巨大なコンテンツとしての「漫画」は当時存在しなかったものの、仮に当時「コミケ」的な催事があったならば、趣味家たちは間違いなく、様々な「趣味」の媒体を分野別に区分けして同じように成立させ得たであろう。

では、戦前に趣味誌の「コミケ」的な催事を開催した場合、戦前の趣味の中でも、特にマニアックかつ深い趣味とはいかなるものであろうか。

例えば、赤の他人の墓を訪ねて礼を捧げ、業績を偲ぶ「掃苔」は、一般には理解の及びにくい実践であろう。

あるいは、年賀状や絵葉書、千社札、燐票といった紙片を木版で自作し、同好の士と交換する美術的な趣向の面白さは伝わり難く、面白さは共有されないかも知れない。

足袋や駅弁の「ラベル」や「掛け紙」を蒐めて分類し、美麗な意匠を持つ寸葉品をスクラップブックに貼付・整理する行為も、一般人からは「なぜ」と、奇異に映った可能性が高い。

一方で、趣味家たちはこうした極めて深化した趣味の愉しみに加え、映画や音楽鑑賞、読書、相撲観戦、囲碁将棋といった、いわゆる一般的な「教養的趣味」も並行して嗜んでいた。

また、知的好奇心の強さから、「マニアック」とされる領域には至らぬまでも、蓄音機による音楽の室内再生、ラジオや科学模型の製作、鉄道車両の研究や写真撮影(現代の分類でいうとことの「撮り鐵」)といった趣味も、当時から併せて楽しんでいたことが確認される。

趣味家は特定の関心空間に閉じこもるのではなく、極めて多様な興味・関心を持ち、広範な分野に柔軟な姿勢で接していた。

そうした多元的な趣味観のもと、教養的趣味への理解と、専門的な対象への深い探究心とを兼ね備えていたのである

(この「雑食性」は趣味家の「特徴」ともいえる。酒ラベルを集め乍ら切手・古銭も蒐める理由は、貴重な酒ラベルが登場した際への「交換要品」という、「政治的」な策略の使い道でもある。個人的には乗車券しか集めないとか、駅弁の掛け紙のみにまっしぐらという姿勢は好きではない。ゆえに切手蒐集家には親和性を感じにくい)。

第13項          蒐集家の価値観と、世間の無理解

趣味家や蒐集家の特質を一般人が理解することは、困難である。

こうした蒐集にかける情熱や、微細な差異への執着は、外部の視点からは奇異に映ることもある。

たとえば、市道和豊は、歴史研究の一環として趣味家および燐票家に関する調査結果の論考を私家版にて精力的に発表されている方である。

その業績の一つとして、戦前に満洲玩具を蒐集し、戦後には煙草関係の蒐集大家として名を馳せた煙趣家・須知善一に関する評伝、『満洲の曠野に非ず──戦後の須知善一』が挙げられる。

同書において市道は、蒐集家の典型的な行動として、

「印刷漏れや色合いの違い、通し番号などまで持ち出して『かんぞろ』範囲を広げ、希少価値を競う。そんなことにいったい何の意味があるのだろうか」

と「コンプリート」を目指す蒐集家の姿勢に首をひねっている。

そして、「揃うこと自体に意味はない(と、私は思う)」[1]と述べ、その価値観に懐疑的な姿勢を示している。確かに「(と、私は思う)」とあくまでも「個人の感想」としているのだが、「いったい何の意味があるのだろうか」という記述するので私は言及する。

この「かんぞろ」とは、蒐集界では聞いたことがない言葉であるが、推測すれば蒐集対象を漏れなく網羅し、完全なセットとして蒐集の目的を完結させる行為であり、現代の蒐集文化における「コンプリート」に相当するのであろう。

しかし、こうした「揃うこと自体に意味はない」という懐疑は、蒐集家の世界や趣味誌の文化に対する理解が乏しいことに起因していると言えよう。

蒐集家にとっては、ごくわずかな印刷のずれや配色の違い、製造時期が異なることや、製造した工場の差異といった微細な点が、他との差異を示す重要な情報であり、それ自体が蒐集の目的となるものだ。

「似たものと違う箇所を見つけ、希少なものを発見してコンプリートの価値」を創造するのが蒐集家ともいえよう。

例えば戦前に郵便局が「記念印」を設置した際は、単に同じ図案のスタンプであり、「郵便局名」が異なるだけであるのに対し、そこに「局名違い」を完蒐したい希望者がいた。

また、記念印を使用している期間すべてにおいて、「日附違い」を完蒐したいという希望者もあった。

一般の視点からは「どこが違うのか」「なぜ同じものを複数所持したがるのか」と疑問を抱かれるが、同じ図案でも「局名」「日附」「工場」などが異なれば「別のもの」として数えるのである。

これ以上は哲学的な話になってしまうが、「別のもの」と特定した人と、「同じもの」としか視えない人とのあいだでは、もはや理解可能な会話は成立しない。

そして戦前に発行された「記念煙草」をすべて完全に揃えることは難しいため、到達した方は、同好の士から大いに評価され、畏敬の対象となる。

それは斯界における常識であり、多くの蒐集家が目標とする到達点であるが、明確な「到達点」へ到着したことの喜びなら、理解をして貰えるだろうか。

 

市道氏は燐票や趣味家の事を調査されていたので、「完全蒐集」などには意味が無いという低評価には、意外な感を抱いた。

ところが、このような蒐集行動に対し首肯する者もいる。

作家の出久根達郎は、『かわうその祭り』(角川文庫、平成二十一年)の巻末あとがきにおいて、

「もの集めの熱狂を愛嬌と捉えず、何かおぞましと見る。そして、オタクという気さくなようで蔑んだ言葉が用いられた」

と記し、世間における蒐集家への社会的先入観や誤解に異議を唱えている。

この指摘は「蒐集文化」に対する深い洞察を示すものであり、趣味や蒐集を通じて表現される個人の関心の多様性と情熱に対する理解の必要性を認識させるものだ。

出久根の述懐は単なる共感以上に、蒐集家という存在に内在する価値観への尊重を促すものであり、蒐集家特有の思考や行動様式に対して、外部が安易な価値判断を下すことの危うさを示唆している。

なお当時よりも令和の現代では、世間の理解も進み「おたく」という言葉に蔑みの意味を込めることは薄れている。

第14項          戦前趣味家と神田・秋葉原文化圏の連続性

深い趣味嗜好を持つ人々が集う場としての地理的特性は、戦前と戦後で大きく変化していない。

典型的な例が、東京・秋葉原である。

現在では「電気街」あるいは「おたく文化の聖地」として広く知られる秋葉原は、戦前においてもすでに、鉄道趣味や電気模型、ラジオといった分野に関心を寄せる愛好者たちが集まる拠点であった。

特に「萬世橋駅」周辺には、省線の鉄道や東京市電が交差する交通の要衝として機能し、都内各所から人々の往来を可能にしていた。

また、駅前には「萬世橋郵便局」が設置されていた。

おそらく集合場所としての利便性か、神田松枝町の貸席や神田和泉橋倶楽部、外神田の青柳亭等、神田にある貸席では納札・燐票・集古會などの会合がしばしば開催されている。

加えて、「萬世橋駅」跡地は後に交通博物館となり(現在は埼玉県さいたま市の鉄道博物館へ移設)、その趣味の地理的・歴史的継続性が示唆される。

そして、周辺の神田区地域には、戦前から趣味家・蒐集家を対象とする専門店舗が集中していた。

たとえば、切手商の和田商店(神田猿楽町)、科学教材社(神田錦町)、鉄道日本社(西神田)、浮世絵や版本を扱う書店「酒井好古堂」(神田淡路町)などが挙げられる。

また、謄写版印刷の技術を開発した「堀井謄写堂」も鍛冶町に本拠を構えており、印刷・出版が集まる地で、アマチュア出版の印刷機製作場としての側面も併せ持っていた。

さらに、青果市場のあった神田須田町地域では、千社札の制作や納札文化も根付いており、元・神田宮本町の神田明神の境内には「納札塚」が建立されている。

戦前に、伊藤喜久男周辺の趣味家たちが寄稿していた旅行雑誌『旅』の編集部も、神田駅ガード下に所在していた。

秋葉原から靖国神社に至る経路には、古書店街や露店が市場的に展開しており、露店では趣味品の切手・古銭・錦絵・絵葉書などが販売されていた(「古書センター」の安部のスタンプコインよりも前にである)。

蒐集家として著名な池田文痴菴も、こうした、神田の露店で資料を蒐集していたという。

燐票蒐集の大家の古屋蘭傒も神田松永町に在住、同じく小川沙久も神田に在住しており、福山碧翠が主宰する「日本燐票協會」が神田松富町に事務所を置いたように、古屋らも燐票の趣味団体の本拠を自宅に置いて会合をしていた。

このように、秋葉原周辺には、鉄道、切手、模型、納札、古書・燐票といった多様な趣味領域を包含する空間が自然発生的に形成されていた。

現代において「アキバ系」という単語に代表されるおたく文化の萌芽は、決してパソコンやアニメの登場以降に出現したような近代的現象ではない。

すでに戦前のおたくたちの聖地、「カンダ系」とも呼べるような、地域的・文化的土壌が神田・秋葉原(萬世橋)周辺に存在していたことを見逃すことはできない。

戦前においても、趣味に深い愛着と資源(時間・金銭)を注ぐ人々が秋葉原に集い、自己表現と情報交流の場を求めていたのである。

第15項          戦争に負けた日本は、おたくを認容する「多様化社会」へ

明治中期以降、幾度も戦争を経験してきた日本は徴兵制を採用しており、国家は健康で逞しい体格を備えた青少年の育成を要請していた。

当時の青少年は「男性らしさ」の体現を期待され、身体的にその規範に適合しない者、「結核」などの病身で貧弱な男性は、しばしば軽視され、非国民と見なされることすらあった。

ところが、戦後において日本は、「国家」よりも「個人」が大事であると、平和国家との進路を選択した。

徴兵制度は廃止され、民主主義と、個人の尊厳が「権利」とされ(憲法13条)、男性に対して過度に「男性性」を強制する社会的圧力は、戦後は経時的に次第に希薄化していった。

この、日本の敗戦(による徴兵制度の廃止)という変化は、非常に大きいと筆者は考えている。

戦前には漫画は幼少年期特有の関心領域と見なされていた。

ところが、高度成長期には、だんだんと雑誌(週刊漫画誌)・テレビ・特撮・アイドルといった視聴文化に中学生・高校生が熱中したとしても、それを咎める声は次第に聞かれなくなった。

「多様性」として受容される社会的土壌が形成されていったのである。

青年期に至っても、年齢に応じた「大人らしさ」「男らしさ」や、伝統的な趣味の枠に収斂することを要請される機会は減少し、個人の内面的関心に根差した「趣味」のなりわいが尊重されるようになった。

かくして、ここでようやく、かなり前に書いた「室内で活動する趣味」に戻るのだが、室内趣味を好む男性が、幼少期から一貫して自らの興味を深めていくことが可能な環境が整ったのである。

このことによって、結果として「おたく」と称される層が数多く登場、活躍までできる「趣味の多様性」を受容する社会的背景が生まれたと考えられる[2]。

無論、徴兵制下においても、趣味に傾倒する者や学業を顧みずに雑誌制作に熱中する若者は存在していた。

だが、戦前と戦後を対比した場合、趣味そのものや趣味に充てられる時間の重要性に対する評価、ならびに「趣味家」と呼ばれる人々の数および彼らに向けられる社会的視線のあり方には、明確な差異が認められるという点に異論はないと信じるのである。

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戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題

[*]近代日本における梅原北明(『文藝市塲』等)の出版活動や、戦後の「カストリ雑誌」が扱った領域は、単なる「性愛(エロティシズム)」にとどまらず、犯罪・猟奇・怪異・病理・社会の裏面といった「人間の暗部や異常性への知的好奇心」が複雑に絡み合った精神空間を形成していた。
これらの一群を総括する概念をめぐっては、法的な規制枠組みを示す「発禁本」では文化的な動向としての評価軸から外れてしまう。
また、流通の秘匿性を示す「地下本」では出版形態(流通機構)の側面に偏りすぎるきらいがあり、その精神性や文化風俗的な側面を捉えきれないという難点があると筆者は考える。
さらに、「艶本」「好色本」「軟派本」「珍本」といった従来の書誌学的な表現では、性愛的側面(エロティシズム)のみが強調される結果を導いてしまい、「犯罪・猟奇・変態心理」というアングラ・悪趣味的な毒々しい側面(グロテスク)が捨象されてしまうのである。


したがって、本稿ではこれら「エロ(変態・性愛)」と、「グロ(猟奇・犯罪・怪奇)」の両者を包括する広義の概念として、仮に「特殊文献」という、上位概念を措定し、その下位区分として、当時の歴史的言説における「猟奇」および「変態」を主題とした文献群が、位置づけられるものと定義したい。

ここでいう「猟奇趣味」とは、「異常・怪奇・残酷・病的・退廃・禁忌・異様・不気味・禁断」の項目に対する興味・関心である。

それは残虐性を帯びた性愛(サディズムやマゾヒズム等)や、変態的な趣味のみならず、より広く、「異常・禁忌・怪奇・退廃」の諸相への嗜好性を含んでいる。

具体的には「血・死・犯罪・性・狂気・畸形・異常心理・怪談・グロテスク・倒錯」等への関心という形で表出するものである。

この構造をさらに深化させるため、本稿では当時(戦前期から昭和二十年代)の「猟奇雑誌」(実話雑誌、探偵雑誌、犯罪雑誌等を含む)に掲載された記事を対象に、その主題別の分類を試みた。
その結果が、下記の「戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題一覧」(表1)である。

表1:戦前・戦後の猟奇・変態文献の主題一覧

本表が示す主題の数々を、1980年代から90年代の日本サブカルチャー界において勃興した、「悪趣味系」「鬼畜系」の精神性と照らし合わせてみたい。
そこには、戦後直後期の「カストリ雑誌」が提示した犯罪・性愛系の紙面構成が、時空を超えて地続きである様相が見て取れる。
つまり、戦前の猟奇・変態文献という存在が、近現代の日本出版史において常に流れ続ける通奏低音であったと言える。
【注記】
本稿の図表および引用文献には、現代の倫理基準において不適切とされる用語や表現が含まれるが、これらは対象期の出版文化および社会通念の実態を正確に検証するための歴史的資料(一次史料)であり、当時の社会通念や世相をそのまま記述することが学術研究上不可欠であると判断したため、改変を加えず原文のまま掲載している。
研究の客観性を担保するための措置であり、いかなる差別や非人道的行為をも容認・助長する意図はない。

 

[1] 市道和豊は研究のためには燐票のスクラップブックも古書店で購買している方であるが、やはり「観察者」の視点と、蒐集の「当事者」との間には温度差があるようで、「コンプリート」への共感は得られないようである。なお、筆者の主旨は完全蒐集を「理解できない」ことを批判する意図ではなく、当事者性の有無で物事の見方が変わることを示している程度である。趣味家の拘りを理解できない方が多いとは認識している。

[2]無論、これらに加えて他にも多様な要因が存在する。

戦前期においては、子どもは「多産多死」の状況下にあり、出生数は多くとも早世する例が少なくなかった。

しかし、医療技術の進歩および経済的基盤の安定により、児童の生命に対するリスクは大幅に低減された。

同時に、家族形態は次第に核家族化し、「家族計画」の概念も変容を遂げ、いわゆる「一人っ子」を丁重に育てるという社会的傾向が顕著となった。

高度経済成長期には、子どもたちの希望や欲求の多くが、物質的には実現可能となりつつあった。

テレビの普及を軸とするメディア環境の変化に伴い、児童・青少年を対象とする文化や趣味の領域は急速に多様化した。

その結果、単に鑑賞を通じて知見を深める「教養的な趣味」(映画・音楽)にとどまらず、「鑑賞」段階以上に深化する消費形態である、室内での没入型趣味(特撮・アニメ・ゲーム)を好む青少年が増加した。それらを「面白い」と認識・支持することで経済的な市場も確立、やがて「サブカルチャー」として社会的に定着し、発展していくに至ったと考える。

知性が高い「おたく」は親切だ。不良が先輩に「君付け」する事を”ポライトネス理論”で解明

第7項          「高等遊民」と「趣味家」と「おたく」

昭和三十年代以前、いわゆる「国民病」と称された結核に罹患し、長期療養を余儀なくされた若者でさえも、「いい若い者が……」と周囲から後ろ指をさされるような風潮が存在していた。

身体的事情による就労不能という状況であっても、社会はその個別事情に寛容ではなかったのである。

また、明治期以降、自らの趣味に傾倒し、その探究に専心する者は「趣味家」と呼ばれたが、しばしば、勘違いから「好事家」として家族や近隣から奇異の目を向けられた。「好事家」という語は文脈では揶揄的に括られることもあり、誉め言葉ではない印象も帯びている。

中には「高等遊民」と呼ばれる者もいたが、これは高等教育を受けたにもかかわらず、社会的・経済的な生産活動には関わらず、親族からの仕送りや私財をもって生活し、趣味や在野の学術研究に耽る人々を指す言葉であった。

近年では、制度の枠にとらわれず思想や表現を追求した戦前の「知識人層」として、肯定的な文脈で言及されることもあるが、「高学歴だが役に立たない」「社会に貢献せず、遊んでいる」という批判・皮肉の意味があった。

 

明治二十八年に古銭蒐集家の団体である「東京古泉會」では月の会費が十二銭であった。明治期との貨幣価値の換算は困難なのだが、当時の銭湯代は一銭五厘であるから、令和六年の都内料金五五〇円は三六、六六六倍となる。

十二銭は約四、四〇〇円程度に換算され、月の負担額としては結構高めの会費であろう。

こうした「趣味家」等への社会的評価や視線は、現代における「ニート」や「おたく」と呼ばれる若者に向けられるそれと共通する点が多い。

現代においても、無業状態にある若年層の中には、病気や怪我といった身体的要因により社会復帰が困難な者も存在する。

しかし実際には、パーソナルコンピュータの操作技能や各種資格の不保持といった制度的・技術的障壁が主因となっている場合も少なくない。

「ニート」とされる若者が、常に携帯端末やスマートフォンで遊興しているという通俗的なイメージは、実態を反映していない。

同様に、「おたく」という呼称もまた、過去には偏見と結びついて語られることがあった。

特異に見える言動や一部の犯罪事例が強調されることにより、「一日中ゲーム」「二次元の美少女に興味(生身の異性には興味がない)」「運動不足で肥満」といった、社会の固定観念も見られた。

服装への無頓着さも、趣味への資金集中や他者の視線を意に介さない傾向によるものであり、必ずしもファッション感覚の喪失や興味を放棄しているわけではない。

知識が特定の分野に極端に偏りがちで、会話も一方的になり易い点については、知的誠実さの発露であって、むしろ他者に正確な情報を全て伝えようとする善意に基づくものである。

さらに「おたく」たちは公共空間での身体的印象についても自覚的であり、たとえば「コミックマーケット(コミケ)」という所謂「同人誌」の即売会等の場では、服装への配慮や体臭対策を非常に意識的に行っている(この項はおたく的な言動についてなので、深くは触れないが、コミケに自身が制作した同人誌を展示し販売する人々は、頭脳的には知性が高いのである。知性があるということは併せて良識、常識の作法を弁えており、他者への親身な行動や謙譲の態度を取る者であるから、体臭や服装で他者へ迷惑を掛けない振る舞いをするのは当然であろう)。

対人の社交が苦手であるという一般的な印象に反し、実際には他者との関係性を重視する者も多く、温厚かつ親切な人物が少なくない。

もともと、博識で知的能力の高い者が多いため、対人的な共感力や状況判断能力にも長けている傾向が見られることは矛盾しないのに世間は表層的な評価を下し易い。

混雑するコミケ会場において、荷物の重さや転倒にて困っている他者に対しては、さりげなく援助の手を伸ばすといった場面もしばしば観察される。

このように見ていくと、戦前に「好事家」「高等遊民」などと当時の揶揄的な価値観の視線にさらされた「趣味家」と、現代において誤解や偏見の対象となった事もある「おたく」との間には、社会的視線や評価の構造において共通する要素が少なからず存在する。

それは個人の実像を捉えることなく、総体的かつ通俗的な印象形成によって一括りにされ、誤認・誤解されていたという点で、両者は同質の現象として捉えることが可能であろう。

第8項          「おたく」と「〇〇氏」呼び

「おたく」の語源について、岡田斗司夫氏は『現代用語の基礎知識九七年版』(自由国民社)にて、

「SFファン同士がイベントで集まる場などで使われる二人称として発生、SFのイベントでは、参加者は単なる個人ではなく、所属するサークルを代表する人間、というとらえられ方だった。そのため「オタクのサークルでは」という意味での「オタクは」という呼び方が好まれた。この言い回しは、SFファンの間で爆発的に流行し、一九八二年のTVアニメ『超時空要塞マクロス』で、登場人物達が使うことによって、アニメファンにも一気に広まった」

と、説明している。

確かに、筆者が十九歳であった昭和五十七年七月、長野県松本市においてアルバイト先で出会った、漫画・小説・鉄道などの室内趣味に親しむ同僚たちは、年齢差が二歳から五歳程度ある親しくない同世代の相手に声をかける際、「〇〇氏(し)」あるいは「おたくは〜」と呼びかける傾向があった。

「山田さん」と呼ぶにはやや他人行儀に過ぎ、「山田ぁ」「山ちゃん」などと呼ぶには親しみの距離が過ぎると感じられる場合、両者のあいだに適度な距離感を保ちつつ、相手の感情を損ねることなく、かつ上下関係を意識させない丁度よい程度の、対等な呼称として「おたく」呼びは便利に使われていた[1]。

なお、「おたく」は主として二人称として用いられるが、「〇〇氏(し)」という呼称は二人称に限らず、三人称としても使用される。

たとえば、二人で会話している際に、その場にいない人物について「〇〇氏は〜であった」と述べるときには「彼」「その人物」といった含意があったと考えられる。

このような呼称の発展形としては、「おたく」のほか、相手の名を呼ばずに特定する言い方として、

「アニキぃ」(軽妙な雰囲気を漂わせて)

「先輩」(ただし「後輩」は用いられない)

「兄【あに】」

「何々選手」

なども存在した。また、相手の感情をある程度無視しても許容されるような、一時的な上下関係にある場合、「おい、そこのバイト」などと雇用形態や職務上の呼称で声をかけることや、「そこのメガネ」など容姿的特徴を根拠に呼ぶケースも散見された。

筆者の管見によれば、手塚治虫が戦後間もない時期に年下の漫画家仲間に対して「〇〇氏」と呼びかけていた場面が、藤子不二雄Aの漫画『愛…しりそめし時に…』に描かれており[2]、この語の使用が当時の文化的文脈の中にすでに存在していたことを示唆している。

「おたく」や「〇〇氏」という呼称の語源については、複数の研究者・評論家により諸説が唱えられているが、いずれも決定的な証拠に欠け、自然発生的に生まれ、ある種のコミュニティ内部で伝播・定着したものと考えるのが妥当である。

その発生背景について、以下のように推測される。すなわち、日本語においては、話者が相手を呼び捨てにしたり、「君」「さん」などの敬称を付したりすることで、しばしば意図せず上下関係や心理的距離が明示されるという特徴がある。

もっとも、「君」という呼称は一義的に対等性を示すものではなく、用いられる文脈や集団規範によってその機能が変化する点に留意すべきである。

例えば、不良仲間や閉鎖的な集団(学校の部活動など)においては、先輩に対して「〇〇君」と呼ぶ用法が見られる。

一見すると目上に対する非敬称的な呼称であり、対等性の表明のようにも映るが、実際には単純な対等化ではない。

この現象は、ブラウン&レヴィンソンのポライトネス理論における「フェイス・ワーク」の観点から理解することができる。フェイスはメンツや体面だ。

人は相手の「ポジティブ・フェイス」(承認されたい欲求)と「ネガティブ・フェイス」(過度に干渉されたくない欲求)を侵害しないように言語行動を調整する。

この枠組みで見ると、年下が露骨な敬語を使用することは相手の上位性を過剰に強調し、自らの立場を低く固定する行為として、話者自身のポジティブ・フェイスを損なう可能性がある。

他方、呼び捨ては相手のポジティブ・フェイスを侵害しうる。

そこで「君」という呼称は、敬語体系を回避しつつも一定の配慮を示す、丁度良い位置の中間的なポライトネス戦略として機能するのではないか。

実は不良の後輩たちは、対等性を装いながらも実質的な序列を完全には否定せず(有形力を行使される可能性が高い為)、双方のフェイスを大きく損なわない折衷的表現を取り込んでいるのである。

したがって、不良の後輩における「君」呼びは、「矜持」や美学といった主観的要因だけで説明するよりも、不良の集団内で共有されたポライトネス戦略、すなわちフェイス維持のための実践として捉える方が妥当である。

それは上下関係を明示的に表現することを避けつつ、同時に秩序そのものは維持するという、社会的に調整された言語行動の一例といえる(不良はそんな事は考えていないだろうが)。

この不良の例からもわかるように、「上下関係の明示を回避したい」(=自分は下だという事の決定付けの回避)という欲求から、比較的真面目で繊細な気質をもつ人々が、より対等でフラットな印象を与える呼称として「〇〇氏」あるいは「おたく」を選択したのではないかと考えられる。
これらの呼称は、話者の呼び捨てにより相手の機嫌を損ねたり、あるいは敬称を使用することにより、話者に不必要な劣等感を誘発したりするリスクを軽減する、「安全」な手段として、一定の合理性を備えていたと考えている。

第9項          ドラマに既に表れていた、昭和四十年代の「おたく」

昭和四十年代半ばから、テレビドラマにおいて「おたく」的な役割をもつ登場人物が現れ始めた。

その萌芽は、子役が活躍する生活ドラマ「ケンちゃんシリーズ」の脇役に見出すことができる。

物語はケンちゃん一家が商売を営み、家庭や学校生活で起きる日常のエピソードを描いている。

同シリーズでは、俳優の山田慶造がインテリだがドジを踏む役を演じていた。役名は昭和四十年代までは「天才くん」「秀才くん」とされていたが、五十年代には「批評家さん」となり、揶揄的な印象から多少の敬意を含む名称に変化している。

出演俳優の年齢が上がったことも影響しているかも知れない。

また、俳優の進士晴久は各ドラマの従業員役として、真面目で愛嬌のある少年を演じていた。

たとえば「すし屋のケンちゃん」では、「マンガさん」という役名で、集団就職で上京し方言を話す住み込みの少年店員を演じた。

彼は「漫画は僕の全てだ」と語るほど漫画好きであった。

あるエピソードでは出前中に『少年ジャンプ』を読んでいると野良犬に寿司を食べられるという失敗をする。

店主でケンちゃんの父親役(牟田悌三)は、「ふん、全く良い歳してよ、こんなもの何が面白いんだよ」と、「漫画」に対する世代間ギャップを象徴する台詞を発している(ただし脚本家が本当にこのように漫画へ無理解だったり、思考を放棄したような価値観を持っていたとは考えにくいため、恐らく世間で共有される「だろう」、という印象作りの台詞ではないかと推測する)。

当時の劇中の「マンガさん」は進士と同年齢の十五、六歳の設定であったが、昭和四十六年当時は漫画がまだ子供の読物・娯楽とされており、中学卒業者が夢中になるのは「幼稚だ」とする年長者の価値観・規範があると考えられていた(統計を取った訳ではなく、幼稚の感性がどの程度受容されたかは不詳)。

同番組は、旧来の価値観を登場人物の台詞に取り入れるなど、一定の進歩性を持っていたが、ドラマ内での演技は、漫画に熱中し仕事で失敗する「ポンコツな店員」というステレオタイプにとどまっていた。

「漫画」が人物の軽率さや未熟さの造形を強調する道具として使われており、その限界あるいは、脚本家の故意も見て取れる。

なお、俳優の進士は五十五年の「ケンちゃんチャコちゃん」にも「マンガさん」として最終出演しており、当時は二十四歳であった。

「ケンちゃんシリーズ」では、進士と山田の両者が、慌てふためいたり、異性にドギマギして動作がぎこちなくなったりと、コミカルな演技で脇役を担っていた。

喫茶店で砂糖をこぼす、熱いコーヒーにむせて食器を倒す、写真撮影時に後ろへ下がって転倒するなど、明らかに挙動不審的な場面もある。

また、五十一年放映の「フルーツケンちゃん」では、「批評家さん」役の山田は「チェックのシャツ」を着て、シャツの裾をジーンズに入れるという、所謂「シャツイン」で太いベルト、黒縁メガネに長髪という、今日的な「おたく」的アイコンを体現していた。

勉強ばかりしている実直な「室内志向」の少年が、失敗やズッコケを演じることで生まれる落差の可笑しみや、流暢に話せない様子の演技を「コミカル」としているのは、現代の視点から見ると「マイナーをメジャーが笑う」という危うさも含んでいた[3]。

「愛嬌」「揶揄」「几帳面」「真面目」が複雑に交錯しており、表現の平衡感覚を誤れば差別的・偏見的な印象を与えかねない。

当時の番組制作者世代が「おたく」的な人物への理解を十分に持ち得ていなかった時代背景も、これらの演出となった一因であったと考えられるが、更に踏み込めば、担当した脚本家は、その危険性やアイコン的な消費を分かっており、敢えて描写した可能性もゼロではない。

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[1]対人距離感による呼称としては、主に不良少年たちの間では、少し年上の先輩に対して敬意と愛情も込めて「何何くん」と呼び掛けていた。普通、君付けは目下に対してだが、この場合は力量の差があり完全に服従すべき年下が腕力や権力が強い年上に対して使うため、許される空気感があったようだ。この点は後述する。

[2]昭和三十年の人気ドラマ『日真名氏飛び出す』は、「氏」呼びであるが「暇なし」の洒落の意味が強いと思われ、「〇〇氏」呼びのケースとは異なると考えられる。

[3]漫画に於いても「勉強・読書量が多いために視力が低下した少年」が掛けている「メガネ」を「牛乳瓶の底」的に描写することで「アイコン」化しており、脇役として「メガネくん」「博士くん」と呼び、「真面目さ」と「不器用さ」の落差を笑う作品があった。

戦前の「おたく」と「徴兵制度」、身体性からみた戦後の内向的少年へのスティグマ

第3項          国家の「健男児」観

明治時代以降、特定の事物に対して強い興味や関心を抱き、それに深く傾倒する傾向を持つ者は、「趣味家」として多く登場してきた。

こうした趣味家は、肯定的には「通(つう)」(例:茶通、骨董通)と称される一方で、否定的には「道楽者」あるいは「高等遊民」とみなされ、怠惰・頑迷といった否定的な評価や、「いい御身分だ」といった皮肉を伴う揶揄の対象ともなった。

 

明治維新以降、日本は「富國強兵」を国是とし、資源・領土に乏しい国情の中で、国家の総力を挙げて列強と肩を並べる「一等国」化を目指した。この国家目標の下、国民、特に男性が強健な兵士となることが最優先とされた。

兵役への従事や家業への従順な従事が社会的に推奨され、個人の趣味や関心に生活の中心を置く生き方は、国家の理想像とは相容れないものと見なされたのである。

もっとも、国策としての「富國強兵」がただちに青少年の身体鍛錬や運動奨励を伴ったわけではない。

内田魯庵は、東京の古参小学校「育英小学校」の卒業生として、当時の体育教育の軽視について以下のように回想している。

「其頃は體操が置かれたばかりで私もお一ツ二ツを教はったが、ダムベルも球竿も無く、徒手運動ばかりで生徒も興味が乗らす敎師も重きを置かなかつた。體操などは怠けても先生にも父兄にも決して叱られないで、マジメに體操なぞをしてゐると先生からも父兄からも却て笑はれ戒められたりしたもんだ」

当時は身体活動や体育が学校教育の中でも軽視されており、運動に勤しむことは揶揄の対象ですらあった。

工部大学校では、学術成績優秀者には「書籍」が贈られ名誉とされた一方で、運動成績優秀者には「蝙蝠傘」や「置時計」などが与えられ、卒業式の当日、列席者は受賞者に拍手するが、運動の受賞者に対しては、

「笑い聲や騒音を交へて冷笑を帶びたので、学術賞者が悠揚として誇り顔なるに反して運動受賞者はコソコソと逃げ出して隠れて了つたもんだ」

と、学芸>体育の関係性を語っている[1]。

江戸の封建時代(武士)への対抗なのか、こうした状況を見る限り、明治初期の日本では「文武両道」の理念はさほど尊重されておらず、むしろ知の鍛錬こそが美徳とされた時期であったともいえる。

趣味がそうであるように、当時の人々にとって病気という不可抗力の状態もまた、本人の意思とは無関係であっても社会的に評価を左右する要素であった。

たとえば北川扶生子による論文「病むこと、看ることの意味」では、戦前の男性が徴兵検査において結核等の疾患により「兵士」として不合格となった際の心理について、結核患者向け療養雑誌の『療養生活』誌に寄せられた詩や文章を素材に読み解いている。

当時の病弱や男性の気持ちが伝わる好論文であり、「兵庫」の「鬼放」による投稿詩「丙種」(『療養生活』一九三七年十月)には、次のような記述がある。

友の出征の見送に

丙種の私を皆が見た

丙種だからと

悲観はせねど

自然療養で達者になれば

銃後の守も重からん

と、私は此の気で皆を見た

この詩を受けて北川は、

「彼らにとってもっとも耐えがたいのは、同じ年代の男性たち、友人たちと並び立ったときの、周囲からの軽侮のまなざしである。『丙種』という規定は、自分のすべてを決定してしまうように思える」(北川,2022)

と述べ、「丙種」という区分が自己評価に深い影響を及ぼしていたことを指摘し、「同性と比較して辛い」思いをすることに対して理解を示している。

確かに詩の作者は「丙種だからと、悲観はせねど」と前向きな言葉も綴っているが、内心は劣等や羞恥心に苛まれているからこそ「他者から向けられた視線」に敏感だったのだろう。

友達の門出は見送りたい、その気持ちで同席したが、見舞われる世間の視線が痛い。「回復したら見ていろ」という強い矜持が無ければ、耐えられなかったであろう。

そして、男性患者の懸念をより切実に具体的にしている文章として北川は次の投稿を挙げる。

「苟も日本男子と生れて兵役に服する事が出来ず『丁種』兵役免除と云ふ如き、女子同然の資格しかない不名誉な物を貰つた僕である。生れ付きの不具者なら仕方もないが立派な五体を持ち乍らあの兵役免除証とか云ふ一枚の紙を持つて帰つた時、僕はワア/\と男泣きに、メソ〱と女泣きに泣いたのであつた[…]今の非常時日本に際して之は何んと云ふ不甲斐ない存在である事よ!」(徴兵検査体験記「丁種の囈言」『療養生活』一九三十三年五月)

北川は総括として「国家にとっての有用性でしか自分の価値を測ることができないのは、これらの投稿の限界ではある」と評し、「より強く権威と一体化しようとする心理も見られるだろう」と、当時の青年は国家あっての自分という存在であり、体制に迎合しているような評価をしている(北川,2022)。

しかしながら、「投稿の限界」との評価には戦後的な価値観が色濃く投影されており、必ずしも当時の投稿者の実感に即したものとは言い難い。

徴兵制度が社会制度として絶対視されていた時代において、「健全な肉体」を持たぬ者が社会から厳しい視線を受けたことは、むしろ当時の社会構造の側に「限界」があったと見るべきである。

たとえば、当時の校歌や応援歌の歌詞に頻出する下記の、

「たて、健男児」

「今こそ奮え、健男児」

「健やかに進め」

といった語句が示すように、「雄々しく」「健やか」で「丈夫な体躯」を備えた生徒・学生こそが、「希望」に燃えて生きるべき「理想の生徒・学生像」として称揚されていた。

このような価値観は各学校で繰り返し唱えられており、学生たちは日常的にそのモデルを内面化せざるを得なかったと考えられる。

この状況を直ちに「洗脳」と断じるのは早計であるにせよ、体格の劣る男性にとって生きづらい環境であったことは想像に難くない。

真の「限界」は投稿者自身にあったのではなく、むしろ徴兵検査において「甲種合格」とならない虚弱体質や病弱者に対し、厳しい視線を向ける当時の社会の側に存在していたと言うべきであろう。

なお、戦前が持つ健康な肉体賛美は戦後に突如、分断されて消滅した訳ではない。

戦後において徴兵制が廃止され、国家への奉仕という枠組みが失われ、個人の尊厳が尊重される社会を迎えた後も、昭和後期には三島由紀夫や長渕剛のように、かつての虚弱な自己の身体を鍛え上げることで「強靱な身体」を獲得することから、自己形成を果たした人物が現れている

(つまり、鍛えなければ主張ができない言説なのか? ということだ。長渕剛は身体強化について色々な理由を纏う様だが、根本的な所は「ひ弱」な身体を忌避したいという「男らしさ」への希求がゼロとは考えられない。論を屈折させてしまうが、このように自分がそうなりたいという「男らしさ」を実現する為に、筋肉を付けることで、その根底には「自分の脆弱さを否定」する気持ちがあることを見透かされてしまうという、余り「男らしい」行動とは評価されないではないか)。

これは、戦後においてもなお「頑健な身体」や「強さを想起させる外見」が、若者にとって社会的承認を得るための重要な手段として生き続けていたことを物語っている。

第4項          身体観と趣味家の相関

ここで、これらの「身体観」と趣味家との関係を考察しよう。

切手・古銭・紙モノ蒐集・模型・ゲーム・詩作・俳諧・書誌学といった「室内趣味」に親しむ者は、比較的内向的で、観察・記録・分類・沈思・創作といった行為を好む傾向が強い。

彼らにとって身体とは、活動の「主役」ではなく、知的探究や審美的感性を支える「静的な器官」として位置づけられていた。

ここには、身体の「鍛錬性」を中心とした軍国主義的な身体観(「健男児思想」)とは異なる、もう一つの身体観が潜在していたといえる。

趣味家たちの世界においては、華奢で虚弱な身体もまた、精緻な感性や深い執着、執筆活動、蒐集癖といった特性を支える要素として肯定されうるものであった。

現に、蒐集趣味の担い手には、少年期に病弱であった者や、運動に不向きであった者が少なくない。

つまり、趣味傾向のなかには、身体への「願望」や「劣等感」の反映があるとともに、「健男児思想」から距離を取ることで精神性・記憶・過去・物への愛着といった価値を創出する試みも含まれていたと考えられるのである。

これは、後の「おたく文化」とも地続きの感性であり、「弱き身体から勁い精神へ」という逆説的価値転換が、趣味という場を通して実現されていた可能性も示している。

一方、戦前の「頑強な身体=健男児としての国家的な理想像」という枠組みに対して、趣味家たちはあくまで「弱き身体=私的世界の深度」というもう一つの生き方を提示していた。

身体を鍛えるのではなく、興味や関心対象への「凝視」や「執着」によって自己を形成するという態度である。

こうした態度は、戦後の「内向的」傾向の青少年や、サブカル的趣味の系譜においても継承されていく。

青少年の身体が戦前の社会的競争や国家的動員から離れ、多様化する自己表現や、関心対象へ集中する主体として再定位される過程が戦後にはあったが、戦前の「趣味家」にもそれは内在していたといえる。

第3項          戦後の「私的空間」と内向的少年

明治から昭和戦前期にかけて、病弱・虚弱・内向といった身体的・性格的特質を持つ知識人・趣味家が、自己表現の場を「自室」すなわち私的空間に見出し、そこで読書・執筆・蒐集・分類・編集といった営みに没頭する姿はしばしば観察される。

このような「室内趣味」は、外界との競争や肉体的実践を志向せず、自己の内部世界を掘り下げ、そこに独自の宇宙を築く姿勢であったといえよう。

たとえば、正岡子規は病床六尺の中で寄稿を執筆し、また弟子を通して俳壇を形成した。

山中笑のような蒐集趣味の文人たちも、自宅の書斎を起点に交友網を築き、知的・審美的な活動に邁進した。

こうした「虚弱性」と、「知的凝集性」の結びつきは、「鍛錬される身体=健男児思想」という国家的理想とは一線を画す、もう一つの市民的・知識人的な生活様式、人生の姿勢であった。

この「内向的知性と私的空間」の連携は、戦後においても断絶することなく連続していく。

敗戦とともに「富國強兵」の国家身体観が否応なく解体されると、国家と個人の身体が直結することは急速に弱まった。

戦後の復興過程で身体は物資難のなか、「生き延びる」ための実利的道具となり、やがて経済成長とともに「健康」や「体力」は消費的身体イメージに置き換えられていく。

このとき、「私的空間」すなわち「自室」における没入型趣味は、むしろ戦後社会における身体的競争から逃れる場所として強く再編される。

たとえば、戦後の「ラジオ少年」や「模型少年」「短波放送愛好家」などは、外部との接触を最小限に保ちつつ、自室のなかに高度な知識体系や技術、あるいは理科系・機械系の文化を構築していった。特に「机の上」における趣味の発展は、戦前の「書斎」文化と地続きのものと見做せるのである。

やがて一九七〇年代から八〇年代にかけて登場する「おたく」的主体、つまりアニメ・マンガ・鉄道・戦史・アイドル・模型・美少女ゲームなどへの深度ある関与を行う者たちも、この「内向性と室内指向」「虚弱と知的密度の深化」の系譜を継承していると考えられる。

彼らの多くは、集団活動よりも個人的蒐集、体系化、アーカイブ、創作に傾斜し、「体験」や「共有」よりも、「知識」「資料」「記録」を重視する志向を持っていた。

これはまさに、戦前の趣味家が切手帳(ストックブック)や、スクラップ帖、写本、拓本集、採集帖を通して「知の箱庭」的な世界を構築していた構図に酷似している。

そして注目したいのは、「趣味誌」や「地方誌」「同人雑誌」という自主発行雑誌の継承である。

戦前の『寸葉趣味』等の蒐集趣味誌や土俗の特殊研究雑誌は、昭和後期の「趣味誌界」やコミケで頒布される「評論領域」での活字主体の「同人誌」(というか単行文集、冊子)における構造と機能を予告するものであった。

どちらも、自発的な編集、個人的執筆、自力印刷、交友網での頒布という形式を採り、同好者の分野横断的な連帯も支えていた。

第5項          戦後の「体育」から距離を取る「おたく」

総じて、戦前において国家的理想の身体像に馴染めなかった者たち、「虚弱、病弱、文弱、内向、痩躯」をもつ者は、私的空間における趣味活動を通じて自己の存在を確保してきた。

これは戦後においても、工業化社会における競争原理からこぼれ落ちた者、もしくはそこに意識的・自発的に距離を取った者が「おたく的感性」として再起したことと相似形な現象である(自分は他者とは異なる、という自我もあるが)。

肉体の理想から開放された「身体なき没入」とも言うべきこの傾向は、知的欲望と細部への執着、記録と再現への意志によって、各分野で特徴づけられる。

「徴兵制」が無くなったといえ、その残滓は高度経済成長期における教育政策に残っており、体育行事(運動会・マラソン大会・体力測定)やクラブ活動に於いての団体行動や上下関係は重視された。

集団行動として「右向け右」や「集団行進」が訓練され、「体を動かすことが苦手」「競技が不得手」といった児童は、しばしば評価の低い存在や、同級生から競技大会から排除される者と見なされることもあった。

「体育」科目の本来の目標である「体を動かす習慣」よりも、競技の勝者や優れた身体機能が優位とされる価値観が、そこにあった。

このような教育環境下において、身体能力に劣る少年、あるいは競争や集団行動に適応しにくい内向型の少年たちは、集団学校生活において疎外されがちであった。

彼らは運動会や体育の授業で劣等感を覚えやすく、「体育(スポーツ)ができる男子=明るく人気者」という、「見えない序列構造」のなかで、文化系的な志向や趣味に居場所を見出すこととなる。

内向型の少年たちは「図書室」「理科準備室」「美術室」「放送室」など、学校の片隅にある静かな空間を居場所とし、読書、昆虫採集、鉱物標本、天文、絵画、模型、ラジオ工作といった「一人でできる趣味」に傾斜した。

こうした傾向は、当時の雑誌『子供の科学』や『小学◯年生』にも表れており、いわば「内向性の避難所」としての児童文化も並行して存在していたのである。

また、戦後教育における「明るく元気な子ども」像は、生活指導や生徒指導の分野でも強化され、俗にいう「陰気な子」「暗い子」「おたく的な子」は、通俗的で人間的な成長途上の教師達からは浅薄な判断で「社会性がない」「協調性に欠ける」として是正指導の対象とされることも多かった。

この感情的な指導・評価により、内向的な子どもたちには「外交的=優勝、内向的=劣敗」との不当なスティグマが与えられ、次第に学校外の場で自分の嗜好を伸ばすようになり、趣味的自己形成は学校教育の外側に拠点を求めるようになる。

たとえば、七〇年代以降に出現する同人誌即売会、模型クラブ、鉄道愛好会、ミリタリー研究会、音楽ファンクラブ、漫画研究会などは、こうした「学校では承認されにくい感性」の逃避先として機能したのであり、「内向・虚弱・個人指向・非競技的身体」の居場所としても活用された。

これは戦前における趣味家や蒐集家の団体の構造と通底しており、知的凝集性を中心とした「別の社会的承認」が形成されていたと言える。

戦後の学校文化のなかで、教育の主流から逸脱した少年たちは、長らく「落ちこぼれ」「変わり者」として扱われてきたが、戦後サブカルチャー史の文脈では、むしろ重要な創造主体者であった。

七〇年代末から八〇年代初頭にかけてのマンガ・アニメ・SFブームを支えた中心層は、まさにこのような、「健男児思想」よりは弱いといえど「公立学校的な集団精神・身体観」からは、溢れ出た内向的な少年たちであった。

つまり、戦後教育が志向した「健康で社交的な身体・言動」は、同時に「非運動的・内向的な身体」を伴う趣味的な文化資本群を抑圧してしまう傾向にあったが、当事者たちはその反動として「室内趣味」の活動に深化を見せ、「おたく文化」が昭和の高度成長期以降に日本で独自に発展したと、捉え得るのではないかと筆者は考える。

 

[1] 内田魯庵「明治十年前後の小學校」『明治大正の文化』博文館、1927

戦前の「おたく」青少年と、その特性と因子を仮想する

第1節    明治期の「おたく」からの系譜




この節では、「趣味誌」を発行する青少年や、「蒐集趣味」を持ち趣味家となる青少年について、その基底にある気質を検討したい。

戦前に「趣味家」「好事家」「高等遊民」と称された人物像は、現代における「おたく」と相通ずる側面があると筆者は考える。

そこで本節では、戦前と現代における時代的背景の差異を踏まえつつ、特定の対象に対し深い関心と継続的な熱意を寄せる人物の気質を考察し、「趣味家」理解の基礎となる「身体観」などの諸要素を明らかにしていく。

第1項          明治期男性の室内趣味と戸外趣味

明治時代から昭和戦前にかけて、「趣味」を存分に享受し得たのは、時代背景上、主として男性であり、その中でも「室内趣味」への志向を持つ者が、「蒐集」や「研究」といった趣味活動に向かう傾向が強かったと推察される。

ここで用いる「室内趣味」という語は、筆者の便宜的な造語であるが、中国由来の「文人趣味」に近似する概念である。

「文人」とは、いわゆる「文房(書斎)」に居する人物であり、伝統的には「書画・詩・囲碁・琴・篆刻」などを嗜む存在であった。

それに対して、明治から昭和期にかけての日本の趣味家においては、この文人趣味が、文学(詩文・散文)・土俗・郷土史、あるいは古銭・切手といった蒐集趣味に転化したものである、というのが筆者の仮説である。

中国において「文人」の対概念が「武人」であるのに対し、本稿における「室内趣味」の対概念は「戸外趣味」である。自宅や書斎で行う蒐集・研究・鑑賞を中心とした趣味に対し、テニス・ボート・柔道・相撲など、屋外で身体を用いて行う趣味を「戸外趣味」と位置づける。

前者の趣味を志向する者が「趣味誌」の発行や「事物の蒐集」に深い関心を寄せることが多かったのに対し、後者に傾倒する者がそれらに関心を寄せる例は比較的少ないと思われる。

もっとも、掃苔や盆栽などには、室内における研究・鑑賞と、屋外における墓地訪問・植栽管理とが不可分に結びついている側面もある。

趣味活動の範囲には濃淡(スペクトル)があり、蒐集・整理・研究などの室内作業が主軸であっても、それに伴う発掘・購買・旅行・例会参加といった戸外活動が不可欠である場合も多い。

しかしながら、読書・囲碁将棋・講談・落語・芝居・活動写真といった趣味は、一般的な大衆趣味として広く受容されてきたのに対し、掃苔や板碑蒐集のような活動は、当時から「特殊な趣味」と見なされることが多かった。

たとえば、掃苔・板碑研究の大家として知られる磯ヶ谷紫江は、中学生の頃より青山墓地に通い、昼食をとったのち二、三時間を墓前で過ごし、「その人と冥語を交わす気分」で額づいていたという逸話がある(後述)。

掃苔趣味は、通常は歴史上の著名人物の墓を訪ね、その人物の生涯を調査して敬慕の念を深めることを目的とするが、その過程で墓石の拓本を取り[1]、歴史・風俗研究の資料とすることも行われた。

また、子孫や祭祀継承者が絶え、所在不明となった墓所を発見する「探墓」も一部には含まれる。このような活動は、墓地を「歴史的遺跡」としてとらえるならば、考古学的関心の副次的実践と位置づけられるものであり、本来的には奇矯な趣味とは言い難い。しかし、それを「墓一筋」に徹する形で行う人物については、往々にして「おたく的」と目されがちである。

実際、明治当時においても、「掃苔」や「足袋のラベルの蒐集」など、一般的ではない趣味をもつ若者は極めて稀であり、同世代の友人たちからは「風変わりな人物」と見なされた例もあった。

これらは、現代においてサブカルチャー的分野に没入し、特定の領域に熱中する「おたく」と称される人物の気質と重なる。

要するに、我々の祖父・曾祖父の世代においても、特定の主題に深い関心を抱き、室内において資料を整理し研究を行うような、「おたく」的気質を備えた人物はすでに存在していたのである。本書にて取り上げる「趣味誌」発行者や趣味家たちは、まさにそうした気質の持ち主たちである。

第2項          「室内趣味」に親和性が高い要素

「室内趣味」への執着要素について考察すると、心理的特性として、以下の諸因子が想定される。すなわち、「熱中」「凝り性」「頑固」「正直」「道理の遵守」「責任感」である。

  • 趣味に没頭し、日常的に取り組むことを厭わず、容易に離脱しない(熱中)
  • 徹底的に一つの対象に対し深く探究し極めたいという欲求が強い(凝り性)
  • 思考様式や対象への執着に柔軟性を欠く(頑固)
  • 対人関係において誠実で裏表がなく、真面目に物事に当たる(正直)
  • 規律や倫理観に敏感で、モラルに外れた行為を避ける傾向がある(道理の遵守)
  • 義務感を自己規定し、「自分がやらねばならぬ」という強い使命感を持つ(責任感)

これらの特性が強固に存在するほど、「趣味」への執着が深まり、ことに「室内趣味」への没入傾向が強まると筆者は考える。

「道理の遵守」を加えた理由は、こうした気質の持主が、たとえば不良集団や暴走族のような逸脱的集団に属することに本能的な抵抗を覚えるからである。

他者に迷惑をかけたり、交通ルールなどの法規を故意に破ったりすることに倫理的嫌悪を感じるため、反社会的な病理集団との親和性は低いと想定される。

この観点は、昭和十六年に精神医学者の下田光造博士が提唱した「執着性格」の第二因子に通じるものである。

ただし、心理学的定義とは若干異なる視点での援用である。

下田によれば、「執着性格」は「熱中性・徹底性・強い義務感」が特徴であり、正直で真面目、他者からの信頼を得る模範的人物に多く見られるという。

また、塩見邦雄らによる研究[2]では、執着性格の第一因子として「几帳面」「整頓好き」「やり始めたら最後までやり通す」「不正や怠慢を許容しない」「責任感が強い」などの要素が挙げられている。これは「真面目因子」または「勤勉・正義因子」と呼べよう。

対して第二因子は、「きまじめ」「凝り性」「熱中」「正直すぎる」「頑固」「生一本」といった性質に関連しているとされる。筆者はこれを「おたく因子」と仮称したい。

これらの因子を備えた青少年は、ひとり部屋にこもり、自ら楽しみを創出できる性質を有していると考える。

運動神経があまり良くなく、野球やサッカーの「プレイヤー」当事者にはならないが、野球のスコア帳をつけたり、紙相撲の取り組みに仮託したり、プロレス同人誌を制作したりといった「観察と記録」の側面では才能を発揮する。

昭和後期においては、まだ「サブカルチャー」という括りは一般化していなかったが、『ビックリハウス』や『ポンプ』といった雑誌に投稿し、「文字によるやりとり」を通じてコミュニケーションを楽しむ少年も存在した。

また、室内でプラモデルの制作や半田ごてによるラジオ製作に熱中する「科学少年」「工作少年」も少なくなかった。

もっとも当時はインターネットも存在せず、趣味は完全には室内で完結せず、情報収集や物品獲得、ファン活動のためには外出が不可避であった。

よって、アイドル・鉄道・軍事・プロレスなど、屋外活動が一部を占める趣味と部分的に重なることも多い。ただし、「引きこもり」という語が未登場であった時代においても、学校に滅多に来ない子や、近所の子の遊びの誘いに応じず自宅から出てこない子どもも確かに存在していた

また、当時から室内は家族のみの領域と捉え、「他人を家に入れるべきでない」とする親の姿勢も存在した。

昭和四十五年頃、筆者の小学校友人の家庭では「汚れた足の他所の子を室内に入れるな」との指導があったようで友人宅に上がれない事例があった。

現在的感覚で言えば、当時すでに「清潔恐怖」「衛生観念」の先行型家庭が存在していたと推察される。そのような家庭では同級生と一緒に遊ぶ機会が制限され、部屋での「一人遊び」が促進されることになる。「一人っ子」の増加もこれらの諸因子を増加する背景となったことだろう。

 

なお、大正期における趣味傾向に関する資料も存在する。大正五年に発表された論考には、数年前(大正三年頃)に都下の中学生を対象に実施された趣味調査の結果が掲載されている。回答結果を以下に掲げる。

一・音楽及び絵             一一七人

二・釣り          八〇人

三・盆栽          二〇人

四・相撲及びボートレース        五三人

五・養畜          二二人

六・芝居          一二人

七・碁・将棋・かるた                九人

八・昆虫採集  二人

九・大弓          二人

十・娯楽なし  五人

また、これとは別に「やや旧い中学の調査」として、遠足・散歩・旅行が中学時代を通じて人気であり、運動では野球・庭球・柔術が主であったとされる。

釣りと採集は一年生に多く、学年が進むと音楽や卓球、読書への関心が高まる一方で、俳句の愛好者はきわめて少数であり、四・五年生に稀に見られる程度であったという。

さらに瀧浦文彌の調査によれば[3]、大正五年当時、慶應義塾大学における俳句・和歌の諸文学的サークルの数は減少傾向にあったが、早稻田大学には「文藝同攻會」(会員二百名)が存在し、高等師範学校には俳句・短歌の会が、東京歯科医学専門学校には発句會があった。

これらの趣味の調査や学校内のサークルの数によって、大正期においても「室内趣味」に親しむ者は、数的には少数派であったと考えられる。

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[1]拓本は対象物に画仙紙を密着させ、墨で表面の文字や紋様などを和紙に写し出したもの。対象は「金石文」(刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑など、金属や石に「刻出・鋳出・象嵌」の方法によって現れた文字)である、句碑・歌碑・道標・道祖神・記念碑・梵鐘・通貨・レリーフ・文鎮・銅剣・銅鐸・瓦當(軒丸瓦の先端)・磚(焼成煉瓦)。そのほか、瓦・火鉢などの焼き物、自然の「葉っぱ」も採ることがある。石碑に刻まれた昔の書体がわかるため、「臨書練習」をするための書道の手本として発達した。

写し採る方法には「乾拓法」と「湿拓法」があり、「湿拓法」には「直接法」と「間接法」の二種がある。

「直接法」は対象物に直接墨を塗り紙を載せて写し採る。しかし魚拓や版画の様に左右反転の鏡文字となるので「拓本」とはされないではないし対象物を墨で汚損してしまう。

「間接法」は和紙を水貼りしたものを対象物に密着させ、七~八割程度乾いてきたら、墨を含んだ拓包(タンポ)を紙の上から打ち叩いて墨を載せて写し採って剥がす。上墨という、拓本を採る方法の標準だ。

道具は自作。墨も松脂を燃やした煤(油煙墨)を煮て乾燥させたもぐさの葉をを混ぜて練る。

碑文の蒐集としては、全国各地に建立された、ある歌人の歌碑を主題にする、碑に文を書いたある書家の書碑のみを主題にする、などテーマチック蒐集法がある。例えば河合の場合は「良寛碑」(江戸時代の僧侶・良寛の歌碑が全国各地に建立されている)に傾注。貞心尼碑(良寛の弟子の尼僧の歌碑)、会津八一歌碑、亀田鵬斎碑(江戸時代の文人・書家で鵬斎が書いた石碑が全国に七十以上ある)、幕末の三舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の併称)書碑を採ったという。

昭和四十年頃から京都を中心に「日本拓本家協会」が設立されたが、高齢化で会員減少が進んでいるという。

※河合荘次「和紙の表情:石碑を写す拓本の妙技」『水の文化』41号、ミツカン、2012年

https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no41/05.html

[2] 塩見邦雄・永田正明・遠藤晶・中田栄「執着性格の構造〜日本人の心の構造の研究〜」日本教育心理学会総会発表論文集(39)、1997-09-24

[3] 瀧浦文彌「硏究學生と趣味」『開拓者』11(8),日本基督教青年会同盟,1916-08