
なぜこの日本十進分類法によるアイデア・発想法を公開するのか
もう年も年なので、あと二十年も生きるかどうか分からない。
ならば、自分の中だけにしまっておくよりも、もしも利用できる方がおられるなら、その方が本望である。
そこで今回は、私が長く使ってきたアイデアの出し方の一つ、その名も「日本十進分類法(NDC)発想法」を公開します。
その方法とは、図書館で本の分類に用いられている「日本十進分類法」(NDC)を、企画・アイデア・発想の際の道具として転用するものである。
日本十進分類法は、本来は知識を整理するための分類表である。
しかし見方を変えれば、これは「森羅万象をどう分け、どう俯瞰するか」という思想のかたまりでもある。
図書館では世の中で作られた膨大な書籍を数桁の数字(例えば日本のノンフィクションなら916)で分類して配架する(本の背表紙の下部に数字のラベルが貼ってある)。
その背後には、NDCという社会科学・自然科学など世の中の「知識」全体を見渡すための構造があるのだ。
アイデア出しの発想法として有名なものにはKJ法、ブレーンストーミング、マインドマップなどがある。
しかし多くの発想法は、最後のところで結局は自分の頭の中に頼ることになる。
ところが人間は、自分自身が蓄積してきた「既知の智識」という枠・制限の中でしか考えられないことが多い。
「他人が発想」して「あっ」と驚くことはあるが、自分自身から思いも寄らぬ視点というものは、なかなか出てこないのである。
そこを突破し、自分の発想で自身が驚くために、私は日本十進分類法を使ってきた。
「NDC発想法」とは何か?
この方法の要点は単純である。
読書が好きな程度に知的な方であれば、誰でも使うことができる。
考えたい対象(=論点・概念・主題などのキーワード、これを対象Xとする)に対して、日本十進分類法の各分類を機械的にぶつけていくだけである。
対象Xに対して、NDCの区分表をみて、1から順番でもいいし、適当な分野からでもいいので、哲学、歴史、法学、経済、医学、宗教、文学、建築、交通、情報、教育、労働、福祉といった各領域を、半ば強制的に対象Xに組み合わせて、考える。
この「半ば強制的」というところが肝である。
人間の発想は、普通は自分の専門や関心の近傍しか動かない。
だがNDC発想法を使うと、本来なら結びつけなかった領域が無理やり接続される。
その結果、自力ではなかなか出てこない「未知の問題設定」や「考えもしなかった主題」が生まれるのである。
これは、単なる連想ゲームではない。
整理のための分類表を、未知の項目への接続を発見する装置として使う方法である。
言い換えれば、対象Xを社会全体の構造へ再配置する技法である。
とくに、論文の「問い」を考えるときや、一つの主題について複数の論点を洗い出したいとき、書籍の全体構造(章・節・項目)を作るとき、あるいは新しい学問領域の見取り図を作りたいときに、非常に役に立つのである。
「NDC発想法」を『患者学』で試したら
以前、私は医療系雑誌を作っていた関係で、医療政策などを勉強していた。そのとき、
医師には「医学」の学問があり、看護師には「看護学」の学問があるのならば、患者に関する学問があってもよいのではないか? いやむしろ在るべきでは
と考えた。
そこで誰に頼まれたわけでもないのに、どこかの大学へ「患者学部」を設置することを提案する、ということを考えて企画書を勝手に作った。
しかも企画案だけでなく、患者学部で学ぶべき科目とその解説、つまりシラバスの見本まで作ったので、いっけんすると新しい学問の体系をゼロから案出したことになる。
(なお、この企画書をもとに各大学に電話営業をしたが、そもそも大学に学部を作る際に重要な視点が抜けていた、これは関係がないのでここでは記述しない。一番後ろに後述する)
しかし当然ながら、「患者学」という既成の学問体系は存在しない。
そこで私はNDC発想法を使ったわけである。
日本十進分類法の各項目に対して、「患者」という語を順番に与えていった。
たとえば「法律」と組み合わせれば、「患者と法律」という論点が立ち上がる。
そこから、「患者の権利擁護、自己決定権、インフォームド・コンセント、生命倫理、医師の職業倫理」といった問題群が見えてくる。
さらに「患者の権利と責務」の周辺には、患者の権利に関する国際宣言や、諸外国の制度、権利擁護関係(アドボカシー、エンパワメント、セルフエフェカシー)の概念や歴史などが連なっているため、医療関係で使用される人権意識や自己決定(服薬コンプライアンスからアドヒアランスへ)の考え方の学問を、「哲学史」的に取り込む必要があることも分かる。
またNDCの「9」にある「文芸」と患者を組み合わせると、結核療養所や入院先で文学サークルが作られ、同人誌が発行されてきた歴史が思い出される。
すると「患者と療養文芸」という切り口が立つ。
さらに、学問としては単に「療養所で同人誌を作った」とか「新聞の俳句欄に投稿した」などでは展開が開けない。
そこで、一ひねりすることが必要である。「病者・やまい・文学」の「三題噺」で、論文になりそうな主題を考えるのである。
「”病者の語り”とは何か―ナラティブ・アプローチの小児科での課題」
「日本文学における私小説と病いの関係性の深化-結核に於ける作家の表象」
「サナトリウムを舞台にした作品の系譜と変遷」
「完治しない病と折り合いをつけて生きる軌跡とそのあり方」
「隔絶された空間-病の社会性からみた『いのちの理論』への批判」
「クラインマンの「説明モデル」にケアマネジャーが介入することの是非」
(および各論点を諸外国と比較するなど)《以上は全く適当です》
様々な論点へ展開していくうちに、「病いの語り」をめぐっては、A・フランクの「病いの語りの三類型」、アーサー・クラインマンの説明モデル、グッドの議論なども参照可能であり、有用だと分かってくれば、それもシラバスへ採り入れる。
つまりNDC発想法は、「その対象に関する既存の学問がない」場合には非常に有効である。
ゼロから体系を立ち上げ、構成をする際の、骨組みの発見法として機能するのである。
今回添付したExcelファイルの「患者学」シラバス案も、そのような発想の産物である。
「NDC発想法」が開く視野と、その限界
この方法の効用は、学際的な視野を、思いつきではなく構造的に生み出せるところにある。たとえば「患者」という対象一つをとっても、患者+経済、患者+法学、患者+文学、患者+宗教、患者+建築、患者+交通、患者+情報、患者+労働、といった論点が一気に現れる。これは対象を全社会的に照射し直す方法であり、研究の入口として非常に強い。
別の例を挙げれば、私は以前、「おたく」が戦後に生まれた背景には、徴兵制度の消滅があるのではないか、と考えたことがある。普通、おたく論はメディア論、消費文化論、サブカル論、青年論の範囲で閉じがちである。ところがNDC発想法で「軍事」「国家」「徴兵」という語と接続してみると、戦前の日本では国家が男性の身体を統制していたこと、男らしさが制度化されていたこと、戦後にはその身体規律が崩れ、国家優先から個人優先へ移ったこと、そして個人趣味への没入が許容される社会が成立したこと、という連鎖が見えてくる。これは単なる思いつきではなく、制度史と趣味の文化をつなぐ視点である。
また、この方法は「専門家病」を避けるうえでも有効である。専門研究者ほど、既存研究の枠組みに閉じ込められやすい。だがNDC発想法は、分類上は隣接していない領域をあえて衝突させるので、既存学問の盲点を見つけやすい。
もちろん限界もある。NDCは近代図書館学に基づく分類である以上、インターネット文化、感情、サブカルチャーの細部、現代的な生活実感などを十分には整理しきれない。また、「分類にあるものだけを考える」という罠もある。分類されていない問題は、まるで存在しないかのように見えてしまう危険がある。
それでもなお、研究でも執筆でも最も難しいのは、しばしば「何を問うか」である。問いが立たなければ、調査も構成も始まらない。その意味でNDC発想法は、答えを出す技法というより、問いを作る技法としてきわめて有用である。整理の道具として知られている日本十進分類法を、発想のための装置として使う。私はこの方法に、まだ十分に活用されていない可能性があると考えている。
※大学に新規学部を設立する時に、重要なことは何か?
なぜ大学に、「新学問」として提案しようと考えたのか。
それは少子化を考えると、大学側も「学生の集客」のためにアイデアを受け容れてくれるのではないかと思ったからだ。
そして営業をしてわかったことは、重要なのはシラバスとか、教員・研究者の候補とかではなく、「その学部学科を卒業したあと、どうなる?」の提案が大事だったのである。
つまり「患者学部患者学科」を卒業した学生は、いったい何になり生活し、社会に役立つのか? を説明できるかということだ。
一つには「資格取得で就労ができる」という考え方がある。
そうした場合は、既存の資格(精神保健福祉士や介護士)は既に教育経路があるので、新しい資格の設立という大変なことも併せて考えないといけない。
「患者の権利を擁護し、社会での治療環境の向上を援助する職種」という主旨で「患者権利擁護士」などを考案し、この学部で学べばその資格が取得できるなどの特典が必要なのである。
そうでなければ、応募学生が集まらない。高校三年生が将来に対して明確なビジョンを未だ描けないとしても、単にその学科で学んでも就職時に役に立たない、潰しがきかないようでは受験者も生まれない。
その為にはまずは資格を国家資格にするために動かなければならないのだが、何より医療・福祉・介護の資格であれば、「資本主義」の原理によってその資格を持っていることで、資格者が就労し易いというシステムも必要となる(逆にいえば労働市場で資格者への需要が生じる必要がある)。
具体的に考えてみよう。
就労先を「病院」と仮定すれば、病院側が「患者権利擁護士」を「チーム医療」として雇用するメリットが必要だ。雇用しても特に何にも役立たないのでは採用しない。
そうなると、病院の収入の主力は「診療報酬」であるから、様々な「医療行為」に対して、「値付け」が必要となる。
つまり「健康保険」の「診療報酬点数表」に於いて、
「患者の権利と責務に関する『施設方針』を、患者権利擁護士の監修のもとで定め、恒常的に掲出し、同擁護士が1人以上常勤している場合は、月に1回のみ『権利擁護』算定料50点を算定する」
「2000点以上の手術を受けるの際に、常勤の患者権利擁護士が、医師の説明時に同席して患者に援助活動をした場合150点を算定できる」
などが、新規に収載されないと、病院が一生懸命に「患者の権利擁護」に取り組んでも、利益が生まれない訳である。
※「患者学体系」の例


