- はじめに
- 明治時代の文藝雑誌
- 江見水蔭の『小櫻縅』
- 明治四十一年の『昆虫』雑誌
- 『青鞜』にみる、明治四十四年の活版印刷費
- 大正期は一人五円が相場
- 大正時代に印刷代が下がったかも知れない
- 震災需要で値上げの後に円本ブームで印刷代が下がる
- 地方でも同人雑誌が発行増加か?
はじめに
「個人出版」や「同人雑誌」を発行する際、活版印刷所に数百部~数千部の注文を依頼すると、どの位の印刷経費が掛かったのだろう。
果たしてその金額は、法人ではない青少年たちが個人または同人仲間で賄える範囲であったのだろうか。特に明治期に於いて謄写版印刷が普及していない時期は、活版印刷で複製するしかないのである[1]。
印刷関係の業界雑誌などを調査しても、印刷技術の発展の歴史や各印刷会社の沿革についての記述はあるが、明治時代から今日までの印刷代金の変遷に着目した資料は見当たらない。
戦前に、商業雑誌の購読や「自主出版雑誌」の発行をすることができるのは、ある程度の富裕層階級が行ったことは推測できる。
中学生が発行した『地方誌』の文芸雑誌や、蒐集趣味を持つ者の『趣味誌』に於いて、果たして若年者の小遣いや複数人による拠出金により、活版印刷を容易に依頼できたのかどうか。これを決定するには根拠の提示、つまり実際の印刷料金の多寡が重要である。百二十年以上経った現在では、何か別の資料で類推することはできない。
そこで本節では、この問いに応えるため各時代に於ける印刷費用の実際を、単行本資料に於ける発行者の回顧的記述の中から検索して蒐集した。そしてその金額を現代の貨幣価値に換算し直し、料金額が当時の若年層にとって経費負担に耐え得る範囲にあるかを、解き明かそうとするものである。
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明治時代の文藝雑誌
同人雑誌の歴史を語る場合に必ず最初に登場する、「定番」が『我楽多文庫』である。
明治二十一年五月に硯友社が発行した『我楽多文庫』は月二回の刊行で書店販売の商業誌である。印刷料金についての言及は発見できなかったが、頁数・定価・部数は判明するので、総販売金額からの類推ができると考えた。
十六頁で定価が三銭、発行部数は三千部であった。
全て売れたら総売上高は九〇円となる。
製造されて販売される物は、大抵、原価は三割が相場である。この場合も印刷費が三割を占めると仮定すると、一回に二十七円の印刷費となる。
現在との貨幣価値との換算には日本銀行が資料を出している「企業物価指数」を使うことでこの稿は統一したい。しかし「企業物価指数」は明治三十四年からしか資料として提供されていない。そこで、物価の変動は「カレーライス」をベースに計算してみた。
現代とは約一万二千倍の開きがあるので、現代の貨幣価値では二十七円は、三十二万四千円に換算された(一部当りの原価は十六頁で百八円、定価は三百六十円に相当となるので、見当外れでもあるまい)。印刷に切り替えた時の硯友社の人数は不詳だが、結成当初は二十五人いたので(尾崎紅葉「硯友社の沿革」『紅葉全集第五巻』岩波書店)、二十五で割ると一人当たりは約一万三千円となる。高いが全く出せない価格でもなく、売上から幾何かの分与金があれば、帳消しになるかも知れない。
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江見水蔭の『小櫻縅』
明治二十五年十一月に江見水蔭の江水社から創刊された、『小櫻縅』という雑誌がある。
この体裁は、段組無しで三十七字×十二行で活版印刷五十頁、総ルビ振り、印刷部数は千部であった。記録では、印刷料金は後に大日本印刷となる「秀英舎」に依頼して、二十二円七十五銭だったという。一部当りの印刷経費は約二銭三厘である。
現代の貨幣価値では、合計は二十七万三千円(一部単価は二百七十三円)。『我楽多文庫』よりも部数が三分の一であり、頁数が約三倍なので比例的には順当な価格と推量できる。
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明治四十一年の『昆虫』雑誌
『日本昆虫學會会報』の例では、明治四十一年頃は会費が年に一円であり、会員が五十人いれば会報が発行できたことがわかった。
「“当時会費は年確か一円だったと思います。当時会員五十名あれば会報の印刷費はどうにか賄えたのですが、会費が仲々集まりませんので随分苦労致しました、従って会報の印刷費に困り時々佐々木先生のポケットから補助して戴いたことも、何回かあったことを想い出します"(山田保治氏書簡、18.VIl.1957)ということであった」
参照:江崎梯三「日本の現代昆蟲学略史―日本昆蟲学会40年の回顧―『昆蟲』25(4号別刷)東京昆蟲學會、昭和32年
発行部数は「“会報”になってからの印刷部数は200部であった」というから、二百部の印刷に五十円が必要であったことは分るが、判型と頁数が未詳である。
五十円を現代貨幣価値に換算すると、「企業物価指数」では明治四十一年は令和五年の一、四三九倍なので、約七万二千円となり、専門雑誌で二百部という小部数を考慮すると頁数は最低三二~四八頁くらいあれば妥当だろう(会費一円は約千五百円位である)。
平塚らいてうの自伝的文章によれば、明治四十四年創刊の『青鞜』の印刷代金を仮定することができる。『わたくしの歩いた道』の「同人を誘う」に、印刷前後のことが記述されていた。
「『白樺』や『スバル』の印刷がきれいだというので、他より単価が高かったのを、けっきょくその印刷屋、神田の三秀舎に頼むことにきめました」
と、多少印刷料金が他社よりも高くとも印刷の美麗さを優先して三秀舎に依頼したという。明治三十三年創業の三秀舎は、令和六年現在も営業中である。
「部数は確か千部だったと思いますが、頁数は百三十四頁でした」
『青鞜』の定価は一冊二十五銭であるから、印刷した千部が全部売れると二五〇円であり、印刷費の占める割合を、三割と仮定すると、八十三円(一冊単価八銭)となる。
現代の貨幣価値に換算すれば「企業物価指数」だと、明治四十四年は、令和五年の一、四三六倍なので、一一九、一八八円となる(一部単価は百十九円)。商業雑誌として、印刷経費には妥当な金額である。
なお、平塚は雑誌発行の経験はなく、「神田の三秀舎の二階で、活字の大きさや、校正の仕方を教えてもらって、汗を拭きふきやった校正も全部おわって」と回顧している。「経験なんてやっているうちに自然にできるものでしょう」と、楽観的であった。
参照:平塚らいてう『わたくしの歩いた道』、新評論社、1955年
三秀舎は『青鞜』が参照したように『スバル』の印刷も引き受けていた。『スバル』の第二号の編集を務めた石川啄木の日記(明治四十二年日誌)にもたびたび登場している。
例えば、「一月二十一日 予は三秀舍へ行って第二號の初め六十四頁分の原稿をおいて來た」「一月二十八日(略)それから三秀舎へ行つて終日、――夜午前二時まで校正」などである[1]。
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大正期は一人五円が相場
大正六年に創刊された、舟木重信(後に作家・翻訳家)らの『異像』という同人雑誌の経費は、五、六十円だったという。活版印刷八〇頁で二百五十部発行である。
五十円を現代の貨幣価値に換算する。「企業物価指数」によると大正六年は令和五年の九二一倍なので、五五、二六〇円となる(一部単価は二百二十一円)。
帝國大学独逸文学科の学生七人が学費の中から工面して発行したという。七で割れば一人頭七円強で、現代なら約七千九百円に相当する。趣味の金額としては微妙に高額でもない。
参照:『文章俱楽部』(五巻十二号、新潮社、大正九年)
高見順は、
「わたくしが出發した大正末期からは、丁度同人雜誌全盛時代で、月三圓なり五圓だせばできたのですが、(略)殊に戦後は簡單に同人雜誌が出せないようですから、再び投稿雜誌の比重はぐんとふえてきていると思います」
参照:高見順「作家訪問」『文章倶楽部』第四巻九・十号、牧野書店、1952年9月号
と、大正末期には一人当たり三円~五円の拠出で活版の同人雑誌が発行できたことを『文章俱楽部』の訪問記者に述べている。
高見の言う大正末期には未だなっていないが、大正五年二月に第四次『新思潮』が松岡譲(二十四歳)・久米正雄(二十四)・芥川龍之介(二十三)・成瀬正一(二十三)・菊池寛(二十七)ら五人で創刊された。
松岡が大正九年の『文章俱樂部』(新潮社、五巻十二号)で記述するには、雑誌製作には五十円から七十円が必要で、創刊号は六十頁で七百部の印刷であった。二号からは六十頁で五百部刷り毎月四、五十円かかったという。
一人頭十円ずつ出して五十円として、活版六十頁で一部あたりの印刷料金は十銭となる。
五十円を現代の貨幣価値に換算すると、「企業物価指数」では大正五年は令和五年の一、一五九倍なので、約五万八千円となる(一部単価は百十六円)。やはり印刷経費としては妥当な金額であるが、『新思潮』の場合、頭数は五人と少ないため一人当たりは一万一千六百円と、一万円を超えてしまうが大丈夫だったのか。
大正六年頃、『新思潮』に刺激を受けた江口渙たち五人は、一人宛て五円を拠出して合計二十五円で同人雑誌を製作している。
「私達同人が『星座』と云ふ雜誌を一つやつて見ようと云ひ出したのは、大正五年の十一月當時で、佐藤春夫、木村幹兩君の發意であつた。丁度その頃久米、芥川の四代目『新思潮』が盛んにやってをる折抦で、私達同人もそれに向ふを張つて大いにやつて見る考で始めたのであった。當時の同人は佐藤春夫君と木村幹君と私と東京刊行社の經營者久保勘三郎君と灰野庄平君とであった。一人が五圓づつの出版費でやり出すことになり、木村君が編輯人となつたし、私が發行人になつた」
と、大正九年の『文章俱樂部』(新潮社、五巻十二号)で記述する。こちらは一人頭五円であるから『新思潮』のちょうど半分、一人頭五千八百円の印刷経費でちょうどよい具合であろう。
そして大正末期の五円拠出が相場だという事例の裏打ちは、寺崎浩(作家・詩人)が戦後、昭和二十八年に同人雑誌時代を回顧している文中に見つかった。
「『街』の創刊は大正十五年四月のことだつた。まだぼくたちは早稻田の高等学院に在学していた。同人費は五円(たしか五円だったように思う。)親元から仕送りをうけている学生のぼくたちにはなんでもない金額だったが、それでも同人費はとゞこおりがちだつた」
旧制高校生で仕送りを受けている身ではあるが、五円は「なんでもない金額」だと証言している。
現代の貨幣価値に換算すると、「企業物価指数」では大正十五年は令和五年の七五七倍なので、約三千八百円となる。確かに現代でも学生が出費できる「なんでもない金額」の範囲には当たる。
同人は寺崎含めて「丹羽文雄、火野葦平、田畑修一郎」ら十三名いたので、六十五円(現代の約五万円)を集金できたことになる。
参照:寺崎浩「同人雑誌『街』の思い出」『文章倶楽部』5(5/6)、牧野書店、1953年6月
ただ、少し疑問なのは、梶井基次郎らが同人雑誌の『青空』を大正十三年に創刊した際、寺崎浩の父親が岐阜刑務所に勤務していたことから、岐阜刑務所で印刷をする仲介をしていることだ。
ならば自分たちの同人雑誌も岐阜刑務所で印刷すればと思うが、二年後なので父親は印刷作業がない別の施設へ転勤していたのかも知れない。
これらの証言や記述に依って、大正時代は三円~五円を複数名(五名~十数名)で負担し合って活版雑誌を発行できたことが判った。そして旧制高校へ通学できるのは当時の進学率を考えても富裕層であるから、一号あたりに五円を出費することは高額で悩むほどでも無いことも判明した。
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大正時代に印刷代が下がったかも知れない
「企業物価指数」の倍数の遷移を見ると、明治四十四年から大正四年までは、一、三五四から一、四三六倍の間で推移していたが、大正五、六年の一、〇〇〇倍前後を経たのち、大正七年から昭和三年までの間では六五五から七九七倍の間で推移と、ほぼ半減している。特に大正八年、九年は五二二から五七四倍と底値になっている。これは第一次世界大戦によって日本が受けた好景気も反映している可能性があるだろう。
おそらく世の物価が安いため、印刷代もまた廉価になり、大正半ばから末期にかけては、それまでよりも安く同人雑誌が制作できたのではないかと考える。
その結果、高見順の言うように「同人雑誌全盛時代」が到来したのではないだろうか。
一般には大正十二年の関東大震災前後から昭和初期にかけて、空前の同人雑誌ブームがあったと言われていることとも符節が合うが、筆者は関東大震災以前から印刷料金が低廉化して同人雑誌を製作する動きが顕著となり、大戦後の不景気が到来したあとも、一旦生まれて育った文化活動としての同人雑誌製作は引き続き行われたのだと考える。そしてその制作活動を長く継続させ得たのは印刷料金の値下げに負うものであろう。
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震災需要で値上げの後に円本ブームで印刷代が下がる
まず値下げとは逆の現象を述べたい。
関東大震災後の一時期は、印刷料金が五割~十割増程度に値上げされたという記録がある。
印刷図書館館長の沢田巳之助の回顧談で、その時の料金値上げについて触れている。
「震災直後、罹災工場の機能が停止したため、活動している印刷会社において、料金上昇の傾向が出ている。活動出来る印刷工場に仕事が集中し、出版社としては発行を急ぐため、組版代にしても従来A5判2頁1円位だったものが、1円50銭でも1円80銭でも良いからやってくれ、ということになるとやはり商売だから、値の良い方でやることになる。時局に便乗したわけではないが一時的に料金が高騰し、印刷会社が儲かった時期であった」
と、東京でも罹災していない工場では、いわゆる「震災特需」で、組版料金が約二倍に上がっていることを示している。印刷需要が大きいのに引受け側が十分な供給体制にないのであるから、料金は高騰することもあるだろう。
これは同じ東京のエリアでも被災度に濃淡があり、神田/深川/芝/本所/日本橋区は火災で印刷工場がことごとく焼失したが、牛込区等には残った印刷所が多く、下町の印刷工場の復興が遅れている間は、出版社からの注文が殺到したということだ[2]。
この二倍料金がいつ頃まで続いていたのか不詳だが、印刷工場の復興には時日が掛かるため、一年程度は震災以前の五、六十円にて、同人雑誌を製作することは、東京の一部地域で困難な時期があったことだろう。
参照:沢田巳之助「新宿区印刷業界の歴史と思い出『勃興期から終戦まで康文社印刷所時代を回顧して』『印刷史談会』三十三、一般財団法人印刷図書館、年不明
だが、全体的には印刷料金は値下げの方向へ動いていたのである。これは震災前だが、日本印刷工業会の年鑑によると、大正十年頃に印刷料金が低下していたことが判る。
「大正十年に東京雑誌協会が印刷料金の値下げを要求、東京印刷同業組合は拒絶したが、組合員に対し長文の警告文を発した。要旨は、『印刷物は需要が一定しているから値下げしても需要が増加するものではない。ゆえに、結束して値下げしないように努力せよ。一旦引下げるとそれが標準相場になる惧れがあるから、自殺的行為である』しかし、このような警告を発しなければならなかったことは、印刷料金が次第に低落しつつあったことを示している」という。
参照:「印刷団体の変遷」『日本印刷年鑑一九五三』、日本印刷工業会、1953
この震災前の印刷料金のダンピングは理由が探してもなく、分らなかった。
先述したように震災後の一時期に、東京で料金が高騰することはあったが、値下げの流れは続いていく。大正末期から出版界では一円で多くの作品が読める「円本」が流行した。印刷業界はその刊行を支えるため、過大な設備投資を行うが、このことは同人雑誌の印刷料金の低廉化と関係がありそうだ。
さて昭和を迎え、世は昭和二年の「金融恐慌」に入っていたが、円本以外の雑誌や文庫本の発行も盛んであり、昭和三年でも出版界周辺の紙問屋・製本業・箔押業は、売上が隆盛だった。
しかし、印刷業界の内実は異なっていたことを、凸版印刷が社史の「円本ブームとその後の不況対策」項に於いて、『印刷雑誌』昭和三年十二月号の記事を引用しつつ当時の状況を説明している。
「昭和三年は、不景気を喞【ルビ:かこ】たれながら、印刷界は大多忙であった。即ち仕事は、『非常に』といふ形容詞を附し得るほど多忙でありながら、印刷料金は亦た『非常に』低下するといふ、不思議な現象を示した。之れは印刷界に妙な競争が絶へず、維持し得べき料金率を維持し得なかったことに基因するけれ共、一面には続出せる円本や多部数の雑誌印刷の影響を被ったと見て宜いであらう」
円本ブームに便乗した印刷業は大量印刷と高速印刷に対応するため、設備拡張を行った。また参入する同業者も増加したため、市場で自社が有利になるには、受注量を増加させようと動いた。つまり料金値下げによって仕事を得る、過当競争に陥ったのだという。
参照:社史編纂委員会編纂『TOPPAN1985 : 凸版印刷株式会社史』、凸版印刷、1985
《現在はあまり値下げによる価格競争のことが報じられないため、「値下げの過当競争」のひどさが伝わらないかもしれない。身近な食品で例えると、昭和三十年代に、「魚肉ソーセージ」「即席ラーメン」「即席粉末ジュース」等は、ヒットすると「二匹目のどじょう」をめがけて、商社や水産会社、製薬会社など異業種が参入。他社より値下げしてシェア拡大やスーパーの目玉商品となり生産量を増加させようとしたが、ダンピング(不当廉売)は原価割れを起こすので利益がとれずに撤退・廃業する企業もあった》
この料金値下げは、円本ブームが終わった後も続いていた。
「圓本流行時代、印刷の大量生産に應ずるため機械の増設、設備の擴充を圖った印刷界も、圓本時代の解消と共に、之等の淸算に迫られたのであるが、之に績く七年度は諸材料品の暴騰にも拘らず出版界の不振、一般印刷物の需要減少のため、不當競爭が激化し引受料金は際限なく引下げられた」
昭和五年には濱口内閣(濱口雄幸総理・井上準之助蔵相)の「金解禁」政策で、日本経済は不況となり、名フレーズの「大学は出たけれど」で代表される失業時代、東北の貧農家は娘を身売りする状況であった。不況で印刷物需要が低下し、逆に印刷材料は値上げする中の昭和七年であっても、まだ受注を増やすために印刷料金を下げていたことが分かる[3]。
参照:「業界槪况」『印刷美術年鑑 昭和八年版』、大阪出版社,昭和8年
もちろん業界はこの現状を等閑視せずに懇親会を設け、過当競争を回避する協定を結んでいた。その実効性は定かではないが。
「円本ブームの終了をみこし、料金低下を防ぐ目的で、東京印刷協和会が昭和四年十月に創立された。(略)既存の東京印刷同志会、東京印刷連盟会、十日会を合体したもので、東京の有力会社三十有余社を糾合した話合いの機関であった。無統制な自由競争下にあって商業道徳を無視するほどの価格競争に苦しんでいた各社は、深刻な体験から協和会の趣旨に賛同して協定料金維持に協力し、業者間の融和と懇親を促す効果をあげた」という。
参照:社史編纂委員会編纂『TOPPAN1985 : 凸版印刷株式会社史』、凸版印刷、1985
なお、大正期に謄写版印刷機が学校を中心に普及すると、初期投資と手間暇は掛かるが活版よりは廉価な謄写版によって、個人・同人の出版が増加していく展開が生まれていく。
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地方でも同人雑誌が発行増加か?
愚察に過ぎないが、「同人雑誌ブーム」には、東京・大阪だけではなく各地でも増えた事情もあるのではないか。
各地でも「同人雑誌」が作られるのは、筆者の勝手な造語であるが、都会からの「押し出し現象」である。
震災で印刷所が被災したことで、地方の印刷所に雑誌印刷の注文が行き、その流れで、自主発行雑誌の製作文化が地方に拡大する流れもできたのではないかと推測している。
さらに、昭和の戦中・戦後のように東京を離れる作家もおり、地方へ避難した方(谷崎潤一郎、柳宗悦は京都へ転居)による、書き手の流入という現象もあったのではないか。
『白樺』『種蒔く人』は廃刊し、被災した東京築地活版製造所は衰微して昭和十三年に解散したというほど大震災が与える影響は大きい。
それまでは地方在住の青年たちが雑誌を発行しようと試みても、その需要に町の印刷所が活字や紙の仕入れ関係で応じることが難しい面もあったかも知れない。
ところが、震災で失業した出版・印刷関係の労働者が東京から生地等へ戻るなど、各地へ都会で就業していた元印刷所勤務の方が振り分けられることが起きたのではと推察する。その結果、地方の印刷所は人材を得られ、かつ、文選・植字・製版・印刷の技術も向上する。紙や印刷資材の問屋も、東京への販路が減った分を埋めようと、地方にも営業が向けられ、地方の印刷所は仕入れルートが確保されるという商業的条件も良くなったかも知れない。
これらによって、地方の青年から依頼される小冊子の活版印刷に応えることができるようになったという、活版印刷技術の「均てん化」の流れが想像できるのだ。
また、震災から一年くらい経ったとき、関東の印刷所は震災からの復興で新たに導入した活字鋳造機・印刷機の減価償却を急ぐ必要と、印刷機械の運転に於いて間隙期が出ることを防止する体制があったのではないか。それゆえ、地方での小冊子印刷にも応需する営業活動や、印刷料金の低廉化などが、東京を中心に印刷所側にも生じたのではないだろうか。
[1] 二月二十六日、「夜また電話、太田が來てくれといふ、金田一君から電車代かりて三秀舍にゆき、十二時まで共に校正した、モウ/\編輯はせぬ――。馬鹿は二度編輯しろ――と太田が言つてゐた」とある。「また電話」とあるように、昼間にも電話があって太田を援助しに行ったのである。「午後一時、今ゆくといふ北原の電話、太田から三秀舍へ來てすけてくれといふ電話、やがて北原が來てくれた、そして一緒に三秀舍へ行ったが、太田がをらぬ」ため、一時間も寒い中を新橋駅で無為に過ごして帰宅したのである。太田に振り回された形の啄木。この太田というのは太田正雄こと木下杢太郎である。『スバル』の第三号の編集は本来、吉井勇の番であった。だが面倒臭かったらしく、二月一日に啄木に葉書で「境遇に激変あり」で昴の編集が出来ないと吉井は知らせてきた。下宿に訪ねて呆けている様を見た啄木は仕方なく、木下杢太郎に依頼した。しかし木下も編集は初めてで要領を得ずに都度、啄木に援助を依頼したのである。昼間、すっぽかされたにも関わらず啄木は手伝いに出かける。これは『スバル』への責任感もあるが、二月二十四日に東京朝日新聞の佐藤氏から校正係の採用手紙が来信したことも関与しているのではないか。三月一日からの朝日新聞社への出社を控え、三十円の月給にて東京生活の生計が固まることへの安心感、喜びが、不快感を上書きしたのであろうか。
[2] 当時の大手印刷工場で被災を免れたのは、精美堂(後の共同印刷)、秀英舎であった。東洋印刷、凸版印刷(本所)、國文社、三省堂(神田三崎河岸)、中外印刷、三秀舎は倒壊・焼失などの被害を受けた。
[3] 共同印刷の社史では具体的な印刷料金の単価引き下げ額を記している。通し料金は活版平台と輪転は約三割引、平版では約五割引であった。
「印刷業界は得意先争奪が激化し、印刷料金の引き下げを招くことになる。昭和二年の前期と、料金値下げがはじまって一年後の昭和八年前期の印刷料金単価をくらべてみると、和文組版の定期ものが一ページ平均一円七十一銭から、一円五十九銭へ。活版平台が一通し平均で四百三十九系から三百七糸へ、活版輪転が九十九糸から六十七糸へ、平版が六百四十八糸から三百十八糸へと、それぞれ大幅に低下している」